鳥になった日 |
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秋月 涼 |
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遠くの空を、燕(つばめ)のつがいが横切った。僕は、虚(うつ)ろな目でそれを眺めていた。追い風はひんやりとして、幾分(いくぶん)強かった。 そう……人類始まって以来、鳥のように空を飛ぶことは、誰もが胸に抱(いだ)いた、万人に共通の夢だった。自由な風に身をゆだね、好きな方角に飛んでゆく。 なんて素敵なことだろう。なんて素晴らしいだろう! 鳥のような、翼が欲しい……この、ひたむきな思いこそが、ライト兄弟に飛行機を作らせたのだ。 そんなことを考えているうちに、またもや風が、僕の周りを通り過ぎていった。地上で感じる普段の風とは、どこか違う。かすかな〈天国の匂い〉が混じっている、とでも言おうか。風は、僕の背中を押し、僕を誘うように吹いた。 今、僕が立っている場所は、ビルの五階に相当する高さだ。見上げると、必要以上に真っ青な空が、雲一つなく広がっていた。見下ろすと、茶色の地面が待っていた。僕は、空と地面とに挟まれて、今にも食べられてしまうのではないか、と危惧(きぐ)した。だが、そんな心配は杞憂(きゆう)に終わりそうだ。 そうなる前に、僕は飛び降りてしまうのだから。 山の上、海の見える断崖絶壁(だんがいぜっぺき)、高層ビルの最上階……。僕はかつて、見晴らしのいい場所に来た時、心の底から思った……もし、全てを解放して飛び降りることが出来たら、どんなに気持ちがいいだろう、と。一歩踏み出せば、僕の身体は風に溶けて、地上から消え失せてしまう。 そして、空の住人となった僕は、透明な鳥となって、世界中を永遠に旅するのだ……。 そういう僕の空想を、いつも、こてんぱんにやっつけたのは、理性と呼ばれる、ある種のつまらない感情だった。 でも、今は違う。理性はもういらない。僕は本当に鳥になるのだ。実行の時が、ついにやって来た。 あと一歩。あと一歩踏み出してしまえば、僕は彼らの仲間に加わることが出来る。とても幸せになれる! ……ところが、いざ飛び降りようとすると、その〈一歩〉がやっかいだった。地面から高い所を見上げるのと、高い所から地面を見下ろすのでは、たとえその距離が同じでも、感覚はまるっきり違う。空を飛ぶというよりも、地面に吸い込まれてしまいそうで、膝(ひざ)が小刻みに震えた。 確かに僕は、心から覚悟を決めた……はずだった。でも、飛び降りようとする度に、色々なことが思い浮かび、僕は躊躇(ちゅうちょ)してしまうのだ。 頭を打ちつけたら、やっぱり死ぬのかな。死ぬって、どういうことだろう? 今までの僕の人生って、いったい何だったんだろう? その時だった。 誰かが、遠くの方で、僕を意気地なしと罵倒した。僕は気のせいだと信じたかった。が、その言葉は幾重(いくえ)にも合わさって、僕の頭の中でこだました。意気地なし、意気地なし……僕の頭はパニック寸前だった。 「僕は、意気地なしじゃないやい!」 つい、大声を張り上げてしまった。そして、そう言ったあとで、どうしようもない虚しさが、僕の心を覆(おお)った。次に後悔の念が襲ってきた。……ああ。やっぱりあの時、やめておけばよかった。僕には飛び降りる勇気なんて、さらさらなかったんだ。 でも、彼らの仲間外れになるのは本当に嫌だった。笑い者にされるのは、もうたくさんだった。とにかく、ここで飛び降りさえすれば、僕は、臆病者という偏見から、永久に解放されるのだ。その先には、新しく幸せな世界が待ち受けているに違いない。僕はそれを信じて、意気込んだのだった。 しかし。いざ、実際に高いところから地面を見下ろすと、さっきの意気込みは人生における大きな判断ミスだったと言わざるを得ない。個性尊重……他人は他人、自分は自分でよかったのだ。僕はそれに気がつかなかった。僕は馬鹿だった! 遙か下には、野次馬(やじうま)たちが集まって、僕のことを見つめていた。一挙一動、全ての仕草が注目を浴びる。僕はそんな視線を感じて、やりきれない気持ちになった。奴らの視線が、僕を臆病者だとあざ笑う。 「僕は……僕は本当に飛び降りるんだぞ? これは冗談じゃないんだ。本当なんだ!」 僕は、さっきよりも大きな声で叫んだ。その声が、少し上擦っていたのが、自分でもわかった。怒りと恐怖が入り混じり、僕の身体は石のように硬くなっていた。渇いた喉が気になって、ごくりと唾(つば)を飲み込む。またもや強い風が吹き、僕の髪を揺らした。 この時、僕の頭はかなり混乱していた。無性に、神様にすがりたくなったのだ。……ああ。誰でもいいから、どうか、僕をここから救ってください! お願いします。僕はやっぱり死にたくない! ところが。僕の心からの叫びを聞いても、神様はおろか、野次馬のうちの誰一人として、僕を止めようする者はいなかった。彼らは何も言わず、ただ、相変わらずの冷たい視線で、僕をあざ笑うだけだった。ああ、なんてひどいんだろう! ……人間とは、しょせん薄情な生き物だ。僕は今日、痛いほどそれがわかった。 僕の立場は、時間が経つにつれて悪くなっていった。しだいに追い込まれる。僕はまるで、猫に追われる鼠(ねずみ)だった。もはや、飛び降りる以外に、逃げ道はなくなっていた。 さよなら、お母さん、お父さん、お姉ちゃん。あ、ついでにマキコおばさんも。あの人には、遊びに行く度にお小遣いを貰ったなあ。でも、今となっては遠い国の出来事。懐かしい。おじいちゃん、僕はおじいちゃんのいる場所に、旅立ちます! 僕は半歩、踏み出した。野次馬が大きくどよめく。そして歓声が沸き上がった。……畜生(ちくしょう)、覚えてろ。今に飛び降りて、お前たちを見返してやる! 僕は意気地なしなんかじゃない! 決心が固まった。 「……みんな、さようなら!」 僕は、大きく飛び出した! 太陽の光を浴び、大空にきらめく。 僕は一瞬、鳥になった。 でも、僕には翼がなかった。 羽ばたくことが出来なかった。 あとは、ひたすら落ちていった。 強い重力が、僕を引きずり下ろす。 すぐに、地面が近づいた。 目の前が真っ暗になる……。 それからまもなく逆の力が働いて、僕の身体は再び舞い上がった。 ……助かった! 何度か反動を繰り返し、僕は少しずつ降りていった。初めての〈バンジージャンプ〉は、こうして終わったのだ。 僕は意気地なしの汚名を返上した。僕は、僕自身に勝ったのだ! 晴れ晴れとした気持ちで、待っていたみんなのもとに戻ると、ある友人が言った。 「お前、相変わらず、意気地なしだな」 「え?」 僕は絶句した。どうして? 僕は、ちゃんと飛んだじゃないか。それでも意気地なしか? どういうことなんだ。説明してくれ! 「だって、あと一歩が踏み出せないで、二十分間も上で粘ったの、お前だけじゃん。みんな、すぐに飛んだのに」 その横で、女の子が口元を押さえる。 「ふふっ。順番待ちの、長い列が出来てたよ」 大きな笑い声が起きた。 僕は、今度こそ目の前が真っ暗になり、本当に飛び降り自殺してやろうかと、真剣に考えた……。 見上げた空は、恨めしいほど青かった。 | ||
(了) | ||
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