ミラス町からリュフル灯台

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「ウーン……」
 硬い獣の毛で作ったブラシの長い柄を両手で握りしめた格好のまま、甲板掃除の手を休め、金の髪を短く刈った背の高い青年は大きな伸びをした。本来は白かったのだが薄汚れてしまった船乗りの服(セイラー服)を着て、青い線の入った襟を立て、濡れた木の甲板に少し足を広げ、しばらく立ち尽くしている。
 白い帆は風を孕み、細かな波のしぶきが跳躍している。ゆうべのやや強い雨には気を揉んだ乗組員たちであったが、今日は気持ちの良い青空が広がっていた。昨日の雨が空気の中の細かい不純物を洗い流してくれたのだろう、天は冬を思い出したかのように青みがかり、風はいくぶん強かった。山脈を越えて吹きすさぶ北からの冷たい風、海を撫でて流れてくる温かい西風に押され、帆船は順調に南西の方角へと航行してゆく。
 まぶしい春の光を浴び、マストの蔭は複雑な模様となって甲板に落ちている。その先には、真っ黒に日焼けした見張りの乗組員がいる。海賊を筆頭に、衝突や座礁といった海の脅威から身を守るために、彼らの視力は鳥ほどに良いとさえ言われる。

 そして彼らは、身近な出来事をも決して見逃さない。
「オイ、新入り! なまけず働けよ!」
 豪快な笑い混じりの声で、上から怒鳴られた甲板掃除の青年は、ひょうきんに手首を回して見張り人に合図するのだった。

 中型船を五隻連ねた隊商の一群は、池に浮かぶ虫の家族のように、南東へと確実に進んでゆく。日焼けした船乗りたちの白い歯、白い帆、白いズボン。深い青緑の海、空の青が映える。夜は、晴れれば満天の星だ。雇い主の商人が眠っている間も、屈強な海の男たちは交替で番をし、急ぎの時は船を進める。

 ミラス町からミニマレス侯国に渡っての海岸線は、ルデリア大陸をほぼ南北に貫く中央山脈が一気に海へ落ちている険しい地形で、陸路は馬車の通行が困難であり、無理をすれば馬を牽いて何とか歩ける程度の厳しい曲がりくねった坂道が連続している。変幻自在の海岸線には、巨大で荘厳な岩が建ち並び――人恋しくなってくると、それが妻の横顔に見えたりもする。
 初めてこの区間に乗った商人たちは、潮風に吹かれながら物珍しい奇岩の群れを眺めるものだが、そのうちに飽きて部屋に戻り、売上金の勘定の続きを始めたりする。たいがいは南ルデリア共和国のモニモニ町を出発し、ミラス町・ポーティル町・リュフル灯台を経由して、ラット連合国のシャワラット町か、その対岸にある神秘と魅惑の古都〈エルヴィール〉を目指す船である。東廻り航路の幹線であるため区間便も多いが、中にはズィートオーブ市からテアラット市という、大陸の西と東の大都市を結んで往復する距離の長い商船団も存在している。険しい中央山脈が南北に縦断しているという特異な地形のため、陸路よりも海路の方が速く、大量かつ確実に、モノやヒトを運べるのだ。

 時折、澄みきった青緑の砂浜が現れる。海鳥の群れが空を旋回していたり、浜に二本足で立って沖の船を見ている。人の姿はほとんどなく、たまに岩場が開けたかと思うと短い平野が現れ、山から流れ出てきた河と、ひなびた漁村が現れる。黒ずんで崩れかけた掘っ建て小屋の脇にワカメを干していたり、塩田を作っている村人たちの姿が遠目にも分かる。経験の長い船乗りの中には、陸(おか)の温泉を知っている者もいて、急ぎの旅でなければ、彼らは上陸をして沖の魚と野菜とを交換したり、温泉に浸かって長旅の汗を流し、地酒で疲れを癒したりする。

 この辺りは、一応の国境は策定されていても実効的な支配は及んでおらず、自給自足の地域となっている。治安はあまり良いとは言えず、備えのない単独の船があれば海賊どもの格好の餌食になるだろう。割と遠浅の海なので、海岸の遠くを走った方が座礁の心配は少ないのだが、大切な積み荷を積んだ商船の多くは陸沿いに航行する。隊商を組み、強靱な肉体と敏捷さを兼ね備えた若い船乗りたちを雇って。それに大枚をはたいても、無事に目的地へたどり着ければ、巨万の富が得られるのだ。だから彼ら商人は、自らの命を賭して海を渡るのである。
 一応は中央山脈の分水嶺が、マホジール帝国の本国とミニマレス公国との境である。ただし同じ国の本国と属領のため、警備はあまり厳しくない。規模は小さいが、れっきとした駐留軍がおり、海賊の取り締まりも行っている。ほうほうの体で海賊に追われた商船も、ここに逃げ込むことが出来れば勝ちである。

 遙かなポーティル町を越え、リュフル灯台に近づけば、海流が絡み合う操舵の難所となる。見渡す限りの原野と寒村――まとまった集落が立ち並んでいるリュフル村はかなり大きな町に見えるほどだ。やがてシャワラットの島影がぼんやり霞んで見えるようになれば、長い船の旅も一つの折り返し地点を迎える。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】