森へ

 

秋月 涼 


 郵便受けを開けた。くだらないダイレクトメールに混じって、差出人の書かれていない封書が混じっていた。中には、緑色の小さな厚紙が一枚だけ入っていた。都会から森ゆき、と太く印字されており、その下に、今日の日付と〈当日のみ有効・途中下山前途無効〉という注意書きが添えられていた。どうやら、森へ入るための切符らしかった。
 僕はそれをシャツの胸ポケットにしまった。時々、取り出して、その匂いを確かめた。不思議な、森の匂いだった。僕は、その匂いを頼りに町を歩いた。横断歩道を渡り、坂を上り、下り、細い道で自転車とすれ違った。ずいぶん急な階段もあった。
 やがて、町はずれの森にたどり着く。赤や黄色、所により緑。森は、衣替えの真っ最中だった。秋の末、空は果てしなく高く青い。白い雲はあてもなく流れている。太陽の光は柔らかい。全てが、優しさで満たされている。……僕が、一年で一番好きな季節だった。
 僕は切符を取り出した。すると、指先を通り過ぎた秋の風が、素早くそれをさらっていった。僕は飛んでいく切符を追いかけて、森の中に入った。切符は、風の波に揺られて、森の海を流れていった。ふわあり、ふわりと。そして、僕はそれを見失わないように、細心の注意を払った。しかし、全力で走る必要はなかった。僕は、切符の行方(ゆくえ)にさえ気をつければ、色々なことを考えながら、ゆっくり歩くことを許されていた。僕が歩けば、切符もゆっくりと進んだ。きまぐれに、僕が小走りすると、風も小走りした。こうして、鬼ごっこが続いた。いつでも、僕が鬼だった。
 森の中では、太陽が細かく砕(くだ)かれ、無数の宝石になっていた。宝石は、森の上にちりばめられ、見たことのない星座を形作った。木洩れ日(こもれび)という名の、その宝石を集めて、僕は歩いた。汗は出なかった。息も苦しくなかった。苦しいことは何もなかった。とても心地のよい散歩だった。
 空気はひんやりとしていた。辺りには、さっきの切符と同じ、森の匂いが漂っていた。それは、独特の生命力で満ちていた。細い道が続く。所々に、せっかちな落ち葉が転がっていた。落ち葉は、赤や黄色、茶色、それらの間の色、それらが混じった色……に変化していた。たまに、黄緑の葉を見つけた。完全な緑色の葉は、ほとんど落ちていなかった。
 道端には、別の緑があった。シダ植物やコケ類が、静かにたたずんでいた。それらは、理科の教科書に載っていた写真の数倍、美しかった。シダ植物の隣には、名も知らぬキノコが生えていた。……とにかく、生命のない場所は存在しなかった。森のどこを見ても、生命があった。生命力があふれ、あちこちにこぼれていた。
 ふいに、目の前を赤とんぼが横切った。しばらくの間、それに目を奪われて、あやうく切符を見失いそうになった。僕は駆け足で切符を追った。追いかけた、追い続けた。機関車は風だった。運転手は切符だった。僕は、ただ一人の乗客だった。
 急勾配(こうばい)を登りきると、やや視界が開けた。木々が途切れ、広場のようになっていた。闇に浮かぶ満月のように、そこだけがすっぽりと、丸く抜け落ちていた。風はそこで途絶えた。そこが終着駅だった。切符はひらひらと舞い降りる。そして、白い手の平に吸い込まれていった。色白の女の子が差し出した、か細い腕だった。
 広場には、数人の女の子がいた。みんな、それぞれに割り当てられた切り株に腰掛けていた。彼女たちにぴったりの、ちょうどよい椅子(いす)だった。一人の女の子が僕の存在に気づき、僕の方を振り向いた。やけに瞳が大きかった。彼女はかすかに微笑(ほほえ)んだ。僕は、ゆっくりと会釈(えしゃく)をし、それから、彼女の笑顔を真似(まね)ようとしたが、どうも上手くいかなかった。
 数えると、女の子は全部で八人いた。全員が、同じ大きさのベレー帽を被(かぶ)っていた。違うのは色だった。だいたいが赤や黄色をしていた。その中で、一番背の高い女の子だけが、一人、緑のベレーを被っていた。服は、ゆったりとした茶色のワンピースで、それぞれ、微妙に濃さが違った。女の子は、みんな痩(や)せていて、その顔立ちは美しかった。
「森へようこそ」
 僕の切符を手にした、一人の女の子がささやいた。小さいが、よく響く澄んだ声だった。だから、僕はちゃんと聞き取ることが出来た。静かな森では、大声は必要なかった。僕は女の子たちの顔を代わる代わる眺めてから、ようやく返事をした。……切符をくれたのは、あなたたちですか。
「ええ、そうよ」
 別の女の子が言った。やはり、よく通る声だった。余韻が風になって、どこかへ飛んでいった。女の子たちは切り株に座る位置を変えて、みんな僕を見つめていた。視線は優しかったが、瞳の奥深くに、言いようのない淋しさが沈んでいるように思えた。
「私たちは、樹霊です」
 背が高く、緑色のベレー帽を被っている女の子が、そう言った。ジュレイ? 何だろう。僕はとまどった。僕の身体から、灰色に塗られた、とまどいの風が飛び出した。すると、別の女の子がそれを受けとめ、説明してくれた。
「樹に宿っている精霊です」
「私は杉の精です。私は春になると嫌われます。だから、私は春が嫌いです」
 さっきの、緑ベレーの子が静かに言い、そして目を伏せた。そういえば、彼女の姿をずっと見ていうちに、杉のそれとだぶった。他の女の子は落葉樹のようだった。ベレー帽は、自らの葉っぱの色に染まっていた。それぞれの色は違ったが、それぞれに美しかった。
 なぜ、僕を呼びだしたのですか、と、訊ねてみた。すると、
「あなたに、気づいて欲しいから」
 僕の切符を握りしめている、赤いベレーの女の子が、こう答えた。どういうことですか、と、素直に訊いてみた。彼女の答えはこうだった。
「私たちは、いつでも、あなたのそばにいます」
 僕はそれきり黙ってしまった。心が、とてつもなく重かった。そうだ。僕のそばには、いつでも、彼女たちがいた。僕はそれに気がつかなかった。例えば、一冊の本として。例えば、よく磨かれた机として。例えば、洋服ダンスとして。段ボールだって、コピー用紙だって、椅子だって、家の柱だって。……彼女たちは、僕の、ものすごく近くにいた。息をひそめて、じっとしていた。いつでも、静かに待っていた。
 そして、僕はそれに気がつかなかった。
「私たちを、大切にして下さい」
 一人の女の子が、細い身体で立ち上がった。触れると折れてしまいそうな、本当に細い身体(からだ)つきだった。彼女は僕の両眼を見つめた。僕の両眼は、それによって窪(くぼ)んでしまうのではないか、とさえ感じた。それほど強い視線だった。
「私たちを、大切にして下さい」
 別の子が立ち上がった。僕は足がすくみ、口が渇き、身動き一つ出来なかった。でも僕は、彼女たちの視線を真摯(しんし)に受けとめたいと思った。だから、絶対に目を逸(そ)らさなかった。目を逸らした瞬間に全てが終わる。彼女たちを裏切ることになる。
 僕は彼女たちと向き合ったまま、まるで時間が止まったかのように、静止していた。僕は何も出来なかった。辛(つら)かった。そして、ひたすらに悲しかった。
 樹霊たちは、次々と立ち上がる。
「私たちを、大切にして下さい」
「大切にして下さい」
 彼女たちは、怒ってはいなかった。本当に優しかった。だが、そこには深い悲しみがひそんでいた。樹霊たちは、もはや何も言わなかった。強い視線が、全てを語っていた。僕は絶対に目を逸らさなかった。逸らしたら楽になれるのは分かっていた。しかし、それは僕自身の死をも意味する。逸らすことは出来なかった。逸らしたら終わりだった。
 長い時間が経った。空は、いつの間にか赤く染まっていた。秋の夕暮れが、この森にも、静かに舞い降りた。樹霊たちは、視線の鋭さを緩(ゆる)めて、穏やかに笑った。とても安心しているように見えた。それで、僕もなんだか心が安らいだ。救われた気がした。
 そうして、樹霊たちは音もなく消えていった。まず白くなり、次にだんだん透明になった。最後には風に溶けて見えなくなった。八つの切り株と、一枚の切符だけが残された。僕の金縛りは解けたが、身体は重かった。そして、僕の心は、身体以上に、重く沈んでいた。
 秋の夕風は、そんな僕とは裏腹に、軽い音を立てて流れた。風……帰りの機関車が待っていた。僕は切符を手にした。緑色の切符には、痛々しく鋏(はさみ)が入れられていた。僕は、静かに目をつぶる。僕の心の奥底に、澄んだ声が呼びかけた……。
 
《時々でいいから、私たちのことを思い出して下さい。お願いします》
 
 目を開けると、僕は森の入口に立っていた。太陽が沈む瞬間だった。振り向くと、夕陽の名残(なごり)を浴びて、森が赤く染まっていた。森の木々が、一度に紅葉したかのようだった。
 そう。彼女たちは、いつでも、僕のそばにいる……。僕は切符を胸ポケットにしまい、切符の厚さをかみしめて、帰途についた。切符には、まだ、森の匂いが残っていた。

(了)



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