星畑の夜

 

秋月 涼 


 窓のすき間から涼しい風が入り込んだ。こうして夜も更けると気温は大分下がってくる。暖かな五月の空気は、昼間の明るさとともに消え失せたのだった。
 咲子は勉強机に頬杖をつき、その向こう側にある暗い夜空をぼんやりと見上げていた。重く沈んでいる気分とは裏腹に、今夜は快晴でいくつかの星が瞬いていた。
 咲子は星空が好きだ。辛いことや悲しいことがあると、咲子は決まって夜空を見上げ、何光年も遠くからやってくる星の光に想いを馳せるのだ。そうしていると、地上での出来事は何もかもがたわいのないものに思え、気分がすうっと和らいでいくのだった。
 黒く染まった大空のカンバスの上を、ふいに明るい線が走った。白い残像を残して、流れ星は落ちていく。
 咲子は驚いて目を丸くした。
「あ……」
 星に願いを託そうと何か言いかけたが、急に出てこられても対応できない。気づいた時はあとの祭りで、流れ星の姿は完全に消え失せていた。
「もう。流れ星まで馬鹿にして!」
 いらだったまま、咲子は夜空に向けていた視線を目の前の勉強机に戻す。机の真ん中には楽譜のコピーが数枚、無造作に広げられており、その脇には中学一年生用の教科書が積まれていた。
「なんで、みんなのために、自分ばっかり苦労させられるんだろう!」
 咲子は小さく叫んだ。その声には怒りと悲しみが半々ずつ込められていたが、言ってしまったあとは悲しみの方がはるかに強くなった。
「明日なんか……来なくていい」
 咲子は夜に向かって、思いをそっとつぶやいた。果てしなく黒い夜は、全てを飲み込んでくれそうな気がしたのだった。
 
 とにかく心が重かった。もちろん、それには原因がある。原因となった事件はただ一つ……今日の放課後のことだった。
 授業が終わり、帰りのホームルームが始まった。クラス指揮者になった咲子は、手を挙げて立ち上がった。
 皆の視線が集まる。
「今日から合唱コンクールに向けて練習を始めるので残れる人は残って下さい」
 すぐに大きな反応があった。えーっ、という男子のどよめき。一方、女子たちは〈ふぅーっ〉と溜め息をついている。
「何分くらいかかるんですか〜?」
 後ろの方から聞き慣れた声がした。名家の娘で優等生の真沙美だ。咲子は一瞬、戸惑ったが、顔だけで振り向き、やや早口で答えた。
「たぶん二十分くらい……」
「ええーっ。二十分もかかるの! じゃあ、あたし駄目だ。ピアノのレッスンがありますのでね。残念残念っ!」
 真沙美は残念と言いながらも、口調はむしろ嬉しそうだった。咲子はしょんぼりして座り、椅子を引いた。
 そんな咲子の様子を見て可哀想に思ったのか、担任の若い男の先生がみんなに語りかけた。
「みなさん、合唱コンクールのためにしっかり練習しましょう。指揮者に協力してあげて下さい。みなさんが選んだ指揮者なのですからね」
 咲子は先生のその言葉を聞いて、少しむっとした。 (みんなはあたしに〈協力してあげる〉の! あたしは〈協力してもらう〉方なの! みんながあたしを選んだ! そりゃあ、反対はなかったけど……)
 さらに三日さかのぼる。
 月曜日のホームルームでコンクールの指揮者を決める時、みんなは誰一人、決してやろうとしなかった。歌の上手い竹内君も、音楽の得意な真沙美も、忙しいのを理由にはっきりと断った。
 そして無意味な時間が流れていった。
 全員が下を向いていた。困った担任の先生は生徒を名前順に指名し、やってくれないかと一人ずつ頼み始めた。みんなは何かと理由をつけて断っていった。
 咲子はもう、この重苦しい雰囲気に耐えられなくなっていた。みんな、誰かがやってくれるのを待っている。人任せにしている。どうしてだろう?
「中川さん」
 色々なことを考え込んでいると、先生に名前を呼ばれた。自分の番が回ってきたのだ。咲子は一度深呼吸をしてから、ついにその決断した。
「分かりました。私、やります」
「えっ?」
 クラス中が驚いた。冷たかった雰囲気が、突如として暖かみを増す。止まっていた時間が動き始めたかのよう……あちこちで気の抜けた吐息が洩れる。
 担任の先生は目を輝かせ、心底ほっとしたように言った。
「ありがとう、お願いしますね。それではみなさん、中川さんに承認の拍手を」
 大きな拍手が鳴った。咲子はその時、正直、ちょっといい気分だったのだ。何とかなるさ、という楽観的な気持ち――あたしが指揮者になれば〈さっち〉も〈めぐちゃん〉も助けてくれるだろう。
 確かに、それからちょうど三日後に行われた初めての放課後練習で、親友の幸絵と恵は積極的に協力してくれた。
 しかし、逆に言うと、その二人しか協力してくれなかったのだ。練習への参加者は、咲子と幸絵と恵、それ以外には誰もいなかったのである。
 塾だ、部活だ、ピアノだ、スイミングだ、友達と約束がある、家族と出かける……色々な理由をつけて、みんな帰ってしまった。みんなが立ち去るのは、まさに風のような早技だった。気がつくと、三人しかいなかったというわけ。
 幸絵と恵は落ち込む咲子を一生懸命に励ました。それから三人は、この状況を何とかするため担任の先生に相談しようと思ったが、先生方は職員会議を始めており、結局会うことが出来なかった。
 三人はその日、やむを得ず練習を中止にして帰り支度を始めた。すると、隣のクラスからきれいな歌声が聞こえてきた。それが余計に咲子の心を傷つけた。
「他のクラスに勝つ必要はないけどさぁ、あまりにも下手なのは嫌だよねー。そんなんで恥ずかしくないのかなぁ?」
 校門を出て通学路を行く途中、幸絵はしきりに憤った。その横で、恵はウンウンとうなずいている。咲子は黙りこみ、幸絵の話を聞いているような振りをして全く別のことを考えていた。 (なんで、みんなのために、こんな苦労をしなきゃいけないんだろう?)
 その答えは……見つからなかった。
 
 そして夜。咲子は事の一部始終を思い起こして、また嫌な気持ちになった。寂しくて悲しくて戸惑って腹立たしくて、やりきれない気分だ。
 咲子の視線の先、勉強机のほぼ中央には、コンクールで歌う曲の楽譜が置いてあり、迷い込む風に反応して時々かすかに震えている。
「明日、学校休もうかなあ……」
 その行為が何の解決にもならないのは十二分に理解している。それでも、なお問題を先延ばしにしたかった。逃げられるのならば逃げたかった。
「嫌だなあ」
 あとからあとから、湧き水のように愚痴が出る。みんなは明日も来ないのだろうか。あたしだけが損をしている。怒りを通り越し、何だか無性に馬鹿らしい。
 夜空は晴れているし、いつものように大好きな星たちは瞬いているのに、今はきれいだと思えなかった。
「あーあ」
 溜め息ばかりが幾度となく洩れる。頬杖をつき、しばらく夜空を見ていると、また銀の星が夜空に曲線を引いて流れた。
 その時。
 まさに突然だった。
「おいおい、嬢ちゃん」
 聞き覚えのない、低い男の声がした。
「えっ?」
 咲子は振り向いたが、部屋の中には誰もいない。窓の下にも人影は見えない。
 声は落ち着いた口調で話し続けた。
「そんな所でボーッとしてねえで、たまには俺を手伝ってくれよな」
「どこ! 誰?」
 首を左右に動かし、声のありかを捜すが、見あたらない。咲子は腕と背中に寒気が走り、鳥肌が立つのを感じた。
「ゆ、ゆう……幽霊?」
「ここだよ」
 出し抜けに、窓から男性が顔を出した。整えられた顎髭と、深くかぶった黒いハンチング帽から覗く鋭い眼光が印象的な彫りの深い顔だ。歳は四十くらいか。
「わっ!」
 咲子は驚いて目を大きく広げ、後ずさりした。奇妙な男性の方も窓から静かに離れ、彼の全身が見渡せる。身長はそれほど高くない――むしろ低いくらいだ。百六十センチくらいかと思われる。
 男性は、ぴしっとした黒いズボンと黒い上着に身をつつみ、夜の闇に紛れ、腕を組んだままフワフワ浮かんでいた。
 そうだ、ここは二階だった……。訳が分からない。やっぱり幽霊! 頭の中が混乱して、次の言葉が出てこない。
 咲子がまばたきを繰り返していると、
「ひっでぇなぁ。俺を亡霊扱いか」
 と、男が言った。
「あなた、誰! どこから来たの?」
 咲子が、しごく当然の質問をすると、男は口の端でふっと笑い、
「ま、そんなつまんねえ話はあとあと。俺は今、急いでんだ……ほれ見ろ、また流れ星が落ちちまったじゃねえか」
「流れ星?」
 確かに、夜空の右上から左下へ新しい流星が走った。でも、それが何なの?
 もう咲子の頭の中は混乱を極めていた。そうだ、これは夢なんだと思い直し、頬をつねってみたけれども……痛い。
「夢じゃない?」
「いいから、ちょいと手伝ってくれよ。俺の背中に乗れ。誰も知らねえ〈夜空の舞台裏〉へご招待しますぜ……」
 そう言い終わると、男は振り返って咲子に背を向け、腰をかがめた。
 ほとんど直感的に咲子の体は動いていた。もちろん男へ対する疑問はつきない。しかし得体の知れない者に対する恐怖よりも好奇心の方が勝った瞬間だった。男の広い背中へ自分を預ける。
 彼は夜空に向かったまま、つぶやいた。
「おし。一気に駆け上がるから、しっかり捕まってろよ、落ちても知らねえぞ」
「うん。流れ星にならないようにね!」
 わずかの間だったのに冗談を言う余裕も出来ていた。期待に満ちた心臓が高らかに鼓動を打ち続ける。こんな気持ちが起こるのは本当に久しぶりだった。
「その通り。じゃ、行くぜ!」
 男が力強く宣言した。咲子は静かに瞳を閉じ、そして彼の言葉を思い出す。
 夜空の……舞台裏!
 柔らかな風が舞いだして、二人をつつみこむ。展望台直通のエレベーターで高い場所へ昇るような、ふわりという不思議で微妙な感覚が身体を襲う。強く涼しい風がぶつかっては流れ、咲子はぎゅっと目をつぶって男にしがみついた。
 
 どれくらい時間が経ったろう。しだいに風が弱まり、上昇感も薄らいだ。咲子の緊張も少しずつ和らいでいく。
「おし、着いた。降りて目を開いてみ」
 男の声が優しく響いた。澄んだ空気は暑くも寒くもないが、いくぶんひんやりとしている。かすかな風が頬を撫でる。
「うん」
 恐る恐る右足を踏み下ろす……地面がある。安心した咲子は男の背中から飛び降り、ゆっくりと瞳を開いていった。
「あっ!」
 足下に数え切れないほどの光の粒が見える。テレビで見た蛍のようでもあり、山の上から見た町の夜景のようでもある。
 咲子はだんだん目線を上げていった。それとともに瞳と口が大きく開かれる。かすれ声で思わず感嘆の溜め息をついた。
「うわぁ……」
 いつも見ていた中途半端な暗闇とは違い、ここの暗黒は本物だ。夜という黒い服が星という宝石でいっぱいに飾られている……咲子はそんな印象を受けた。無数の星が集う天の川がはっきりと確認でき、理科の教科書で見たことのある紫の星雲は宇宙で最も華麗、そして品のある黒い礼服のアクセサリーになっていた。
 再び足下に目をやると、透明な地面の果てには、赤や青や白の光輝く透明な石が散らばっている。上下左右、見渡す限り三百六十度の全てが自然のプラネタリウムに囲まれた、天球の中心である。
 最初こそ、あっけにとられていた咲子だったが、しだいに心を奪われ、うっとりした目つきになった。どこを見てもまばゆく光る恒星だらけで、どこを見たらいいのか分からないほど幻想的な風景だ。
「信じられない!」
 特にゆったりと流れている天の川は闇の中でひときわ目立つ巨大な帯で、銀の星たちが瞬きを繰り返している様は、地球中の都市の夜景を集めても歯が立たず、とても人間には作れない神秘の世界だった。まさに星たちの楽園といえる。舞い踊る光の粒は天使のロンドのようにも思えたし、神の夢のようにさえ感じられた。
「あ!」
 咲子はさらに目を見開く。天の川から飛び出した一筋の流れ星が強い白色を灯しながら、飛行機雲のような明るい軌跡を残しつつ、どこまでも落ちていった。
「ちっ、まぁた落ちちまったか」
 男の声で咲子はふと我に返った。そして忘れていた質問が次々とあふれ出す。
「ここはどこなの! 宇宙! それに、どうして息が出来るの?」
 男は〈困ったお嬢ちゃんだな〉とでも言いたげな表情で、はしごを降りてきた。
 そう、今まで咲子は星空に夢中で気づかなかったが、男はいつの間にか、ここに似つかわしくないステンレス製のはしごに登っていたのだ。はしごは天に真っ直ぐと突き刺さり、先端は見えない。男は左腕に四角い工具箱をかかえている。
「ここは宇宙のど真ん中にある特殊な場所なんだな。とにかく特殊だ。強いて名付ければ〈星畑〉とでもなるかな」
「星畑……すごく素敵」
 咲子はつぶやいた。確かに、ここから眺める星たちは花畑を思い起こさせる。似通っていても一つ一つ違う明るさや色を持つ星と、それが合わさった時の集団美は何とも言いがたい安らぎを感じた。
 男は天の高みをぼんやりと見つめながら上着のポケットをまさぐってチューブを取り出し、薄暗い中、星明かりの下、無造作に咲子へ手渡した。咲子はおっかなびっくりした動作で、男のごつごつした右手からチューブを受け取る。
「これ、何?」
 黒いチューブの弾力を確かめながら訊ねた咲子に、男はふっと笑い、
「こうやって使うんだぜ」
 男は左腕にかかえていた工具箱を開け、せんべい状の平べったい銀色の物体を取り出した。不思議そうに手作業を覗き込む咲子の目の前で、男はチューブの小さなフタを回して外した。チューブの腹に力を込めると、黒いゼリーがあふれ出す。
 男はすかさず先ほどの銀色の物体に妖しげなゼリーをたっぷり垂らし、人差し指と親指で全面に薄く伸ばした。
「この黒いのは糊なんだな」
 手を動かしながら男は説明した。銀河の風に吹かれ、咲子はすぐに問いかける。
「のり! 海で獲れる海苔?」
 黒いゼリーを見て咲子がそう思うのは無理もなかったが、男は吹き出した。
「ふはっ、その海苔じゃない。貼る方の糊だ。秘密のブラックホールから取った星間物質、宇宙専用の瞬間接着剤だぜ」
「そう言われれば……糊に見えるかも」
 咲子は恥ずかしさを紛らわすため、その瞬間接着剤とやらを間近で見つめた。暗い中で黒い糊だから、よく分からない。
「しっかりと塗りたくってな……」
 男は再びチューブをひねり、はた目には〈やりすぎ〉と思われるくらい、銀色の物体の裏面に黒い糊を塗った。そして左腕に工具箱をかかえたままのスタイルではしごを数段、器用に登る。
「仕上げだ」
 男は右腕を伸ばし、銀色の物体を夜空へ丁寧に貼り付けた。その上から拳で何度も叩き、密着を確かにする。咲子はその様子を興味津々そうに眺めていた。相変わらず、どの方角も満天の星である。
「ふっ」
 最後に男が息を吹きかける。すると驚くべきことに、銀色の物体は風船のように膨らみながら明るい光を放ち始めつつ、すさまじい勢いで遠ざかり、しまいには米粒に似た白い点となった。咲子は突然の出来事にはっと息を飲む。
 そう、それはまさに星だったのだ。新しい恒星が誕生した瞬間だった。
「すごい!」
 咲子は思わず叫んだ。こうして繰り広げられた神秘的な光景には深い感銘を受けたが、単純な疑問も沸き出してくる。
「何のために星を作っているの?」
「何のために……だって?」
 出し抜けの質問に、男はわずかに戸惑う素振りを見せたが、はしごを慎重に降りながら大して嫌な顔もせず応じた。
「流れ星を知ってるだろ! さっき、自分の部屋の窓から眺めてたよな?」
 逆に質問された咲子が軽くうなずいたのを確かめてから、男は続ける。
「星っていうのはな、ほっとけば、どんどん流れて消えてなくなっちまう。その分、新しい星を天球に貼っつけねえと、やがて宇宙は空っぽになっちまうんだ」
「ええっ。そんな話、初めて聞いた」
 咲子は自分の耳を、そして目を疑い始めた。やっぱり夢なのだろうか……いくら考えても、すぐには信じがたい話だ。
 咲子が黙ると辺りは深い静寂につつまれた。家族旅行で泊まった山奥の小さな民宿での夜更けよりも無音だった。
「質問大会は終わりか! そろそろ〈星畑〉の種蒔きを手伝ってもらうぞ。糊はたっぷり用意してあるんだ、ほれ」
 男は上着のポケットから次々と黒いチューブを取り出して示した。手品みたいだったので大喜びの咲子だったが、突然、思い出したようにポンと手を打った。
「そういえば、おじさんの名前、まだ聞いてなかったね。あたしは咲子、中川咲子って言うんだ。おじさんは?」
「俺か?」
 男は自分を指さし、驚いた振りをした。それからわざとらしく咲子に背を向け、ささやくような声でぽつりと喋った。
「名もない〈星空管理人〉さ」
 少し間を置いてから、今度はうって変わり周囲に響き渡る大声で宣言する。
「さあ、お話はおしまいだ!」
「うんっ。星畑の種蒔きだね」
 咲子はにっこりと微笑み、うなずいた。部屋で窓を見ていた時とは別人のような、彼女本来の屈託のない笑顔だった。今や心の中まで夢の星がきらめていている。
 
「あたしにも出来るかな?」
 天にかかる銀色のはしごを目の前にして、咲子の鼓動は高鳴ることをやめなかった。黒ずくめの管理人は低く応える。
「ああ出来るさ。さっき見てたろう?」
 遠くに見える星雲のような渦を期待と不安が胸の奥で描いている。そんな咲子の緊張をほぐすため、管理人はまたポケットから不思議な糊をたくさん取り出して相手に渡した。咲子の頬が緩む。
「ありがとう」
「糊はたっぷり使えよ。すぐに落ちたら意味がねえからな。ま、やってみ」
 励ましを受け、咲子はついに心を決める。管理人の方を向いて軽くうなずいた。
「やってみる……」
 それから右手を伸ばして冷えたはしごの段をしっかりと握りしめ、ゆっくりと右足を地面から離す。管理人は腕組みして立ちつくし、無言で見守っている。
 カタン、カタン。
 咲子がはしごを登る音だけが静寂の虚空に響いた。いつしか管理人の背丈よりも高くなる。視線を天頂に放てば、目眩がするほど垂直に伸びるはしごと、何度見ても吸い込まれそうな星の夜だ。
 
 左の掌にしまっていた星の種を掲げる。
 ひとまず、それをはしごの段に置く。
 今度は糊のチューブのフタを外す。
 腹を押し、黒い糊を指につける。
 星の種の背面にたっぷり塗る。
 それを闇の中へ貼り付ける。
 上から思う存分に押して。
 粘着を確かめれば終了。
 あとは仕上げを……。
 
 こめかみの辺りが脈を打っている。咲子は肺の空気を全て出すくらいのつもりで息を吐き、次に思い切り吸い込んだ。
 唇をとがらせて星の種に狙いを定める。
 そして精一杯、芽吹きの風を送る。
「ふーっ」
 その刹那、星の種は命を得て丸く膨らみながら、光速を越えるスピードで咲子から遠ざかり、とある一点で止まった。
 星畑に新しい花が誕生したのだ。
「やったあ!」
 両腕を伸ばした咲子の仕草が彼女の気持ちを端的に表している。しかし、はしごから手を離したのはやり過ぎだった。
「きゃあぁ!」
 歓喜の叫びが悲鳴に変わる。バランスを崩した咲子は自分自身が流れ星になり、真っ逆様に落ちてゆく。目をつぶると星が消え、真の闇が襲いかかってくる。
 それも一瞬の出来事だった。暖かい何かが咲子の細い体を受け止めてくれた。
「ててて……気をつけて登れよ」
 管理人の声が聞こえ、咲子はうっすらと瞳を開いた。助かったのだった。
 
「もう、やり方は分かるな! あんまり、はしゃぎすぎるなよ」
 少し落ち着いてから管理人が言った。その間にも天球に貼り付く星たちはわずかに位置を変えたようだった。
「うん、ごめんごめん」
 咲子は笑いながら謝って、舌をぺろりと出す。管理人は微妙に口元をゆるめ、それから足下の工具箱を指さした。
「星の種はここに置いておくからな。まあ、星で絵を描くつもりでやってみ。あとはセンスの問題だ」
 気づかぬうちにもう一脚、銀色のはしごが増えていた。管理人は真っ直ぐに歩いてゆき、慣れた手つきで足がかりをつかみ、するすると段を登っていく。
「俺はこっちで同じ作業してるから、なんかあったら呼んでくれぇ」
「わかったー」
 咲子も再び星畑に種を蒔くため、はしごに手をかけた。ふと空を明るい何かが横切り、視線はその行き先を追い続けた。
「流れ星……」
 この間にも老いた星は最後の光を放ち、次々と散ってゆく。その分、新しい命を空の畑に植える必要があるのだ。
 天文学の教科書には別の説明が書いてあった気がしたけれど、咲子はその理由を信じなかった。それよりも管理人の話の方に現実味を感じたのだ。百聞は一見にしかず、という諺が脳裏をよぎる。
「ふっ」
 西へ東へ星の種が散り、花開いた。二つ、三つ……慎重に順調に進めていく。上手くゆくたびに咲子の顔にも穏やかな微笑みが浮かんだ。なんて素敵な気分だろう。星を、銀河を作れるなんて!
「管理人さんはずっとこの仕事をしているの! ほんっと最高だね!」
 心が弾み、つい声が裏返ってしまう。すると管理人は手を休めて語った。
「確かに最初はいいけどな、こんな所にずっと一人でいると飽きてくるんだぜ」
 やけに平然と言い切ったので、咲子は驚いてしまった。しばらく黙って考えてみる。もし自分がここへ置き去りにされたとしたら、どんな風に思うだろう……。すると、さっきまで楽しかった作業も大変な重荷に感じてしまうのだった。
 咲子が静かになったのを不審がったのか、管理人は自分から話し始めた。
「昼間は何時間でも寝てられるし、まあ俺の場合、好きな場所にどこでも自由に行けるからな。そこらへんの小惑星を削って食べたり、時には気分転換がてら地上に降りて音楽会に行ったりしてんだ」
「ふーん、そうなんだ、音楽会。あ!」
 音楽会という言葉で咲子ははっと気づく。そうだ、明日からまた合唱コンクールの練習をしなくちゃいけないんだ。
 管理人はそんな咲子の気持ちを知ってか知らずか、楽しそうに話し続ける。
「あとは部屋で夜空を見上げてる暇そうなのを連れてくるんだ、ハハッ」
「あの時はちょっと考え事してたんだ」
 あたしばっかり苦労して、みんな練習に協力してくれないで……忘れていた悔しさが胸の奥から熱く沸き上がる。
 その時、咲子の頭の中で、とっさに一つの考えがひらめいた。すぐに実行する。
「星空管理人さん、あなたはみんなのために、この作業をずっとやってるの?」
 相手はその質問をくぐもったような低めの声で笑い飛ばした。そして言う。
「みんなのためなんて気負ったら、とっくにやめてるぜ!」
 言い終えてから微妙に間を取り、さらに力強い口調で彼は一息に言い切る。
「俺のためだよ」
 咲子は何か心に稲妻が走ったように感じた。実際、指先がぴくんと震えたほどだった。何だか訳が分からないけれど、瞳から暖かい水があふれてきて頬を伝い、咲子はゆっくりと天頂を仰いだ。
 
 あたしのため。
 あたしのためなんだ……。
 
 管理人の言葉を何度も繰り返しつぶやいてみる。どんな写真よりも美しい、本物の星たちが涙ににじんだ。よく分からないものが右の方へ落ちていったが、それは空の流れ星なのか自分の涙なのか、もはや区別がつかなかった。
「あたしのため、なんだね」
 咲子は声を振り絞って喋ったが、それは紛れもない涙声だった。管理人はよりいっそう優しい感じで問いかける。
「結局、誰だって自分が可愛いんだよ。俺だって、お前さんだってさ。な?」
「うん、うん」
 咲子が大きくうなずくと、瞳から涙がぽたりぽたりとこぼれた。すると突然、不思議な出来事が起こり始めたのだ。一粒こぼれるごとに黒い地面が溶けて白い煙のような気体が辺りに広がるのだった。
 少しずつ霧がかかる視界の向こうから、管理人の声がはっきりと聞こえてくる。
「俺は、俺自身のために仕事を続ける。明日の俺が、今日の俺より一回り大きくなっているために、な」
 ついに管理人の顔も見えなくなった。吹雪の日に似ている、全てが白だけで塗り替えられた明るい世界の奥底で、咲子は〈感謝の気持ち〉と〈さよなら〉とをごちゃ混ぜにして彼に伝えた。
「ありがとう、星空管理人さん」
 
 私のために……。
 
「……ふぁ?」
 ぱっとまぶたを開いたとたん、まばゆい光に射られて、わずかの間、視力を失う。目がだんだん慣れていくうちに、耳は小鳥のさえずりをとらえた。
「朝?」
 咲子はいつの間にか机に突っ伏して寝ていたのだった。開けっ放しの窓から新しい風が入り込んできて、おぼろげな意識が回復してゆき、体と魂とが合わさる。充分に寝たような、けれど何となく寝足りないような珍しい寝起きだった。
 机の上の目覚ましは六時半をちょっと過ぎていた。あと十五分もすればベルが鳴るだろう。今日が産声をあげたのだ。
「夢だったんだ」
 音もなく立ち上がり、向こうの壁に掛かっている細長い鏡を覗き込むと、机で寝たせいか髪はくしゃくしゃだった。頬には乾ききった涙の跡が残っている。
「夢にしては妙にリアルだったなあ」
 ふと自分の両手に視線を落とす。
 愕然、衝撃、絶句。
 やがて顔がほころんでゆく。
 手は黒っぽく汚れていて、おまけにベトベトしていた。そう……糊のように。
 
「今日も合唱コンクールに向けて練習をやります。残れる人は残って下さい!」
 帰りのホームルームで咲子の元気な声が教室にこだました。男子から反発のどよめきが起こるが、それは昨日に比べるといくぶん弱まったように感じた。
「私、今日は塾があるのよ。じゃーね」
 真沙美は今日も帰っていき、女子の大半はこそこそとその場を去る。男子のほとんどは部活へ行ってしまった。
 とはいえ咲子は全く気にする素振りを見せず、相変わらず明るく話しかける。
「さっち、めぐちゃん、練習やろ!」
「でも咲子、人数が……」
 と顔を曇らす幸絵の心配を吹き飛ばすような笑顔で、指揮者は宣言する。
「やるしかないよ! 毎日やってれば、そのうちみんな来るって。頑張ろ!」
「うん」
 恵がうなずき、幸絵も初めは戸惑っていたが了承した。楽譜を出したり、家から持ってきた電子オルガンの準備をしている時、咲子は気づく。教室の隅でおとなしそうな男子が鞄を机に置いたまま、手持ちぶさたに立っているのを。
「あ、山内君、練習に出てくれる?」
 咲子が訊ねると、彼は小声で応えた。
「い、いいよ……どうせ暇だから」
「ありがとう!」
 瞳を輝かせて礼を言う。すると向こうで何かを話し合っていた三人の女子たちが輪を解いて近づいてきた。
「わたしたちも手伝うよ」
「他のクラスに負けるの嫌だし」
「本当! 助かるよー」
 その日は結局六人で音を覚えることから始めた。最後にみんなで合わせたが、曲らしかったのは二、三ページまでで、そのうち途切れてしまった。けれど咲子は練習が出来ただけで大きな進歩だと思い、気楽になったし、何より嬉しかった。
 次の週の月曜日も咲子はホームルームで呼びかけた。その日の参加者は咲子を含めて十四人まで増えた。練習が練習らしくなり、曲も曲らしくなってくる。
「おい中川」
 水曜日の帰り際に、クラスの男子のリーダー的な存在である野球部の武田君が話しかけてきた。
「なんか一生懸命やってるから、悪くてさ。俺、今日から練習に出るよ」
「ほんとありがとう、よろしくね!」
 たくさんのクラスメートでごった返す放課後の教室の中で、咲子は率先して机を運びながら幸せそうに微笑みを浮かべた。すると武田君の横にいた、同じ野球部に属する鈴木君が釘を刺す。
「俺らも地区大会が近いんだから、練習は手短に頼むぜ。先輩に怒られるから」
「オッケー、まかせてよ」
 咲子は胸を張る。これで大勢は決まった。みんなは各パートに分かれて練習し、音程を確実なものにした。最後に合唱すると素敵なハーモニーが生まれ、日を追うごとに厚みは増し、安定していく。咲子の指導にもついつい熱が入るのだった。
 コンクールが近づくと帰りだけではなく朝にも練習することにしたので、何とか他のクラスにも追いつけそうだった。どうしても用事があって放課後に来られなかった人の練習量を補佐するため、咲子や恵は昼休みを返上して付き合った。
 
 合唱コンクールが目前に迫った、ある日の放課後のこと。いつものように練習を始めようとしていると、やはりいつものように真沙美は堂々と帰り支度を始めた。練習に出ないのは真沙美だけだった。
 怒り心頭の幸絵が当人に文句を言う。
「真沙美、サボってばっかでないで、たまには練習に出なよ。知ってると思うけどさ、合唱コン、明後日なんだよ!」
 真沙美が何か言い返そうとする前に、運動部の男子からヤジが沸き起こる。
「そうだそうだ!」
「俺らだって忙しい中、出てんだぞ!」
 すると真沙美は悔しそうに唇をきつく結び、目線は弱々しく下を向いていた。その間にも厳しい言葉が飛び交い、真沙美の顔はしだいにこわばっていく。
「ちょっと黙ろうよ!」
 普段は物静かな恵が高い声で叫ぶと、みんなは驚き、沈黙が辺りを支配し、教室は重苦しい雰囲気につつまれる。
 隣のクラスから、きれいな歌声が聞こえてきた。真沙美はくるりと回転し、後ろのドアから出ていこうとする。
「待って!」
 咲子が一歩、前に出る。全員の注目が彼女に注がれる。心の中は指揮を振る時以上に緊張し、膝は小刻みに震えていたが、咲子は大きく息を吸い込み、可能な限りゆっくりと、そして優しく言った。
「ねえ、真沙美ちゃん。ちょっとでいいから、お願いできないかな?」
 真沙美は再び振り向き、咲子の目をじっと見つめる。痛いくらいの強力な視線に耐え、咲子は相手の瞳を穏やかに覗き込んでいた。そのうち横のクラスの合唱が終わり、拍手する音が聞こえてくる。
 すっと真沙美は顔を逸らした。
「分かったわよ、やればいいんでしょ」
「ありがとう!」
 咲子は真沙美に近づいていって両手を握りしめた。真沙美は困ったような、でも嬉しいような、その嬉しさを隠すために怒っていると見せかけているような、しかもほっとしたような判断の難しい表情をしていたが、彼女よりも、クラスメートの誰よりも一番ほっとして力が抜けたのは咲子自身であったに違いない。
 歌の得意な真沙美が加わり、音の調和は格段に高まり、深まりもした。
 練習が始まってから、真沙美の横で歌っていた幸絵は何度もまばたきを繰り返していたが、曲が終わったとたん相手の肩を叩き、興奮気味に叫んだ。
「ねえ、音程、完璧じゃん!」
「ちょっと家で試しに……」
 周りの女子たちが驚き声でほめたたえると、真沙美は恥ずかしそうに下を向いた。それから半分顔を上げ、柔らかい眼差しを正面の咲子に送り、素直に謝った。
「練習、出なくてごめん」
「ううん。本番でもよろしくね!」
 その日、クラスの心は一つになった。
 
 見渡した顔は誰もがみんな紅潮している。元気とやる気に、期待とちょっぴりの不安を加えたような表情だ。
 客席に礼をしたあとで、咲子はゆっくりと全員を見回していた。それは咲子自身の緊張感をほぐすためでもあった。大げさに深呼吸してみると、ほんの少しだけクラスメートの堅い雰囲気が緩む。
 それからゆっくりと両手を上げて構え、市民ホールを埋めつくした生徒や先生方、地元の主婦らの注目を一身に浴びる。
 頭の中でリズムを刻みながら空を一振りするとアカペラの合唱が始まった。その始まり方が練習以上にきれいで、咲子の背中には鳥肌が立つくらいだった。
 最初の方は無我夢中になって感情のおもむくままに両手を動かしていた咲子だったが、途中ではっと気づき、普段の冷静さをいくぶん取り戻した。そのあとは歌詞の意味を考えながら、可能な限り表情を豊かにし、体を波のように揺らし、左右の手で不思議な模様を描いた。舞台で指揮を振るなんて初めての経験だったが、本番ではそれなりに様になっていた。クラスメートたちの声も会場の最後列まで届き、壁からのエコーが心地よかった。
 残響がふわりと天井に溶けてゆき、曲が終わる。照りつける照明と級友の熱気、予想以上の出来映えで、咲子は額やこめかみの辺りにさわやかな汗をかいていた。
 両腕を丁寧に下ろし、みんなの充実した顔を見回してから自然な動作で客席に向き直り、一歩進んで礼をする。拍手を浴びてから、ゆっくりと顔を上げる。
 天井に散らばる数多くの小さな照明は何となく見覚えがあった。そう、あの夜、星空管理人に招待してもらった天球の中心から見た風景に少しだけ似ていたのだ。もちろん美しさも光の粒の多さも、本物の銀河には到底かなわなかったが。
 その瞬間だった。
 咲子の視線は一点にくぎづけになる。
 ホールの出入口付近で大きな拍手をしている一人の男性に見覚えがあったのだ。全身が黒ずくめの服、深くかぶったハンチング帽……そう、あの人にそっくりだ。
 彼は拍手が終わると外へ出ていった。はやる気持ちを抑えつつ、咲子はぎこちない歩き方で退場し、舞台裏へ入るやいなや全速力で駆けだしていた。
「うーっ」
 楽屋の重いドアを勢い良く開き、緩いスロープを登る。もし本当に星空管理人さんだったら……咲子には言いたいこと、聞きたいことが山ほどあった。期待と焦りで心臓が激しく鼓動を打っている。
 ようやく市民センターの正面入口にたどり着き、立ち止まって四方を見回す。しかし辺りには星空管理人どころか人影すらなかった。今ごろ観客たちは次のクラスの歌に聞き入っている頃だろう。
「気のせいだったのかな」
 さすがに落胆し、がっくりと腕を落とす。舞台上から見下ろした姿形は本物かと思うほど夜空の彼に似ていたのだが。
 クラスメートの待つ座席に戻ろうとしてホールに向かい、視線をあげた咲子は……動作が完全に停止する。瞳だけは驚きで見開かれ、すぐに喜びへと変化した。
「管理人さん!」
 二階の高さにあたる窓から見覚えのある髭だらけの顔が咲子のことを見下ろし、口元でわずかに微笑んでいたのだ。
 やっぱり見に来てくれたんだ!
 咲子は手を大きく振りながら、市民センターの自動ドアに向かって猛進した。扉がワンテンポ遅れて開く。これほど自動ドアが遅く感じたのは初めてだった。
「管理人さん!」
 外の涼しい空気を肌で感じながら、咲子はもう一度、叫んだ。星空管理人はあの夜と同様、宙に浮かんでいる。
 何か言おうと咲子が口を開く前に、彼は目深にかぶったハンチング帽を左手で抑えつつ、上昇気流に乗った鳥のようにふわりと空高く舞い上がっていった。
 咲子の心の奥底では色んな想いが交錯し、頭の中はごちゃごちゃだったが、今ここで本当に伝えなければいけない言葉はたった一つだという結論に至り、両手を口に当てて息を吸い込んだ。
 そして想いを放つ。
「管理人さん、ありがとう!」
 相手は青空に吸い込まれるようにして小さくなってゆく。咲子は限界まで肺を膨らませ、高らかに叫んだ。
「ありがとう!」
 管理人は黒い点になり、ついに肉眼では判別できなくなったが、しばらく咲子はその場に立ちつくし、昼の空の後ろに見える幻想の夜空を思い浮かべていた。
 微風が咲子の髪を撫でて通り過ぎた。

(了)



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