小さな願い

 

秋月 涼 


※この短編はForさんの作品『ハイスクールトラブルハンター』の世界観および登場人物を使用させて頂きました。

 青空の高みを、ふわありふわりと白い雲が横切った。さんさんと降り注ぐ陽の光は全てのものを暖かく照らしていた。
 尾上川(おがみがわ)と芽守川(めがみがわ)の流域に広がる神代市の午後は、きわめて穏やかである。その神代市を見下ろす環境の良い丘陵地帯に、私立静風学園の校舎群が堂々と建ち並んでいる。
 放課後、制服の似合う小柄な少女が、街へ続く坂道を一人で下ってきた。右手には勉強道具入りの鞄を、反対の手には布袋――中身は体育で使ったジャージ――を持っていた。涼しさを帯びた風が流れると、整えられたショートヘアーが微かな音を立てて揺れる。
「ふぅ……」
 可愛らしい溜め息を洩らし、ちょっと立ち止まって丘の校舎群を仰ぎ見ると、再び歩き出す。
 彼女の名は綾瀬結(あやせ・ゆい)。もちろん静風学園の生徒で、現在は高等部二年に在籍している。
「これから、何をしようかなあ」
 暇を持て余しているのには訳があった。所属している文芸部が定休日なのも理由の一つだが、最も大きな要因は、いつも仲良く帰っている親友たちが今日に限って誰もいないことだった。たまたま皆の私用が重なってしまったのである。
「修さん……」
 思わず、その名前が口をついて出た。ひそかに心を寄せている八神修(やがみ・しゅう)は、学園内のトラブル解決という使命を果たすため、どこかへ行ってしまった。帰りのホームルームが終わり、急いで修の教室へ向かったが、時すでに遅し。彼の姿は消えていた。
 花屋から流れてくる甘い香りが結を現実へ引き戻す。神代市内は相変わらず、至って平和だった。スーツを着たサラリーマンが駅へ急ぐ傍ら、大学生のカップルが肩を寄せ合って歩いている。買い物をすませて家路についた主婦、おぶった赤ん坊を気にしながら談笑する若い母親……。
 のんびり歩く結の脳裏でいくつかのイメージが交わり、絡み合い、やがて一つに統べられた。赤ん坊が結に、母親が修に置き換わる。
 結は、広くて暖かな修の背中へ覆いかぶさっていた。修が結を背負っているのだ。修の背中は結だけのものだった。
 しばし想像の世界にひたったが、恥ずかしくて思わず頬を赤らめる。
「そんなこと無理ですよね」
 首を横に動かし、自らの小さな願いを振り払っていた、その矢先。
 公園の入口から転がってきたサッカーボールが結の足にぶつかって止まる。
「ごめんなさい!」
 甲高い声が響き、その声を追うように子供が駆けてきた。小学三年生くらいの、まだ幼さの残る少年だ。
 こざっぱりした髪型と服装に好感を抱いた結は、腰をかがめてサッカーボールを拾い、少年へ投げ返した。
「はいっ」
 少年はつま先の辺りで受け取ると、両足や腿(もも)を巧みに使い、白と黒に塗り分けられたボールを自由自在に操った。まるでボールが生きているみたい……結は少年の足さばきに見とれていた。
 最後に頭で軽く弾くと、硬質の球体は少年の腕の中へ吸い込まれていった。
「ありがとう、おねえちゃん」
 少年の屈託のない笑顔を受け取ると、結もすぐに口元を緩め、微笑みかけた。
「どういたしまして。気をつけてね」
「うん」
 相手は素直にうなずいたが、その表情の奥深くにわずかな曇りが隠されていたのを、結は決して見逃さなかった。こなれた動きでボールを蹴りながら、春風のようにその場を去った少年の後ろ姿を、結はしばらく呆然と眺めていた。
 公園の周りの道は修の通学路になっているから、もしかしたら出会えるかも知れない、という一縷の望みがある。どうせ時間も有り余っている。木製のベンチへおもむろに腰かけ、文庫本を取りだして読書するふりをしながら、結は少年の様子を注視した。
 午後の太陽をいっぱいに浴びて輝く公園内で、唯一、少年だけが取り残されていた。ボールを足で操っていた彼はしばしば目線を上げ、広場の方を見ている。
 広場では、少年よりもやや年齢層の高い小学五、六年くらいの男の子たちが数人、ボールを蹴り合っていた。
 おおよその事態を把握した結はベンチから立ち上がり、強く息を飲み込んで自らを勇気づけ、少年に近づく。
「みんなと、やらないんですか?」
 子供へちょっと語りかけるだけなのに緊張で声が震えてしまい、自分の内気さを情けなく思う結だった。
 少年はぴくりと動きを止め、ゆっくりと振り向いて結の顔を見上げ、まるで宝石のような黒い両眼を悲しげに細めた。
「あの……」
 結に負けず劣らず、少年もおとなしい性格だった。心の深部で二人は似たような部分を持っていた。そこが共鳴した結果、彼への興味が湧いたのかも知れないと、結は遅ればせながら考えていた。
「大丈夫ですよ」
 少年の気持ちを、そして自分自身の気持ちをも和らげるために結は優しい言葉をかけたものの、困惑気味の少年は、
「ぼく、まだ小さいし、それに……」
 とつぶやき、下を向いてしまった。語尾は風にさらわれ、ばらばらに霧散する。
 とまどう結だが、めげずにありったけの笑顔を浮かべる。
「一緒に、広場へ行ってみませんか?」
 結の思いが通じたのか、期待と心配が入り混じった複雑な表情をしている少年の心の扉が、少しずつ開き始めた。
 
「お名前を聞いていませんでしたね」
 数人の男の子たちがサッカーに興じている広場へ向かう途中、結は並んで歩く少年に訊ねた……まるで自分の弟と話しているかのような不思議な気持ちで。
 少年はやや元気を取り戻して応えた。
「ぼくはケンタだよ」
「私は、結といいます」
 二人姉妹の長女なので本物の弟はいないが、今だけはケンタの姉になろうと、結は決意を新たにしていた。
 芝生の広場に迫ると、男の子たちの息づかいが聞こえてくる。彼らの足の中で、サッカーボールは激しく飛び交っていた。
 どきどき鼓動を打つ心臓を制服の上から軽く押さえ、二度ほど深呼吸したあと、結は総勢六人の男の子らへ呼びかけた。
「あの……ちょっといいですか?」
 相手は夢中でボールを追っているため、反応がない。単なる芝生の広場の隅っこだから、П字型をしたサッカー用のゴールゲートは存在しないが、みんなは真剣そのものだ。見たところ、どうやら三人ずつのチームに分かれ、ボールを取り合う練習をしているようだった。
 結はごくりと唾を飲み込み、胸を張って、声を限りに鋭く叫んだ。
「すみません!」
「あ?」
 男の子のうちの一人が結に気づいて振り向いた。汗だくの額を輝かせ、吐息は荒い。続けて二人、三人……六人。
 視線の集中砲火を浴び、めまいがしそうになったけれど、結は言うべきことを思い出し、皆を均等に眺めながら頼んだ。
「あの、ケンタくんを仲間に入れてもらえませんでしょうか?」
 結の後ろに隠れていたケンタが半分だけ顔を出すと、今度はケンタが注目を集め、彼は再び顔を引っ込める。
 サッカー好きな男の子たちは眉をひそめ、怪訝そうな表情に変わった。髪を短く刈ったリーダー格の男児――小学六年生くらい――が、こめかみの汗をTシャツの袖でぬぐいながら前へ出る。
「駄目だ、そんなちび助じゃ」
「でも、すごく上手いんですよ」
 結は必死に抵抗した。普段なら友達が助けてくれるものの、今は自分から行動を起こさない限り事態は進展しない。
 今度は別の男の子がせっかちに言った。
「三対三で練習してるのに、そいつが入ったら四対三になっちゃうよ」
 すっかり頭をかかえてしまった結だが、ここまで粘ったからには諦めきれない。気がつくと、結は自分でもびっくりするような妥協案を提示していた。
「じゃあ、私も入れて下さい。そうすれば四人チームが二つできますから!」
 その場の全員が結の提案に度肝を抜かれた。どうしようか迷っている男の子たちを手で制し、リーダー格の少年が言う。
「わかった、入れ。その代わり足手まといになるなら出てってもらうからな!」
 すぐに結の顔がほころんだ。ケンタは逆に緊張の面もちだが、期待感も募っているように思えた。
「よろしくお願いします!」
 というしっかりした言葉の響きが、ケンタの複雑な心境を代弁していた。
「じゃあ、私、着替えてきますね!」
 教科書の詰まった重い鞄をその場に投げ捨て、ジャージを入れた布袋だけを持ち、結は公園の化粧室へ駆けていった。
 
 あっちへ転がり、こっちへ戻る白と黒の球体に、八人が熱い視線を投げかける。全力で走ったかと思うと、止まって仲間の様子を眺め、反対の方へ飛び、素早く足を出す。行き交うボールを自分の魂のかけらと信じ込んで、それを奪うため、あるいは守るために精神を集中させる。
 小学生の男の子の中に混じって孤軍奮闘している高校生の結は、もともと文学少女ということもあって、あまり運動は得意でなかった。サッカーも苦手である。
 けれど約束は約束だ。成りゆき上、こうなってしまったのはやむを得ないと割り切り、汗を流しながら駆けずり回った。
 結はなかなか敵のボールを奪えなかったが、チームの作戦が成功した瞬間は子供のように歓喜して腕を高く掲げた。
「!」
 息苦しくて声にならず、身体は重い。心臓が壊れそうな勢いで激しく脈を打っている……それでも結は懸命に走った。
 一方、ケンタは思う存分、本来の力を発揮していた。まさに水を得た魚である。夕闇迫る黄昏時、ついにリーダー格の六年生からボールを奪うことに成功する。
「やった!」
「やるじゃんか」
 と、相手が半ば嬉しく半ば悔しい気持ちを露わにした。男の子たちは、いつしかケンタのサッカー技術やひたむきな姿勢を評価し、新しい仲間として認めていた。少しうつむき、照れ笑いしたケンタの澄んだ瞳は充実感に満ちあふれ、美しく輝いていた。
 そのころ結は疲れ果て、へとへとになっていた。実は〈道士〉としての秘められた能力を持っている結ではあるが、さすがに今はそれを使うべき場面ではない。
 彼女は、もはや身体を引きずるようにして右往左往する。そろそろ限界を感じ、やや集中力が途切れた結の脳裏に、大好きな人の笑顔が浮かぶ。 (こんな姿を修さんに見られたら……)
 恥ずかしい。
 見る見るうちに顔が火照り、頬には赤みが差していく。西の空を茜色に染め上げた夕陽のせいだけではあるまい。
 もう少しだけ頑張ろうと自らを励まし、甘い空想から醒め、結はサッカーボールに視線を戻そうとした。
 その時である。
「あっ」
 公園の外の表通りを、一人の男子高校生が行き過ぎる。その体格や歩き方、髪型などをチェックした結は急に慌てた。
「どうしよう……」
 少し遠いが、自分の目に狂いはない。あの人だけは見間違えるはずがないのだ。
「ねえちゃん、あぶなーい!」
 少年のうちの誰かが叫んだ。その声に反応し、通りすがりの男子高校生――修は、公園の広場の方をちらりと見つめた。
 刹那、結と修の視線がぶつかる。 (目をそらさなきゃ……)
 脳が発した緊急の命令を神経が伝達し、眼球を動かす筋肉に伝わるか伝わらないかの、ごく短い時間が経過したのち。
 結は背中に強い衝撃を受けた。
 空が、地面が回る。世界が灰色になり、自分という存在がゆっくりと崩れ落ちる。大好きな修の姿さえ霞みにつつまれる。
「きゃああっ!」
 遅れて響いた自分の悲鳴が聴覚にまとわりつくのを最後に、結は意識を失った。
 
 そこはとても気持ちの休まる場所だった。花々の絨毯に顔を埋め、居眠りをしていた結は、露草のしずくで目を覚ました。周りには色とりどりの野原が広がり、和やかで親しげな太陽の光があふれていた。何の束縛もなく彷徨い、蜜を集める蜂の羽音が心地よい。
 そこでは何もかもがゆったりと上下に動いていた。まるで揺りかごに乗っているかのような、無性に懐かしい感覚だ。
 辺りにただよう穏やかな香りは、ひたすら優しいだけでなく、自分を守ってくれる力強さが確かに籠もっていた。
 
 あの人だ……。
 
 もう一度、瞳を開いても、夢はなお続いていた。やや不規則なタイミングで自分の身体が浮き沈みしていたし、結と接している世界は暖かさを失わない。
 しだいに頭の中がはっきりしてくる。
「あららっ?」
 すっとんきょうな叫びをあげると、そばで聞き覚えのある声がした。
「結ちゃん、起きたか?」
 夢ではない。もちろん幻想でもない。これは、まぎれもない現実だ。あっという間に顔が火照り、指の先まで熱くなる。
「し、修さん!」
 あこがれの修がおぶってくれている。今、彼の背中を独占している。結だけに解放された、結だけの場所。
 小さな願いは天に届いたのだ。
「大丈夫か? サッカーボールをぶつけられて、気ぃ失ったみてえだけど。みんな不安がってたぜ」
 いつもの軽い口調だが、結への心配がきちんと混ざっている。それを受け取り、結はどぎまぎしながら応じた。
「ご、ごめんなさい」
「いいってことよ。たまたま通りがかっただけだぜ。それより、明日の朝になっても背中の痛みが取れなかったら、無理しねえで病院へ行った方がいいな」
 修が歩を進めるたびに自分の身体が天と地の間で揺れ動き、優しい言葉が耳元で弾けると、相手にばれてしまいそうなほど脈が速まる。
 心の底から嬉しいと同時に、申し訳なさも急騰し、結は意を決して呼びかけた。
「一人で歩けますから……すみません。本当に大丈夫です」
「そっか?」
 立ち止まった修の背中から静かに降りると、結を包み込んでいた暖かさの素が消滅した。それは全て修の温もりだった。
 真っ赤な夕焼けの残照に目を細めながら、修は振り向きざま表情をほころばせる。
「まさか、小学生とサッカーしてるとは思わなかったぜ。近頃、結ちゃん、ずいぶん活発になったんじゃねえか?」
「きっと修さんたちのお陰です……」
 恥ずかしさのあまり、うつむいてしまう結に対し、相手は元気に喋り続ける。
「今日のことはケン坊から聞いた。あいつ、すっかり上級生と打ち解けたみたいだな。結おねえちゃん、どうもありがとう、っていう伝言を頼まれたぜ」
「ケンタくん……良かった」
 結はほっと胸をなで下ろし、気分を落ち着かせるために〈ふぅ〉と息を吐いた。
「今度、隣町のチームと試合するって張り切ってた。あいつら、別れ際に言ってたぜ……絶対に見に来てくれってな」
「わかりました」
 ようやく本来の素直な笑みを取り戻した結だったが、
「他人の気持ちを思いやれる。そういう結ちゃん、俺は好きだぜ。これからも変わらないでくれよな」
 という修の言葉を聞くと、恥ずかしさや嬉しさが溶け合って滅茶苦茶になり、頬だけでなく耳まで熱くなってしまう。
「あ、ありがとうございます……」
 小声でそう言うのが精一杯だった。
 空を仰いで一番星を見つけると、修は預かっていた荷物を結に返した。教科書の詰まった鞄と、制服を入れた布袋だ。
「おう。じゃ、また明日な」
 陽が沈んだ直後の街は澄みきった静寂に覆われていた。腕を掲げた修に向かって、結はぺこりと首(こうべ)を垂れる。
「はいっ、失礼します!」
 名残惜しそうにその場を発った結は曲がり角の手前で振り返り、見送ってくれていた修へ再び深く一礼すると、全力で駆けだした。
 心には、まるで冬の暖炉を彷彿とさせる優しい炎が燃えていた。その思いを大切に刻み、結はジャージ姿のまま、自分の家を目指して休まずに走っていった。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】