秋月 涼 


 下弦の月を見るたびに、私はいつも、あの夜のことを思い出す。
 病院で神経をすり減らして帰った夜更けの家は冷たく、全てを拒んでいるようにさえ思えた。私は最後の力を振り絞って布団を敷き、その奥へ全身を埋めた。
 ほどなくして強力な睡魔に襲われた。疲労感で湿り気を帯びた私の心は、すぐに夢の世界へといざなわれた。夢の中だけが唯一残された希望の地であった。
 何時間経ったのか、あるいは数分しか過ぎ去っていないのか……底知れぬ海のような無音きわまる漆黒の淵で、私の眠りを優しく妨げる者が現れた。
 頬を撫でる、かすかな触感。
 反射的に枕元の電気スタンドへ手を伸ばす。池の表面に張った薄い氷の如く繊細な卯月の闇へ、弱々しい光の花が無機質に咲き、紫色にぼんやり輝く小さな二双の羽根が目の前に浮かんだ。
 私は重い頭で考えた、これは夢の続きなのだろうか……閉めきったままの部屋に迷い込むなんて。
 蝶。それは蝶。
 ゆるゆる舞い上がる彼女の軌跡が、私の空虚な瞳に映っていた。しばらくの間、蝶は遺失物を捜すように頭上を旋回したかと思うと、再び私の頬をつついた。
「何?」
 短く呟きながら上半身を起こし、腕を伸ばす。冷えた空気の刃によって脳髄が刺激され、私は醒めていった。
 蝶は闇の中で後ずさりした。私は布団を這いだし、すがるように手を差しのべたが、蝶はそのたびに逃げるのだった。
 刹那、私の心臓は針で一突きされたような鋭い痛みを感じ、その晩初めて、私は自分が生きているのだと悟った。
 部屋に流れ込む風の源を求めて、蝶はドアの隙間から抜け出した。彼女を追うため、私は黒いコートを無雑作に羽織った。服の繊維が私の両肩を地へ押しつける……濃密な闇が重かった。
 紫水晶に似た半透明の蝶は玄関のドアをすり抜けた。まだるっこしく思いつつも、私は素早くドアを開け、鍵を掛けることすら忘れたまま夜の内側へ飛び出していった。
 蝶は優しく待っていてくれた。その様子を見てひどく安らぐと共に、私は一抹の焦りを禁じ得なかった。
 家の前の、誰一人として存在せぬ細い通りは、まるでこの世の全てが闇に溶け込んだような錯覚をもたらした。私は蝶の小さな背中を眺めながら、丘へ続く夢幻の道を歩み始めた。
 犬の遠吠えはその夜に限って聞こえず、光の点いている家も皆無だった。光といえば、道の上から降り注ぐ交流の不吉な電灯、私を導いてくれた紫色の蝶、そして東の空のそれほど高くない位置に粛々と横たわる下弦の月だけだった。
 見慣れない形をした月の光に射抜かれていると、しだいに私の身体から無駄な力みが削げ落ちていった。いつしか私は二本の腕と二本の足の代わりに四枚の羽根を得ていることを朧気ながら感じた。
 縮まった分、私の周りを取り囲む世界の全てがしゃぼん玉の夢のように膨らんだ……不安定さを内包したままで。
 私も蝶。紫の蝶。
 音無く羽根を動かして、蝶の身を得た私は闇という名の深海を休まず泳いだ。私を起こしてくれた彼女を追って。
 幸い、彼女は私の方を気にしながら、無情に過ぎゆく時間の流れよりもゆっくりした速度で進んでくれたから、泳ぎの苦手な私でもどうにか見失わずに済んだ。
 別の青白い蝶が姿を現したのは、私が通っていた小学校付近の抜け道だった。涸れ果てた水たまりから、彼女と似た光を湛える青い蝶が飛び出して一足早く丘へ向かったのを見た時、私はまず単純に驚き、続いて胸騒ぎを覚えた。
 水たまりだけではない。腐食した落ち葉の残骸からは緑の蝶が、ゴミ捨て場の林檎の皮からは赤い蝶が、散ってしまった桜の花びらからは鮮やかな桃色の蝶が、折れた木の枝からは茶色の蝶が、それぞれ生まれたのだった。
 蝶の群れは皆、町外れの丘を目指した。小学校の古ぼけた校舎を横目に、かつての友人が住む家を越え、見慣れてしまった病院棟をも俯瞰しながら、凍える夜風に乗って私は闇を切り裂いた。
 あまたの蝶の中でも、神秘的な紫色をした彼女は良く目立った。私を先導する彼女には、追いつけそうで追いつけない膠着状態がずっと続いていた。
 下弦の月の描く仄かな光の筋道が、思わず泣いてしまいそうなくらい優しかった。眼下に広がる町は廃墟のように生活感が乏しく、解き放たれた蝶の集団だけがあらゆる罪を免れていた。
 細い蝶の身体を縦横無尽に走る、細い細い神経系。そのことを意識しながら、私は羽根を広げて空をたたきつけ、押さえ込み、再び力を抜いて夜を滑った。
 
 ようやく彼女が動きを止めたのは、皆が目指していた丘の上だった。色とりどりの蝶がおのおの弱いきらめきを発して舞い上がったり舞い降りたり、静かに揺れたりしているのは夢のような幻想的な光景だったが、私の心は不思議と醒めていた。
 灯りを失くした町から生き延びた蝶……どうもしっくりこないのだ。何かが、あるいは何もかもが普通とは違っていた。
 突如、下弦の月が輝きを増し、それに惹きつけられるかのように無数の蝶は飄々と天へ昇っていった。蒲公英の綿毛が旅立つように、粉雪が降り積もるように、雨上がりの空へ虹が沸き立つように、蝶たちはごく自然な様子で去っていった。
 闇に吸い込まれた蝶は全て、この世の果てで美しい恒星へと生まれ変わった。私はその様子を無感動に、ただひたすら呆然と眺めていた。
 最後に残ったのは彼女だけだ。私と同じ血の流れる、紫色の身体。
 その時、鋭利な稲妻が私の頭を駆け抜け、何とかして彼女を止めなければ永久に後悔すると教え諭した。
 私は全身全霊を傾け、少しでも彼女に近づこうともがいた。つま先立ちになり、腕を掲げ、限界まで手を伸ばした。
 そう。いつしか私は人間のころの私の身体を取り戻していた。薄汚れた四枚の羽根は、それぞれ手や足へと戻っていた。
 ああ。飛べない。飛べない。
 それでも私は飛翔を諦めきれず、この深い幻想から抜け出そうとあがいた……自分という存在の底辺から慟哭しつつ。
 しかし私の嘆きは敢えなく重い夜に潰され、吸収され、ほとんど無力な単語の屑に変換された。喉を壊すほどの叫びをあげたいのに声帯が鳴らない。
 行かないで……最大の希望を呟きながら、私は心のどこかでもう駄目だと絶望していた。監禁され、独り痩せこけて行くような哀しみと、やり場のない怒りと、どうしようもない諦めと、これで戦いは終わるのだという僅かな安堵を、私はほぼ同時に味わったのだった。
 ついに。
 両手をすがるように差しのべた私を振りきって、紫色の小さな蝶はゆっくりと丘を離れていった。私には想像もできないほど遙か遠い星へ向かって。
 私は下弦の月へ虚しく問いかけた。
 
 ――なぜなの。
 
 紫の点が米粒となり、胡麻粒となって、さらに縮まってゆく。せめて彼女のこれからの幸福を祈ろうと思ったが、とめどなく流れる熱い涙で視界は寸断された。
 最後の最後に彼女が振り返った……ように見えたのが、私にとって救いだった。
 
 電話のベルが規則的に鳴り響いた。二階の自分の布団で目を覚ました私は階下の居間へ駆け降り、受話器を取った。病院に詰めていた母親は、今にも泣き崩れそうな声で、すぐ来るよう告げた。涙で濡れた枕や布団をそのままに、私は急いで黒いコートを羽織り、駅前へ走った。
 外は未だ暗く、タクシーの中で東の空が刻々と白んでいった。あまりに単純かつ無意味な黎明だったので、はかなくも愛おしかった夜の闇に帰ってくるよう祈ったが、願いはついぞ叶わなかった。
 夜明け前。薬品の匂いが鼻をつく狭い病室で、両親と私……家族全員に看取られ、私の幼い妹は帰らぬ人となった。
 射し込む朝の光で焼かれた紫の蝶の美しい骸が、窓辺に干涸らびていた。
 
 下弦の月を見るたびに、私はいつも、あの夜のことを思い出す。

(了)



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