中毒

 

秋月 涼 


「今度、煙草(たばこ)が廃止されるんだってな」
「ええ。政府もずいぶん思い切ったことをやりますね」
「煙草は確実に公共の場所から排除されつつある。だが、一挙に販売停止を法制化するとは……」
「まだまだ喫煙層は根強いですよね」
「そうだ。政治家は、おれたち全員を敵に回したんだ」
「課長も、これをきっかけに煙草をやめたらどうですか?」
「馬鹿いえ! やめられるんなら、とっくにやめてるさ」
「そうでしょうねえ……」
「とにかく、煙草を軽視するのは全くけしからん風潮だ。許せない」
 おれはイライラし、煙草を一本出して軽くふかした。心が落ち着く。
「だいたい、なんでこんなに狭苦しい喫煙区域で吸わなきゃいけないんだ。ホームのどこで吸おうが煙は飛んで行く。まるっきり無意味じゃないか。これは明らかに人権侵害だ。差別だ」
「まあまあ……」
 会社の部下はおれをなだめた。煙草ほど心を落ち着かせてくれるものはないのに、奴は決して吸おうとしない。人生で大きな損をしているのだが、それに気付いていない。ある意味で可哀想だが、そういう奴らがしきりに〈禁煙〉と叫んでいる。馬鹿の一つ覚えか。
 とにかく、本当に腹立たしい。おれは二本目をくわえたが、電車の到着を告げるアナウンスが入ったのであきらめる。
 
 会社に着いた。いつも通り仕事を始めるが、どうもはかどらない。おれは課長の権限で「ちょっとトイレ」と偽っては煙草を吸いにいく。
 その帰り道、部長に出くわした。おれは会釈する。
「おはようございます」
「君、ちょっと話がある」
「なんでしょう」
「噂によると、君、煙草を吸うそうじゃないか」
「ハイ」
「あんなものは肺ガンになるだけだ。やめたまえ」
「しかし……」
「国会で例の法律が通過すれば、いずれこの会社も全面的に禁煙となる。いや、会社ばかりか、この国から煙草が消えるのだ。こんな素晴らしいことはない」
「はあ」
「君も早めにやめることだな。世間の波に乗り遅れてしまうぞ、ワッハハハ……」
 
「気にさわる部長だ。自分が煙草を吸わないからって、あんな言い方はないだろう!」
「まあまあ……」
 行きつけの居酒屋で愚痴をこぼす。聞き役はおれの部下。徳利を傾け、熱燗を飲み干すと酔いが頭を支配し始める。
「だが、この世には酒よりもっとうまいものがある」
 いつものように内ポケットから煙草とライターを出す。すると、愛想を振りまいていた店員の目が光った。
「お客様、申し訳ありませんが当店は禁煙でございます」
「嘘をつけ。今すぐ灰皿を持ってこい!」
「本当に禁煙なのです。あそこの貼り紙をご覧下さいませ」
 よく見ると、大きな赤い字で〈禁煙〉と書かれた紙が貼ってあった。
「一昨日までは……」
「はい。ですが、国会が禁煙法を採択し、施行も時間の問題です。当店ではそれを先取りし、昨日より禁煙といたしました。ご了承願います」
「ふざけるな、こんなもの!」
 おれは〈禁煙〉の貼り紙をびりびりに引き裂いた。
 
「うぃー、おめえら、おぼえてろ!」
「はいはい」
 足元がふらつく。
「課長、飲み過ぎですよ」
「うるせえ! これが飲まずにいられるか!」
 おれは無我夢中で内ポケットをまさぐり、煙草に火をつけた。
「……ふーうぅ」
 やはり心が落ち着く。おれは吸い殻を投げ捨て、足で踏みつけた。
「ざまあみろ。へっ」
「ちょっと。困りますよ」
 後ろから若者の声がした。
「オイ何者だ?」
「こういう者です」
 目の前に手帳を突き出された。警官だった。
「ずいぶん酔っておいでですね。ところで、ここがポイ捨て禁止区域というのをご存じですか」
「禁止区域……? またか! いい加減にしろ!」
「いい加減にしてほしいのはこちらです。申し訳ありませんが条例で定められていますので罰金を徴収させていただきます」
「何だと……」
 おれはがっくりとうなだれた。
 
「六千円も徴収されるとは……一気に酔いが醒めた。最悪な一日だった」
「課長、そう気を落とさずに。いいこともありますよ、煙草をやめれば。それではまた明日」
 部下は電車を降りた。〈煙草をやめれば〉というのがしゃくに障るが、いまさら反発する気力も起きない。
 疲れ果て、郊外の家に辿り着く。
「オーイ、帰ったぞ」
 返事がない。
「おかしいな……」
 どの部屋にも電気がついていない。おれは首をかしげた。
「まだ十時だというのに、寝てしまったのか。亭主の帰りも待たずに」
 仕方なく鞄から鍵を取り出す。
「ん?」
 ドアに貼り紙がしてある。
  〈国会が法案を決定したのはご存じでしょう。これからは喫煙家のあなたといると白い目で見られます。そうなる前に、私は子供を連れて家を出ます。さようなら。  秋子〉
 
 おれは冷え切ったこたつに潜り込んだ。
「……」
 もう言葉も出ない。横になり、朝刊を広げる。禁煙法の文字。おれはその新聞を壁に投げつけた。
 こたつの上に手を伸ばす。カラン、と軽い音がした。使い馴れた触感。安物の灰皿だ。
 おれは無意識のうちに煙草を取り出し、火をつける。軽くふかし、独りほくそ笑む。一本目が終われば二本目、そして三本目と……。
 
「聞いてよ。本当に死ぬかと思ったわ。窓を開けると、隣の家が燃えていたんですもの。夢中で一一九番したわ。あと数分遅かったら……」
「ぞっとするわね。奥さん、不幸中の幸いよ。命拾いしたわね」
「原因は寝煙草ですって」
「火事の恐ろしさがよくわかるわね。あの残骸を見ると……」
「家族は別居中で無事だったみたいよ」
「そういえば煙草で思い出したけど……奥さんご存じ?」
「禁煙法のこと?」
「ええ。あの法案、施行目前にして廃案ですって」
「本当なの?」
「本当よ。政府は『膨大なたばこ税がなくなって、税収が不安になる』のを理由にしてるけど、裏で取引があったんですって」
「どんな?」
「与党への莫大な企業献金が噂されている、アール証券の会長よ。その人、ヘビースモーカーなのよ」
「圧力をかけたわけね」
「煙草もシンナーもかわいいものよ。政治家の金銭中毒に比べれば」

(了)



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