風の素 〜
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秋月 涼 |
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晩秋のシャムル島の空は、熱い灰色の雲に覆われていた。どこから来たのか、黄金色の木の葉がひらひらと舞っていた。 『師匠、雲に穴が開いたようです』 三十歳も年の若い弟子のテッテの声が魔法の風に乗って耳元に届いた。カーダ氏は険しい表情のまま、声を送り返した。 「油断するでない。ここからが本番じゃ」 『分かりました』 カーダ博士は、デリシ町の丘の向こうにある自宅の〈七力研究所〉の窓に顔を寄せていた。もともと曇っている質の悪い古い窓硝子は、博士の吐息と鼻息で余計に見えづらくなっていた。 「風の魔法を出来るだけ細く長く絞り、曇り空に風穴を開ける。ここまでは予定通りじゃ。わしの理論は今回も完璧じゃな!」 低い声で独り言を呟き、博士は悦に浸った。その声は見えない魔法の風に乗って、離れた場所にいるテッテに伝わった。 それを聞いた弟子のテッテは、うっかりして愚痴を呟いた。 『師匠の〈完璧〉は、正直不安ですね』 「馬っ鹿もん! たわけ者が」 地獄耳のカーダ博士が聞き逃すこともなく、魔法通信で怒鳴られたテッテはしばらく耳の奥がきぃんと鳴り響くのだった。 『も、申し訳ありません……』 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「風を起こして雲を放逐すれば青空が現れるのじゃから、今度は逆に青空を崩せば、高品質の〈風の素〉が採れるはずじゃ」 カーダ博士は、繰り返し弟子に説明した理論を改めて披露した。広い野原で実験を行っているテッテは、丁重に応答した。 『了解しております』 「よし、行くぞォ。何はともあれ、ここからが本番。風の魔法をもっともっと細い糸状にして、青空の本体に穴を開けるんじゃ!」 地面近くから空に向かって竜巻の棒のように鋭く旋回する風音に混じって、テッテは師匠の指示を聞いた。青年は足下に置いてある目立つ水色の臼の上に、やはり空色で塗られた重いふたをかぶせていった。その頂には、細い穴が開いている。 『只今、風を絞りました!』 棒のように伸びていた風は、今や針のように鋭くなり、空をえぐろうとした。風を生み出している水色の臼はガタガタと揺れ始めたので、テッテは慌てて腰を落とし、両手で押さえつけた。 「そのまま、しばらく耐えるんじゃ!」 テッテ氏は自宅の〈七力研究所〉の窓からもはっきり見える風の筋を見つめ、弟子を激励した。このまま我慢していれば、空から真っ青に染まる〈風の素〉が採取できる――はずだった。 『ひゃあ! 風が、急に強くなりました!』 テッテの悲鳴が聞こえる。カーダ博士は眉間に皺を寄せた。 「もしや、こぼれた〈風の素〉が、風の針を増幅させたか?」 火に油を注ぐかのように、地上に設置した魔法の臼から伸びた細い灰色の竜巻は、勢いと不安定さを急激に増していった。 『駄目です! 撤収します!』 テッテの悲痛な叫びは風にかき消されそうだった。カーダ氏はここで負けてなるものかと、懸命に魔法通信を送り返した。 「馬鹿もん、お前はいつもそうではないか! 耐えるんじゃ!」 しかしテッテの返答はなかった。空に突き刺した風の爪は、翼を広げるように膨張したあと、弱まりながら消えていった。 『はぁ……すみません、風の臼のふたが飛ばされました』 しばらくして聞こえてきた若い弟子の荒い息づかいと報告を、カーダ氏は苦虫を噛み潰したような顔で受け取ったのだった。 「畜生め。わしの理論は完璧じゃったのに……」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 翌日、デリシの町の石畳の上に、宝石くらいの小さな青い珠が落ちているのがいくつも見つかった。好奇心旺盛で怖いもの知らずな、学院に通っている男子生徒の一人が拾い上げた。 「何だ、これ?」 ひんやりと冷たい感触のある珠をつまみ、指先に力を込めると、その透明な青い石は風を発しながら小さくなって消えた。 「それ、あたしにちょうだい!」 「うちにも!」 それはたちまち商店街の婦人たちの評判を呼び、しまいには高値でやりとりされたという。彼女たちは町に敷き詰められた石畳の道に立って、青く澄んだ〈風の素〉を胸元に構えた――。 「飛んでけ〜!」 指先でつまむと石から爽やかな風が生まれた。それは通りに散らばった街路樹の落ち葉をもう一度宙に浮かべ、飛ばした。婦人たちは器用に使いこなして、落ち葉を片づけたのだった。 | ||
(了) | ||
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