<大夕張(おおゆうばり)〜千年町(空撮)> 撮影:2020/10/17 12:29頃
<夕張市の鉄道路線>
2020年10月17日(土)、羽田空港⇒旭川空港ゆきの [AIR DO 083便] 右側座席より、
北海道・夕張市の 南大夕張(南部)、大夕張(鹿島)、シューパロ湖 周辺を空撮しました。
普段通りのルートなのか、偶然なのか存じませんが、大夕張地区を見るのに完璧といえる経路でした。
当日の天候は晴れで、ちょうど昼時(12:30頃)でしたので、木々の影が短くて見やすかったです。
主に動画で撮影しました。動画本体、およびコマ送りで写真化したものを、順次ご紹介します。
過去に3回(2014年 2017年 2018年)、大夕張〜南大夕張の近辺の炭鉱町を訪ねてきました。
2020年の旅 では立ち寄れない予定でしたが、往路の飛行機から見ることができて、感激しました。
今回のルートは「三菱大夕張鉄道」が走っていた南大夕張駅⇒大夕張駅付近の上空に近似します。
言うなれば、たった1分程の「大夕張銀河鉄道」の空の旅でしたが、両眼を見開き、車窓を凝視しました。
(南大夕張〜大夕張炭山は1973年に廃線、残った清水沢〜南大夕張は1987年に廃線)
国土地理院の航空写真やドローンにもそれぞれの良さが有りますが、本章では素人の人間(私)が、
手でカメラを操作しながら、意思を持って撮りたい場所を撮った画像群をご覧下さい。
↓ 【動画】はこちらです ↓
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[2020/10/17]
[動画] 大夕張 飛行機からの空撮
ダムに沈んだ炭鉱町 南大夕張⇒大夕張
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画面中央の「夕張シューパロダム」(2015年竣工)の堤高は110.6mです。
下から見ると白い壁のように見えるのですが、上から見ても、やはり絶壁でした。
あれだけの水量を“一人”で支えていると思うと、すごいなあと思います。
ただ、その「高さ」によって、炭鉱町・大夕張は1998年に幕を下ろすことになりました。
さて、以下の写真の範囲には、下記の施設が眠っています。(基本は常時水没)
・大夕張ダム(堤高67.5m、1961年-2014年)
・三弦橋(下夕張森林鉄道・夕張岳線「第一号橋梁」)
・国道452号線の旧線(ダムより先が水没)
・三菱南大夕張鉄道跡( 〃 )
左下の山は「三菱南大夕張炭鉱」跡です。何やら人工的な施設があったように見えます。
1枚目は写真、2枚目は動画の1コマです。(以後、特筆事項がなければ動画の1コマを切り取り)
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少し雲が出てきたので、カメラのズームを引いて、シューパロ湖の全体を見渡しました。
一番右下が南部青葉町で、かつてはびっしりと炭鉱住宅が建っていたようです。
青葉町から左上に「夕張シューパロダム」の管理棟を目指す道路が見えます。(私は2014年に歩きました)
この「道道136号夕張新得線」は、シューパロ湖の付け替え部分は未成道となり、遺棄されたトンネルがあります。
その左側が「南部」(南大夕張)の中心地で、南大夕張駅の跡には車両が保存されています。(1987年廃線)
それらの左側の山に、三菱南大夕張炭鉱があったようです。(1990年閉山)
現在のシューパロ湖は、2014年に「夕張シューパロダム」が試験湛水を開始して「拡大」したシューパロ湖です。
以前は、ほぼ同じ場所に「大夕張ダム」があり、面積の小さい「初代のシューパロ湖」が存在していました。
こうして上空から見てみると、確かに「ダムに適した地形」に見えましたが、山の迫る険しい地形でもあります。
大夕張と南大夕張を行き来する場合、1962年に道路が開通するまで、鉄道が唯一の交通手段だったそうです。
2枚目の写真の左下が“明るい石炭の町”として命名された「明石町」です。
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※写真にマウスを載せると、画像が変化します。
一番下の白い道筋は、現在の国道452号線(ダムの付け替え道路)です。
やや左下の開けた辺りに、夕張東高校(夕張鹿島高校)があったようです。
その上の、緑色で塗ったラインは途中で湖に没しますが、これは国道452号の旧道です。
右上の湖畔にも線が見えますが、こちらは白金地区に向かう旧道の跡と思われます。
ダムが2014年に拡大する前、陸地だった部分は、今でも浅瀬/干潟/環礁のようなライン(黄色)を残します。
かつては、ここが陸地だったことを示しています。ダムの水位が減ると、再び現れるのでしょうね。
写真の中央少し左、湖を渡る長い橋が架かっている足元が明石町の炭鉱町でしたが、ほぼ水没しています。
注目ポイントとして2点挙げます。
まずは右側のオレンジ色の丸で囲んだ部分です。
こちらは「白銀橋」の旧橋で、アーチ橋の上の部分が辛うじて水面上に出ている状態です。
写真下側の明石町と、夕張川(シューパロ川)の対岸にある白金地区を結んでいました。
ダムの拡大後は、左側に作られた長い橋が、新「白銀橋」として対岸とを繋いでいます。
最後に、やや左下の赤丸部分です。
緑のライン(国道452号線の旧線)の「明石橋」で渓谷を越えますが、道路のすぐ下に、もう1本橋が見えます。
こちらは三菱大夕張鉄道の「旭沢橋梁」です。
珍しい「トラスド・ガーダー」という形式で、背の高い橋でしたが、足元から半分以上水没しているようです。
ただ、ここに日本の産業を支えた炭鉱鉄道があったことを示してくれる、貴重な生き証人となっています。
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千年町(ちとせまち)の上空です。
ここから先、最盛期に2万人以上の方々が暮らしていた大夕張地区の核心部に入ってゆきます。
┻ の形の旧道の根本辺りに、大夕張鉄道の千年町駅があったようです。
長い一本道は、もっと奥まで続いていたはずなのですが、一部水没しています。
その水没した先端付近には「鹿島東小学校」があり、正面方向には夕張岳が望めたようです。
千年町といえば、ドラム缶で作られたキリンの「キリ助」君がいるはずなのですが、私はまだ会えていません。
彼はどこにいるのでしょうか、写真で見ても分かりませんでした。いつか会える日が来ることを願います。
右上は「常盤町」の一部です。鹿島橋という橋で千年町と往来できたようですが、途中は水没しています。
常盤町には鹿島中学校があり、路線バスもここまで乗り入れていたそうです。とても奥深い“炭鉱都市”でした。
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三菱大夕張炭鉱によって繁栄した炭鉱都市「大夕張」の中心部です。
この町を知らない方でも、飛行機から見たら「何かがあった?」と気づくのではないかと思います。
中央下の道路がたくさん集まっている辺りが「大夕張駅」で、その右側に「鹿島小学校」があったそうです。
そこから左上に一直線に伸びる道が「大夕張駅前通り」で、商店街になっていました。
白っぽい長方形の敷地は、町の跡ではなく、主に「夕張シューパロダム」建設関連の施設跡のようです。
炭鉱が隆盛だった時期に暮らしていた方に、お話を伺ったところ――。
・鹿島小学校は一時期、児童数2,000人を超えるマンモス校
・三菱購買会というスーパーマーケットや、各種商店、飲み屋・スナック等
・劇場、映画館、スキー場、プール等の娯楽施設
・鉄道の大夕張駅、札幌までの直通バス、市役所の支所、銀行の支店や郵便局等
そのような「何でもある」賑やかで活気のある町だったそうです。
どこに何があったかの詳細は 「ふるさと大夕張2丁目3番地」様 の情報をお薦めいたします。
その後、1973年に炭鉱が閉山して人口が流出、ダム建設の影響で1998年に閉町となりました。
それから22年が経過しましたが、多くの人々が暮らした「痕跡」は、今でも確りと大地に刻まれております。
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今回の“空からの大夕張訪問”は、これにて終幕です。
南大夕張駅から大夕張駅まで、空の「大夕張銀河鉄道」にご乗車、ありがとうございました。
飛行機はこの後、左側に進んで旭川空港を目指しました。
大夕張炭鉱跡(鹿島北栄町)は写真の左下の方角にあったので、撮影は叶いませんでした。
なお、夕張市の広報(2020年10月号)や北海道新聞社様の記事によると、私が撮影した1ヶ月半前、
2020年9月6日に「沈んだ町あるき」という無料の散策イベントが開催されたそうです。
市広報によると「約1,600名が(中略)散策しました。」との事で、関心を持つ方が多いのだと感じました。
私の撮影した動画・写真でも、昔のことを思い出したり、何かの研究の一助となれば幸いです。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
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◎過去の訪問記
・大夕張2014 春
・北の大地紀行 2017
・北の大地紀行 2018
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