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秋月 涼 |
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(一)
彼は飛んでいた。 彼女は綴じていた。 そして彼は飛んでいた――休むことなく。風の吹くままに、彼は全て身を任せていた。地上がだんだんと近づき、確実に落ちてゆくと思いきや、上昇気流に乗ると遠ざかり、しばらくするとまた近づく。波に乗るように彼は彷徨った。親元を巣立ったばかりの彼にとって、最初は目に見える全てが驚異であり、それはすなわち絶え間ない未知の恐怖との精神的な闘いでもあった。 幹に走る不規則な模様が垣間見え、梢にぶつかりそうになると背伸びをし、冬支度を整えた親リスが彼を眺めて不思議そうに瞳を瞬いた。木洩れ日は銀のしずく、せせらぎは白露の糸。 彼はそういう場所を、水平に、垂直に、斜めに飛んでいた。 そして彼女は綴じていた。 このページが最後になるだろうことを知っている。それについては、もはや特別な感情は持たないつもりでいる。実体は既に終焉を迎えているのだ。夏の〈線香花火〉の光の珠が遂にこぼれて、夜の地面に消えゆく束の間の輝きをどこか想起させる。外側から失われても、最後まで内側の熱は遺っている。永遠の旅路を知る者だけが持ち得る、ほぼ透明に澄んだ諦観だろう。 これは彼女にとって一つの葬送曲の最終楽章Adagioの、そのまた末端部の色褪せたCodaであり、淡々と遂行すべき儀式であり、それ以外の何ものでもなかった。だが、そう思えば思うほど、彼女は切に痛感しなければならない――実際の所は、この行為に何らかの意味を結びつけたかったのだ、ということを。 声にならない呻きは胸の奥底に沈んでいった。肩にのしかかる重力の訪れが両手に力を込めさせる。がちゃん、と軽い音がして、付け足しの台紙は小さなアルバムに正しく綴じられた。 それは銀箔に塗られた神々しい冬の原野そのものの具現、まさに〈孤独〉以外の全てを徹底的に拒絶した空間であった。 同じ頃、彼は未だに森を舞い飛び、彷徨っていたのである。 (二)
そう――依然として彼は風の上を滑っていた。木々が林立する森の中では、風の動きもより複雑に、より気まぐれになる。 まるで霧が晴れてゆくかのよう、視界はしだいに明度を増していった。木々がまばらになり、下草が背を伸ばし、森の香という名の通奏低音がdecrescendoするとともに、新しいテーマが内面から充実してゆく。風も異なった色合いを帯び始める。何らかの大いなる変化の確信は、今や最高潮に達しようとしていた。 突然、彼は白日の光のもとにさらされる。それは予想外の温もりとともにあった。霜月の陽射しは憂いを秘め、儚げである。 目が慣れる速度と軌を一にし、彼は自らの下方に、何やら空の様子をおぼろげに映している巨大な紺碧の円盤の存在を認識した。それは水面に微かなさざ波の立つ小さな湖であった。 それは彼が初めて目にする液体の集合体であった。彼にとっての液体は、空から落ちてくる点であり、線であった。彼はここに、面としての液体を見いだしたのである。畏敬の念と偽りのない感嘆、裏切らないで欲しいという一抹の強い願い、理由なき期待、心の自由――加えて〈遠くない将来に何もかもが期限を迎えるであろう〉という、旅程の果てに特有の充実感と喪失感、遙かな場所まで流れ止まぬ溢れんばかりの思いを胸に。 淀んだ水面が迫ってくる。その瞬間が近づくにつれ、にわかに彼はとてつもない畏れを抱いた。この湖――彼にとっての紺碧の円盤――に吸い込まれてしまえば、その中で彼の存在はあまりにも小さく、食われて溶けて消えるだけである。往生際が悪いと理解しつつも、彼は出来る限り上下左右に身をくねり、距離を稼ごうとするだ。自らの証を賭けた最後の挑戦であった。 同じ頃、彼女は綴じるのを終え、戯れにページを繰っていた。 アルバムの最初の台紙には、写真の代わりに何枚もの桜の花びらが散りばめてあった。鮮やかな桃色だったはずの染井吉野は、すでに色が失われて久しい。それは寂しさよりも虚しさを喚起し、日めくりカレンダーよりも残酷で精巧な時計であった。 白く縮まった桜の花は、桜の花であることをやめたばかりではなく、もはや何の花びらでもない。いや、花びらでさえない。炭酸飲料の泡が抜けたかのように無意味で、化学方程式で表現できる程度でしかない単なる空っぽの物体へと退化していた。 台紙を一枚めくると、初々しくぎこちない微笑みの若い一組の男女が、染井吉野を背景に手を繋いだ写真が貼られていた。 その一方で、彼は覚悟を固めるべき瞬間を迎えつつあった。 彼は限界まで身をよじった直後、いよいよ湖面へ降り立った。 (三)
もはや、あがいても無駄だった。親元を離れて以来、彼の推進力となっていたのは、知的とも思えるほどの複雑さで気まぐれな動きを続けていた風だった。ところが障害物だらけの森を抜けて広い場所に出ると、風はすっかり解放されて自らの速度を誇り、矢のように真っ直ぐに駆け抜けるのみだった。謎めいた調べを全て剥落し、何の不思議もない自然の一事象となって。 最後は磁石に引き寄せられるかのように、研ぎ澄まされた鏡の湖面へ、彼はおそるおそる着水した。片側が濡れると、ゆっくり景色が傾いてゆき、彼は波の狭間に身を横たえていった。 穏やかな湖面の最上部を、彼は沈むことも出来ず、しばらく漂っていた。湖の水は、かつて味わった秋の時雨よりも穏やかでさえあったが、身が凍えるほどに冷たく、静かな暴力によって絶え間なく彼の体温を奪った。それは己の内部にどんどん流れ込んで意識の領域を狭め、感覚ばかりではなく正常な思考さえ失わせる。混濁し、朦朧とする意識の中、彼は安らかな空を夢想した。その象徴としての白い雲が、見上げた先の遥か遠い世界を流れている。自分と同じように微細な動きの積み重ねだが、確かに天の湖を流れている。どこに行き着くのかも知らずに。 日が陰り、さざ波が立った。風たちはまたもや新しい流行を追い、徐々に変化を遂げていた。彼に抗う力はなく、とっくの昔に何もかもを委ねている――やれることはやった、という恍惚感。 秋が部屋のカーテンを揺らし、彼女はとりとめのない想念の底なし沼へはまりかけていたことに気づいた。そんな自分に苛立ちと慈しみを覚え、しなやかな指を手持ち無沙汰に動かす。 かつて違和感なく収まっていた銀色のリングは、もう、ない。 視線を手元のアルバムに戻すものの、幼い自分の映っている染井吉野の写真を見るや否や、腕と背中に鳥肌が立ち、反射的に目を背ける。自分の中の嫌な部分が強く心を揺さぶった。 写真の右ページには、かつて青葉だったものが二枚、垂直すぎず斜めすぎぬ適度な角度に傾き、バランスを取って配置されていた。それは青葉をやめてしまった今となってさえ、鳥の孵化の刹那を、あるいはささやかな〈始まりの物語〉を予感させた。 何の意味も、何の感情も存在しないのだ――無理に納得しようと仮の自分を捏造すればするほど、真の魂は今にも壊れそうな甲高い軋みをあげ、それに比例して指先は震えるのだった。 その割にはあっけなく台紙の一枚をめくる。やはり左のページには写真が、見開きの右側には当時の季節の名残が丁寧に飾られていた。それは時期を過ぎた五月人形のように虚無で、大きさや華やかさに比べ、ひどくがらんとした印象を受けた。 あの時は、そんなこと、思わなかったのに。 彼女は呻いた。それから軽く首を振り、弱々しく微笑った。 その頃、彼は。 厳かに育まれた風の変革は、表面的には先刻の延長線か、せいぜい変奏曲程度にしか思われなかったけれども、着実に浸透を果たしていた。湖に蝕まれるのを待つだけとなり、水面に満身創痍の体躯を広げている彼をも巻き込むほどの実体的な雰囲気として、その移ろいは辺りを塗り替えようとしていた。 (四)
湖面は一つの天球として、その内側にいるものしか分からぬほどの緩やかさで流れ、神秘的な循環を繰り返していた。人間の髪や爪のように水も変わってゆく。今の水はさっきと同じように見えても、実質的には全く異なっているかも知れないのだ。 生の領域からほとんど足を踏み外していた彼は、冷たさの中に鋭い部分と柔らかい部分があることを朧気に感じ始めたが、それは錯覚のようにも思えた。時間だけが真に持ちうる〈限定〉という絶対的な魔力は、ニュートリノとなって彼を素通りした。 空気と水に挟まれたまま夢みるように漂っている彼の姿を、風に乗って飛んでいた頃の自分が見下ろしている気がした。ここで湖と同化し、プランクトンの養分となるだろう。その考えは遠い内側から聞こえてくる声のようでもあり、なおかつ他の世界から届くメッセージでもあった。自他の区別が曖昧になり、半透膜の境界が溶け、一つの自然となる――かつて水を吸ったぶん、今こそ自らがそれに転ずることで罪を贖おうとするかのように。 彼は諦めよりも、むしろこれで貸し借り無しという清々しい思いを胸に、混濁した意識を辛うじて支えていた碇を静かに手放した。彼の〈心〉も、湖を流れる彼の身体と何ら変わりはない。 彼女は再びページをめくった。 写真――周りの全てを拒絶してささやかな私的空間を演出する、大きな鴉(カラス)色の傘の柄を、二人で握りしめている。細い雨の筋が、フラッシュによって固められている。二人ははにかんだ表情をし、その後ろには深い藍色や紫の花園が見える。 カメラからの光が届く場所は妙に白く、その範囲を過ぎてしまうと薄暗く淀んで見える。銀のかたちをした非鉄金属の傘の柄に触れた時、ちくりと感じた、針が刺さったような――ドライアイスをつかんだような指先の奥へと伝わる痛みが、ほんのわずかな間だけ甦った。その感覚のみがはっきりと追憶できる全てであった(そもそも追憶自体が、想像と事実を置換し、物事を歪ませる不確かな行為であることを、まだ彼女は認めたくない)。 あの頃、彼女が右手で握りしめていた傘の柄は、やがてかつての恋人の左手に置き換わった。もう少しで往時の温もりにさえ追いつけそうだったが、その微妙な温度はどこまでも逃げていくのであった。それは時間の流れに乗っているのだから。 梅雨という季節を切り取った二人の写真の横には、老人の白髪の固まりと良く似ている紫陽花の花びらの残骸が見えた。 彼女はページを繰る。誰もいない部屋にその音だけ響いた。 意志を持って動き出した風の作用を受け、彼はいつしか小さな堰に漂着していた。最後まで粘り強く飛距離を伸ばしたのが幸いした。あの時の彼の抵抗は決して無駄でなかったのだ。 (五)
高速道路の料金所を彷彿とさせるコンクリート製の堰は、河の開始地点に橋となってかかり、たくさんの四角い横穴で水の流れを仕切っている。それぞれの穴には牢屋のような支え棒があり、水は通すけれども大きなゴミは抜けられない造りだった。 堰には彼の仲間たちも引っかかっていたが、大部分は死骸であった。頭をもたげ、腐りかけた者たちが異臭を放っている。鼻も嗅覚も持たぬ彼だけれども、身体の奥まで染み込んでくる酸っぱい強烈な匂いで、辛うじて意識を取り戻すことが出来た。 みじめな死の山は、彼の存在の根元にある〈生への執着〉という名の暖炉へ絶えず薪をくべ、鮮烈な炎を燃えたぎらせる。 彼は本能的にこの堰を越えようと考え、全身全霊の力を込めた。まずは身体を起こすため、前段階として藻掻こうとするが、神経が凍えきっているため力が入らず難儀した。ここでは堰の四角い穴のために流れが速まっているのも悪条件であった。 過ぎゆく時間のように次々と襲い来る圧倒的な水は、彼の身体を支え棒に叩きつけ、打ちのめした。勝っても負けても、これが最後の冒険になることを彼は了解している――今後を考える必要はない。彼はこの場所で全力を使い果たす覚悟だった。 次のページには、かつての恋人に肩を抱かれた彼女の写真があった。開放的な夏空の下、公園の噴水は涼を振りまき、たどり着けぬ天の高みを目指している。からっとした熱い陽射しを跳ね返し、彼女の白いワンピースが眩しく輝いていた。右側には向日葵(ひまわり)の花びらが二十枚ほど丸く貼り付けられているが、中心部はぽっかりと空いており、みすぼらしかった。 アルバムの台紙をめくる。夜の河と大勢の人々、屋台の煙と食べ物の匂いを背景に、彼女が現れた。今回は一人で映っていたが、その視線は撮影者の存在を意識させた。写真の枠の中で恥ずかしそうに頬を染めた彼女は、紫を基調とした新品の浴衣に身をつつみ、ウエストの辺りで帯をきゅっと締めている。 安定感と安心感の滲み出ている、これまでで最高の笑顔だった。他人の瞳で見下ろしている晩秋の彼女の厳しかった表情もかすかに和む。その右ページには、季節のかけら――折々の花や葉の代わりに、大輪の花火の咲き誇る一瞬を捉えた写真があった。写真の隅の電子日付は八月十六日となっている。 そこから先は見るのが辛い。手が止まり、彼女は天井を見上げた。私、何やってるんだろう、何を怖がっているんだろう、馬鹿だなあ、と喉の奥の方で呟いてみる。が、恐れの元をカモフラージュすることは不可能だった。ゆっくり目線を下ろせば、まだ四時過ぎだというのに窓の外は早くも日暮れを予感させている。 瞳を閉じ、心を整理して意を決するために十数秒を要した。それからおもむろに右手を差しのべ、アルバムの時間を進める。 (六)
若い水流の力は休むことなく彼の身体を痛めつけたが、それはいささか強すぎた。完全に押さえつけられた彼は、じわりじわりと戦線を後退し、支え棒に貼り付くような形へと持ち込まれていった。それだけでは飽きたらず、彼の上体を持ち上げてゆく。 皮肉なことだ。身体を起こすために河へ挑んでいた彼は、今や敵であるはずの水の力を受けて立とうとしていたのである。 そして風は見ていた。どんな言語が介在したのか――それを知るのは風のみである。とにかく、風は彼らにしか通じない交流の仕方で話し合い、同意の上、一斉に吹くのをやめたのだ。 次の瞬間、風は溜めた力を結集し、その日で一番強く湖のほとりを駆け抜けた。それは奇跡でも何でもなく、彼の執念が呼び寄せた幸運だった。彼の身体の上半分、空を向いている方が完全に水で濡れていなかったのもチャンスの成就を助けた。 ふわりと身体が浮く感覚があった。 スローモーションで、堰の全容が後ろに去ってゆく。 気がつくと、彼は堰を越え、湖を出た河の動きに乗っていた。ささやかでも、れっきとした一筋の流れである。彼は着実に下流へと歩み始めた。いつしか西の空は、彼がそうだったように、ゆったりと赤く色づき始めていた。溶かした静寂そのものを老舗の職人が薄く塗ったような、透き通り、しかも深い赤だった。 何事もなかったかのように、黄昏の風は見えない模様を繊細に描く。ボロボロの彼にも、その涼しさは心地よく感じられた。 彼女はアルバムの時間を進めた。 八月の最後の日曜日、海を背景に立っている彼女の表情は冴えない。最初に経験した喧嘩から仲直りした直後に撮ったものである。精一杯、楽しそうに装っているのは単なる強がりで、むしろそれは支えのあやふやになった不安さを露呈していた。 夏の真ん中に最大限まで版図を拡大した二人の小宇宙は、徐々にほころびが見え隠れし始めた。それは左ページの彼女の表情に顕著であった。秋が深まるとともに、つまらぬ喧嘩が増え、二人の関係は急速に冷え込んでゆく。九月以降の写真に、二人で映っているものはなかった。背景からは自然が姿を消し、近代的なビルの下層部や地下鉄の駅に置き換わった。 それでも見開き右側の台紙には、彼女が一人で探してきた当時の風物が貼り付けてあった。黄緑の葉、黄色の葉、赤い葉。まだ色褪せていない鮮烈で生々しい色が、左ページで展開される一つのコミュニティーの終焉と、実に対照的であった。 十一月。 写真からは彼女の姿も消えた。 彼女が撮った、誰もいない、この部屋の写真であった。 彼女の瞳の奥に、一粒だけ、生まれ出ることの出来ぬ涙が置かれていた。崩壊へ向かって突き進んだ短い物語がついに終わったことを再確認したから――というより、もっと普遍的な理由、すなわち季節の移ろいの非情さに打たれたのであった。 右ページは、先ほど追加したばかりの真新しい台紙である。ありきたりの空白さえ寄せ付けない、絶対的な虚無の世界。 確かに、これをめくった先の、裏見返しと並ぶであろう正真正銘の最終ページは、白銀こそが相応しいだろう。ただ、今の右ページではタイミング的には微妙に早い。彼女の考えでは、ここには冬を予感させる晩秋の風物が飾られるべきであった。 確かに、くだらぬことではある。死んだ作家の小説のように、復活の可能性が絶たれた、完璧に閉ざされた領域を作ること。彼女がやろうとしている行為は、そういうものに分類される。 しかしながら彼女は、この物語を責任持って終結させる義務があった。最後まで看取らなければ、彼女は新しい彼女へと駒を進めることが出来ない――そう信じていたからこそ、勇気を出して最初から順を追い、こうして思い出の軌跡をたどったのだ。 そして、この部屋でやることはやり尽くした。 アルバムを閉じ、脇にかかえて立ち上がり、ドアを開く。 彼女は自宅から遠くない小川のへりを歩いていた。かなり薄暗くなっており、しんしんと音もなく冷え込みが迫り来る。すれ違うのは犬の散歩をしている者や、マラソンをしている高齢者、自転車に乗って帰宅を急ぐ小学生らで、みな孤独であった。 古ぼけた石の階段を四段下りると、川辺に着く。コートの裾が濡れないように気をつけて彼女はしゃがみ、目を凝らして、足元の暗闇をじっと見つめる。昼間は浅い河も、暗闇を飲み込むと深くなる。それを見る者の内側にある追憶の深さに違いない。 しばらくして、探し求めているものが見つからないことに気づく。わずかに口を開けば、洩れだした息はぼんやり白かった。 その時である。 霧散する白い息の向こうに。 想像よりも遙かに相応しい晩秋の象徴であった。 それが川面を滑り、彼女の前に姿を現したのだ。 彼女は魅せられたように手を伸ばし、迷わずに〈それ〉を掬い取った。河の水は氷のように荘厳で、彼女の指先は凍えた。 心の中のアルバムを広げる。最後から一ページ前――実質的な最終章――に、ボロボロとなった〈それ〉を貼り付ける。 まだ太陽が高かった頃、森の奥の広葉樹から帰らぬ旅路を歩み始めた一枚の落ち葉。美しい赤を通り越して茶色となり、ぐっしょり濡れそぼった落ち葉。それでも妙に存在感の残っている〈それ〉は、すなわち湖を越えて流れてきた〈彼〉であった。 これがふさわしい。これで私の昔に終止符を打つ。 彼女は呟いた。それは安堵の溜め息だったかも知れない。 やがて決然と振り返り、注意深く階段を登る。後ろから押してくる木枯らしに背中を丸め、彼女は身を震わせて家路をたどる。冷え切った二つの耳には、真っ暗な空の遠くから届いた聞き覚えのない鳥の声が、哀れに響いていた。彼女は歩き続けた。 落ち葉の〈彼〉は、彼女の思い出の一部となって、閉じた世界の中で永遠に生きるだろう。もちろん永遠に朽ち果てながら。 アルバムの最後のページには何もなかった。 冬が始まった。白銀の地に、雪はしんしんと降り続いてゆく。 | ||
(了) | ||
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