山野辺の春霞 〜
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秋月 涼 |
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窓の向こう側は、羊の乳の色で染められていた。吹雪に特有の突風や、それに伴う柱の軋み、隙間風の高い叫び声、凶器となって窓を叩きつける雪の音はなかった。何よりも、冬の間の厳しすぎる寒さが明らかに緩んでいる。とてもまともな寒さだ。 そして静かな朝まだきである。か細い光の筋が広がるに連れて、遠くの方から鳥の歌声が、音符の橋となって乱反射する。 「あれっ?」 半ば以上、霧を予感していたシルキアではあったが、ドアを開けて――だいぶ雪は減ってきていたので、ドアはすんなり開いた――そう、一階の重くてしっかりした造りのドアを押し開けて、身体を挟み、その間から顔を出して辺りの様子を伺った。 「ふぅ〜っ」 シルキアの吐く息は、すぐに霧と混じり合って、境目が分からなくなった。雪解けの頃の湿り気を含んだ朝の空気が、滑らかで若い、色白の十四歳の肌を撫でて漂っている。細かい雨のように、肌に触れては溶け去ってゆく。夜と朝の気温差が殊のほか大きくなるこの季節、曇りでも雨でも、雪でも晴れでもない、れっきとした霧の天候が、山奥のサミス村に立ちこめるのだ。 厚手のコートを羽織ったまま、しばらく肩をすぼめて腕組みし、シルキアは霧のゆくえを眺めていた。やはり羊の乳を風に溶かして、地上に降りてきた雲をまぶしたような、不思議な感覚がある。木々のシルエットだけがぼんやりと見え、遠ざかれば遠ざかるほど、世界は白い器の中へ沈んでゆく。シルキアは何度も茶色の瞳をまばたきしながら、すっかり冴えてしまった両眼で、春を予感させ、しかも春を隠すかのような、不思議な景色にすっかり心を奪われていた。形のいい唇が、僅かに開かれている。 時折、霧が薄くなると、乳白色のカーテンの向こうにある本物の青空が姿を現す。太陽もまぶしい光を放ち始める。――かと思うと、またもや魔法のごとくに霞が湧き出して、辺りを覆ってしまう。太陽は上品な薄紅の染料となり、まあるく散りばめられる。曇り空よりは明るくて、太陽がどこにいるのか、どの山の頂にいるのかは分かるのだが、その光はまだ届かない。雨のように水の精霊が軽やかに舞い飛び、雪の色を醸造する。移り気だが、好奇心が旺盛で、何か先の楽しさを予感させる。薄い着物をまとった美しく若い女性が、一枚ずつ剥いでゆくかのように――少しずつ霧は薄まって、鮮やかな朝の色が急激に強まり、やがて気がつくと目に染みる深い蒼が、空いっぱいに広がる。 そうだ、この霧って。何かに似てると思ったら。 これって、きっと、春の映し身なんだね――。 シルキアが心で感じ、頬が感動で少し硬くなった時。 背中の方で、酒場兼宿屋を運営する父の声が聞こえた。 「おはよう。早いね」 「おはよう、お父さん」 シルキアは振り返り、琥珀色の髪を揺らして、はにかんだ微笑みを浮かべた。もう、雪残る野原を駆ける小ウサギの姿も見分けられるだろう。いきなり熊に襲われる心配もない。村人が待ちに待った春の始まりの朝が、今、ここに現れたのである。 | ||
(了) | ||
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