雪の花園

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「うわぁー、気持ちいい!」
 若くしなやかな両腕を左右に大きく掲げ、心から湧き出るように叫んだのは、山奥のサミス村に住む十四歳――栗色の髪を肩の辺りまで伸ばしたシルキアだ。避暑地の冬は厳しく、寒さから耳まで隠す毛糸の帽子の中に縛った髪をしまい込み、手袋にロングコートにと重装備だ。服装は動きにくそうだが、強い意志の光を放つ琥珀色の瞳は機敏で健康的な印象を与える。時折、世渡り上手な一面も垣間見えるが、それを差し引いたとしても充分に活発で愛らしく、将来の成長が楽しみな少女だ。

 森に入ると、雪の量は目に見えて少なくなった。木々の枝が森の上に手を伸ばして作った緑の屋根は、大地に積もりすぎるのを防いでいる。それぞれが雪化粧して芸術品となり、白樺はきれいなお嬢さん、モミの木は優しい母親、力強いトドマツは父親を思わせる。ちらちらと舞い飛ぶ雪と氷と滴で着飾り、いっそうみずみずしくなった木々は、動物たちが息をひそめて春を待つ白い季節のまっただ中で、生命の神秘に満ちあふれていた。
 渡り鳥は去り、この森に残されたわずかな鳥の啼き声は高らかに寂しげに響いている。青い空よりもはるかに遠く、いくら飛んでもたどり着けない芽生えの春を待ち望むかのようだった。

「ふぉーっ」
 シルキアの斜め後ろで、顔を火照らせたまま立ちすくんでいるのは、彼女の三歳年上の姉――酒場の看板娘のファルナだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「やっと追いついたのだっ……」
 ファルナは妹よりも髪を伸ばしているため、防寒用の帽子から後ろ髪を垂らしていた。毛糸の帽子の所々に光る小さな宝石のような粒は、森の木々が落とした雪解けの雫で、光を浴びると七色にきらめいていた。そう――あちらこちらの枝は重そうに首を曲げ、溶けてゆく雪の雫を不規則に落とすのだった。森には、その清らかで純粋な天気雨が終わることなく降り続いている。
 白い吐息を吐き出しながら、ファルナはやや放心した面もちで立ちつくしていた。手袋の右手は、太いひもをしっかりと握りしめている。その先には父の手作りの木のそりが縛りつけてあった。見た目は無骨なそりだが、頑丈そうで、二人が充分に乗れるほど大きい。表面は丁寧にヤスリ掛けされ、木目が美しい。

「ふーう」
 ファルナは頬を膨らませ、思いきり息を吐き出した。身体は汗をかいているのに口の中は乾燥している。左手で右手の手袋を脱げば、蒸れた空気が消え失せて気持ちがいい。皿洗いしてあかぎれになった手で、額にうっすらと浮かんだ汗をぬぐった。
 真新しい新雪の上には、集落から始まる緩やかな登り坂を引きずった、そりの跡が残っていた。姉妹で交替しながら運んだが、村と森との境目の最後の急な坂はファルナの担当だった。

「お姉ちゃん、お疲れさまー!」
 呼びかけて手を振るシルキアに、ファルナは微笑みかけた。
「疲れたけど、いい気分ですよんっ」
 素朴な村娘らしく、独特の方言のアクセントで喋ったファルナには天性の人なつこさがある。すぐに妹は元気に言葉を返す。
「ほんと、今日は久しぶりに冴え渡った天気だよね!」
 梢から覗く青空のかけらは、見るだけでも心と身体に力が湧いてくるかのような、混じりけのない澄みきった色をしていた。
「さあ、行こう」
 妹が先頭に立ち、前を向いたまま振り返って、姉を促した。
「うん」
 呼吸を整えたファルナはうなずき――そして二人は歩き始めた。雪の上を歩くのに履いた、かんじきの大きな足跡が一つ二つと増えてゆくが、そのスタンプをそりの軌跡が消していった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 冬空がかけた氷の魔法は、ささやかで暖かな木洩れ日が解いてゆく。木々の枝先からこぼれ落ちた雪解けの雫は、白銀の地面に穴を開けてゆく。勤勉な村人のごとく地道に、丹念に。
「今日も妖精のおうち、いっぱいだね」
 手を後ろで組み、シルキアは弾む声で言った。二人は、レンコンにも似た雪の穴を〈妖精のおうち〉と呼んでいる。春の妖精が雪を溶かして水を弾き、不思議なリズムを奏でながら雪に穴を掘っている――そんな気がしていたから。空は晴れ渡っているのに、雪国の森はいつでも、ほど良い湿気に充ちた雨降りだ。
「うん」
 所々に露わになっている、どっしりと張った木の根に気をつけながら、ファルナはそりを引き、少し遅れてついてゆく。それでも森の中があまりにきらびやかなので、ふと立ち止まって視線を上げた。妹と瓜二つの琥珀色の瞳に、背の高い針葉樹の姿が映った。下枝は枯れているが、緑の葉っぱの屋根は健在だ。

 純粋な水と繊細な光が混じり、降り注ぎ、溶け合い、交叉し、また離れ、出逢い、きら星のごとくに輝く。不思議に伸びる木々の細い枝を背景に冬が織りなす、夢や幻よりも美しい舞台だ。
 しかも姉妹が瞬きするたびに、姿を変えてゆく。向こうから次の水滴が落ちたかと思うと、太陽は一本の細い枝を乗り越え、別の隙間から粉々に砕かれた光を散らす。寒ければ寒いほど、より純粋に、より美しく磨かれる、またとない未完成の芸術だ。
 小さい頃から見慣れているはずの冬の景色だが、実物は絵や記憶を遙かに越えていて、新たな魂の震えが湧き起こった。
「はぁ……すごい」
 白い吐息に感銘を乗せて、ファルナは足を休め、しばし見とれた。頭の中がからっぽになり、気持ちはとても穏やかになる。

「お姉ちゃーん」
 ファルナがすっかり景色に魅せられてしまったので、シルキアは両腕を水平に伸ばした姿勢でバランスを取りながら戻ってきた。体重を分散させるため綱が楕円に張られ、新雪にずっしりとはまらぬように底が広くなっている〈かんじき〉での歩き方も馴れたものだ。ただし靴としては重いので、足や足首が疲れる。
 感性豊かな姉のファルナは、光と雫の描く風景にどっぷりと心を溶かし、呆然と眺めている。他方、しっかり者のシルキアはこの景色を心に焼き付けようと意識を持ち、目を凝らすのだった。

 ピョォー、ヒョーオォー。
 北風が吹き、雫の歌は突然の佳境に入った。枝葉が徐々に揺れ始めたかと思うと、あちこちから雪の固まりが落ちてくる。
「ひゃー、顔がさむーい」
 冷え切った空気の踊りに、思わずシルキアは目を閉じた。
 ちょうどその時、頭の帽子の上に雪がドサッと降り積もる。
「きゃあ!」
 シルキアは驚いたが、すぐに頬を膨らませて雪を振り払う。
「もう。ひどいなぁ!」
「あははっ、シルキア、モミの木と同じなのだっ!」
 頭から雪をかぶった妹は、緑の葉が白髪みたいに隠されたモミの木と、確かにどこか似ていた。我に返った姉は笑いを抑えられなかったが、左手を伸ばして妹の雪を落とすのを手伝った。
 だが今度は、ファルナに大きな雪のおみやげが届けられる。
「わあ、お姉ちゃんもモミの木だね!」
「ファルナも同じですよん、はっ、ははっ」
 雪まみれになった姉妹は、しばらく朗らかに笑いあっていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「お姉ちゃん。横から引っ張ろうか?」
 シルキアが声をかけると、姉のファルナは喜んで返事をした。
「助かるのだっ」
 重いそりを引いて坂を上ってきたから、内心、そろそろ代わって欲しいと思っていた。代わらぬまでも、手伝ってもらえば楽になる。かんじきを履いた足で後ろから押すのは難しいから、妹はそりの横に立ち、ふちをつかんで前に引っ張ると申し出た。
「もう少しの辛抱で、帰りは楽……」
 自分自身に言い聞かせるようにして呟いたファルナは、疲れてきた腕に力を込めた。確かにそりはいくぶん軽くなっている。

 だが、その状況は長続きしなかった。不思議なことに、そりは急に元の重みを取り戻したかと重うと、今度はさらに重くなったのだ。森の中は緩い登り坂か平坦な道なので引っ張れないことはないが、ファルナは琥珀色の瞳を白黒させてとまどった。
「むむむっ、重いのだっ」
 雪解け水と光が交錯する幻想的な風景も、もはや気休めにならないほど余裕が無くなってくる。疲れたからだろうか、と思ったファルナは、そり引きの役を妹に代わってもらおうと振り返る。
「あ……」
 ファルナの顔はあ然として固まり、開いた口がふさがらない。そりを引く綱を手袋の右手から離し、思わず立ちつくしていた。
「お姉ちゃん、気づくの遅いよ〜」
 いたずらっぽく、少し後ろめたそうに、はにかんだ微笑んでいる妹のシルキアは、そりの上にちゃっかり乗っていた。姉のファルナは怒るよりもあきれて、その場にへたり込んでしまった。
「シルキアぁ……」

 今度はシルキアが前に立って、元気にそりを引っ張ってゆく。何か黒い影が素早く動いたので、二人で息をひそめて待つと、やがて向こうの木陰から顔を出したのは山に住む白ウサギだった。ぴぃんと耳を立てた野生の白ウサギは、緊張感に充ちて姉妹を見つめると、次の瞬間に、いずこかへと駆け去っていった。
 姉妹は顔を見合わせ、また歩き出す。それから間もなく、見覚えのあるひときわ大きな松の木の下にたどり着いたのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「着いた〜」
 シルキアは肩の力を抜いて、白く染まる息を思いきり吐き出した。大した距離ではないけれども、急に吹雪になることもなく目的地に着けて安心する。ファルナはまぶたを閉じ、森の神様に感謝を捧げた。彼女の上着のポケットには、鷲をかたどった彫り物――先祖から伝わる森のお守りが入っている。シルキアも真似をして、いくぶん神妙な面もちになり、帰りの無事を祈った。
「……」

 感受性の豊かなファルナは、尊敬の気持ちを言葉に乗せる。
「いつ見ても、大きいのだっ」
 それは長い長い年月を生きてきたトドマツの木だった。幹に沿って姉妹が二人がかりで腕を伸ばしても、手が届くことはないという太さだ。村の友達と遊ぶ時には木登りだって平気でこなすシルキアでも、このトドマツを始めとする何本かの木には決して登らない。そういう木は必ず静かな威厳や貫禄に充ちていた。
 根は複雑に伸びて、年老いた木の杖代わりとなり、腰を支えている。その木の足下に、雪はほとんど積もっていなかった。ぬかるんだ地面と、しわだらけの松の根があらわになっている。

「行きますよん」
 期待と緊張感が入り混じっている顔つきで、ファルナは半分だけ振り返り、妹に目で合図する。シルキアは無言でうなずき、そりの綱を離す。道は平坦なので、そりが滑り出す心配はない。

 姉妹はおもむろに歩き出した。二人とも真剣な顔つきで、木の幹に沿って半周する。やはりここでも雪解け水は絶えず降り続いている。ファルナはシルキアを先に行かせてやり、自分は後ろから遅れてついてゆく。鼓動が高鳴り、一歩が待ち遠しい。

 それは今の雫と次の雫が落ちる間の、刹那の出来事――。
 シルキアの目が徐々に見開かれ、抑えた歓声が上がった。
「咲いてる! ……お姉ちゃん、咲いてるよ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ほんと?」
 ファルナは琥珀色の瞳を大きく見開き、うわずった歓声をあげた。焼いている途中のケーキのように、どんどん膨らんでくる好奇心を抑えられず、シルキアの肩に手をかけて身を乗り出す。
「しーっ」
 眠っている赤ん坊と同じ部屋にいる時のように、唇に人差し指を当てて歯の間から息を吹き出し、シルキアは顔をしかめた。
 そのまま彼女は注意深く膝を曲げ、腰を落とし、太い木の根に浅く座った。堅くてしっかりした天然の木の椅子だ。ぽつん、と大粒の雫が落ちてきたので少し左側に座り直してから、上半身を前に傾け、小さな炎を守るかのようにそっと両手をかざす。
 その姿勢のまま、首だけを後ろに曲げ、シルキアはささやく。
「ほぅら、お姉ちゃん」

「……」
 妹に促されたファルナはやや冷静さを取り戻し、声を出さずに深くうなずいた。膝に両手をついて重心を低くし、慎重に近づいてゆく――神官が儀式を行うのに似た種類の、静かで力強い尊敬を込めた真面目さを顔に浮かべて。午前の光を浴びたファルナの若い頬、時たま覗く健康な白い歯、艶やかに濡れた唇、栗色の睫毛の先までも、清らかで汚れを知らず、美しかった。

「あっ」
 ファルナの瞳に、久しく見なかった鮮やかな山吹色が飛び込んでくる。瞬時に惹きつけられ、とりこになった。斜めに傾いて降り注ぐ、細くて限りなく優しい森の日溜まりの奥底で――。
 木の根の間に、冬の花が二輪、寄り添うように咲いていた。

「三日前は、まだつぼみだったのに」
 シルキアが感慨深げにつぶやく。偶然、散歩の途中に花のつぼみを見つけた後、おとといと昨日は厳しい吹雪だった。だが、花たちは大きな木の陰でしたたかにやり過ごしたようだった。
「心配しましたよん。でも良かったのだっ」
 真っ白な吐息に熱い想いを乗せたファルナの目頭は、わずかに緩んだ。松の木の枝先に光る水滴たちは、光の唄を奏でる虹の音符となって、夜空の星のようにちらちらと瞬いていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「かわいいお花だよね」
 言いながらシルキアが顔を寄せると、吐息がかかり、山吹色の花びらが手を振ってでもいるかのように、かすかに揺れ動く。水を含んだ幹とは明らかに違う、ささやかな甘い香りがする。
「うん」
 ファルナはすぐに小さな冬の植物のとりことなり、夢見るまなざしを花の上にとどめたまま、妹のとなりにそっと腰を下ろす。
 鳴きながら飛び去ってゆく風の高い声は、耳当てをしていると、くぐもって聞こえる。枝先の残雪や溶け始めの水滴が、光の粒となって一斉にこぼれ落ち、空の底、地中の天井を目指す。

 色が弔われた大地で、遠い春を予感させる淑やかな冬の花は、そこだけ鮮やかに浮き出して見えた。周りの木々と比べてしまえば、とても弱く、小さくはかない二輪の花であるが――。
「……」
 それでも間近い場所から、花びらの数をかぞえたり、葉の裏側をめくってみたり、めしべの状態をじっくりと眺めていたシルキアは、決して〈弱々しくはない〉ということに気づき始めていた。
 くきは細いけれども、細すぎることはない。森の中、木々の足下という悪条件――朝だけしか受け取ることのできない、斜めの細い光を浴びて。雪解けの水を吸い、少しずつ育ってきた。
 いくつもの季節を乗り越え、彼女たちなりにしっかりと根を張って、二輪の花は支え合いながら雪晴れの朝に花を開いた。北風が通り過ぎてもくきが揺れるだけで、しっかりと立っている。

「こんな小さいのに、こんな場所で、咲いたのだっ」
 ファルナの声はわずかながら震えていた。滑らかな頬に赤みが射し、胸の前で両手を組む。空気は冷たいけれど、寒ければ寒いほど、おごそかで単純な生命の神秘がはっきりしてくる。
「雪の野原でね……」
 ほとんど無意識のうちに呟きながら、シルキアは軽くまぶたを閉じた。花の姿を心に刻めたと納得できるまで、琥珀色の瞳を何度も開いたり閉じたり、繰り返していた。甘い眼差しで、遠くを見るような視線で眺めていた姉とは、良くも悪くも対照的だ。

 シルキアは〈雪の野原〉という表現を用いた。ところで一面に降り積もった天の贈り物を、純白の花が咲き誇る〈雪の花園〉と見立てれば、二輪の山吹色は最大のアクセントになっている。
 真新しいキャンバスをも思わせる明るい舞台で、二輪の花はひときわ誇らしげに咲き、仲良く支え合いながら輝いていた。
 ファルナとシルキアはふと向き合い、優しく微笑むのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ひゃっほーっ!」
 シルキアは開放感のあまり、甲高い叫び声を張り上げた。琥珀色の瞳は怖いもの無しに大きく見開かれ、柔らかな頬はスリル混じりの笑顔に弾けていた。喉は素直な気持ちを乗せて声を発し、手袋をはめた右手はしっかりと、そりの綱を握っていた。
「ひゃぁ!」
 妹に前を譲った姉のファルナは、後ろ側で片膝をつき、両手で左右のそりのふちをつかんでいた。慣れていても、ちょっと怖いくらいの速度なので、伏し目がちに周りの様子を眺めている。
 景色の方から、ぐんぐん近づいてくるような錯覚さえ感じる。木が走り、迫り、すれ違い、次の木も迫り、すれ違い、走る――。いつか誰かから聞いた、メラロール城の回廊を思い浮かべた。

 行きはそれほど傾斜がきつくない坂を、時間をかけて登ってきたが、帰りはあっという間に駆け下りる。普段は木こりが材木を村へ転がすのに使う、急な道だ。左右には針葉樹林が拡がっているが、道幅はそこそこあり、しかも見通しの利く緩い曲線が多い。スキーやそり遊びをするには、もってこいの場所だった。
 舞い飛ぶ白い霧、冷たい幕、風のかけら――雪煙に目を細めながらも、南東から降り注ぐ陽の光を照り返して夏よりも明るく映える雪の坂道を、手作りの木のそりは快走する。今夜、お湯で顔を洗えば、日焼け・雪焼け・霜焼けで頬が痛むことだろう。

「ふぇー」
 そりのふちにしがみつき、姿勢を低くしていたファルナは、少し余裕が出てきたのか、ふと後ろを向いた。何度やっても、完全には怖さが抜けないけれど、普段以上に大自然と溶け合える感覚は驚異に満ち、そり遊びをするたび鳥肌が立つのだった。
 そりの走った跡が馬車のわだちのように、長く続いている。伸びてきた雪煙は昼間のほうき星となり、白い尾を引いていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「お姉ちゃん、前!」
 突然、シルキアの鋭い指示が飛び、ファルナは前を向いた。
「ふぇ?」
 と、そのとたん、見えない翼で羽ばたいたかのように身体がフワリと浮き上がった。新雪の表面を削って疾走してきた、銀の大海原をゆく小舟――そりの音が消え、見晴らしが良くなる。
「ひゃあ!」
「ひゃっほー」
 姉と妹の良く似た悲鳴が重なり、サミス地区の盆地に響く。
 大地から離れるという不安定さを味わった次の刹那には、早くも落ちてゆく感覚が始まる。瞬きするたびに、ゆっくりと確実に近づいて、ついに着地の衝撃が走った。ひときわ雪煙が舞う。
 顔にぶつかる雪の粉は鼻の内側にまで入ってきたし、頬は凍りつくほどに冷たいが、遊びに夢中であまり気にならなかった。
「小さな、コブを飛び越えたんだよ」
 正面を向いたまま説明したシルキアは、徐々に身体を傾け、重心を左側に寄せていく。ファルナはそりのふちをつかんだまま、少しだけ腰を浮かせ、やはり左側に体重をかけた――スキーと同じ原理だ。林を抜ける道は緩やかに右へ曲がっている。
「わぁー!」
 姉妹の歓びの声が重なった。視界が開けて、大きな瞳に白と青が映る。大地と、冴え渡った冬の空がぐんぐん拡がってくる。
 最後の急な坂を一息に下れば、銀色に塗り替えられた牧草地だ。開拓のために木が切られた場所で、何かにぶつかる心配もない。もうここはサミス村の入口で、木造の家々も見える。
 シルキアがそりの綱をしっかり引っ張ると、たちまち速度が上がり始めた。仮に転んでも、新雪のじゅうたんが守ってくれる。
 冬場が移動が大変になり、行けなくなる場所が圧倒的に増える。その反面、雪や氷が新しい地面になったことで湖の上だって歩けるし、切り株が埋まっていてもお構いなく、そりは走る。

「おーい!」
 頬を真っ赤にし、村外れで遊んでいた子供たちの集団が、雪合戦の手を休めて姉妹に手を振った。下は五、六歳から、上は十歳くらいまでだ。ファルナやシルキアの年頃になると、みんな家の仕事を手伝うようになるので、なかなか都合が合わない。
「おー!」
 シルキアはそりの綱を握りしめたまま、威勢良く右腕を掲げた。ファルナも満面の笑顔で、大きく片手を降り返すのだった。

 坂は尽きて、村のメインストリートに繋がる道へ出る。体を前後に動かすと、雪がこすれる音を立てて進んでいたそりも、ついに動かなくなってしまう。ファルナは立ち上がり、木のそりをまたいで、久しぶりに地面へ足を下ろす。身体はふらついている。
「雪が重く感じるのだっ」
「止まっちゃった」
 一人分の体重になって軽くなったそりを走らせようと、最後まで身体を揺らしていたシルキアも、やがて諦めて立ち上がる。
 姉妹の実家、宿屋〈すずらん亭〉の、雪を落とすために傾斜が急な赤屋根が見えてきた。そりを引き、二人は歩いていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 お気に入りのカップをかしげると、湯気とともに温かい紅茶が流れ込んでくる。夏場に〈すずらん亭〉へ泊まった貴族が置いていった、高級な茶葉の名残だ。香ばしさが、宿の一階に作られた酒場の隅々までを充たし、空気までをも優雅に変えていた。
 舌の上で転がし、ぬるくしてから飲み込めば、猫のように喉が鳴った。やや遅れて、胃の奥深くに春の渦が染み渡ってゆく。
 雪が溶けた水は手袋に染み込み、長靴の中にも入り込んでいた。冷え切っていた手足は、部屋の暖かさでしびれていた。
「ふぅ〜」
 思わず安らぎのため息を洩らしたファルナは、まぶたも目尻も寝る前のようにトロンと落ちて、くつろいだ表情になっていた。
「寒かったでしょう」
 暖炉の前で編み物をしていた母が近くのテーブルに移動してきていた。酒造りに精を出しているのか、父の姿は見えない。
「うん。でも、そんなでもなかったよ」
 他方、シルキアの顔つきはさっぱりして活気があった。頬が赤く染まり、山奥の十四歳の村娘らしく素朴で愛らしかった。

 重いコートも〈かんじき〉も玄関に脱いで、室内用の靴と服に装いを改めたファルナとシルキアは、肩も足も楽そうだった。
 避暑地の冬は、子供たちにとっては家の仕事を手伝う必要がほとんどなくなるし、それなりに楽しさもあるが――何よりも〈けだるさ〉が先行している。いつも暖炉の炎が燃えはぜる不規則な音が響く。外と内は、まるきり別の世界のような気がする。

 ふと窓際に視線を流した妹の表情が、一瞬にして凍りつく。
「ん?」
 不思議そうに、ファルナは首をかしげた。他方、妹は姉の顔をまじまじと見つめてから、真剣な口調で母に訊ねるのだった。
「お母さん、これ……どうしたの?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「それ? その花? もらったのよ」
 母は編み物の手を休め、顔を上げて言った。返事を聞くのも待ち遠しい様子のシルキアは、鋭い声で矢継ぎ早に訊ねる。
「誰に?」
「どうしたの、シルキア」
 次女の焦りを落ち着けるように、母はゆっくりと首をかしげた。その頃にはファルナも、ようやく窓際の異変に気づいていた。
「あれ……」

 待ちきれなかったシルキアはカップを置いて立ち上がり、開放的に大きく拡がっている出窓に向かって歩いていった。窓は二重になっていて、結露を防ぎ、外からの寒さを防いでくれる。
「やっぱり、そっくりだ」
 見下ろしたシルキアはうつむきがちに、沈んだ声を発した。
「誰なの、お母さん。お花を抜いた人!」
 振り向きざまに母を問いつめたシルキアは、最初は沈んだ口調だったが、話すうちに怒りが込み上げてきたようで、華奢な肩は小刻みに震え、琥珀色の瞳は強い意志の光を湛えていた。

 窓際に飾られていたのは小さな鉢植えだった。暖炉からの風を受けて音もなく揺れていたのは、さっき雪の森の大きなトドマツの下で見た山吹色の花にそっくりだった。しかも二輪あり、寄り添うようにひっそりと、だが確かに咲いている姿も似ている。

「あらあら。分かった、説明するわ」
 母が答えると、シルキアはやり場のない憤りを無理矢理に胸の中へ押し込み、視線を再び出窓の鉢植えに戻すのだった。
「さっきのお花なの?」
 いつも通りののんびりした声を発し、妹とは対照的にゆっくりと腰を上げたファルナだったが、シルキアの横から鉢植えを覗き込むと、すっとんきょうな声をあげて、素早く瞬きを繰り返した。
「ありゃ」
「そういえば……誰だったかしら」
 真相を知っているはずの母までが、なぜか首をかしげている。シルキアは拍子抜けして肩の力を抜き、大きな溜め息をつく。
「お母さん、どうしたの〜。覚えてないの?」

「うーん」
 編み途中の〈何か〉を膝に載せた母は、しばらく腕組みして記憶の糸をたぐり寄せていたが、戸惑いがちに言葉を紡ぎ出す。
「そういえば、村の子じゃなかったかも知れないわ。村の子供だったら、みんな知っているはずだもの。女の子が二人で……」
「女の子が二人? どんな子だった?」
 興味を示したシルキアは身を乗り出して訊ねた。母は返事しようとしたが、どう伝えたらいいのか、心底困っている様子だ。
「それがね、不思議なことに、いくら考えても顔が思い出せないの。その子たちが良く似ていたことは、覚えているんだけどね」
「その二人は、何て言ってたのだ?」
 母に助け船を出したのは、黙って花を見つめていたファルナだった。鋭い直感で何かを察知したのだろう、口調は普段とほとんど変わらなかったが、その奥に静かな自信がこもっていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「見守ってくれてありがとう、って言ってたわ。それから……」
 今度はうって変わって、母の口調は滑らかだった。シルキアは出窓に片手をつき、大事な話を一言も聞き漏らさぬように、じっと耳を傾けている。忘れていた暖炉の炎がパチンと弾けた。
「私たちの人形……人形? を置いていくって」
 母は自分で説明しているのにも関わらず、口調は明らかに半信半疑だった。体験したと思っている出来事に戸惑っている。
「私、編み物をしながら、うつらうつらして、夢を見ていたのかしら……現実とは思えないわ。でも鉢植えはあるし、不思議ね」
 地元の木で作られた古い揺り椅子に腰掛けたまま、やや伸び上がって、母は出窓の方に視線を送った。そのまなざしは、何か目に見えない大きなものを尊敬するかのように、穏やかな光をたたえていて――そして、それはファルナも同様だった。
「ほんと、不思議なのだっ」

 寒さで縮こまっていた身体も心も、ゆるやかに溶けて広がってゆく暖かな家の中で、シルキアはしだいに眠気を覚えていた。ぼんやりしてくる意識を集め、ふと、素朴な疑問を投げかける。
「私たちの人形、って何だろうね。お花の鉢植えなのに」
 その間にも、まぶたは重く垂れ下がり、耳も遠くなってくる。

「ファルナには……」
 窓の方を見て、物思いにふけっている母に代わり、口を開いたのは姉だった。ファルナも想いを馳せて、まどろんだ瞳をしていたが、言葉はとても温かい音符となって酒場に解けてゆく。
「何となく分かったような気がするのだっ」
「え?」
 壁により掛かって聞き返したシルキアの左肩に右手を乗せ、ファルナはいたずらっぽく微笑いながら、ささやき声で語った。
「お花のお人形だったら、きっと〈造花〉だと思いますよん」
「造花ぁ?」
 いつもしゃんとしているシルキアの声は、今や、のんびり屋の姉よりも間延びして聞こえた。暖かさもさることながら、つかみどころのない夢のような話が、眠気を育てたのだろう。さっきまでの雪遊びの方が、よほど現実的に感じられる、避暑地の冬だ。外では久しぶりに光を浴びた氷柱が溶け始めている頃だろう。
「ごめん。ちょっと上でお昼寝してくるよ……ふぁーあ」
 シルキアは手で口を抑え、大あくびしながら出ていった。ファルナは送っていこうかと動きかけたが、シルキアが手を振ったので再び窓際に戻り、例の鉢植えを間近に見下ろしていた。

 鼻を近づけたファルナは、微かな香りを確かにかぎ分けた。
「造花にしては、そっくりすぎ……」
「でもこれで、サミス村の〈お花の手〉が、またつながるのね」
 母がつぶやく。村では、色々な季節に花が咲き、次々と移り変わってゆくことを、村では〈お花の手がつながる〉と表現している。長く居座る厳しい冬の間、つながった花の手が離れてしまうのはどうしようもなかったが、やはり寂しいことでもあった。
 だが、今ここに酒場の窓際で花開いた枯れない山吹色の花は、白銀の〈雪の花園〉ばかり見慣れていた人々を励まし、新鮮な気持ちと春への希望をいっそう灯らせるのに充分だった。

「春になって、百花繚乱になれば、冬の花はひっそりと枯れてゆく。だけど、彼女たちの想いは、ここに〈人形〉として残るわ」
 誰に言うわけでもなく、母は思うままを言葉に代えて表現した。冬でも元気いっぱいの、別の二輪の花を思い浮かべて。
「また思い出してね、って言ってる気がしますよん」
 ファルナの吐息が、小さな山吹色の花びらを揺らしていた。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】