由紀絵と冬空

 

秋月 涼 


 この冬いちばん冷えこんだ、ある日の午後です。教室のすみっこにあるストーブはせっせと暖かさをふりまいていますが、廊下側にすわっている由紀絵はすきま風にこごえていました。窓ガラスにはたくさんの水滴が浮かんでいます。
 五時間目は理科です。由紀絵は理科委員として週に一度、朝早く学校に来て天気や気温、湿度を記録しているうちに、空のことをくわしく知りたいと思うようになりました。そして今日が、待ちに待った天気に関する授業でした。
 それほど楽しみにしていた授業なのに、由紀絵はなぜかうわの空です。低くたれこんだ灰色の雲をながめ、心配そうな顔のまま、弱々しくため息をつきます。
(おうちに帰るの、いやだなあ)
 教科書には天気のマークが一覧表になってならんでいます。白い丸は快晴です。二重丸はくもりです。黒い丸は雨をあらわします。雪のマークは、スポンジケーキを六人で分けるときと同じです――白丸の中に等間隔で三本の線を引きます。
 おもしろいのは〈みぞれ〉のマークです。雪のマークの上半分と、雨のマークの下半分を合わせたのが〈みぞれ〉のマークなのです。
「雲の温度によって、雨か雪かが決まります。0度以上だと雨が降ります。0度以下だと、雪です」
 先生は、天気についてのこまかい説明をしてくれました。けれど、由紀絵の気持ちはいっこうに晴れません。
 授業をぼんやり聞きながら、
(お姉ちゃんに会いたくないなあ)
 と、考えこんでいました。
 
 放課後、するどい北風がピョウピョウふきあれる町を、由紀絵は早足で歩きました。わざと遠まわりし、なじみの公園へ向かいます。本当はさっさと家に帰って体を暖めたいのですが……けさ、お姉ちゃんとけんかしたことが心に引っかかっているのです。
「ぜったい、お姉ちゃんが悪いんだ!」
 由紀絵はつい大声で文句を言いました。その語尾は、北風が口ずさむ冬の歌にとけて、すぐに消えうせるのでした。
 ちかごろ天気のいい日が続いていたので、公園の枯れ草たちはかわいています。さみしい広場をぐるりと見わたしてから、由紀絵は冷えきったベンチにこしかけました。ふだんは子どもたちでにぎわうのですが、さすがに今日はだれもいません。
 冬という季節がもたらした灰色の空気の奥底に、家も公園も、そして由紀絵の心も重くしずんでいました。とおりすぎゆく北風だけが、やけに元気です。
 あまりの寒さのために耳が痛くなりました。ピンクの手袋をはめた両手で顔全体をおおいかくすと、吐きだした息が広がって、鼻やほっぺたが暖まります。由紀絵はそのまま静かに瞳をとじました。
 
「……ったな……ってる……」
 しばらく動かずにいた由紀絵は、どこからか変な声が流れてくるのを聞きました。さわがしい風の音に混じって、きれいな声が、たしかにひびいてくるのです。
 それはしだいに、はっきりしてきます。
「困ったな」
「困ったね」
「お空の王様、困ってる」
 思わず目をあけた由紀絵は、さらにおどろきました。青い霧、赤い霧、緑の霧……三色の霧が高らかに歌いながら由紀絵のまわりを舞っているのです。
「あなたたちは?」
 由紀絵がけげんそうにたずねると、
「ぼくは風」
「わたしも北風」
「お空の王様、困ってる」
 三色の風が答えました。由紀絵は急にどきどきしてきました。なんだか楽しいことが始まりそうな予感がします。
 由紀絵はかろやかに立ち上がり、きちんとあいさつしました。
「こんにちは。あたし、天野由紀絵」
 由紀絵のすわっているベンチをかこんで、風たちはあいかわらず、すばやいステップをふみながら歌っています。
「困ったな」
「困ったね」
「お空の王様、困ってる」
 歌の意味はわかりません。由紀絵は緑色の風を目で追いながら、おだやかに質問しました。
「お空の王様って、だあれ?」
 すると風たちが返事をします。
「助けておくれ」
「来てちょうだい」
「お空の王様、困ってる」
 冬の空気はやっぱり冷たいのですが、三色の北風につつまれていると、そんなに寒さを感じません。風が、寒さのもとをふき飛ばしてくれるようです。
 由紀絵の瞳が期待でぱっと輝きました。
「つれてって!」
 よろこんでさけんだ、そのときです。三色の風はとつぜん、ものすごい速さでまわりだしました。最後はひとつに合わさって、いつもの透明な風になりました。
 ふしぎな声が聞こえます。
「目をつぶっててね」
「うん」
 由紀絵は言われたとおり、すなおに瞳をとじました。緊張のあまり、ごっくんとつばを飲みこみます。
「じゃあ、行くよ」
 風は由紀絵の体をやさしくだきかかえました。こうして空へ向かうエレベーターが出発したのです。
 途中、由紀絵は一度だけうっすらと目をあけてみました。住みなれた町は、はるか下です。どれが自分の家か見わけがつかない高さ――由紀絵はこわくなって、まぶたをぎゅっととじました。
 
 どれくらい時間がたったでしょう。
「着いたよ」
 という風のささやきが聞こえたので、由紀絵はおそるおそる瞳をひらき、そして目を見はりました。
「あっ……」
 雲の大地が永遠に広がっています。雲の上にいるのですから、とうぜん雲ひとつない快晴です。由紀絵は、天気図の白丸のマークを思い浮かべました。
 すぐそばには雪色の王宮が建ち、まぶしく光っています。それは、いつかテレビで見たギリシャの神殿に似ていました。
「北風さん、どこ行ったの?」
 いつの間にやら、透明な風はいなくなったようです。由紀絵は深呼吸してから決心し、天の王宮に足をふみ入れました。
「ぼくらが行くんだよ!」
「おれたちが行くんだ!」
 ふいに男の子のどなり声が聞こえたので、由紀絵は歩くのをやめました。雲で作られた、やわらかな白い柱の影にかくれて、中の様子をうかがいます。
 広間のいちばん奥には、王冠をかぶった天の王様と、おきさき様がいます。その手前で、二人の王子様がにらみあっていました。
 王様は立ち上がって、雲の柱にうめこまれている大きな温度計を見ました。それから残念そうに首をふります。
「やっぱり0度じゃ。困ったのう」
 二人の王子様の後ろには、それぞれ、ちびの兵隊さんたちが整列しています。兵隊さんの背たけは由紀絵のこぶしくらいなので、こわくはありません。むしろ、とてもかわいらしいのです。
「父上! おれたち雨の兵隊が、責任もって、水分を地上へ届けるぜ」
 向かって左側にいる王子様が、天の王様につめよりました。その王子様がひきいる兵隊さんの服は、みんな青です。
「待って! 冬はぼくらの季節だよ。ぼくら雪の兵隊が行くんだい!」
 右側にいる王子様が怒って言いました。その後ろにならんでいる兵隊さんたちは、みんな真っ白の服を着ています。
 兵隊さんの列は、ずっと続いています。どちらの列も負けずおとらず長いのです。果ては見えません。
 一方、王様は頭をかかえ、かわいそうなほどおろおろしています。
「0度以上なら雨が行けばよいし、0度以下なら雪が行けばいい。だけど今は、0度ぴったりなのじゃ。困ったのう」
 王子様はまた、口げんかを始めました。
「雨の兄さんはわがまますぎる!」
「雪の弟にはまかせておけない!」
 おきさき様はやつれています。
「子どもたちはいつも仲がよかったのに、つまらないことでけんかしてしまって……どうすればよいのでしょう?」
 しだいに由紀絵は、天の王家が気の毒になってきました。柱からちょっとだけ顔を出して、自分の意見を言います。
「ねえ、雪がいいな。雪にしようよ!」
 すると、王様やおきさき様、二人の王子様、そして無数の兵隊さんの視線が、由紀絵のすがたをとらえました。由紀絵ははずかしくなって、うつむきました。
 すると元気のいい声がひびきます。
「だれだか知らないけど、ぼくらの応援、どうもありがとう!」
 雪の王子様です。雪の兵隊さんたちも、うれしそうに拍手しています。
 由紀絵は照れ笑いしながら、
「あたしの名前は天野由紀絵です」
 と自己紹介しました。
 おもしろくないのは雨の兵隊さんです。みんなを代表して、雨の王子様が声をあららげました。
「由紀絵は、えこひいきしてる!」
「そうだ、そうだ!」
 雨の兵隊さんたちは顔を真っ赤にして怒っています。すぐにでも由紀絵に飛びかかりそうな勢いです。
「これはこれは由紀絵どの。遠いところを、よくぞいらっしゃいました」
 天の王様があいさつをしながら王子様の間に割って入り、深々と礼をしました。つられて、由紀絵もかるく頭を下げます。
 王様は落ち着いた口調で語りました。
「気温が0度ぴったりなので、雨を降らせるべきか雪を降らせるべきか、なやんでおります。公平に解決する、いい方法はありませんでしょうか?」
「うーん……」
 由紀絵はいっしょうけんめい考えました。大さわぎしていた王子様も兵隊さんも、今はだまっています。
 あまりの静けさで耳鳴りがしそうなころ、由紀絵はようやくポンと手を打ちました。
「ねえ、じゃんけんで決めたら?」
「ダメだよ」
 と、雪の王子様が言いました。
「百回やっても、あいこだった」
 と、雨の王子様が言いました。
「そうなの? 困ったね」
 ふたたび思いをめぐらしていた由紀絵は、新しい答えにたどりつきます。
「じゃあ、気温が変わるのを待とうよ」
「ダメだ」
 と、雨の王子様が言いました。
「早く水分を届けないと、草や木がひからびちゃうよ」
 と、雪の王子様が言いました。
「ふうん」
 由紀絵はうでを組み、真剣に考えます。
(どうしたら、この事件を解決できるんだろう。王子様たちを仲直りさせられる、うまい方法はないかなぁ?)
 まじめに考えるうち、由紀絵はしだいにつかれてきました。
「みんないっしょに行っちゃえば?」
 ぶっきらぼうに言いはなちますと、
「ダメだよ」
 雪の王子様が言いました。
「天気予報の人が、困るだろ?」
 雨の王子様が言いました。
「〈雨雪〉という天気はないのじゃ」
 と、しまいには天の王様までもが反対したので、由紀絵はなんだか悲しくなってきました。二人の王子様はあいかわらず、にらみあいを続けています。
 理科の教科書に書いてあった天気のマークが、次から次へと頭の中をよぎり、せっかちに消えてゆきました。ひたいがずきずき痛んで、めまいがします。
 きれいな黒い瞳に涙をいっぱいためて、由紀絵は心のそこからさけびました。
「どうして兄弟なのに仲良くできないのっ? 雨と雪が手をつないで〈みぞれ〉になればいいでしょ!」
 由紀絵がついに泣き出したので、あたりの空気はいちだんと重くなりました。みんな、しぃんと静まり返っています。
「すばらしい!」
 やがて王様がうなずきました。
「ええ、本当にりっぱな意見です」
 おきさき様は由紀絵をなぐさめます。二人の暖かい言葉にはげまされて、由紀絵は少しずつ泣きやみました。
 王子様たちは由紀絵が泣いたのを見て、ずいぶん反省したようです。天の王様はチャンスとばかり、大声をはりあげました。
「よしっ、みなの者に命ずる。雨の兵と雪の兵は、一人ずつ手をつなぐこと!」
 とつぜんの王様の命令に、兵隊さんたちはおどろきました。もちろん、いちばんとまどったのは兄弟の王子様です。
「……」
 けれども、
「ぐずぐずするな。さあ、早く!」
 と王様がせかしたので、雨の兵隊さんと雪の兵隊さんは、仕方なく前の方からじゅんぐりに手をつなぎだしました。
 すると奇跡が起きたのです。青い服を着た雨の兵隊さんと、白い服を着た雪の兵隊さんが手をつないだ瞬間――おたがいの服はうすい水色になって、まったく見わけがつかなくなりました。
「〈みぞれ〉の兵隊さんの誕生だ!」
 由紀絵がうれしそうにはしゃぎました。
 兵隊さんたちは安心し、次々と手をつないでゆきます。そのたびに新しい〈みぞれ〉の兵隊さんが生まれました。おおぜいの兵隊さんは、肩を組みながら王宮の外へ出て行きました。
 最後に残されたのは、二人の王子様。
「さあ、今度はお前たちの番だよ」
 王様がやさしく語りかけました。王子様たちはゆっくりと右手をさしだします。そして、かたい握手をかわしました。
「ごめんね、兄さん」
「おれの方こそ、悪かった」
 王子様はひさしぶりに、忘れかけていたほほえみを取りもどしました。ドーンと、どこかでカミナリのはじける音がしました。みんなが仲直りしたお祝いです。
 こうして天の王家は、やすらぎをとりもどしたのです。
「由紀絵どの。礼を申す」
「本当にありがとうございました」
 天の王様とおきさき様がならんで、ていねいに頭を下げました。由紀絵ははずかしくなり、わざとすまして言いました。
「どういたしまして」
 そのときです。
「ん?」
 急に背中が冷えてきました。ほっぺたも痛くなります。由紀絵は身をちぢめて、おそいかかる寒さに耐えました。
 しかし、氷のような針のような冷たさを鼻先に感じると、
「がまんできない!」
 とさけんで立ち上がりました。
 
「……あれっ?」
 まわりにはだれもいません。雲の王宮はあとかたもなく消えうせました。そばにあるのは公園の小さなベンチだけです。
 すべての感覚がぼんやりしていました。どうやら夢を見ていたようです。由紀絵の体はしばらく冬の空気にさらされていたので、ひどくこごえていました。
 葉っぱを落とした木々が、北風をあびて身ぶるいしています。由紀絵はカゼをひかないうちに家へ帰ろうと決めました。
 すると、またもや鼻先に、何かひんやりしたものが乗ったのです。由紀絵は灰色の空を見上げて、目を丸くしました。
「わあーっ!」
 数えきれないほどの〈みぞれ〉たちが、あとからあとから降ってきます。あれはみんな、天の王国からやってきた〈みぞれ〉の兵隊さんにちがいないのです。
「夢じゃない!」
 由紀絵は北風といっしょにおどりながら、白にそまってゆく静かな町をかけぬけました。体はたしかに冷えきっていたのですが、心はほんのりと暖かでした。
「お姉ちゃん、ごめんね!」
 仲直りの練習をしながら、そして天の王子様のすてきな笑顔を思い浮かべながら……由紀絵は家をめざして休まずに走り続けました。

(了)



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