いつの日か 〜
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秋月 涼 |
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「あ……」 振り向いたリンローナは小さく驚きの声を発したが、次の刹那、慌てて手で口を押さえた。自分のすぐ後ろに、いつの間に現れたのか、二つ年上の十七歳のケレンスが立っていたからだ。彼は、さっきリンローナがやっていたのと同じように、軽くうつむいて瞳を閉じ――声に出さず、祈りの言葉を呟いていた。 長旅でやや日焼けしたリンローナの横顔は、正面の山裾から降り注いでくる西日を受けて橙色に染まっている。ケレンスの金の髪も、光の糸で編んだかのように、きらきらと輝いていた。 祈りを捧げるケレンスを見ていたリンローナの、頬に現れていた真剣さがふっと緩んで、和やかになった。草色の瞳は慈悲の心に満ち、優しく細められた。光の当たっている背中が温かそうだが、冬から春にかけての黄昏は昼間とは打って変わって肌寒い。風も出始め、少女の薄緑の前髪が微かに揺れていた。 やがて祈りを終え、ケレンスは顔を上げてまぶたを開いた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 二人の視線が寄り添い、一瞬ののちにしっかりと重なり合う。少女の穏やかな表情を捉えたケレンスの顔も、自然と和らぐ。 ケレンスはまぶしそうに額へ手をかざし、斜めに夕焼け空を仰いだ。虹の橋のように細く連なる雲は赤々と染まり、山は燃えている。枯れ木の広葉樹の森は、遙かに遠ざかった秋の記憶をたどるかのように、鮮やかな紅葉を確かに繰り広げていた。 家路を急ぐ鳥の声が、天空から大地に渡って、蕭々(しょうしょう)と響いている。リンローナは光の降り注いでくる方へ振り向いた。そしてしばらく二人は並んで今日の夕日を眺めていた。 「あっ」 突如、叫んで空の高みを指さしたのは、リンローナだった。 「一番星」 「どこに?」 ケレンスは即座に訊ねた。他方、リンローナは場所を詳しく説明しようと思い、目標になるものを探し始める。だだっ広い空の住所を決めてゆく作業は難しいけれど、とても優雅で楽しい。 「ええとね、あの平たい雲の……」 だが、たいがいの場合、目のいいケレンスはリンローナが説明し終える前に、お目当てのものを自ずから見つけてしまう。 「あったぜ。あれだろ」 「なーんだ」 けがれを知らぬ十五歳の少女は、ウエスタル族に独特の音調で、あっけない幕切れを受け容れて――ぽつりとつぶやく。 「お祈り、届いたのかなぁ?」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「届いた届いた。きっと、な!」 確信に裏打ちされた口調でケレンスが言うと、隣でリンローナはくすっと笑い、頭一つぶん高い相手を見上げ、首をかしげる。 「へぇー、自信あるんだね」 「間違いねえ」 太陽の赤い輝きと、それから目を離した時の残像を交互に見ながら、切なる希望を既成事実化するため、ケレンスは胸を張って断言した。彼の瞳は天の一番星のようにきらめく。戦いの際には鋭くも非情にもなる眼光には、今や心から自然と溢れてきた清らかで穏やかで澄みきった気持ちが見え隠れてしていた――夕暮れの空にいよいよ溶け出した、夜の粒子のごとくに。 並んで夕日を見つめるリンローナも、彼の励ましを聞き、身体と魂の無駄な力みが抜けてゆく。時折強く押し寄せる故郷の波のごとく訪れた、遠い哀しみはほぐれ、しだいに彼と良く似たまなざしに変わってゆく。瑞々しく艶やかな頬は、春の野のささやかな白い花のつぼみを彷彿とさせ、優雅にほころんでいった。 「ありがとう」 口をほとんど動かさず、そっとつぶやいたのはリンローナだ。ケレンスは〈自分自身を励ます〉以上に、まずは〈リンローナを勇気づける〉ため、あれほど自信たっぷりの台詞を繰り返している――そのことにリンローナは何となく勘づいていたのだった。 他方、ケレンスは聞こえないふりをして、軽く腕組みをし、まっすぐに遙かな一番星を見上げている。横顔には充実感と寛容さ、あまたの懐かしさと、ほんの僅かな陰とが含まれていた。 悲痛と紙一重のところで、二人は穏やかな気持ちでいることができた。手が届きそうで届かない一番星に帰らぬ時間を、夕焼け色に染め上げられた雲間に昔日の面影を重ね合わせて。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「お袋のこと、思い出してたんだろ?」 壊れ物をそっとつつみ込むような話し口で、金髪の少年は言葉をかけた。互いに勘づいていたことではあったが、敢えて声に出すことで緊張が自然とほぐれ、心の距離は縮まってゆく。 「うん」 リンローナは一呼吸置いてから応えた。彼女が返事するや否や、ケレンスは〈俺もな〉と付け加え、そして声に出さず唇の形を和らげた。視線だけは全く変わらず、真剣そのものであった。 二人の、それぞれ〈母〉と呼べる人は、もう地上界には現の姿をとどめていなかった。同じ種類の痛みを味わい尽くし、自分なりに乗り越えてきた彼らの、祈りの彩りはとてもよく似ていた。 リンローナは普段の元気な少女の調子とは異なる、少し蔭のある声――暗くはないけれども、鮮やかな明るさは失われた、頭上で燃えるあの夕映えの空に似た声――で、淡々と語る。 「きれいな夕焼けだね。悲しいくらいに」 「……ああ」 相手の言葉を噛みしめ、遅れて相づちを打ったケレンスは、瞳を堅く閉じて思いきり息を吸い込んだ。横隔膜が下がるのを感じつつ、しばらく息を止め、吐き出しながらまぶたを開いてゆく。 遠い山並みが漆黒のシルエットになっている。近くに見える森の木々、その枝先が細かく分かれている様子は、何もかもが暮れかけた黄昏の境界線で、浅い夢のごとく浮き出して見えた。 丈の低い草が茫々と茂る草原を、風の旅人は今日も駆け抜けてゆく。リンローナは肩をすぼめたが、その顔は澄み切っていた。このくらいの冷たさがちょうどいい――とでも言いたげに。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 風は心のカーテンを揺らし、想い出の世界を垣間見させてくれる。記憶の扉はきしみながら開き、かけらを呼び覚ます。雲間には昔の面影が浮かぶ――どんなに地上の風景が変わっても、空は、空の彩りは、空の懐は変わらない。そして空の向こう岸には、喪(うしな)われた者が行き着く天上界があるはずだ。 耳を澄ませば、家路についた大きな鳥たちの低い啼き声に混じって、遠く色褪せた言葉の断片がふっと聞こえたような気がした。話ではなく、それどころか意味のある単語ですらない。寄せては返す故郷の波のように、消え入りそうなほど掠れ、何度も空耳だと思ったけれど――その後には再び現れ、ほんの少しだけ近づいたりもした。本当に聞こえたのか、頭の奥で古傷が疼いただけなのか。その答えは、やはり雲の果てほども遠い。 沈みゆく光の軌跡を追っていたリンローナの草色の瞳は、ごく微かな憂いを秘めていた。自身の夢だけを夢見る者とは明らかに異なる、生気に満ちた強い眼差しで、ひどく大人びていた。いつしか隣に立ち尽くす少女の双つの宝石に惹かれ、捉えられ、射抜かれて、ケレンスは吸い込まれそうな引力を感じていた。 夕陽に照らされて赤々と燃える頬も美しい。まばたきも惜しんで覗き込んでいると、真っ直ぐ前に進んでいた相手の視線の向かう先がふと横に逸れ、僅かの時が過ぎ、重なって合わさる。 「ごめん、思い出させちゃった?」 「あ……?」 目の前に、見慣れているようで見慣れていない、聖術師の顔がある。我に返ったケレンスは、急に恥ずかしさを覚えて、こうべをもたげた。早春の冷たい夕風が爽やかに舞いながら通り過ぎても、顔の火照りが取れていないことが分かる。一時は、亡くした母のことを完全に忘れていたことに気づいて、ケレンスは歯の隙間からゆっくりと長く息を吐き出した。肩の力みが抜ける。 「いや、別に構わねえよ。たまにはな」 少年の話が途切れても、リンローナはすぐには答えない。決して焦らずに相手の言葉を受け止め、噛みしめ、それが魂の深井戸の底に沈んだのを確かめてから、落ち着いて語り始める。 「そうだね。たまには、振り返ってもいいはずだよね……」 形のいい唇から、淡々と想いが湧いた。以前の彼女ならば熱い涙を流したかも知れないが、今はもう泣く兆しさえなかった。 「それぞれの物語、それぞれの昔話。とても遠い日のことを」 草が波となり、海とは違う緑の和音を奏でる。幾筋もの雲は移動し、太陽は山の端に沈みかかっていた。夕食の準備に引き続き精を出す仲間たちはそう遠くない場所にいるはずだが、様子を察してか呼びに来ない。森の大陸に二人だけ取り残されたような、いつにも増して圧倒的な質感の巨大な薄暮だった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「争いも、憎しみも、消えないけれど……」 リンローナは一言一言を噛みしめるように、訥々(とつとつ)と――それでいて力強く、絞りに絞った希いを込めて語り出す。 「この想いはみんな、おんなじだと思う。どの国の、どこの町の人たちも……人間族も、妖精族も、フレイド族も、みーんな!」 痛みや悲しみ、諦めや嘆きといった種類の〈鮮明な感情〉は、時の移ろいとともに和らぎ、色褪せてゆく。けれども針のひとかけになっても完全に消えることはなく、思い焦がれる気持ちや渇望、逢いたいという願い、懐かしさは時に高まったりもする。 それが、もはや戻ることのない幼い頃の記憶と結びついていれば、なおさらだ。どんな者も過去を取り戻すことはできない。万能に思える魔法でも、蘇生や時間操作系は極めて困難だ。 「安らかに……そして、あたしを見守っていてね、お母さん」 言い終えると、リンローナは口をつぐみ、もう一度、両手を組んだ。今日最後の光線――西の空の低い場所から紅の炎が投げかけていた――が、ろうそくの炎を吹き消すように滅して、辺りは静けさの奥底で新しい、清らかな夜を迎えようとしている。 「安らかに」 ケレンスも真面目な表情で、祈ることに没頭し、手荒れのひどい五本の指同士を絡めて瞳を閉じた。夕暮れの風の吹き流れる音が耳元に近い場所で聞こえ、頬の産毛を撫で、微かに薫っている。空気は乾燥しているはずなのに、口を開けると気持ちがいい。何も見えないが、風の動きは手に取るように分かる。 草を踏む足音が聞こえ出し、二人はほとんど同じ間合いで振り返った。振り向くと、リンローナの姉のシェリアが立ち尽くしていた。二人とは少し距離を開け、やや堅い表情の顔を上げて。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「御飯よ」 艶めかしい唇を微かに動かして、シェリアは言う。視線は目の前にいるケレンスとリンローナを遙かに通り越し、日の入り直後の夕映えに向かっていた。木々や山脈の陰影は恐ろしいほど深い。現(うつつ)と黄泉路とがつながる、混沌と魅惑の刻だ。 ほんの短い時間、三人は瞬きを繰り返すだけで、空気は止まっていた。清々しく冷たい夜の印を肌に刻んで風が流れると、一番先に我を取り戻したのはシェリアで、今度はややためらいがちに告げた。雰囲気を察しており、無駄なことは言わない。 「御飯にするわよ」 何とはなしに、リンローナとケレンスは向き合い、目で合図する。次の瞬間、リンローナは後ろ手に組み、歩き始めていた。 「今日のお夕飯、何だろう? タックと、ルーグと、お姉ちゃん」 リンローナは妙に明るい声を発し、仲間たちの名前を指折り数えた。ためらいを振り落とすかのごとく、弾むように歩いても――背の低い彼女のものとは思えぬ長い影法師は、重く地面に寄りかかっていた。翼の折れた小鳥然とした痛々しい姿に気づいていたが、シェリアもケレンスも、そのことには触れなかった。リンローナの〈もがき〉、それは自らの姿でもあったからだ。 「ふぅ」 ケレンスとシェリアは小さな溜め息をついたが、そのことを互いに気づいてしまい、まなざしを交錯させて、困ったような諦めたような微笑みを浮かべた。それでも次の刹那、しっかりと前を向けば、温かで凛々しい笑顔がゆっくりと浮かび始めていた。 風は通り抜ける。 風は通り抜けるのみだ。 シェリアの、薄紫の長い後ろ髪も。 リンローナの、さらさらの草色の前髪も。 ケレンスの、やや痛んでいる金の髪も。 等しく、分け隔てなく揺らして――。 やがて全ては、夜の色に塗り替えられるだろう。 「後かたづけ、あたしたちでやるから」 音痴な鼻歌を唄いながら先頭を歩いていたリンローナが振り向き、ちょっと背伸びをして言う。姉のシェリアは吹き出した。 「ぷっ」 ケレンスはしかめっ面を装い、呆れ声で提案者を追及する。 「おいおい、勝手な約束すんなよなァ、リン」 「当然よ」 シェリアはうなずく。いつしか三人の空気は和みだしていた。ルーグとタックの待つ野営場はすぐそこだ。煙が立っている。 空では二番星どころか、無数のきらめきの競演が今宵の幕を開いていた。あのどれかが自分の母親なのだろうと、三人は胸の奥で固く信じている――いつの日か、再び出会える時まで。 | ||
(了) | ||
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