空の絵合わせ

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 小さな峠越えを控えた街道沿いの町だった。河に近い宿屋では絶えず水音が響いている。日はとっぷりと暮れ、旅人の夕食は済んだ。部屋にはランプの明かりが灯り、ゆらめいていた。
「そろそろ寝るわよ」
 ベッドに寝転がり、身体を動かしていたシェリアが言った。彼女は口を抑えて大きなあくびをした。するとテーブルに置いたランプの明かりの下、温かな服を羽織って古びた厚い本のページを繰っていた妹のリンローナは、顔を上げて答えるのだった。
「うん。お姉ちゃん」

 その時だった。
 コン、コン、と間を空けてドアがノックされた。
 シェリアが上半身を起こし、姉妹は顔を見合わせて視線を交錯させる。リンローナが、やや抑え気味の声量で返事をした。
「はい」
 すると再び、ドアがコン、コンとゆっくり叩かれた。
「こんな時間に、何の用かしらねぇ」
 シェリアが再びベッドに寝転がり、面倒くさそうに呟いた。別の部屋に泊まっている仲間の男たちが連絡で来たのは明らかだったので、彼女の疑問は〈誰か〉ではなく〈何の用か〉だった。
「あたし見てくるね」
 リンローナはさっと立ち上がり、ドアの方に歩いていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「誰?」
 リンローナはゆっくりとノブを回して小さく声をかけ、用心深く細めにドアを開いた。金具のきしむ音が静かな夜に響いた。
「ケレンス? タック? ルーグ?」
 仲間の名前を呼ぶが、反応がない。少女は首をかしげた。
 その時、聞いたことのない若い女性の声が聞こえた。
「あの〜」
「はいっ?」
 予想外の来訪者にリンローナは驚き、相手を確かめようとドアの隙間をもう少しだけ広げた。十五歳にしては背の低いリンローナよりもやや高いところに、相手の顔が現れる。年齢はさほど変わらないようで、十代後半くらいに見えた。廊下の奥に向かって深まる夜の闇の中に、蒼い瞳が瞬いている。髪は銀色のようで、肌はやや日焼けしていた。そしてリンローナが一番気になったのは、相手の格好がずいぶん薄手だったことだ。
「こんばんは」
 リンローナの素早い検分を受けて、やや恥ずかしそうにうつむきながら、相手の少女が挨拶した。その言葉の意味は問題なく通じるが、この辺りとはだいぶ違う方言だ。穏やかそうな瞳は心なしか潤んでいるようで、見たところ悪い人には見えない。
「こんばんは」
 笑顔を浮かべつつも、やや警戒感の残る声でリンローナは返事をした。それから頭を働かせて、急な訪問者に問いかけた。
「宿の方ですか?」
 だが、相手の次なる言葉は、予想を越えたものだった。
「ここは、どこですの……?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「えっ」
 リンローナは絶句する。年の近い二人の少女は、まばたきをしながらしばらく見つめあった。リンローナはあっけにとられ、相手は途方に暮れた様子で。外を夜風が吹き、枝葉が揺れた。
 心臓の辺りを服の上から軽く押さえて落ち着きを取り戻そうと努めながら、リンローナは訪問者を少し見上げる形で尋ねた。
「あの、どうしたんですか?」
「私にも、何が何だか……」
 相手は困惑し、今にも泣きそうな声で口ごもる。それから頭を抑えて、瞳の端にうっすらと涙を浮かべ、首を左右に振った。
 すると聖守護神ユニラーダを信じる聖術師のリンローナの顔つきが変わり、眼差しの力が強くなった。少女は迷いなく両手を差し出すと、相手の冷えた手をつつみ、しっかりと握りしめた。
「あたしでよかったら、相談に乗るよ」
「ありがとうですわ」
 部屋から洩れる僅かなランプの明かりで、薄着の少女の蒼い瞳を満たす涙が宝石のようにきらめく。彼女はほっそりした手で、差し出されたリンローナの手をぎゅっと握り返すのだった。

「何? ルーグたちじゃないの?」
 突然、部屋の中から聞こえたのは、リンローナの姉のシェリアの声だった。静かな夜だから声量こそ抑えているが、もともと良く通る甲高い声だ。謎めいた少女は驚き、一瞬だけ震えた。
「大丈夫。あたしのお姉ちゃんだよ」
 リンローナは相手の顔を覗き込み、温かい口調で語った。
「お姉さん、ですの?」
 訪問者が、ドアの内側を覗き込むように身体を前へ出した。
「あの、ええと……」
 振り向いたリンローナが上手く説明できずにいると、シェリアの苛々が募った。
「何をコソコソ話してんのよ。誰?」
 にわかに緊張感が高まったかと思うと、姉はすぐに動いた。
「開けっ放しにすると寒いでしょ。誰よ?」
 そう言うと、足早にドアの方に向かって歩いてゆくのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 シェリアは立ち止まり、鋭い視線で訪問者の顔を検分した。緊張して固くなる相手に対し、開口一番、シェリアは問うた。
「あんた、何?」
 少し間があり、それから相手がかすれた声で答えた。
「あの、サンゴーンですの」
 そばにいるリンローナは心配そうにやりとりを見守っている。
 対するシェリアは腕組みして、やや強い語調で問いつめる。
「名前というより、何で来たのか聞いてるのよ」
「あの……っしゅん」
 サンゴーンと名乗った謎の少女は鼻を押さえてくしゃみをし、身体をぶるっと震わせた。ルデリア大陸の北に位置するメラロール王国ではだいぶ秋が深まっているというのに、彼女の格好は薄手の白いブラウスにスカート、そしてサンダルという、どう見ても〈夏の格好〉であり、寒さを感じるのも無理はなかった。

「何だか分かんないけど、とりあえず部屋に入ってよ」
 不機嫌そうな顔でシェリアが伝えたのは、いらついた口調に似合わぬ誘いの言葉だった。彼女はドアを指さして説明する。
「開けっ放すと寒いでしょ」
「は、はいですの」
 サンゴーンは言われるがままに歩み、部屋の内側に入った。一方、シェリアは大股で部屋を横切り、最終的にはベッドの脇で立ち止まると、自分の荷物を紐解いて何やら探し始めた。
 リンローナはなるべく音を立てないようにドアを閉める。廊下から紛れ込む新鮮で冷たい空気の流れが止まった。聖術師の妹は素早くサンゴーンに近づき、軽く背伸びして耳打ちする。
「大丈夫だよっ」
 さも楽しげに、リンローナは小さな声で告げるのだった。
「お姉ちゃん、言い方は厳しい時があるけど、いい人だから」

 ――とその時、突然、シェリアが手を動かしながら尋ねた。
「あんた私のでいいわよね? リンローナのじゃキツそうだし」
 シェリアは厚手の長袖を出し、ベッドの上へ無造作に置く。
 リンローナは踵を下ろしてサンゴーンと向き合い、相手を安心させるように微笑みかけて、それから姉の言葉を補足した。
「ほら、羽織る物を貸してくれるみたいだよ。サンゴーンさん」
 当のサンゴーンはリンローナの顔をしばらく見つめて呆然としていたが、遅れて事態を理解すると、今度はシェリアの様子を遠目に確かめる。軽く息を吸い、やや声量を上げて返事した。
「はい、ありがとうですの〜」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「寒くない?」
 ベッドに腰掛け、リンローナが尋ねた。サンゴーンは概ねサイズの問題なかったシェリアの服を羽織り、人心地ついていた。
「はい、平気ですわ」
 突然の訪問者は一度うなずいてから補足する。ランプの灯火だけが頼りの静かな町外れの宿の部屋で、影がゆらめいた。
「でもこんなに涼しいの、生まれて初めてですわ」
 ベッドのそばに運んできた木の椅子に座っているサンゴーンが語った。言葉には素直な感嘆と当惑とが入り交じっていた。
「そっかー」
 色々な物事を深く追求することはせず、リンローナはまず軽く相槌を打つ。彼女はすっかりサンゴーンが気に入ったようだ。
「こんな時間だから、お飲みものは出せないけど……」
 すると相手は穏やかな様子で、ゆったりと答えるのだった。
「気にしないで下さいの〜、えーと……」
「あたしはリンローナ・ラサラ。こっちはシェリアお姉ちゃん」
「リンローナさん、シェリアさん」
 復唱するサンゴーンに、リンローナは嬉しそうに微笑んだ。
「もし良かったら〈リン〉って呼んでね」
「はい。リンさん」
 幾分、笑顔と元気を取り戻して、サンゴーンは受け入れた。

「ちょっと、いい?」
 しばらく黙って考え込んでいたシェリアがついに口を開いた。リンローナは姉の方に向き直り、サンゴーンはぴくりと震えた。
 シェリアは長い足を組み、妹と同じように自分用のベッドに腰掛けている。薄紫色の瞳を曇らせ、唸りながら難しい顔をした。
「うーん、魔力関知させてもらったけど……悪い魔力じゃなかったから、信用して部屋には通したけど」
 珍しく歯切れの悪いシェリアは、そのまま沈黙した。サンゴーンはやや伏し目がちになり、リンローナは二人の出方を伺う。
「お姉ちゃん、冒険者の魔術師だからね」
 そのリンローナが、場の空気を和ませるのを意図してか、サンゴーンへの補足として喋った――けれど、言葉は空虚に響く。

「あんた、なんか強烈な魔力を隠してるでしょ。何者?」
 シェリアは妹の発言に構わず、少しあごを上げてサンゴーンを見つめた。薄紫の艶やかな瞳の視線は思ったよりも柔らかで、相手を睨むというよりも畏怖と好奇心に彩られているようだ。
「えっ?」
 シェリアの発言に驚いて声をあげたのは、サンゴーンではなくリンローナだった。少女は困惑気味に謎の訪問者を見つめた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その時、サンゴーンがゆっくりと頭をもたげていった。星のきらめきで編んだ糸のような銀の前髪が、部屋の隅まで照らしきれない細いランプの灯火にちらちらと瞬きながらこぼれ落ちた。
 サンゴーンは何やら首筋に手を当て、手繰り寄せる。その仕草を見つめている冒険者の姉妹の瞳が、大きく見開かれた。

 鎖の触れ合う音が、しじまの夜に際立って響いた。
 淡い光とともにサンゴーンが取り出したのは、一つのペンダントだった。その先には薄緑色にぼんやりと輝く宝石があった。
「それって……」
「まさか」
 リンローナが身を乗り出し、シェリアの顔は真剣そのものだ。
 椅子に座ったまま姉妹と向き合うサンゴーンは、左手でペンダントの鎖をつまみ、右手で優しくつつみ込むように宝石を握り締めた。ほっそりした指の間から、淡い明かりが洩れている。
「シェリアさんもリンさんもいい人だから……私、話しますわ」
 サンゴーンは姉妹の顔を交互に見ながら、思いを告げる。
「これを持っていることを知っても、気を使わないで下さいの」
 緊張感に充ちた間があった。闇に沈む外の森が夜風を受けて、木々が乾いた音を奏でた。ざわめきは再び静まってゆく。

 姉妹はすでに落ち着きを取り戻していた。二人には、サンゴーンが〈誰〉なのかを既に理解しているような冷静さがあった。
 リンローナはほとんど音を立てずに鼻で深呼吸し、胸がゆったりと上下した。彼女は相手の意を汲んで、丁寧にうなずいた。
「うん、わかった。あたしたち、サンゴーンさんの正体が誰だったとしても、急に態度を変えたりしないよ。ね、お姉ちゃん?」
「もちろんよ」
 シェリアが太鼓判を押し、そして微笑みとともに付け加えた。
「じゃあ、あんたの本名と、出身地、年齢を教えて頂戴。たぶん、そのくらい分かれば、あんたを特定するには充分だわ」
「ハイですの」
 はにかんだ笑顔で、サンゴーンはシェリアの質問に答える。
「私はサンゴーン・グラニア。イラッサ町出身の十六歳ですわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 サンゴーンはほっと肩の力を抜き、温かな吐息を漏らした。
 イラッサ町のサンゴーン・グラニア――。
 どうやらその答えを予期していたようで、シェリアとリンローナはもはや驚かず、顔を見合わせて軽く目配せするのだった。
「やっぱり、知っていますの?」
 サンゴーンが蒼い瞳をほのかに光らせながら、おずおずと、やや上目づかいに尋ねる。するとシェリアは約束通り、先ほどまでの態度も言い方も変えずに、あっさりと肯定するのだった。
「まあねぇ。そりゃあ、大多数は知ってるわよ」
「そうですわね……」
 サンゴーンが神妙にうなずく。感心した様子のリンローナも、急によそよそしくなるのではなく、目を丸くして親しげに語る。
「まさか、サンゴーンさんが〈あの〉サンゴーンさんだった、とはね〜。友達の噂とか、教授の話に聞いてただけだったから」
 世界に七人しかおらず、それぞれにルデリア世界の重大な元素を司っている〈虹の七神者(しんじゃ)〉のうち、サンゴーンは亡くなった祖母サンローンから〈草木の神者〉を継承していた。
「イラッサ町って、確かミザリア島の東の方にある町だよね」
 リンローナが遠い目をして、記憶を手繰り寄せながらつぶやいた。その視線の遙か向こうには故郷の海を見ているのだろう。

 その何気ない言葉に、サンゴーンが強く反応した。
「イラッサを知っていますの? ここから近いんですの〜?」
 独特の典雅でゆったりとした口調ではあったが、彼女なりに強い興味を示し、前のめりになって畳み掛けるように尋ねた。
「そもそも、ここはどこなんですの〜?」
「待った! 落ち着いてよ」
 シェリアが苦笑いしながらも鋭く言う。話を寸断されたサンゴーンは、遅れて唇を閉じていった。首をかしげつつ、しばらくは何か言いたげな様子だったが、眉を寄せて黙り込んでしまう。
 その時、リンローナが少し不安そうな声で逆に質問をした。
「サンゴーンさん、さっきまでイラッサ町にいたの?」
 相手がうなずくと、姉妹の表情はにわかに険しくなった。リンローナは戸惑いつつも声を振り絞り、真実を伝えるのだった。
「ここ、メラロール王国の内陸だよ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「め、メラ……?」
 サンゴーンは目を見開き、絶句した。
 無理もない。彼女の出身地であるミザリア国のイラッサ町は、ルデリア大陸の南に浮かぶミザリア島の東部にある。他方、リンローナが言ったメラロール王国とは、大陸の北部を版図とする北の雄である。両者の距離はあまりにもかけ離れていた。
「あ、でもね、あたしたちの出身は南ルデリア共和国のモニモニ町なんだ。イラッサ町とは、ミザリア海峡を挟んだ対岸だよ」
 何とかして元気づけたいという意志を隠さず、リンローナがやや無理矢理に相手の話を膨らませて語りかけた。姉妹の出身地のモニモニ町は、事実、イラッサ町とは遠くなかったのだ。
 だがそれは現状を改善する役には立たない。サンゴーンは呆然とした様子のまま、リンローナの言葉を繰り返すのだった。
「モニモニ町……」
「だからあんた、そんなに寒そうな格好をしてたのね、南国じゃ普通だろうけど。懐かしく感じる方言も、やっと納得できたわ」
 シェリアが腕組みしてうなずき、呆れたように独りごちた。妹もサンゴーンも、自然と年上の魔術師にすがるように注目する。
「帰りたいんでしょ? なら諦めたら負けじゃないの」
 真剣な眼差しで語ったシェリアの発言には、重みがあった。
「ここに来た時の状況を、順序立てて教えて頂戴」
 訪問者に伝えると、相手の目には再び光が宿るのだった。
「分かりましたの」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 部屋のテーブルに置かれた淡いランプの明かりに、サンゴーンの横顔が照らし出されている。時折、蒼い瞳がちらちら瞬く。
「私は、いつものようにお散歩していましたの」
 頭の奥に続く記憶の道をたどりながら、彼女は語り始めた。
「森の途中で、宙に浮かんでいる、黒い四角のような……」
 他方、シェリアとリンローナには〈一言も聞き逃すまい〉というような集中した雰囲気があり、二人とも黙って聞いていた。魔法を習得する時に身についた深い集中力が発揮されたようだ。
 サンゴーンは迷いながら言葉を紡いでいった。
「上手く言えないんですけど、真っ黒な四角のようなものが浮かんでいましたの。見た目には平べったいような感じでしたわ」
 そこまで言うと、若き〈草木の神者)はシェリアの顔を伺った。
「そう、思った通りに言ってみて」
 シェリアが小声で助言すると、相手は素直にうなずいた。
「はいですの。それで私は下まで行って、何なのでしょうと背伸びをして覗き見たんですわ。そうしたら、その中には……」
「うん」
 相槌を打って、リンローナが軽く身を乗り出す。
 サンゴーンは少し息を飲み、それから一息に話した。
「お星様が、たくさん見えましたの!」

 果てしない森のごとくに、夜は少しずつ深まっていた。
「その黒い四角は、どこかの星空だったんですわ」
 そこまで喋ると、いったんサンゴーンは口を閉ざした。姉妹の集中力は行き場を無くし、二人はそれぞれの思いに沈んだ。
「……」
 微かに揺れ動くランプの灯は、部屋を満たしている空気を不思議に濃密なものに変えていた。風は鎮まり、獣の遠吠えもあまり聞こえなくなって、まるで世界の片隅に、時間の狭間に三人だけが取り残されたかのような、静かな秋の夜更けだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「私は、それに手を伸ばしましたわ」
 恐怖があったのだろう、サンゴーンは頭を抑えた。それでも懸命に状況を思い出しながら、十六歳の南国の少女は語った。
「夜空に触れたと思ったら、世界が揺れて、ぐるっと回って……青空が下になって、最後は目の前が真っ暗になりましたの」
「サンゴーンさん」
 リンローナが心配そうにつぶやく。その時、姉のシェリアの両目は、サンゴーンの胸元にある〈神者の印〉に向かっていた。先端の薄緑色の宝石が、ほのかに輝きを秘めていたのだった。
「気がつくと、森の木の根本に、幹に寄り掛かっていましたの」
 話し手は暗い天井を仰ぎ見た。
「でもそこは、今まで一度も見たことのない木……背の高い尖った木ばかりが立ち並んでいる、涼しすぎる夜の森でしたわ」
「そうだったんだ」
 話の流れを邪魔しないという配慮だろう、リンローナが短く一言だけ反応を示した。サンゴーンは自分のペースで続ける。
「そのまま居ても仕方ありませんから、僅かな星明かりを頼りにして歩き出したんですの。そしたら近くに小径が見えましたわ」

 一番の山場となる箇所を語り終えたサンゴーンの口調は、少しずつ明るく、軽くなってきていた。シェリアが足を組みかえる。
「そのまま歩くと、すぐに森は尽きて、この建物の裏に出ましたの。調べたら裏口があいていて、こんな夜に勝手に入るのは良くないと思いましたけど、誰かに相談したくて……」
 見知らぬ場所を地図もなく一人さまよい、ようやく初めて人に会えた時の様子を、サンゴーンは感慨深げに語るのだった。
「そしてドアをノックしたら、リンさんが出ましたの」
 語り終えたサンゴーンは、こほっと軽く咳払いをし、ゆっくりと瞳を閉じた。聞き手だった姉妹も肩の力を抜いて弛緩する。
 時折、かすかに響いてくるのは水の音は、川のせせらぎだろうか。空気は乾燥しており、雨の降るような気配はなかった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「はぁー。事実とは思えないけど、事実なのよね」
 シェリアが溜め息混じりにつぶやいた後、妹のリンローナと訪問者サンゴーンは顔を見合わせて、ほぼ同時にうなずいた。
「はいですの」「うん」
 独特の論理を展開しながら、シェリアは所感を述べる。
「人間は嘘をつくけど、何より魔力は嘘つかないから。あんたが〈草木の神者〉だってことは、ほぼ間違いないなさそうだし、そうであればイラッサ町の出身であることは明白。であれば、ぶっ飛んできたってのも、あながち有り得ないとは言えないわね」
 彼女は腕を上げて両手を組み、大きく伸びをしながら言った。
「んー、魔力は隠そうと思えば隠せるけど、よほど上級者じゃないと隠し通せないし、それでもボロが出るものなのよね……というか、そもそも、あんたは隠し方を全然知らないみたいだし」
 しばらく黙っていたからか、若き女魔術師は饒舌だった。
「隠し方、ですの……?」
 シェリアのように魔法の専門家ではないサンゴーンは蒼い両目をしばたたき、それから困ったように首をかしげるのだった。
「んー」
「あたしは信じてるよ、サンゴーンさんのこと」
 理性と理詰めを展開した魔術師の姉とは異なり、どちらかというと感覚を重んじているらしい聖術師のリンローナが胸を張る。
「さて次は、この事態をどう解決するか、よね」
 シェリアが知的に、不敵に、そして妖艶に微笑む。彼女は背筋を伸ばして座り直し、再び足を組みかえた。しばしの休憩を終え、今後について真面目に考えるという明確な合図だった。
 当事者のサンゴーンは礼を言い、相変わらずの優雅な口調ではあったが、彼女なりの凛々しい笑顔になって元気に答えた。
「ありがとうですの。私も知恵を絞りますわ〜」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「じゃあ、今日は何日?」
 ランプの光が燈る宿屋のベッドの淵に腰掛けているシェリアは、正面の椅子に座るサンゴーンの方に目を向けて尋ねた。
「今日? えっと……」
 素早く答えそうになったのは、優雅な〈草木の神者〉ではなくリンローナだった。姉は手で制止し、やや冷たく言い放った。
「あんたには聞いてないわよ」
「ごめん」
 素早く謝ったリンローナは、うつむいて身体を少し固くした。少女は息をひそめ、おせっかいを反省し、恥じているようだった。

 そんな妹に構わず、シェリアは再びサンゴーンを見つめる。
 訪問者は、ようやく急な質問の意味を理解して返事をした。
「ええと、涼月(十月)の……」
 サンゴーンは宙を見つめて口ごもった。少しずつ夜の冷えた空気が染み込んで来るような北国の宿屋の客室で、シェリアは横槍を入れず、腕組みをして相手の回答をじっと待っている。
 考え込んでいた南国の少女の、不安定に動いていた瞳が安定し始め、最終的にはゆっくりとシェリアに焦点を合わせた。
「確か、十八日。十八日ですわ」
 それを聞いた年上の女魔術師は、嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがと、手掛かりになるわ」
 サンゴーンに返事をしてから、シェリアは小声で一人ごちる。
「それにしても、ミザリア国でも暦が同じで助かるわねぇ」

 三人の思いが、少しバラバラになってきていた。シェリアは独自の策をめぐらし、リンローナは静かになって考えている。サンゴーンはシェリアの質問を待つ受け身の体勢になっていた。
「こほっ」
 シェリアはわざとらしく咳払いすると、彼女の横のベッドに座っている小柄な少女――ちょっとしおれている妹に呼びかけた。
「あんたの出番よ、リンローナ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「えっ?」
 突然〈出番〉と言われて驚く妹に、シェリアは〈私たちにとっても〉という言葉にアクセントをつけて強調しながら、こう訊いた。
「今日は〈私たちにとっても〉涼月の十八日よね?」
 すると妹は顔を上げ、やや緊張を孕んだ声で同意する。
「う、うん。いっしょだよ、十八日」
 するとシェリアは満足そうにうなずいた。
「日付は合ってる。でも昼から夜になってるわけだから、あんたが飛ばされた前と後では、だいたい半日狂ってるわけよね」
「はい……?」
 一体それが何に繋がるのだろうと、いぶかしげな様子でサンゴーンは答えた。同様にリンローナも姉の意図が掴めないようで、困惑気味に唇を閉じていたが、やや遅れてうなずいた。
「そう、だね」
「あんた、率直にどう思う? この件の裏事情について」
 シェリアが上半身と首を動かし、意見を求めた相手は妹だった。問われた方のリンローナは一瞬だけ身体を少し硬くしたものの、ゆったりした仕草で宙に頬杖をつくと考えをめぐらせた。
「うーん、裏事情かぁ」
 真剣な様子で悩み、しだいに思いの深みにはまっていきそうになった妹に、姉は素早く声をかけ、言葉の手を差し伸べた。
「得意の直感でいいのよ」
 後押しを受けたリンローナは、姉の眼差しを真っ直ぐに捉え、落ち着いた口調で自分の考えを明らかにしてゆくのだった。
「理由はわからないけど、あたし、お空の間違いなのかなって思うんだ。イラッサ町の昼とここの夜が入れ代わっちゃった……なんて、有り得ないかなぁ?」
「昼と夜が、入れ替わる、ですの?」
 当事者のサンゴーンがぽつりとつぶやき、リンローナの言葉を繰り返す。彼女の視線はさっきから姉妹を行き来していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ふーん」
 シェリアはあまり関心が無さそうに、つまらなそうに答えた。だが薄紫色の前髪をかきあげながら洩らした次なる言葉は、その面倒そうな仕草とは裏腹に、妹の考えに同調する意見だった。
「偶然かも知れないけど、私も似たようなことを考えてたのよ」
「お姉ちゃんも?」
 雲から太陽が顔を出したかのように、リンローナの顔がぱっと明るくなった。反対に少しうつむいたシェリアは、灯の影の中で小さな照れ笑いを浮かべていた。それを隠すためだろうか――彼女が天井を仰ぐと、ランプの明かりが顔に届かなくなった。
 シェリアは上を向いたまま、こう言った。
「そうだとしたら……空はどう責任を取ってくれるかしらね?」

「うーん」
 聖術師の妹は少し考えた。黙っているサンゴーンは、身体が冷えて来たのか、シェリアの上着を羽織ったまま腕組みした。
 リンローナは、夢や期待感、願望を込めた声で返事をする。
「この近くで、まだ待っていてくれないかなぁ。もしも〈空さん〉が責任を感じているならば、ね」
「そうねぇ」
 シェリアはそこでおもむろに立ち上がった。木の床をかすかにきしませながら、姉は窓の方に向かってゆっくりと歩き始めた。
「空が、このとんでもない間違いに責任を感じてるなら、あの子がちゃんとイラッサ町に帰るまでは近くで待ってるべきなのよ」
 窓辺で立ち止まった魔術師は、薄手のカーテンを引いた。硝子を挟んで秋の夜の冷気が一段と近づき、闇に沈む森の遙かな高みには星空が望めた。その硝子が吐息で半透明に曇る。
「というか、責任を感じなさいよ、空っ!」
 子供の害のない悪戯にようやく気付いた教師のような、嬉しそうな笑顔を浮かべて、シェリアは天を問い詰めるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 空を追及していたシェリアは、今度は翻って部屋の方を向き、窓に軽く寄り掛かった。ランプの光に横顔がぼんやりと照らされているサンゴーンを少し離れたところから見下ろして、告げた。
「そもそも、世界がまだあんたを必要としてるならば……」
 魔術師は〈草木の神者〉の視線をしっかりと捉えて言った。
「空のかけらは、きっと待ってくれてるはずよ」
「……」
 サンゴーンは安易にうなずくことはなかったが、かと言って首を横に振ることもなく、シェリアの話を黙々と受け止めていた。
 二人の会話が途切れたのを見計らったのだろう、リンローナが両腕でベッドを押して身体を支えながら、そっと立ち上がる。靴音を鳴らしながら姉のそばに近づいて、窓から外を眺めた。
 シェリアも妹と同様に再び外を向く。冷えた夜気をすぐそばに感じ、持っていた布きれで硝子の曇りを拭いながら、姉妹はサンゴーンが着いたと思われる森に変化がないか探していた。

 その時、突如として。
「あららっ?」
 サンゴーンの困惑気味の声が響いた。
「どうし……」
 リンローナが振り向きかけた、次の刹那。
 強烈な緑の閃光が、部屋の中にほとばしった――。
「ひゃっ!」「うっ」
 その瞬間、リンローナは小さな悲鳴をあげて身をかがめ、シェリアは思わず腕で目を抑えた。急に発せられた明るい緑のきらめきは部屋の隅々までを照らした後、すぐに収束していった。

「何ですの?」
 まぶしそうに目を細めたまま、あっけにとられてつぶやいたのはサンゴーンだった。椅子に腰掛けた状態で呆然としている。
「大丈夫、サンゴーンさん?」
 リンローナは慌てて振り返ったが、すぐに相手に近づくのは躊躇した。姉も素早く首を動かし、体をひねって状況を見守った。
 まばゆい光の源は、サンゴーンの胸元にある美しい緑色の宝石――底知れぬ魔力を秘めた〈神者の石〉だった。放たれた強い光の奔流は、まるでその内側へ吸い込まれ、還ってゆくかのように弱まっていった。今はただ夜空に散りばめられた幾億の星の一つであるかのように、速まった鼓動の名残のように、あるいはリンローナの薄緑の瞳のように、ちらちらと瞬いている。
 その様子は、一晩じゅう強烈な雨を叩きつけ、鋭い風が枝を四方八方にしならせて暴れていた嵐が、朝になって過ぎ去ると急に大空が平穏を取り戻してゆく姿を想像させるものだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 シェリアは〈草木の神者〉の胸元を指差すと、あえて感情を押し殺したような、とても落ち着いた低く柔らかな声で尋ねた。
「それって、夜はいつも光ってるわけ?」
 かすかな隙間風に混ぜられながら魔術師の声の余韻が部屋を満たした夜に溶けてゆくと、それは一つの魔法か奇蹟ででもあるかのように空気を和ませ、優しく塗り替えてゆくのだった。
 サンゴーンは肩を動かして大きく息を吸い、透明感のある蒼い瞳を何度かまばたきした。彼女は〈神者の印〉の鎖を握りしめながらゆっくりと吐息を洩らし、やや放心した様子で答えた。
「いいえ、そんなことはありませんわ……」
「今回の一件には、その宝石(いし)の魔力が影響している可能性が強そうね。可能性というよりも、間違いないと思うわ」
 穏やかな明滅を繰り返す緑の魔石を覗き込み、深く見すぎないようにだろうか、時折目を逸らしながらシェリアがつぶやく。
「何かと呼応しているみたいなのよねぇ」

 姉の言葉を承けて、リンローナは再び窓の方に向き直り、何気ない眼差しで外を眺めた。深い闇に沈み、夜行性の生き物のほかには木々や草花まで眠っている森の中に、ただ一点、先ほどまでは見当たらなかった新たな蠢動が生まれていた。
 少女の相貌が吸い込まれていった先には、ぽつりと明るい光が認められた。星空の下、それは道標のように輝いている。
「あった」
 しばらく外を見ていたリンローナが振り向いて声を弾ませた。
「きっと、あれが〈青空のかけら〉だよ!」
 そう言って窓の外を指さすと、そばにいた姉も急いで隣に立って外を見つめ、曇る窓硝子を素早く手の甲で拭いながら問う。
「どこよ?」
「あのあたり、ええと……」
 リンローナが指で示すと、シェリアは大きく目を見開いた。
「あった! ついに出てきたわね」
「どれですの〜?」
 サンゴーンも椅子から立ち、窓の方に歩き出す。彼女の胸元の〈神者の印〉が秘めた淡い緑の光は、一瞬だけ何かを合図するかのように少し強まり、すぐにまた穏やかになるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「さ、そうと決まったならさっさと行くわよ。あの光だっていつまで待ってるか分かんないんだし、こういうのは早い方がいいに決まってるんだから」
 方針が決まるとシェリアの動きは迅速だった。ベッドの横に置いてある荷物を改めて、夜の奥底へ漕ぎ出す準備を始めた。
「あら? 上着が……」
 独り言をつぶやいた魔術師は、窓際の妹に聞こうとしたのだろう、顔をあげた。その時にサンゴーンの姿が視界に入った。
「あっ、そうか。そういえば、あんたに貸してるんだっけ」
 自分の上着を見つけて納得したシェリアは、代替品を捜す。
「お返しした方がよろしいですの?」
 サンゴーンが訊ねると、シェリアは作業しながら答えた。
「とりあえず、そのまま着てて」
「はい、ですわ」
 訪問者は少し申し訳なさそうにうなずいた。はっきりと断られたので、同じことをそれ以上しつこく聞き直すことはなかった。

 遅れて用意に取り掛かったリンローナは、背伸びをして衣紋掛けから上着をはずし、丁寧な仕草で羽織りながら喋った。
「お姉ちゃん。ルーグたちにも声をかけた方がいいかなぁ?」
「うーん、説明がめんどくさいわね……」
 言葉を濁したシェリアは、手先を動かしながら考えている。
「しょうがない、これでいいわ」
 やや薄手の長袖の服を二枚取り出したシェリアは、妥協してつぶやいた。そしてそれを重ね着しながら妹の質問に答えた。
「でも二人だけで勝手に行動すべきではないのは確かね。何か大きな魔力が関わってるみたいだし、何かあったとき困るし」
「うん。そうだよね」
 リンローナは安堵した表情で、姉の意見に同意した。
 姉妹には、旅をともにする男性の仲間たちがいるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 財布を長ズボンのポケットに入れて出発準備の整ったリンローナは、手持ち無沙汰で立っているサンゴーンを見て言った。
「あっ、そうだ」
 何か思いついたようで、少女は衣紋掛けに垂らしてあった細長い厚手の布を引っ張り、慣れた手つきで畳み始める。同じ幅で幾度か折れ曲がりながら、手の中に吸い込まれていった。
「ん?」
 南国からやって来た〈草木の神者〉は軽く身を乗り出すようにして小首をかしげ、聖術師の仕草を不思議そうに眺めていた。
「サンゴーンさん、良かったらこれ使ってね」
 楽しげに言いながらリンローナはその布を差し出した。少女の白い歯がランプに照らされ、闇の中でおぼろに浮かび上がる。
 暗い部屋の中ではそれが何なのか良く分からず、見方によってはリンローナが手なずけた生き物のようでもある。サンゴーンは恐る恐る右手を差し出して、それを指先でそっとつまんだ。
「蛇みたいですわ。何に使うんですの?」
「こうやって首に巻くと、あったかいよ。マフラーっていうんだよ」
 リンローナは身振り手振りを交えて簡単に使い方を説明してから、それの名前を教えた。彼女は穏やかな口調で続ける。
「メラロール王国は、秋の終わりから冬を越えて、春の真ん中になるまで……寒い時期が長いから、みんな重宝してるみたい」
「マフラー、ですの。初めて聞きましたわ」
 幾分安心した様子のサンゴーンは、ほっとため息をついてから厚手の布を抱え込むように持ち、しげしげと眺めた。亜熱帯のイラッサ町では見かけたことのない全く異文化の品物だった。
 
 手触りを確かめ始めた南国の娘は、ふと顔を上げて言った。
「それほど涼しい日は、やっぱり〈氷の雨〉も降るんですの?」
 彼女の問いにリンローナが答えようとした時、いつの間にか用意を終えたシェリアがドアの方に近づきながら返事をした。
「雪は知ってるのね」
 するとサンゴーンは澄んだ瞳を夢見るようにきらめかせた。
「有名ですわ〜。北の国では乾季になると空気が涼しくなってきて〈氷の雨〉が降るって。友達のレフキルが言ってましたわ」
「へぇー、そうなの」
 相槌をつきながら二人のもとに到着したシェリアは、向かい合って喋っているサンゴーンとリンローナの肩にぽんと手を置く。
 姉はテーブルのランプを手にしていた。部屋の備品である弱い灯だが、持ち運びできるように簡素な取っ手がついている。
「さ、待たせたわね。もう出られるわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「あたし、それ巻こうか?」
 リンローナは突然、サンゴーンの手を指さした。マフラーを持ったままのの〈草木の神者〉は、その厚手の布をどうしようか迷っていたらしく、渡りに船とばかり素直に同意して一旦返した。
「はい、リンさん。お願いしますわ〜」
「うん!」
 小柄なリンローナは軽く爪先立ちして、相手のほっそりした首周りにぐるぐるとマフラーを巻きつけてゆきながら、こう尋ねた。
「苦しくない?」
 するとサンゴーンは首を動かさずに蒼い瞳だけを下に動かし、何度も角度を変えて確認し、むず痒そうな声で答えを返した。
「大丈夫ですけど、何だか、変な感じですわぁ」
 マフラーの端を犬の尾のように少し残して垂らし、木の床に靴の踵を下ろしたリンローナは、相手の襟元を見上げて言った。
「はい、出来上がり!」
「これ、ほんとにあったかいですの……」
 初めてのマフラーの感想は上々だった。サンゴーンはその中に顔をうずめ、ゆっくりと吐息を吹きかけ、若く艶やかな頬で布の感触を楽しんだ。その様子は、すっかり北国の少女だった。
「まだ紅葉は途中だし、暖炉に火は入ってないし、本当の冬が来るにはまだ時間がかかるけど……雪を見せてあげたいな」
 季節を越えて、リンローナは遥か遠い雪空を想うのだった。

 その時、手にしたランプを左右に揺らし、シェリアが告げた。
「さあ、あんまりのんびりしても居られないわ。これから〈空のかけら〉を調べる前に、まずはルーグたちを叩き起こさないといけないんだから。あんまり遅れて空の機嫌を損なったら最悪よ」
 少し苛立った様子のシェリアの言葉が、リンローナとサンゴーンを現実に引き戻す。二人は互いに見つめ合ってうなずいた。
 先を促したシェリアが先頭に立った。腕を伸ばして冷えたノブに触れ、ゆっくりと丁寧に回し終えて、木のドアを軽く押した。
 細い隙間がだんだんと開いていった。やや遅れて、山の小川のように冷たい空気が部屋の中へ流れ込んでくる。魔術師がさらに力を入れると、ドアはきしみながら壁から離れてゆき――身を乗り出した彼女は、ついに廊下へ一歩を踏み出すのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 廊下には秋の深い夜が満ちていて、照明も灯火もなく、最初は眼を閉じているのかと錯覚してしまう。だが、どこかから僅かな星明かりが注いでいるのだろう、決して真の闇というわけではなかった。目が馴れてくると確かに見える廊下の壁は、夜のかなた、闇の奥深くへ果てなく永遠に続いているかのようだ。
 メラロール王国の内陸――森に囲まれた小さな町は、既に皆の寝静まる刻限である。宿の廊下に人気はなく、時折、外の獣の遠吠えが聞こえるくらいだ。冷ややかな夜の空気たちがひそやかに行き交っているのだろう、見えない風の息吹を感じる。
 三人の若い女性は、その闇を長く漕ぎ渡る必要はなかった。姉妹の仲間、冒険者の男たちの部屋はすぐ隣だったからだ。

 コン、コ、コ、コン、コン。シェリアは指の関節を使ってリズミカルに叩いた。どうやらそれは何かの合図になっているようだ。
 しばらく待つ。リンローナとサンゴーンは沈黙を保っていた。
 魔術師は静かに息を吐き出し、再びコン、コン、コンと叩く。すると間髪入れずに内からコン、と返事があり、男の声がした。
「はい。念のため、どちら様?」
「タック。シェリアよ。今から、この娘(こ)を送り届けてくるから。急いでるの」
 姉はやや早口で、詳しい説明は省き、単刀直入に言った。

 ドアが開いてゆき、タックという名の少年が慎重に顔を出した。年はシェリアと同じくらいで十代後半、眼鏡を掛けている。
「行きますよ」
 タックは低い声で極めて冷静に言い、サンゴーンの姿をちらりと確かめた。見られた方の南国の訪問者は軽く頭を下げる。
「すぐ出られるなら、来て欲しいんだけど」
 シェリアが堂々とした様子で訊ねると、タックは即答した。
「ええ。出ますよ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「一つだけ教えてください。どちらまでお送りすれば。近くなのか、遠い場所ですか? それによって準備が変わりますから。場合によっては、ここを引き上げる必要もあるでしょうし……」
 タックのそのような懸念を、シェリアは明確に否定した。
「いいえ、誰かに追われているわけじゃないから。基本的には、近くの森の中の〈ある場所〉まで送るだけよ」
「森の中」
 タックは相手の言葉を繰り返す。疑念は完全に消えていないようだったが、深く問うことはせず、ひとまず納得して答えた。
「わかりました。では上着と財布程度で。すぐに用意します」

 いつの間にか、ドアを開けているタックの背後に別の男の気配がある。シェリアたちの仲間である新しい男は低く呟いた。
「どうした」
「お嬢さんのお見送りですよ。急ぎです」
 振り向いて答えたタックの説明に、奥の男は短く答える。
「そうか」
 その言葉の響きには、今は事情を深く詮索しないけれども、やるべきことはやり遂げるという意志の強さが混じっていた。
 シェリアはドアの方へ身を乗り出し、小声で言った。
「ルーグも来たのね。あまり時間がないのよ」
「分かった。リンローナもいるのか? ちょっと待っていてくれ」
 緊張感を孕みつつも落ち着いた声で、新しい男――ルーグが喋った。それは、つい先ほどまで眠っていたとは思えないくらいに冴え渡っていた。いつ何時(なんどき)、何が起こっても即時に対応しなければならない冒険者に必要な能力なのだろう。
「いるよ」
 リンローナの位置からは彼の顔は暗くて見えなかったが、硬い声と表情で返事をした。ルーグは次にタックへ指示を出す。
「タック。ケレンスを起こしてきてくれないか」
「了解です」
 同意したタックは、シェリアに一声かけてからドアを閉めた。
「では、すぐに」
 隙間が狭まり、相手の声は途切れる。

 廊下は再びしんと静まり返っていた。時折、部屋の中から何か物音がする。男たちが出かける準備をしているのだろう。
「静かだね」
 誰に言うわけでもなく、リンローナが微かに呟いた。姉のシェリアが黙っていたので、サンゴーンが少し遅れて返事をした。
「ええ……」
 ランプの明かりはごく狭い範囲を照らしている。それは闇に残された小さな光の水たまり、南の海に浮かぶ無人島のようだ。
 そして温かい格好になったサンゴーンの胸元にある〈神者の印〉は、緑色の雫であるかのように淡い輝きをたたえていた。
 重心を動かすと、木の床がミシッと鳴る。サンゴーンとリンローナは部屋の方を見つめてじっと待った。シェリアは腕組みして廊下側を向き、辺りの様子に気を配りつつ耳を澄ましていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さっきまで滞りなく流れていた時の河は浅瀬のように緩くなり、留まっている。その狭間に置き忘れられたかのような女性陣だったが、実際はそれほど待たされたわけではなかった。
 複数の足音が近づき、一瞬の間ののち、ドアのノブがカチャリと鳴る。その刹那、リンローナとサンゴーンだけではなく、内心は待ち望んでいたのであろうシェリアもそちらを見るのだった。
 ドアがゆっくりと開き始め、まずは眼鏡のフレームがきらりと光った。レンズのない、フレームだけの伊達眼鏡のようだ。最初に出てきたのは、シェリアよりも背の低い、小柄なタックだった。
「お待たせしました」
 彼が丁寧に言い、左手でドアを押さえ、右手ではやや大きなランプを掲げて廊下を照らした。サンゴーンと目が合うと、彼は軽く目礼する。訪問者の方は軽く胸に手を当てて挨拶する。
「初めまして、ですの」

 次の人影が現れる。今度はタックとは対照的な大柄の男だ。剣の鞘が視界に入ると、南国の少女は思わず身を硬くした。
 先刻、タックの後ろで聞こえた低い声が、彼女に語りかける。
「こんな暗い所で失礼する。南ルデリア共和国、モニモニ町出身のルーグ・レンフィスと申す者だ。詳しい事情は分からないが、とにかく貴女を無事に送り届けるよう、全力を尽くしたい」
「あ、どうもですの。わたし、サンゴーン・グラニアですの」
 ルーグの話に少し安心したようで、訪問者は優雅に応じた。
「突然、ご迷惑おかけしますけど、よろしくお願いしますわ」
「詳しくは移動しながら説明するから。行きましょ」
 シェリアが早口で言うと、ルーグとタックは黙ってうなずいた。
 ルーグが出てきても、タックはまだ部屋のドアを抑えている。
 静かだったリンローナが一歩を踏み出し、タックに尋ねる。
「ケレンスは?」
「ねみぃな……」
 その時、目をこすりながら出てきたのがケレンスであった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 宿の外に出ると冷たい空気が直に身体へ染み込んでくる。街道沿いを緩やかに流れる川の水音が微かに聞こえていた。
「はぁ〜っ」
 リンローナは掌の中に温かく白い息を吐き、それから夜空を見上げた。光の強さも色も異なるあまたの星たちが瞬き、人間には分からない輝きの言葉で語りあっているかのようだった。
「きれい……」
「それで、どちらの方向の森なんでしょうか?」
 先頭で立ち止まって振り返ったタックが言った。彼の横には少し不機嫌な様子でケレンスが立っている。タックは見た目には武器は持っていないが、ケレンスは剣の鞘を身に着けていた。
「えーっと、案内するから、ちょっと待って」
 シェリアは部屋から持ち出したランプをルーグに手渡した。
「ルーグ、これお願い」
「ああ」
 ルーグはその場にいた男女六人の中で一番背が高く、シェリアから受け取ったランプを高々と掲げる。だが、それはタックの持ってきたランプよりも小さく、彼にはやや不釣合いであった。

 両手が空くと、シェリアは肩の力を抜き、瞳を閉じて集中力を高めた。だんだんと右手を掲げ、魔法の呪文の詠唱を始める。
「ЖЩЛЫЭЮ……空を照らす陽の光よ、我に力を与えたまえ! ライポール!」
 仲間たちが見守る中、シェリアが目を開ける。
 その刹那、強い輝きが弾けて、サンゴーンは目を覆った。

 シェリアの指先からまばゆい白の糸が生まれた。それが素早く寄り集まって芯を、回りながら絡みとって球を形作り、魔法の照明となる。その光は松明(たいまつ)やランプとは比較にならないほど強く、夜の大地に眠る足元の草花たちを顕わにした。
 失った昼間を思い出させる輝きに正面から照らし出されて、サンゴーンは南国の空のように蒼く澄んだ両目をまばたきした。
「明るいですわ〜」
「驚いた?」
 シェリアが胸を張ると、サンゴーンはこう言った。
「ええ。わたしのより、かなり明るいですの!」
「はぁ? なんだ、あんたも使えるの……」
 そのことに魔術師の方が驚き、つまらなそうに言うのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 一方、少し離れた場所で、叩き起こされたケレンスが問う。
「タック、これから何するんだよ? あと、あの女は?」
 表情を変えず、タックは突然の来訪者に視線を合わせた。
「あの方はサンゴーンさん。森の中にお送りするんです」
「何だそりゃ。意味不明じゃんか」
 睡眠を妨害されたことも影響し、ケレンスは余計に釈然としていない。そんな彼を、タックは冷静な口調で飄々となだめた。
「訳ありみたいですから。後でシェリアさんに聞きましょう」

 その間にシェリアは右手を伸ばしたり引っ込めたりし、触れずに光球を動かした。位置を調整し、両隣の少女たちに告げる。
「サンゴーン、私と一緒に行くわよ。私たちの持ってる光の中だと、これが一番明るいから。リンローナも遅れずについてきて」
「うん」
 小柄な妹は姉の話をきちんと聞いてから、すぐに同意する。
「わかりましたの」
 うなずいた南国の娘は顔をほころばせ、ぽつりと呟いた。
「シェリアさん、初めて名前で呼んでくれましたわ」
 
 その言葉はシェリアは耳に届いたのかどうかは分からない。魔術師の姉は、宿の〈横〉に広がる森を指さし、妹に尋ねた。
「リンローナ。光の見えた所って、確かこっちだったわよね?」
 ルーグ、タック、ケレンスの男たちは姉妹のやりとりに耳を傾けている。妹は空を見上げ、記憶をたどりながら返事をした。
「うん。確か……そっちだったと思うよ」
 彼女が答えた直後、皆の目線が自然とルーグに集まった。
「よし、行こう」
 ルーグが決断する。そして六人は、大きなランプを持ったタックとケレンスを先頭に、魔法の光を頼りに歩く女性三人を挟み、しんがりをルーグが務めるという形で森に踏み出すのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「こういう時、ほんとは誰か荷物番がいたほうがいいんだけど。まあ今回はこんな時間だし、何が起こるか分かんないから」
 彼らのリーダーであるルーグに後の判断を委ねたシェリアは、だいぶ肩の荷が下りたようで、さっきよりも饒舌になっていた。
 六人は既に森の小道へ入っていた。獣道ほど狭いわけではないが、整備された主街道のように楽々と馬車が通れるほどの余裕はない。せいぜい二人が並んで歩けるくらいの道だった。
 時折、みみずくの低い鳴き声が響き渡る。秋の中ほどの季節、少し気の早い渇いた落ち葉たちを踏みながら歩いてゆく。
 
 梢からは夜空の切れ端が覗けた。一つ一つはごく小さな輝きを放つ星たちは、闇色の絨毯を飾る宝石の装飾か模様かであるかのように数え切れないほどきらめき、森の空を真の闇よりも僅かに明るくし、木々の輪郭をほのかに淡く照らし出している。
 サンゴーンはシェリアと並んで歩いていた。斜め上からのまばゆい魔法の光を受け、影が大地にくっきりと刻印されている。
「あの……シェリアさん」
 南国の娘はちらりと横を見て、歩きながら軽く呼びかけた。
「んっ?」
 相手が小首をかしげて反応を示すと、単刀直入に尋ねる。
「噂に聞く〈氷の雨〉は、どんな感じなんですの?」
 
 その質問はシェリアには予想外だったらしく、一瞬言葉を飲み込んだが、しだいに心の中で銀世界が像を結び始めたようだ。
「はぁ〜っ……雪ねぇ。そりゃあ綺麗なもんだわ」
 シェリアは感嘆の温かな溜め息をついた。その吐息は妹のリンローナのやり方と良く似ており、血のつながりを感じさせる。
「冷たくて、真っ白で。寒い朝、大粒の雪たちが音もなく降って来る様は、天上界からやってきた天使みたいに思えるのよね」
「天使」
 サンゴーンは嬉しそうに頬を緩めて、純粋な瞳を夢見るようにきらめかせる。遠い空のかなたから舞い降りてくる、背中に白い羽根の生えた人形のように可愛らしい天使たちを思い浮かべていたのだろう。その夢想から、シェリアが現実に引き戻す。
「雪はほんと、最初は綺麗なんだけどねぇ。メラロール王国だとよく降るし、寒いからなかなか溶けなくて、敬遠されるそうよ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「そうなんですの?」
 さっきから驚きの連続だった来訪者はひときわ目を丸くした。
「〈雪〉が邪魔になるほど降るなんて、想像もつきませんわ〜」
 素直に感嘆したサンゴーンに、シェリアは追い打ちをかける。
「それが降るのよ。最初は私も目を疑ったわよ」
「ほんと、びっくりしたよね」
 後ろからリンローナの声がした。夜更けの澄んだ冷たい空気の中を歩いているうちに機嫌が良くなって来たのか、何か他に思う所があったのか――シェリアはとても親切な口調で言う。
「そうねえ。まあ、私もあんなドカ雪は、メラロールに来てから去年の冬に見ただけだけど……モニモニ町にいた頃は滅多に降らなかったから。そういえば冒険者ギルドから斡旋されて市内の雪かきをしたけど、あれって、すっごく重労働だったわ!」
 その時のことを思い出して感情が高ぶった影響だろうか。シェリアの斜め上で輝く〈魔法の光球〉の輝きが僅かにゆらいだ。
「ま、海に近いメラロール市内ならまだマシよ。山の方へ行くと街道なんか簡単に埋まっちゃうから。雪って最初は軽いけど、時間が経つと堅くなって重くなって、どかすの大変なのよね」

 魔術師が喋っていると、突然、先頭のケレンスが呼んだ。
「おーい、シェリア」
「何よ?」
 シェリアが立ち止まって聞き返すと、相手は率直に訊ねた。
「まだ先か?」
 その問いを受けた彼女は、少し考えてから答えを出した。
「そうよ、もうちょっと行ってみましょ。この近くに間違い無いはずだから。森の中に光る、昼間の青空の輝きを探して頂戴!」
「分かったよ」
 夜の寒さの中を泳いでいるうちに眠気は吹き飛んだのだろう。ケレンスがしっかりした声で、やや面倒臭そうに返事をした。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「魔力が捉えにくいわね……」
 真剣な顔で呟いたシェリアは、南国の娘の襟元で何かを語りかけるように淡い緑に輝いている〈神者の印〉をちらりと見た。
「えっ?」
 聞き返したサンゴーンに対して、シェリアは言葉を濁した。
「いつもなら、そういう〈空のかけら〉みたいに強い魔力が影響してるものを感知するのは、割と得意なんだけど。それ以上に強い魔力を発するものがそばにあるから、分かりにくいのよね」
「そうなんですの?」
 サンゴーンは自分の事とは知らずに返事をしたようだった。

 再びあやふやな夜の大地を一歩ずつ確かめ、時折渇いた落ち葉をパリッという音とともに割りながら、六人は歩いていった。空気は涼しいが、額や身体にはうっすらと汗をかいている。
「あの……」
 突然、何かを喋りかけたサンゴーンは、すぐに口ごもった。
 シェリアは敢えて反応を示さないようで、相手が話し出すのを待ちながら歩いてゆく。サンゴーンは意を決して思いを発した。
「部屋から見えたのは、本当に〈青空のかけら〉なんですの?」

 サンゴーンは軽くうつむき、さらに不安を口にした。
「もし違っていたら、皆さんに悪いですわ」
「違うも何も、行ってみなきゃ分かんないじゃない!」
 低い声でシェリアが鋭く反論した。サンゴーンは黙っている。
 その後ろでリンローナはゆったりとうなずき、サンゴーンの両肩に手を乗せた。はっとして立ち止まった相手は振り向いた。
 シェリアはそのまま、やや不機嫌そうに歩き続ける。しんがりのルーグはリンローナにぶつかりそうになって歩みを休めた。
 魔術師の掲げる強い光が遠ざかる。ルーグの手にした小さなランプの輝きが、見つめ合う少女たちの横顔に陰影をつける。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 リンローナは迷わずに手を差し伸べていった。冷えているサンゴーンの華奢な右手――その指先に自分の指を絡ませ、最後はしっかりと握りしめる。伝わる温もりが互いの心を近づけた。
 聖術師は薄緑の瞳をきらめかせ、相手をまっすぐ見据えた。
「あたしたち〈冒険者〉って、こういうのが仕事なんだよ」
 その間に、シェリアは少し行ったところで急に足を休め、先頭をゆくケレンスとタックに声をかけた。全員の動きが止まった。

 仲間たちの見守る中で、リンローナは続きを語りかけた。
「調べるのが大変な不思議な事件とか、市とか町では対応してくれないような事に応えるのも、あたしたちの大事な仕事だよ」
「……」
 サンゴーンはじっと黙って相手の話を聞いている。はにかんだ微笑みを浮かべ、言葉に静かな自信を込めて少女は語った。
「それに、何でも知りたいっていう好奇心が疼けば、あたしたちは動くんだよ。あたしたち自身が、それに関わりたいと思って」
「もちろん現実的な報酬がないと生きてはいけないけれど」
 戻って来ながらシェリアが言った。彼女が動くたびに強い光が進み、森の中に投げかけられた影を驚くほどに変えていった。
「たまには〈好奇心を満たす答え〉が報酬の時もあるのよ」

 サンゴーンはシェリアの顔をじっと見つめた。次に横のリンローナを見ると、小柄な少女は和らいだ表情でうなずきかけた。
「その通りだ」
 後ろから、彼らのリーダーであるルーグが重々しく言った。
 タックは少し離れた場所から静かに見守っている。横のケレンスは右腕を掲げて同意の意味合いを示し、歯を見せて笑った。
「わかりましたの」
 サンゴーンはうっすらと瞳を潤ませ、言葉に力と心をこめる。
「本当に、ありがとうですわ」
 その涙を手の甲で軽く拭いてから、少女は顔をほころばせた。星のきらめきで編んだような銀の髪が微かに光っていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「それにしても困ったわね。見つからないってのは」
 斜め上から照らし出されたシェリアが腕組みし、溜め息混じりに言う。光球も連動し、どこか残念そうに頭を垂れて明滅した。
 ふっと場の雰囲気が和んだところで、サンゴーンは呟いた。
「本当に困りましたの」
 南国の少女は襟元に手を伸ばして〈神者の印〉を握りしめる。それは一種の癖で、ほとんど無意識のうちに行われたようだ。
 その表情が、ひと呼吸遅れて驚きに充たされていった。
「あらっ、温かいですわ〜!」

「何だ?」
 ケレンスとタックは少し離れた場所から興味津々そうに成り行きを見守っているが、シェリアはまるで恐ろしいものを見るような視線で、サンゴーンの襟元にきらめく緑の宝石を睨んでいた。
「これが……」
 若い魔術師には、世界に七つしかない〈神者の印〉の魔力の波動が、暴風雨のように烈しく伝わっていたのかも知れない。

 神秘的な緑色の宝石のきらめきは、風船を一気に膨らますように大きく強まると、何かを探すかのごとくに不安定に輝きを増したり弱めたりしながら、森に強い緑の光線を走らせた。シェリアが浮かべている光の球は、そのたびに影響を受けて揺らぐ。
「すごい」
 シェリアの妹、聖術師のリンローナも緊張の面持ちで見つめている。森の小動物や虫たちがざわめき、宝石から発せられた怪しい光が乱舞する中で、ルーグは素早く動いた。万が一の時はシェリアとリンローナを庇うことの出来る位置に入ったのだ。

 胸元の魔石から発せられる不安定な光線を戸惑いがちに眺めていたサンゴーンが、突然、精一杯の声をあげて警告した。
「伏せてくださいのっ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「きゃあっ!」
 シェリアの鋭い叫びとともに、まばゆい緑の光が爆発した。
「ひゃあっ」「うっ」
 リンローナとルーグたちも悲鳴をあげ、手の甲で目を抑える。

 辺りが一瞬、強い輝きにつつまれて、木や枝の影が濃く描かれた。潜んでいたコウモリたちが慌しく飛び立ち、羽音が響く。
 サンゴーンの宝石が放った光は、そのあと緩やかに収束していった。うっすらと目を開けてゆきながら、シェリアはつぶやく。
「さっき、部屋で見たのと同じ……いや、さらに強烈だわ」
 まぶたの裏には、まだ光の残骸が焼きついている。彼女が出した照明魔法は、強い輝きを浴びた時、一瞬にして吹き飛んでしまった。魔石の輝きが弱まる中で、暗闇が再び四方八方から手を伸ばし、大海の波のように六人を飲み込もうとしていた。

 サンゴーンの襟元にきらめいている宝石――おっとりした持ち主とは裏腹に感情の起伏の激しい〈草木の神者の印〉は、淡い緑の輝きをほのかに秘めて、元通り落ち着いたかに見えた。
「あっ」
 その時、シェリアが叫んだ。サンゴーンの宝石から一本だけ、森を突き抜けて地面と水平に横に伸びる細い光を伸びていったのだ。輝きは一過性のものではなく、持続している。まるで指で示すように、それは木々をすり抜けて真っ直ぐに伸びていた。
「なんか、よく分からねぇけどさ、すっげー」
 少し離れた場所で、ケレンスはしきりに感心している。他方、シェリアとリンローナのやや前に立つルーグは、まだ警戒を緩めた様子はなく、サンゴーンの方を注意深く見つめていた。

「あの〈神者の印〉も、空を惑わせた責任を取ったのね」
 ぽつりとシェリアが言う。近くにいたサンゴーンとリンローナ、ルーグは、彼女の言葉に耳を傾けた。注目を集めた若き女魔術師はゆっくりと腕を掲げ、冷えた夜風に髪を揺らしながら、サンゴーンの宝石が放つ緑色の細い光の進む方角を指さした。
「目指す〈空の扉〉は、この先よ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「おう!」
 意気の上がる男性陣だったが、シェリアは宝石の発する緑の光の筋道を見つめながら、さっそく懸念していることを言った。
「でも真っ直ぐ行けるとは限らないのよねぇ」
「そうですわね……」
 サンゴーンは、自分の襟元の〈神者の印〉から真横に発せられる緑の光線をちらちらと見て、少し恥ずかしそうにうなずく。
「とにかく行きましょ」
 闇と光の狭間で妖艶な彩りを浮かべる薄紫の前髪をかきあげて、シェリアが言う。それから彼女は再び照明魔法を唱えた。
「ЖЩЛЫЭЮ、空を照らす陽の光よ……」

「ライポール!」
 シェリアの手から新しい光の球が生まれた。深夜の連続する魔法で疲れたのか、やや呼吸が荒くなり、肩で息をしている。
 それを見届けてからルーグは声を張り上げて指示を出した。
「タック、ケレンス! この光の行き先を目指してくれ。出発だ」
「了解しました、リーダー」
「わかったぜ」
 少し離れた先遣隊の二人のいらえが、すぐに返ってくる。
 六人は隊列を組み直し、先頭のタックとケレンス、しんがりのルーグとシェリアの間に、守るべき対象である来訪者のサンゴーンと肉弾戦には向かないリンローナを挟む形で歩き始めた。

 歩きながら、リンローナが穏やかな声でつぶやいた。
「静かだね……」
 突然のまばゆい光に撹乱された、どこまでも深い闇の世界は、また落ち着きを取り戻して息をひそめているようだ。
 揺れる心を繋ぎとめるかのように、無意識のうちに襟元のほのかに温かい宝石を握りしめて、サンゴーンが神妙に答えた。
「ええ」
 南国娘の何気ない行為は、大海原をさまよう小舟が頼りにしている唯一の道しるべを失うことを意味した。皆を導いてゆく宝石の緑の輝きはサンゴーンの手に覆われて翳り、閉ざされる。
「おーい、あんた。光を遮るなよな」
 歩きながら半分だけ振り向いた先頭のケレンスに軽く注意され、中列のサンゴーンは慌てて〈神者の印〉から手を引いた。
「ご、ごめんなさいですの」
 木々をも貫き通して向こう側へ続いてゆく直線的な緑色の光は、他方、主のサンゴーンの掌を無視することはなかった。
 
 単調なようでいて不思議に異なる靴音と、衣服の擦れ合う音、自分たちの呼吸と鼓動、微かな夜のさざめきが繰り返し入り混じる。正確な時刻は分からないが、既に深更と思われた。
 空気はしんしんと冷やされてゆく。少し辺りが開けて来て、道幅は広くなった。木々の合間の緩やかな坂道を六人は昇ってゆく。サンゴーンの襟元の宝石の光は、その先を示していた。
 もはや誰も口を開かず、黙々と進んでいった――その時。
「きゃあっ」
 突如、サンゴーンが小さな悲鳴をあげた。
 横にいたリンローナが叫び、急いで手を出した。
「サンゴーンさんっ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それからすぐに何かがドサッと倒れる重たい音が響き、不思議な道しるべとなっていた宝石の緑の輝きがぱっと消えた。
「どうしたっ!」
 ルーグは駆け寄り、声をかけた。シェリアは素早く光の球を前へ飛ばした。つまづいたサンゴーンが前のめりに倒れたのだ。
「てててっ……」
 だが、その時に聞こえてきた苦しげな呻きの主は、サンゴーンではなかった。紛れも無い剣術士の声――ケレンスだった。
「転んじゃいましたわ〜」
 一方、南国の娘はけろりとした様子で言い、地面を押して立ち上がろうとする。すると実のところ彼女の下敷きにされていたケレンスはたまらず、滅多に出さない悲鳴をあげるのだった。
「いってぇ〜!」
「あらっ」
 ようやく気づいて驚き、大きな瞳をまばたきしながら立ち上がりかけた〈草木の神者〉に、リンローナとルーグが手を貸した。
「大丈夫?」
「怪我はないか?」
 もう地面に邪魔されることなく、サンゴーンの襟元の宝石からは、再び緑の光が何事もなかったかのように発せられていた。
「平気ですの、厚い服が護ってくれましたわ。それとケレ……」
 ケレンスさんが、と言おうとしたのだろうか。
 サンゴーンのその声はケレンス本人によってかき消された。
「おらーっ! 俺の心配もしろよなっ」
 言うが早いか、あっという間に立ち上がった少年剣士は、怒りと呆れを混ぜたような声で思いをぶちまける。その横にいた長年の相棒のタックが笑い声をあげようとした、瞬間のこと――。
 
「ケレンス、よくやってくれた!」
 すかさずルーグが機転をきかせて評価し、なだめる。場の空気も変化して、ケレンスの機嫌と誇りは一気に直っていった。
「そ、そうだよな」
「サンゴーンさんを守ったんだね」
「ケレンス、偉いじゃないの」
 少年の災難を笑いかけたリンローナとシェリアも、リーダーのルーグの思いを察したのか、彼に便乗して褒める側に回った。
「ありがとうですの」
 最後にサンゴーンが礼を言うと、タックは拍子抜けし、くすっと独りで笑った。ケレンスはまんざらでもない様子でうなずいた。
「まあ、いいって事だぜ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「先を急ごう」
 ルーグが言い、六人は夜のさらに奥へと歩いてゆく。空気に浸した顔は冷え、それぞれの魔法照明やランプに照らし出された吐息は生き物であるかのように白く浮かび上がっている。
 それからしばらくの間、一向は誰も喋らなかった。先頭のタックは闇に沈む大地の感覚を確かめながら、後ろがついてきているかを気にしながら早足で歩き、静寂の小道を進んでいった。
「ここからまた少し上り坂ですよ」
 振り向いて軽く注意を促すと、すぐ後ろのサンゴーンとリンローナが黙ってうなずく。サンゴーンの襟元の〈神者の印〉から発せられる緑の光は、まっすぐに坂の向こうを指し示していた。
 その峠とも言えないほどの緩い峠の勾配がなだらかになり、平坦になったと思うと、道は明らかに下りへと差し掛かった。
「あっ」
 リンローナが声をあげた。南国の娘の魔石から生まれた光の筋が、ある一点に吸い込まれるようにして忽然と消えている。そこには、夜空の下、ぽつりと強い明かりが見えるのだった。
「やっと着いたみたいね!」
 後列のシェリアが少し大きな声で、皆に聞こえるように言う。
 南北に長いといわれるルデリア大陸を遥かにまたぎ、北の雄〈メラロール王国〉の小さな森の町から、南の島を統べる〈ミザリア国〉のイラッサ町に至る時空の門が、いま一度開いたのだ。
 サンゴーンはふと立ち止まって息を飲み、明かりを見つめる。
「帰れますのね」
 それは少し涙声になっていた。横のリンローナも心を動かされたのだろう、薄緑の澄んだ瞳を布で拭き、ひとときの友を促す。
「うん。行こう、サンゴーンさん。きっと大丈夫だよ」
 小柄な少女は精一杯の微笑みで、こう続けるのだった。
「間違えた空が、待ってるよ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 森を広く切り開いた道が続いている。一点の明かりに見えた〈空の扉〉と思しき光は、下り坂の途中、道の真ん中にあるようだった。近づくたび、そこから洩れてくる光が強まって見える。
「北国の夜とは全く異質な輝きですね」
 タックがつぶやいた。あの灯火が〈南国の窓〉であることを確信する口ぶりだった。皆の足取りもいつしか軽くなっている。
「まだ分かんねぇぜ〜」
 剣術士のケレンスが半ば振り向きながら軽口を叩くと、後列から魔法の専門家であるシェリアの真面目な声が聞こえた。
「少なくとも、強い魔力を秘めたものに間違いないわよ」
 既に、明かりは単なる一点ではなかった。それは天窓のように四角く、宙に浮かんだまま静止している。そこから洩れ出している昼間の強い光の向こうには、真っ青な南の空が覗けた。
 サンゴーンの襟元にある〈草木の神者の印〉から発せられた緑の光線は、その不思議な窓のような物体を指し示していた。
「来るときも、確かこんな形をしていましたわ」
 シェリアの上着を羽織り、リンローナのマフラーをして防寒対策を施した南国娘のサンゴーンが、白い吐息混じりに語った。

「そっかぁ。でも、ほんとに空も間違えることがあるんだねー」
 やや遅れて、リンローナが相槌を打った。彼女は続ける。
「ここは北国の夜の空、向こうは南国の昼の空のはずなのに、場所と時間を間違えてひっくり返るなんて……不思議だね」
「たぶん〈神者の印〉が惑わせたのよ。理由は分からないけど」
 後ろから話に混ざってきたシェリアが、そこで語調を強める。
「いよいよ、これで世界の端と端を結ぶ〈空の絵合わせ〉が完成するのよ。鍵となるサンゴーンが現れて、成し遂げるんだわ」
 ほとんど目の前に近づいた〈空の扉〉を仰ぎ見ながら、若い女魔術師は感慨深げに語る。話題の中心であるサンゴーンは顔を上げ、胸の辺りに拳を当てて、少し不安げに微笑む。他の四人は歩みの速さを幾分緩めつつ、シェリアの話を聞いていた。
「空と〈神者の印〉が責任取って、あんたをちゃんと帰すのよ」
 自信たっぷりな口調で言ったものの、事実と決まったわけではなく、それはシェリアの願いだった。サンゴーンの心に残る期待と希望を支えたいという強い想いから来る言葉だったろう。
 そしてひっそりとした森に挟まれたなだらかな下り坂の途中、目的地にたどり着いた六人は、ついに立ち止まるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 冴えた夜空のかなたには金や銀の星たちがちらちらと瞬き、囁きあい、冷たくきらめいている。一方、夜に開いた〈空の扉〉からは、青空のかけらの下、まばゆい光があふれ出している。
「砂浜……」
 サンゴーンが微かにつぶやいた。一見すると似たような輝きであっても、時も場所も成り立ちも全く異なるもの――真上から照りつける太陽の子供たちを浴びて炎のように熱く光る、南国の蒼い海に臨む白い砂浜を遠く連想していたのかもしれない。
 タックとケレンスは互いに何やら目配せし合い、シェリアとリンローナの姉妹は軽くうつむいて黙っている。手の届きそうな高さに浮かんでいる〈空の扉〉から降り注ぐ光は明るく、シェリアの出した照明魔法が要らないほどで、互いの表情が良く見えた。
 毅然と立っていたルーグが、六人の旅の終わりを告げた。
「さあ、着いたようだ」
 硬質の声は低く、秋の晩の深い闇の底でくぐもって響いた。

「寒い季節の〈氷の雨〉を見たかったですわ〜」
 亜熱帯から来たサンゴーンが少し残念そうに言い、無邪気に微笑んだ。その時、横顔の半分だけが照らされ、残り半分は深い夜に沈んでいたシェリアとリンローナは、はっと顔をあげた。
「そうだよね、帰れるんだね。おうちに」
 リンローナの顔には別れの愁いが混じっていたが、元気を出して来訪者に向き合い、自分自身を納得させるように言った。
「気をつけてね!」
「そんなの気のつけようがないじゃない。着くときは着くんだし、駄目なときは……」
 シェリアは泣き笑いのような表情になり、早口で喋ったが、その後は不吉と思ったのか口ごもった。斜め上の小さな照明魔法と、その何倍も明るい〈空の扉〉の光に照らされた若い女魔術師は薄紫の前髪をかきあげた。それからサンゴーンを急かす。
「早く行きなさいよ。ほら、少しずつ動いてるじゃない」
 ミザリア国イラッサ町への懸け橋となる〈空の扉〉、あるいは〈南国の窓〉は、遠目には静止しているように見えたのだが、近くで見てみると実際にはごくゆっくりした速さで移動していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 サンゴーンは一歩、二歩と足を進めて〈空の扉〉の下に立った。彼女に相応しい南の島の太陽の光が降り注ぎ、緑みを帯びた銀色の髪がきらきらと輝いている。舞い降りる光の明るさは強いが、熱はないようで、空気は不思議なほどに冷え切っている。その不調和が逆に時空の遠さを示しているかのようだ。
 薄暗い森を歩いている時、急に木々が途切れて現れる透き通った泉のように――六人の目の前に浮かぶ四角い平板状の〈空の扉〉は強い存在感を発し、北の大地と草を照らしている。
「懐かしい……海の匂いがするよ」
 そう言ったリンローナはゆったりと瞳を閉じた。想像を越えた強い不思議な力で南の島の空と入れ替わってしまった〈光の窓〉から吹いてくる風には、かすかに潮の香りが混ざっているようだった。少女は軽く爪先立ちし、鼻でいっぱいに深呼吸する。
 それにつられて、居合わせた他の仲間たちも香りをかいだ。

 それぞれの海――。
「ええ。懐かしいですの」
 サンゴーンは、これから還ってゆくであろう〈熱海(ねっかい)〉と呼ばれるミザリア国の青緑の海を思い出しているのだろう。故郷を離れて、なじみの海の匂いから切り離され、初めて〈懐かしい〉という感覚で潮の香りを楽しんでいたのかもしれない。
 ケレンスとタックの脳裏には、北国メラロールの故郷ミグリ町からほど近い〈西海(さいかい)〉の深い蒼の波がよぎり、ルーグとシェリア、リンローナの三人は、大陸の南西部に突き出たモニモニ町の港を埋める各国の商船を思い出していたはずだ。

「えーと、あの……」
 少しうつむいていたサンゴーンが、ミザリア訛りのある言葉を発して顔を上げると、他の五人の視線が彼女に集まってゆく。
 まばゆい輝きの中心にいる南国の娘は、夜に沈む五人の顔を一人ひとり見回しながら大切に言葉を紡ぎ、今宵の感謝を伝えた。それはすなわち、別れを切り出すことと同義であった。
「本当に、ありがとうですわ。とっても不思議な夜でしたの」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「出会えて良かった。サンゴーンさんと……」
 気丈に話し始めたリンローナだったが、その語尾は震え、みるみるうちに草色の瞳が潤ってゆく。涙の宝石は大きく膨らみ、限界まで伸びた瞬間、木の葉の巣立ちのようにリンローナの目を離れる。降り注ぐ南国の光を受けて一瞬きらめいたかと思うと、次の瞬間には地面に吸い込まれてゆき、こぼれて弾けた。
 そばにいた姉のシェリアが、何も言わずにリンローナの小さな手を取る。深い闇と静けさに満ちた秋の夜更けの空気の中で、人肌の温もりは心を現実に繋ぎとめておく錨(いかり)だった。
「サンゴーンは家に帰るんだから」
 シェリアが穏やかな口調で言うと、リンローナは姉を抱きしめて胸に顔をうずめ、微かに啜り泣くのだった。サンゴーンは落ち着いていたが、うっすらと瞳を濡らして一夜の親友に答える。
「ありがとうですの、リンローナさん」
 ルーグとタックは女性陣を優しい視線で見守っている。

 その時、にわかにケレンスが動き出した。彼は素早くサンゴーンに近づいたかと思うと、やや背の低い相手の顔をじっと覗き込んだ。サンゴーンはシェリアとリンローナの姉妹から目を離してケレンスに視線を移し、素早く瞬きを繰り返しながら尋ねる。
「あ、あの……」
「さっき下敷きになって起き上がったときに思ったんだけどさ」
 ケレンスは単刀直入に切り出した。幼なじみのタックはうろんそうに首をかしげ、シェリアは無論のこと、別れに泣いていたリンローナも顔を上げ、放心したような顔で若い剣術士を見た。
 注目を集めたケレンスは、そこで少しサンゴーンから離れる。微妙に腰を落とし、今度は相手を下から見上げる格好になる。
「あんた、近くで見ると俺の母さんに似てる気がしたんだよな」
「お母さんですの?」
 サンゴーンは驚いて聞き返した。ケレンスは軽くうなずくと、それ以上は何も言わず、腕組みして相手の顔をじっと見つめた。
「もしかしたら遠い親戚だったりするかも知れませんねぇ」
 タックが冗談混じりに言うと、その場の緊張がふっと解(ほぐ)れた。取り出した布で涙を拭いたリンローナも、くすっと笑った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「無事に帰れるよう、祈っていますから」
「世界は一つだ。互いに健康でいれば、会えることも有ろう」
 タックとルーグが言う。北の夜空に展開している硝子の砂のような満天の星たちも、それぞれの輝きを静かに発して南国の少女に別れを告げていた。道の上に浮かぶ〈空の窓〉からは強い光が誘うようにあふれ、サンゴーンの襟元の宝石が輝いた。
「あんたがもし妹だったら……」
 ケレンスは言いかけてから、横に首を振って言った。
「何でもねえ。元気でな」
「ええ。ケレンスさんも」
 サンゴーンが答えた。それからしばらくの間、向かい合った一歳違いの二人の視線は不思議なほど深く交錯するのだった。
「またいつか会いたいね」
 落ち着きと微笑みを取り戻して、リンローナが話しかけた。その澄んだ緑色の瞳は、さっきの涙の名残で少し潤んでいた。
「今度はあたしたちの故郷、モニモニ町で」
「ええ。モニモニ町なら近いですわ〜」
 サンゴーンが返事をする。その間も〈空の扉〉は若干移動し、彼女は南国の光の降り注ぐ場所からずれて影になっていた。
「まさか、こんな所で〈草木の神者〉とお近づきになれるなんて、これっぽっちも考えてなかったわ」
 シェリアの声は温かな白い吐息になって舞い上がり、秋の夜長に溶けてゆく。斜め上に照明魔法を従え、魔術師は続けた。
「あんた面白い子だったわ。また会いましょ」
 そこでシェリアはサンゴーンを指さし、不敵に笑うのだった。
「忘れたら承知しないわよ」
「まあ、約束ってのは、叶えたところで一人前の約束だからな」
 ケレンスが調子良く追い打ちをかける。するとサンゴーンは五人の顔――ルーグ、タック、ケレンス、リンローナ、シェリア――を一通り見回して、とびきりの天真爛漫な笑顔でうなずいた。
「ハイですの!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「では失礼しますわ」
 深々と礼をしたサンゴーンが再び顔を上げる。もう迷いの色はなかった。彼女は自分の足で〈空の扉〉の下まで歩いてゆく。
 皆が固唾を飲んで見守る中、南国の娘が名残惜しそうに少しずつ手を伸ばしていった時、突如としてシェリアが声を発した。
「私の上着!」
 振り返りながら伸ばしたサンゴーンの手が、不思議な南国の窓に触れた次の刹那――その〈空の扉〉は白っぽく、サンゴーンの襟元の宝石〈神者の印〉は呼応するかのように緑の輝きを強めた。遠国の来訪者の姿がまばゆい光につつまれてゆく。
「あらあっ?」
 サンゴーンはシェリアの言葉を理解して素っ頓狂な声をあげ、彼女としては出来る限り速やかにコートのボタンを外し始める。

 辺りは魔法の光の洪水だった。強い魔力を持つ魔術師シェリアと聖術師リンローナの姉妹は腕で両目を覆い、微かに開く。
「来たわね、今宵一番の波動がっ!」
 魔術師のシェリアは腰を折り曲げて叫び、強烈な光が帯びている魔力の渦に必死で耐えている。上着どころではなかった。
「うおっ!」
 ルーグたち男性陣も、昼間よりも明るい光が駆け巡る強烈な現象の前では思うように女性たちを守ることが叶わず、手の甲で目を覆いつつ、手探りでシェリアたちに近づくしかなかった。

「キェーッ!」
「ウォー」
 動物や鳥や虫たちの遠吠えや悲鳴、羽音の合間に、何かがパサリと落ちる音が幻のように響いた。光の中の影となって、サンゴーンが借りていたシェリアの上着が落ちて来たのだ。
「それと、この首に巻いた……」
 近くにいたのでサンゴーンの呟きを辛うじて聞き取ったリンローナは、光と魔力が乱舞する奔流に抗い、声を張り上げた。
「サンゴーンさん、マフラーあげるよ! 記念に持ち帰って!」
「でも、リンローナさ……」
 サンゴーンの返事が途切れがちに聞こえた。光だけでなく、今度は急に風が強まり、少女は立っているのがやっとだったのだ。鋭い風は呻き、落ち葉を持ち上げ、木々や草を揺らした。
「伏せてっ!」
 シェリアが鋭く警告する。北の旅人たちは無意識のうちに頭をかかえ、言われた通り地面に身を伏せて、守る姿勢を取った。
 頭の上で大きな力が蠢き、光と風はついに頂点に達した。
「さよならですの!」
 そう叫んだサンゴーンの声が、耳を通してではなく、頭の中で直接に響いた。魔法の嵐はそれを機に収束してゆくのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 一瞬、辺りに散ったように見えた水は、跳びはねる南の海の波しぶきか、それとも瞳を潤す温かな水晶のきらめきか――。
「行っちゃった……」
 リンローナが呆然とした様子でつぶやいた。サンゴーンによって〈空の絵合わせ〉は完成し、南国の昼の空と入れ替わっていた北国の夜空が戻ってきて、すでに他と区別のつかない状態になっていた。睡眠を乱された鳥の恨めしげな声が聞こえる。
 サンゴーンを運んでいった〈空の窓〉の四角い光が一本の線になり、辺りに闇が戻ってからも、五人は感慨と願いと惜別とが入り混じったような横顔で、しばらく時間が止まったようにじっと立っていた。それからケレンスが何かに気づいて手を伸ばす。
「何だ?」
 ひらひらと降って来た一枚の葉をつかみ、表を眺め、裏返して見た。シェリアの照明魔法の白い光に透かしてみると、薄い葉はそれ自身が淡い緑色の光を湛えているかのように見える。
「これ、たぶん南の国の葉っぱだぜ」
 確かにその葉は、この辺りでは見かけない照葉樹だった。ルデリア大陸を越え、海の向こうの小島に帰ったサンゴーンは、ひとひらの葉を無事な帰宅の証拠のように残して去ったのだ。
「あんたのマフラー、お持ち帰りね」
 シェリアが妹に向かってくすっと笑う。するとリンローナは姉の顔を見上げ、しだいに我に返って瞳を輝かせ、元気に言った。
「大丈夫だよ。サンゴーンさんのおみやげだから」
 しんとした秋の夜長の空気の中、妹の吐息は粉雪のように舞い上がった。それを見ていた姉が遠い空を見てぽつりと言う。
「どうせなら本物の雪を見せてあげたかったわ」
「さすがにこの時期じゃ、まだ雪が降るはずもねえけどさ。それでもまあ、あいつにとっては貴重な北国の経験に違えねえさ」
 ケレンスがゆったりとした口調で語ると、姉妹はうなずいた。
「うん」「そうよね」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「さぁて、僕たちも帰りましょうか。今夜は冷えますし」
 タックが軽い口調で言い、腕組みして身体を震わせる仕草をした。幼なじみのケレンスが横から親密そうに肩をぶつける。
「道、分かるのかよ?」
「ええ、もちろん。そんなに分岐も無かったからね」
 タックが穏やかに、幾分の自信をこめて返事をした。
 ケレンスは辺りを見回した。ルーグの掲げるランプの残りはだいぶ少なくなっていたし、シェリアの燈す照明魔法もどこか色あせていた――サンゴーンを見送ってさすがに気が抜けたのだろう。久しぶりの夜更かしと魔法を維持する疲れがどっと出たのか、一時(いっとき)よりも光の勢いは弱まり、暗いようだった。

「帰り道は長く感じるぜ」
 先頭のケレンスが隣のタックにぼやいている。緩やかな坂を登り、元来た道をたどる途中、リンローナはふと姉に尋ねた。
「でも、どうして〈草木の神者〉さんが、ここに来たんだろうね」
 シェリアは即答せず、少し考えてから慎重な言い回しをした。
「来たのか呼ばれたのか、よく分かんないけど。結局のところ〈神者の印〉の魔力に反応して、空が入れ替わったのかしら」
 やや上を向いた魔術師の眼差しは、坂の頂や道の左右に立ち並ぶ木々の影を越えて、南の空を思い浮かべているようだ。
「もしかしたら、あたしたちに会うためなのかな……」
 リンローナはぽつりと言い、眼差しを高く遠く送った。そして冴え渡る夜空の銀河のかなたに遥かな想いを馳せるのだった。
「まさか、ね!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その時、宝石箱のような空に、一本の銀の矢が放たれた。
「あっ、流れ星!」
 リンローナが指さすと、他の四人も足を休めて天を仰いだ。星の筆で描いた一筋の線は、強い光の残像をまぶたの裏に焼き付け、空を斜めに横切り、深い思い出を残して消えていった。
「遥かに続いてゆくこの空の果てで……」
 指を動かし、タックは〈聖守護神ユニラーダ〉の印を切った。
「サンゴーンさんがどうかお元気でいますように」
「これからは風の便りに、貴女の消息を探すこととしよう」
 ルーグが遠い南国の少女に誓い、ケレンスは腕組みした。
「不思議だよなぁ。またそのうち会える気がするぜ」
「うん。きっと」
 リンローナが同意し、はっきりとした視線で夜空を仰いだ。

「その時まで……」
 少し遅れて、何か言いかけたシェリアだったが――。
「さあ帰るわよっ」
 突然、腕を掲げて歩き出し、前のケレンスの背中を押した。
「うおっ。何だよ、言われなくても帰るぜ、シェリアの姉御!」
 口を尖らせて斜め後ろを睨みつけながら、先頭のケレンスが大股で進み始めると、背中越しに妙な甘い声が聞こえてきた。
「帰ります、の〜」
 ちょっと恥ずかしそうにシェリアが南国娘の真似をしたのだ。うつむいた彼女をよそに、たちまち皆から抑えた笑いが起こる。
「くっく……似てねえじゃん」
「いやぁ、ははっ、なかなかいい線です」
 ケレンスとタックが品評し、静かな夜の奥底が盛り上がる。
 その後ろを歩いていたリンローナは再び夜空の遠くを見上げて、強くゆるぎない願いを微かな秋の夜風に乗せるのだった。
「元気でね、サンゴーンさん!」
 そして五人の足音と影が、森の向こうへ遠ざかっていった。
 北国の晩を涼しい秋風が横切り、獣の遠吠えが高く響いた。

(了)



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