水のせせらぎ

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 名もない小さな虫たちが目に見えぬ速さで羽を動かして飛び交い、紋白蝶や揚羽蝶、あるいは奇妙な色の蛾が秋の落ち葉のように風の流れに乗って大地を扇ぎ、軽やかに舞っている。
 外の暑さと比べれば驚くほど涼しく、森の小径には心地よい湿り気の粒子が漂い、木々や草花の匂いにつつまれている。
 都会の道路よりも縦横無尽に、しかも的確に根が張り巡らされ、秘やかで力強い胎動に満ちあふれている。腐った落ち葉は泥と混じり合って養分となり、新しい生命を育む肥料へと昇華する。鳥は夏の陽を頌える唄を歌い、獣たちは目を光らせる。

 その森の中を、一筋のせせらぎが流れていた。下が透けるほど透き通った水は、まるで地上をひた走る涼やかな風のようだった。時折、木の影が映ったり、落ち葉のかけらが浮いていたり、流れが歪曲しているところで跳ねたりしているので、せせらぎと見分けられる。それはまさに森をめぐっている血であった。
 いつか出会える大きな河を目指して、子供のように無邪気に駆けてゆく透き通った流れは、木洩れ日の下をくぐる時に強い光を跳ね返して宝石を散りばめ、土で作られた自然の階段を降りてゆく。それにはまだ色がなく、あらゆる希望と可能性とに満ちあふれている。一点の曇りもない硝子よりも穢れておらず、誰もいない白妙の浜辺で迎える黎明と同じ類の神聖なものだ。
 先日の雨から日が経過して縮まった水たまりの上で、若い光の粉が飛び跳ねて遊んでいる。留まるものには安らぎと引き替えに、老いてゆく停滞が忍び寄る。これもまた自然の営みだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

本物の純水は、殆ど写真に映らない。

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 ぽつっ、ぽつ――。
 掌からこぼれ落ちる水を掬い取って唇を当て、乾いて張りつく喉を潤すと、次の瞬間には冷え切った純水が胃の中に達するのを感じる。少し遅れて額や背中から汗が吹き出し、服の襟元を湿らせる。目に入りそうになり、慌てて手の甲で拭き取った。
「ふうーっ。生き返るのだっ」
 溜め息とともに、ファルナはつぶやいた。彼女が動くたびに後ろで結んだ茶色の髪が揺れ、麦わら帽子からはみ出している前髪がそよぐ。妹とお揃いの長袖の白いブラウスは、あまり飾り気がない田舎風のデザインだったが、袖口に花柄の刺繍がなされ、丸みを帯びた形の襟がアクセントとなって可愛らしい。
 森を歩くための焦げ茶色の長ズボンと履き慣れた革靴、麦わら帽子と相まって、むしろ素朴な服装が年ごろの娘の本来の若さと美しさ、華やかさと洗練さを自然と浮かび上がらせている。
 空気は涼しくても、常に膝や足を使い、所によっては腕でバランスを取らなければいけない山道で、身体は火照っていた。また細い道や崖の近くでは集中力も要るし、意外と神経も消耗する。彼女は気を抜き、しばし休憩がてら、しゃがみ込んでいた。

 ほとんど水と見分けられない澄んだ小川の、微妙に流れが滞ってさざ波が立つ場所や、水底をぼんやり眺めていると――。
「えっ?」
 ファルナは突如、驚きを含んだ鋭い声をあげた。
 彼女の気のせいでなければ、確かにせせらぎの鏡を、何か小さな生き物が横切ったように思えたのだった。それは虫や蝶よりも大きく、強いて言えばネズミやリスと同じくらいの大きさで、しかも人の形をしており、背中の四枚の翼で羽ばたいていた。
 暖かくて気持ちの良い小春日和のうたた寝から醒めたような心地がして、ファルナは鼓動が急激に速まり、胸とこめかみが苦しくなっていた。考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
 あの姿にどこかで出逢ったことがあるように思えたが、湧きあがってくる不思議で優しい気持ちは上手く説明できなかった。
 空っぽにした心が透明な水に溶けて、夢のような世界と交叉し、焦点を絞らぬ瞳にそれを〈垣間見させた〉のかも知れない。
 改めて目を凝らしてみても、水面にはもう何もいなかった。
 遅ればせながら顔を上げ、やや落ち着きのない仕草で周りの景色――特に、せせらぎの真上の方向――を見渡しても、もはや何の痕跡も見つからない。視線の先はやがて木々の梢にぶつかり、その間にまたたいている青空の星座に突き当たった。

 痺れている足に力を込め、水辺のぬかるみに足を取られないように気を付けながら、ファルナはゆっくりと腰を持ち上げて膝に力を込め、立ち上がった。結んだ茶色の髪を揺らしながら反対側に向き直り、シダ植物が生えている緩い坂道を登ってゆく。
「シルキア」
 静けさを必要以上に壊さないよう、ファルナは気を付けながら妹の名を呼んだ。近くの白樺の幹に寄りかかって、木洩れ日の変化を眺めていたシルキアは、上を向いたまま適当に応える。
「な〜にぃ?」
 妹の反応を見て、それから小川のほとりで出来事を思い描いてみると、ファルナは腕組みして唸り、考え込んでしまった。
「うーん。ただの夢かも知れないし、ファルナには判断つかないのだっ。シルキアに聞いてみるかどうか迷ってしまいますよん」
 姉のファルナはそう言ったきり、首を右に傾けて立ちつくした。髪の毛とほとんど同じ茶色の瞳を素早くまばたきさせている。

「よっと」
 好奇心を刺激されたシルキアは樹の幹を後ろへ押し出し、その勢いに乗って二本足に力を入れた。姉と良く似た茶色の髪を持つシルキアだが、その長さは姉よりもだいぶ短く、肩にかかるくらいだった。ブラウスはお揃いだったが、洒落た白い帽子をかぶり、ズボンは秋の紅葉を遠く予感させる赤茶色であった。
「お姉ちゃん、どうしたの? 話してみてよ」

 やや強い風が森を通り抜け、二人の白いブラウスの袖をはためかせる。木々は、まるで噂話をしているかのようにざわめき、木洩れ日の形が大きく変化した。花に留まって蜜を吸っていた蜂はその場で羽ばたき、いったん席を外した。今のファルナの場所からは見えないが、小川には波紋が拡がったことだろう。
 ほどなくして風がおさまってゆくと、すべてはまた心地よい静けさのもとに沈んでゆく。だが、その裏側では、燃えたぎるような命と命のぶつかり合いや、死と再生とが繰り返されている。
「ふーぅ」
 妹に促された姉のファルナは、最初どのように切り出したらいいのか戸惑っている様子だったが――軽く息を吐いて気持ちを落ち着かせると、難しく考えるのはやめて素直に語り始めた。
「さっき、せせらぎの上を……何か通ったのだっ」
「えっ、何が? 何が通ったの?」
 興味津々のシルキアは、次々と質問を投げかけるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 近くの茂みにある湧き水の泉は、さざ波のカーテン越しに地上をのぞいている羽の生えた半透明の水の精霊の姿を映していたが、姉妹は話に夢中で、その姿に気づくことはなかった。

(了)



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