2002年 8月

 
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2002年 8月の幻想断片です。

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  8月31日− 


 潮の香が辺りに漂っている。
「クリス様、お食事の支度が整いましてございます」
「はい、わかったわ。ただいま行きますと伝えて」
「かしこまりました」
 金の滝のような巻き毛はお気に入りの侍女が整えてアップにし、髪留めで止めた。公国直属船の水夫の白い制服を好んで着用し、ズボンは肌にピッタリとして動きやすく、強調された脚の長さは見る者の目を惹いた。椅子から立ち上がると、女性としてはかなり背が高いのに気づくが、ウエストが細く、大柄だとは感じない。クリスは大きく伸びをして、首を左右に動かした。
 ドアを開けると木の床を張った広い甲板で、見上げればと西風をいっぱいに受けた白い帆が風をいっぱいに孕んでいた。見下ろせば蒼い海には波頭が揺れ、それはルデリア世界の東に横たわり、どこまでも果てなく続くと伝えられる〈永海〉である。
 船員たちに挨拶をしながら食堂へ向かう途中、見慣れた男と鉢合わせた。五十を過ぎたが、体格の良い生粋の海の男だ。
「おはようございます、クリス様。よくお眠りになりましたかな」
「おはよう、グローズン」
 クリスは屈託のない普段通りの笑みを振りまいて応えた。
「ぐっすり眠っちゃったわ。立派な船員たちがいるから安心ね」
「こりゃまた、朝からお世辞がお上手だ」
 あご髭をたっぷりと蓄えた船長のグローズンはさも楽しげに大声で笑い、二人は並んで談笑しながら食堂へ向かうのだった。

 シャムル公国の第一公女であるクリス・シャムール姫は、向日葵(ひまわり)を彷彿とさせる若さの盛りの二十一歳である。ミザリア国のララシャ王女とはまた違った方向で、活発で積極的で健康的な姫君である。外見的には可愛らしいというよりも美人タイプだが、気だては良く、民衆の人気は高い。年頃であり、当然の結果として貴族からの結婚の申し込みも数多いが、兄のクロフ公子の嫁が決まるまでは、と断り続けている。
 だが実際のところ、クリスは〈もうしばらく自由を謳歌したい〉という、公爵の娘としては斬新な考え方をしていたのであった。
「そう、この海のようにね――」
 向こうに幾つもの島影が見えてきた。公爵家の代表として視察に訪れるシンシリア列島だ。クリスは潮風に吹かれ、ゆっくりと島が近づいてくる様を、落ち着いた心持ちで眺めていた。
 


  8月30日◎ 


[題名未定(8)]
 部屋が暗くなり、ケレンスはとりあえずランプを点けようと立ち上がった。テーブルの片隅の火口箱を開け、道具を取り出し、馴れた手つきで火を起こそうとするが、雨のあとで空気が湿っているせいか、なかなか上手くいかない。物音が気になったのか、夢と現実の間を彷徨っていたリンローナが目を覚ました。
「誰……」
 彼女は相変わらず布団から顔を出さずに言った。喉をやられたのか、声はしわがれ、注意していないと聞こえないくらいだ。
「お姉ちゃん?」
「喋るな」
 ケレンスが厳しく応えると、相手ははっと息を飲み込んだようで、気まずい間があった。それから彼女は恐る恐る顔を出す。
「ケレンス? ……けほっけほっ」
「喋るなって言ってるだろ」
 ささやくような音量で、しかし不満そうな言い方でケレンスは念を押した。聞き手のリンローナは、むしろケレンスがあまり怒っていないことを察知し、薄暗い中で上半身を起こした。その間に、ケレンスの作業が功を奏し、部屋にかすかな光が灯った。
「大丈夫、休んだら、だいぶ良くなったよ。風邪のひき始めだし寝てれば治るよ。ごほっ……家庭教師の疲れもあるだろうし」
「あんな雨で無理するからだろ。もともと体力ないくせに」
 ケレンスは内心、相手がどんな反応をするかビクビクしながら、わざと批判めいたことを呟いた。リンローナはうなだれる。
「クッキーの件は悪かったな。俺、自分の誕生日なんて、ほんとに、すっかり忘れてたんだ。まさか、そんなことだったとはな」
 相手の反応が弱いので、ケレンスは躍起になって話題を変えた。やはり風邪気味で元気がないのだろうかと心配しながら。
「そもそも、誕生日の話なんて、滅多にしなかっただろ?」
「何だ知ってたんだ。驚かせようと思ったのに失敗しちゃった」
 いつもなら、ぺろりと舌を出すところだが、リンローナはこみ上げる咳を抑えて会話するのがやっとのようで、時折、苦しそうな吐息を洩らしたり、胸の辺りを抑えたりした。そして再び語る。
「せっかくの誕生日なのに、台無しにしちゃったね。あたし馬鹿みたい。ほんと馬鹿だよね、また、みんなに迷惑かけて……」
 リンローナは途中から涙声になった。ケレンスはどう反応したら相手を傷つけずに済むのか迷ったが、敢えておどけてみた。
「別の意味でもっと驚いたな、俺は」
「ごめんね……ごほっごほっ」
 リンローナの澄んだ瞳からこぼれだした熱い液体は布団を濡らしていることだろう。心と病の二重の苦しみに耐えていると思われるリンローナの想いを考えると、ケレンスは胸が張り裂けそうな切ない気持ちになった。でもタックのように上手い言葉が見つかるわけでもなく、ルーグのような威厳も見せられず、十八歳になったばかりのケレンスはどうしていいのか分からない。
 発作が治まり、唐突に質問したのはリンローナだった。
「じゃ、ケレンスは自分の誕生日を忘れてるくらいだから、あたしの誕生日なんて、絶対に知らないよね? まだ先だけど」
「知らねえ。二月だったっけ?」
「うん」
「一日だったか?」
 少し照れながらケレンスが応えると、リンローナは急に身を乗り出して、信じられない体験をしたような口調で問いかけた。
「憶えてたの? 憶えててくれたの?」
「別に。たまたま覚えやすいからだろ……おいリン、寝てろよ」
「なーんだ、そうなんだ」
「まあ、金に余裕があって、気が向いたら、なんか欲しいものを買ってやってもいいぜ。その時まで憶えてたらの話だけどな」
 その時、ドアをノックする音が聞こえた。シェリアの声だ。
「宿の人から特製の風邪薬をもらってきたわ」
 真っ暗な中、ランプの弱い光だけが散らばる部屋で、ケレンスとリンローナは闇という名の鏡を境に微笑み合った(続く?)。
 


  8月29日○ 


[あの日]
 
「きもちぃ〜」
 長く猛威を振るったイラッサ町の〈夏〉にも、少し陰りが見え始めた。海沿いの大通りでは、夕方になると驚くほど涼しい風が吹くこともあり、ウピはふと立ち止まる。額にかかる黄金色の前髪はふわりと舞い上がり、黄昏の光を浴びて赤くきらめいた。
 休みの日、ルヴィルともレイナとも都合が合わず、暇を持てあまして久しぶりに海辺の道を独りで歩いた。一年中、泳ごうと思えば泳げる亜熱帯のミザリア海だが、クラゲが水中の蝶のように我が物顔で浮遊している今の時期は泳ぎに適さないため、砂浜の人影は一ヶ月前とは比較にならぬほど疎(まば)らとなり、海の花園も最盛期からすれば目に見えて色褪せていた。

 海の花園――。
 潤月(うるおいづき=七月)ともなれば、ミザリア島は山だけでなく海の中まで夏の花が咲き乱れる。裸足で立っていられないほど白砂は燃えるように熱く、透き通った海水を湛えた遠浅の波打ち際と、水底で揺れる珊瑚の花は、まさに〈海の花園〉の名にふさわしい。ルデリア世界では、ミザリア島か弧状列島、あるいはフォーニア島といった熱海(ねっかい)の周辺でしか見られない独特の景色である。潮の香りまで、どこか情熱的だ。
 風は海に潜って汐となり、また陸へ顔を出して草木と戯れる。岩場の細い海流で、小魚とともに波の先端はちゃぷちゃぷ跳ねる。水面に映る第二の太陽は静かに揺れ、そして夕暮れはひときわロマンティックになる。空と海は一対の美しい水彩画となり、時間と空間を越えて、どこまでも果てしなく広がってゆく。
 
 あの日の回想から、ウピはふと我に返った。
 南国の木々は紅葉しないし、相変わらず厳しい残暑は続く。だが、そんな中でも季節は確実に移ろってゆくのであった。あの日と良く似た日没も、ウピの心は全く違うものとして捉えた。
「さあ、帰ろっかなっと」
 ウピはゆったり家路をたどることにした――秋の歩く速さで。
 


  8月28日○ 


[題名未定(7)]
「ゴホゴホッ……」
 時折、リンローナは布団に顔をうずめて、苦しげに咳をした。
「あとは、私がやるわ」
 医師が帰ったあと、雨はようやく霧になったものの、夕方を迎えて更に暗くなった宿の一室で。シェリアがぽつりと洩らした口調は軽かったが、言葉の内に重みがあり、決然としていた。ケレンスとタックとルーグの男三人衆も心配そうにリンローナのベッドを見下ろしていて、真っ先に反応したのはケレンスだった。
「待てよ。俺のせいなんだから看病は俺がやる」
「別に、誰のせいでもないだろう。過剰な責任感は無用だ」
 ケレンスを素早く制したのはルーグだ。シェリアも続く。
「ここは女性部屋だってこと忘れたの? 悪いけど男の人は出てって頂戴。どうせ今夜はこの子と一緒に寝るのよね、私」
 それに、この子は私の実の妹なのよ――シェリアはそういう気持ちを心に隠して、わざと語調を強めた。風邪が移るなら自分だけで充分だから、ケレンスには思い留まって欲しかった。
 その辺りの事情を汲み取ったタックが友の肩に手を載せる。
「ケレンス」
「……分かったよ」
 ケレンスはうつむいたが、まだ完全に諦めてはいなかった。
「分かった。じゃあ、お前ら、先にメシを食ってこいよ。その間、俺が様子を見る。誰かしら居た方がいいだろ。で、あとは入れ替わりでシェリアにバトンタッチする。これで文句ねえだろ?」
 しばらく誰も返事をせず、部屋には沈黙の神が舞い降りた。リンローナの悪性の咳がぶり返し、それが収束してゆく。過ぎ去った雨の粒が軒先から落ちて弾ける微かな音が耳に届いた。
「それでいいわ。頼むわね」
 シェリアは無感動に言い、先頭を切って部屋を出ていった。タックとルーグは後ろ髪を引かれる思いで、患者を心配そうに見つつ、そっとドアを閉めた。ケレンスとリンローナとが残され、いつしか日はとっぷりと暮れて、紛れ込む闇はひどく優しかった。
(続く)
 


  8月27日− 


[こっこ 〜夢で逢ったひと〜(1)]
 僕がその女性に初めて会ったのは、ゴールデンウィークに入ったばかりの、大学のサークルの飲み会であった。当時、僕は大学卒業間もない社会人一年生のOBで、そしてその女性は入部したての大学一年生であった。僕らは、多分たまたま(もしかすると運命の巡り合わせだったのかも知れないが)五十人ほどいた居酒屋の会場の中で席が隣同士になったのである。
 こっこ――女性の愛称である――は、全体的に整った顔立ちの割に目がやや細く、容姿的には多少、損をしているタイプであった。その目のためもあろうが〈さばさばした感じ〉の前に〈厳しそう〉な第一印象を受ける。良く梳(と)かされた黒い髪は長く、後ろの茶色い髪留めで束ねられており、つやつやした素材で作られたワイン色の上着は買ったばかりのようだった。後輩の男たちも、どことなく彼女を避けているようだったし、こっこ自身も明らかに周りを警戒し、寄せ付けないオーラを発していた。
 とっつきにくそうだが、面白い、と僕は思った。何故、そう思ったのかは今となってみると良く分からない。彼女の横にあいていた独り分の隙間が妙に気になったのも理由の一つだろう。ただ言えるのは――確かに学生のノリの馬鹿騒ぎの飲み会は僕にとって懐かしいものではあったが、すでに社会人となり、研修の課題も難しくなり、卒業証書という一枚の紙切れではなく、そろそろ学生時代の考え全てを〈実質的に〉卒業していく時期に差し掛かっていたということ。あまり馬鹿騒ぎをする後輩の横に陣取るよりは、話しかけても反応を導くことさえ困難そうな彼女の方が、当時の僕には好ましく思えたのかも知れない。むろん、現在の僕だって、きっと同じような行動を取るだろうと思う。

 僕が隣に座ろうとすると、こっこは一瞬だけ細い目を開いて、驚いたように僕を見上げた。だが、僕が腰を下ろし始めると観念したようにうなだれ、次は興味なさそうに前の方を向いていた。
 しばらくするとビールが配られ、場はさらに騒がしくなった。こっこは僕のグラスにビールを注いだ。手はほっそりとしていて、爪にはマニキュアは塗られていなかった。僕は幾つかの情報を総合し、この子は地方出身者ではないか、と思った。今度は僕がビールを勧めたが、こっこは何も言わずに小さく首を振った。
 こっこは結局、僕の正面の女の子とウーロン茶を注ぎ合っていた。二人は友達というわけでもなさそうだった。特に、こっこにウーロン茶を注いだ方の女の子は、眼鏡をかけて寡黙そうで、未成年者も大勢含んでいる飲み会の成り行きを怖がってでもいるかのようにビクビクしており、もともと小柄なので小学生のように見えた。僕は心の中で苦笑せざるを得なかったが、だからと言って、話しかける気は起きず、彼女の印象は消え失せた。
 僕は、右隣にいる〈こっこ〉に対し、まず最初はどのように話し出そうかということを、繰り返し繰り返し考えていたのだった。
 やがて乾杯の音頭があり、僕らはつまらない儀式のように、かちんとグラスを合わせた。そして、僕もこっこも、正面の眼鏡少女も、グラスに一口付けただけで自分の世界へ潜った。僕の左隣は壁だ。騒がしい会場で、その一角だけが死んでいた。

 ようやく考えついた質問は、本当に取るに足らぬものだったが、僕はその時のことを今でもはっきりと憶えている。周りの無秩序な声が、僕の耳には、その刹那だけ聞こえなくなった。
「高校時代には、友達から何て呼ばれてたの?」
「あたしですか?」
 こっこは僕の方を睨むように向いた。その仕草は尖ったシャープペンシルを彷彿とさせ、しかも面倒くさそうで、怒っているようにさえ見えるのに、何となく安心もしたような、翳りのある微妙な笑顔を僕にくれて。僕の方も影響さえて変な答え方をした。
「まあ、そう」
「こっこ。本名は琴子だけど、言いにくいから」
「こっこ。にわとりみたいだな」
「ふーん。そうですか」
 それが僕らの交わした記念すべき最初の会話だったのだ。
 


  8月26日× 


「あんな、ちっちゃいお店で、平気……?」
 海斗は小声で言いました。家のそばにある、こざっぱりした自転車屋の前です。老眼鏡をかけ、真っ白い髪のおじいさんが、見た目よりも遙かにしっかりした足取りで、売り物を見て回っていました。この場所で、ずっと昔から営業しているのでしょう。
 さっき車に乗って行って来た遠くの巨大なディスカウントストアは、完全閉店セールで賑わっていました。自転車コーナーのお兄さんの態度は素っ気なく、車のトランクに積んで持っていった海斗の自転車は適当に扱われました。頻繁に乗り回しているうちに、ブレーキの掛かり具合が悪くなったので直してもらおうと思ったのですが、実際のところ、調整は逆効果だったのです。
 そして、お母さんに連れられ、海斗は家のそばにあった個人営業の自転車屋を訪れたのでした。店主のおじいさんは、職人気質(かたぎ)というむずかしい言葉がぴったり合う、寡黙そうな人ですが、静かな誇りと自信に満ちあふれているようでした。
「どれどれ……ふーん、直せば問題ないね」
 そう言うと、海斗とお母さんが心配そうに見守るかたわらで、店のおじいさんは工具を取り出して熱心に作業を始めました。色んな部品を外し、タイヤを回転させ、ブレーキをかけ、また調整し、そして手際よく取り付けていきます。海斗の目には、まるで手品か魔法のように見えます。そして五分も経たないうちに、海斗の自転車のブレーキは買った頃のように戻っていました。
「安物の自転車は、すぐガタが来るんだよ」
 おじいさんは見かけによらず、いたずらっぽく微笑みました。心から自転車が好きなことが、幼い海斗にも伝わりました。
「あの、お代は……」
「五百円」
 お母さんが財布を出しながら訊ねると、店のおじいさんは一言で応えました。二人してお礼を言いながら帰ると、おじいさんは店の戸を開けてくれました。海斗は興奮し、もっと自転車のことを良く知りたくなりました。しだいに、このお店の常連となっていくのですが――それはまた別の機会にでもお話ししましょう。
 


  8月25日− 


[題名未定(6)]
「おい、リン?」
 軽いノックを繰り返したのち、ケレンスはドアに頬を寄せ、まずは小さく呼びかけた。部屋の中はしんとしているが、時折、くぐもったように何かの音が聞こえる。もしや、咳……だろうか?
「さっきは悪かったな」
 ケレンスは割合と素直に謝ったが不気味なほど反応はない。ドアノブに力を込めると、すんなり回った。鍵は開いている。
「おい、入るぞ」
 まさか、着替えなんかはしてないだろうな……と心配しつつも、ケレンスはドアを引っ張った。しだいに隙間が大きくなる。
 果たして、リンローナは居た。
 薄暗い部屋のベッドに突っ伏して。
 その姿は弱っている小鳥のように見えた。
「ゴホン、ゴホン……」
「リン!」
 布団に顔を埋めているため音量こそ小さいが、リンローナは明らかに悪性の咳を繰り返している。ケレンスは素晴らしい速さで少女に近づくと、すべすべの頬に手を伸ばした。そこは燃えるように熱く、相手は苦しげに肩で呼吸をしているのも分かった。
「おい、誰か、リンを……じゃねえ、腕のいい聖術師か医者を呼んできてくれ。今すぐだ! どうやら風邪を引いたらしいぜ」
 廊下で待機していたタックは、その言葉を聞くなり、外へ飛び出した。シェリアは慌てて部屋に入ってくる。騒ぎを聞きつけ、ルーグも直ちに目覚めると一階に下りてきた。ケレンスは井戸へ水汲みにゆく。にわかに緊迫したムードが漂った(続く)。
 


  8月24日− 


[題名未定(5)]
「誕生日だって?」
 予想だにしていなかった単語に反応し、ケレンスはテーブルに両手をついて思いきり身を乗り出した。さっきまで顔中に不満を露わにしていたのとは大違いだ。雨は小降りになっている。
「今日、何日だっけ?」
「八月十九日よ。ケレンスの誕生日なんでしょ?」
 斜め左にいるシェリアは眉をひそめ、呆れたように言った。彼女とケレンスとタックは食堂の四人用テーブルを囲んでいた。
「むむ……」
 今日で確かに十八歳になるのだが、ケレンスは自分の誕生日を完全に忘れていた。幼い頃は、既に亡くなった母親が夕食に誕生日のお祝いをしてくれたこともあったが、その後の父親との二人暮らしでは、そういうイベントとは遠のいていたのだ。
「なんだ、とっくにそこまで気づいていたんだと思っていましたが。ケレンスは勘がいいのか悪いのか分かりませんねぇ」
 皮肉めいた言葉を投げかけたタックを、ケレンスはじろりと睨んだが、その昔からの悪友はタイミング良く目を逸らした。
 彼女には珍しく、シェリアが少し深刻そうに口を開いて何か言いかけると、ケレンスもタックも喧嘩をやめて同時に注目する。
「……で、ケレンスは台所で何をやらかした訳?」
 その一言で場の雰囲気が再び凍りつく。キッチンを飛び出したリンローナが、涙をこぼして階段の横にある姉妹の女性部屋に入り、鍵をかけたのをシェリアもタックも見ていたからである。
 ケレンスは唾を飲み込み、うつむき加減で説明する。
「知らなかったんだよ、俺にくれるものだったなんて――美味そうだったからさ、幾つか適当にかっぱらって、試食してやった」
 それを聞いたシェリアは不運を呪うように溜め息をつく。
「まあ、ケレンスが悪い訳じゃないだろうけど、あの子はショックだったわね、きっと。なんか楽しみにしてたみたいだから」
「今さら隠しても仕方がないから全部バラしますけど、結局リンローナさんは夕食の時にケレンスを驚かせたかったんですよ」
「なんだよ、やっぱ俺が悪いんだろ?」
 ケレンスは黄金の髪を無造作に掻きむしった。軽はずみな行動を後悔し、もだえ苦しんでいる罪人(つみびと)のように。
「ま、大したこと無いと思うけど、様子、見てくるわ」
 シェリアが立ち上がろうとすると、それを制止する右手が伸びて、彼女はその場に座り直した。もちろんケレンスであった。
「俺が、行く」
(続く)
 


  8月23日△ 


[題名未定(4)]
 宿に入る頃には、タックは諦める段階を通り越し、むしろサバサバした表情になっていた。やる気にさえなれば、一日中、ケレンスを上手く飽きさせないように町中を歩くことなど訳もない。だが、何しろ今日は天候が不純で気温は秋のように低く、タック自身もいまいち乗り気になれなかった。無理もないだろう。
「もう帰ってきたの?」
 ソファーに寝転がり、かったるそうに魔法書を読んでいたシェリアは、ケレンスとタックを見ると慌てて本を閉じ、驚いた様子で起きあがった。彼女しかいない食堂は薄暗く、寒々しかった。
「じゃあ、部屋に行きましょう」
 最後のあがきとばかり、タックはケレンスの背中を押した。すると、それに口を挟んだのはケレンスではなくシェリアだった。
「ルーグが寝てるから静かにしといてよ」
「なんだ、ルーグ、部屋で寝てるのか」
 二階の寝室への階段を上がろうとしたケレンスは踏み出した足を止める。不運にも、その背中にタックが正面衝突する。
 そして。
 その時、ケレンスは違和感に気づいてしまった。
「なんかいい匂いがするな」
 タックとシェリアは気まずそうに顔を見合わせた。大人たちに隠した嘘がばれないか、ビクビクしている子供らのように。
「たぶんリンだろ?」
 ケレンスは不機嫌そうで、平板に語った。タックの答えはなくシェリアはごくりと唾を飲み込む。どうやら図星のようだった。
「なんで隠すんだ? 徹底的に確かめてやる」
「ケレンス!」
 止めようとしたシェリアはタックに静止される。
「無駄ですよ。いいじゃないですか、おめでたいことですし、いつかはバレるかバラすことですから。仕方のないことですよ」
「でも、あの子、楽しみにしてたし……」
 気の強い女魔術師には珍しく、口ごもる。頭の中では、たった一人の妹の悪戯っぽい笑顔と、弾む言葉が反芻していた。

 お夕飯まで黙っててね、お姉ちゃん。
 ケレンスをびっくりさせたいから――。

 同じ頃、ケレンスは調理場に現れていた。
「やっぱりな」
「あっ……」
 入ってきたケレンスを見るや否や、リンローナは信じられないとでも言いたげな呆然とした表情になる。テーブルの上には焼き上がったばかりのクッキーが並び、香ばしさと熱気とを辺りにふりまく。ケレンスは何らかの異常は感じつつも手を伸ばす。
「なんだ、クッキー作ってたのか。味見してやるよ」
「あっ」
 リンローナは悲鳴のような声をあげた。ケレンスは気にしない様子で、まだ温かいクッキーを二つ三つ、一気に頬張った。
「うめぇ、うめぇ。何でまた、急にクッキー焼いたんだ?」
 その質問を聞き終える間、リンローナの薄緑色の瞳は急速に潤んでいき、やがて泣きながらその場を走り去ってしまった。
「おい、リン?」
 今度はケレンスが唖然とする番だった。テーブルのクッキーからは虚しい余韻のごとく細い湯気が立ちのぼっていた(続く)。
 


  8月22日− 


 ふと
 日の出の少し前に目覚めました
 妙に頭が冴え、眠れなくなりました
 
 上半身を起こして、しばらくボーっとします

 そのとき
 気になったのはカーテンのわずかな隙間です
 チカチカ光っていたので
 もしかしたら泥棒ではないかと思いました

 それでも好奇心にかられてしまい
 立ち上がり
 恐る恐る近づいていきます

 一歩
  また一歩

 足音を立てず、気配を消して


 そして細い隙間から片目で覗くと
 神秘的な光景
 を目の当たりにしました


 蛍光灯のように白く輝く小人たちが
 ベランダの隅で、まあるく輪を描いて
 ゆっくりと回っていたのです

 声を出しそうになるのをこらえます

 小人は全部で六人いました
 背中には畳んだ羽も見えます

 さらに見ていると
 妖精たちは両手を輪の真ん中に差し出したり
 空に透かしたり
 すばやく開いたり閉じたりしました

(手のひらの先で
 光をちらちら散らして
 朝と戯れるかのように)

 すると
 部屋の中に射し込んでくるほど
 力強い輝きが生まれたり

 赤や青、黄色や緑
 特定の色だけを取り出したりしました

 取り出した色を
 混ぜ合わせて遊ぶ妖精もいます

 私は夢の中だろうかと疑いました

 そしてその時

 陽が昇りました
 空には新しい明るさが広がります

 気がつくと
 妖精たちは消えていました
 まばゆい光の奥底に

 ……あれは夜明けの見せた幻かも知れません

 けれども
 はっきりと憶えています
 朝の妖精たちのことを

 今でも
 


  8月21日− 


[題名未定(3)]
 ケレンスはタックの後を追うようにして、きょろきょろと落ち着き無く辺りを見回しながら、つまらなそうに口笛を吹き、霧に煙る雨の町を歩いていた。お互い、別にこれといって欲しいものがあるわけでもない。タックは時折、ケレンスの様子を推し量るように話しかけたが、相手は気のない相づちを繰り返すのみだ。そのため会話は一方的に始まって一方的に終わり、親友同士には珍しく、奇妙な沈黙がコミュニケーションの主役であった。
 うなだれるようにして歩きながら、緩やかなカーブの道のレンガの隙間に溜まった水をぼんやり見ていたケレンスだったが、危険が迫ると冒険者の勘が働くのか、タックに「危ない」と声をかけられるまでもなく身体をねじって通行人を避けようとした。
 視線を上げると、相手はケレンスと同じくらいの年頃で、眼鏡をかけた金の髪の少女だった。彼女もケレンスと同じ方に避けてしまい、二人はやむを得ず見つめ合った。几帳面なそうな顔を見ていると、逆に大らかなリンローナを思い出してしまう。
 少女は平坦な調子で失礼を詫びた。
「あ、ごめんなさい。わたし、目が悪いんです」
「こっちこそ悪いな、ネエちゃん」
 普段よりもいくぶん沈んだ低い声でケレンスの方も軽く謝り、再び歩きだそうとすると、少女の方は大きく瞳を見開いた。
「わたし、一人っ子なので、お姉さんじゃなかったりしますけど。それに、セリカ・シルヴァナという正式な名前が……あらら」
 セリカは明らかに話し足りない様子だが、ケレンスは相手をするのが面倒になり、左手を後ろの方で蝶のように振りながらその場を去った。タックも軽く会釈をして緩い坂道を登っていく。
「まあいいです。さ、お買い物〜」
 セリカも用事を思い出し、独り言を呟きつつ別れていった。

 坂を上りきった辺りで、ケレンスは唐突に言った。
「つまんねえ。帰ろうぜ」
「せっかくだからご飯でも食べましょう」
 タックはなおも引き留めようとしたが、気温は低く、天候も悪いままで、これ以上町の探索を続ける理由が思い浮かばない。
「宿のメシでいいだろ。俺が帰ると問題でもあるのかよ?」
 ケレンスの方も、いよいよ何らかの異変を感じたらしく、口を尖らせて不機嫌に反論した。舌戦ではタックも引くに引けない。
「カフェにでも入れば温かい飲み物が出ますよ。たまには僕がおごりますけど、どうです? もちろんパーティーの会計としてではなく、僕個人のポケットマネーから出しますのでご心配なく」
「心配はしてねえけど、俺は帰りたいから断固として帰る」
 意地の通し合いになりかかったが、ケレンスはそれさえ面倒とでも言いたげに、もと来た道を引き返してゆく。タックは色々と声をかけたが無駄骨で、彼の表情は曇っていった。先ほどよりも重苦しい沈黙が二人の間に舞い降り、お互いが踏み込めない空気の檻を作ったのだった。そして宿が見えてきた(続く)。
 


  8月20日○ 


[題名未定(2)]
 同じ頃、若い貴婦人に似合うような白いフリル付きの日傘(これも宿で借りた)をさし、リンローナはセラーヌ町の市場を歩いていた。雨足は再び勢いを盛り返し、日傘では生地に染みて、しまいには水滴が垂れ始め、あまり雨よけにはならなかった。
 川が増水したり、畑が水浸しになったりで、生鮮物を売っている店はさすがに休業が多く、その一角は閑散としていた。地面がぬかるみ、敷物が湿ると、今日は早々に見切りをつけて店じまいする所もあった。が、全体としてはリンローナの予想よりも人手は多かった。食料や生活雑貨はいつでも必要だということだろう。雨の中で営業を続けるのは、屋根付きの立派な店か、ノルマを達成しないと生活が苦しい者か、非常に極端だった。
 水っぽい風が一吹きし、リンローナの思考を中断させる。
「……失敗したなぁ」
 薄着で来てしまったことを彼女は後悔し始めていた。大陸の南西にあって温暖な気候の故郷とは違い、ここセラーヌでは夏なのにも関わらず驚くほど冷たい雨が降った。それだけ北寄りだという証拠である。風も秋らしく、透明度が高く感じられた。
「くしゅん」
 体をぶるっと震わせ、くしゃみをすると、薄緑色の髪が前後に揺れる。使い古した旅の革靴に水がしみこんできたのだった。
「えーっと、小麦粉と、砂糖と……」
 それでもリンローナは材料の購入に余念がない。調理道具は宿屋の方で貸してもらえる約束を取り付けている。必要なものを買い集めると、楽しそうにつぶやきながら帰路をたどった。
「ふんふ〜ん。上手く焼けるといいなぁ」
 雨はしとしと降り続く。着衣は肌に貼り付き、身体の熱を奪う。すぐ温泉に浸かりたいのを我慢し、彼女は歩いた(続く)。
 


  8月19日− 


[題名未定(1)]
「今日はどこにも行く気がしねえなぁ」
 曇った厚いガラスを、降り続く雨が粒となって叩く。
 ケレンスたち五人の冒険者はセラーヌ町に留まり、三日ほど男女に分かれて仕事をしていたが、今日と明日はようやく休みで、明後日は早くも出発の予定だった。リンローナとシェリアは貴族の子供のお守り(夏休み中の家庭教師の代役)をし、男性陣は怒鳴られながら馴れない狩りの手伝いをして稼いだ。
 そして迎えた八月十九日、せっかくの貴重な休暇はあいにくの雨模様だった。ケレンスはタックと買い物に行くことになっていたが、宿屋の一階の食堂のソファに寝転がり、出かける気は失せかかっていた。一つは雨によるもので、もう一つは連日の厳しい仕事の疲れによるものだった。運動神経抜群の彼だが、重い獲物を運ぶのは久々の肉体労働で、さすがにこたえた。ふだん剣の練習をしている時とは全く別の筋肉を使うのだ。
「そういえば、リンの姿が見えねえな」
 ソファに寝転がり、頭の後ろで手を組んだまま、ケレンスはつまらなそうに訊ねた。薄暗い食堂の窓際にある小さな二人がけのテーブルでは、シェリアがぼんやりと外を眺めつつ、特製の羊のミルクを飲んでいる。ルーグは床の隅で柔軟体操をし、タックはケレンスのそばで財布の中身を数えている。リンローナの姿だけが見えなかった。なお、ちょうど旅人の入れ替わりの時期で、この日の連泊者はケレンスたちの一行だけであった。
「リンローナさんなら朝食後に出かけましたよ」
 タックは顔を上げず、手を動かしたまま、興味なさそうに応えた。ケレンスはわざと丸く瞳を開き、大げさに両手を広げる。
「へーえ、こんな朝っぱらから元気なもんだぜ」
「さあ、僕たちも出かけましょう」
 タックは年季の入った革袋に財布をしまい、それをぎゅっと腰に結わえる。その言葉は寝耳に水で、ケレンスは飛び起きた。
「こんな雨の中を?」
「あんたたちも行ってらっしゃいよ。ほら早く早く」
 雨音に混じり、窓際からシェリアの弾むような声がする。それはルーグと二人きりの時間を過ごしたいためのようにも思えたが、派手な外見に似合わず割と慎ましやかな交際を心がけ、気を遣っているシェリアがここまであからさまに他人を排除しようとすることはむしろ珍しく、ケレンスは何となく不快に思った。
「なんか怪しいな」
 その台詞を聞いて、内心どきりとしたのはシェリアとルーグであった。特にルーグはぴくりと一瞬だけ動きを止めたが、その後は再び、ぎこちなく柔軟運動を始めた。タックは相変わらずのポーカーフェイスであり、長い付き合いのケレンスも気づかない。
 そのケレンスは木の床に両脚をドンとついて立ち上がると、タックの肩をはたき、皮肉と溜め息混じりに雑な言葉を洩らす。
「ま、いっか。しょうがねえや。出かけるぜ」
「そう来なくっちゃ」
 とタック。ルーグとシェリアも胸をなで下ろす。ケレンスは何の準備もせず、玄関の方へ向かう。タックはその間に素早く厨房へ向かい、宿屋の者から傘を二本借りる手はずを整えておく。
 雨は少し小降りになっていたが傘は必要だった。二人の幼なじみは並んで宿を出る。街並みは白い霧に沈んでいた(続く)。
 


  8月18日△ 


「ナンナちゃん、そろそろ帰らないと……」
「へーき、へーき。もうちょい行ってみようよ」
 レイベルが心配そうにつぶやいたが、ナンナは歩みを止めなかった。陽はだいぶ傾き、西の空は黄色く染まり始めていた。
 遠くの山に薄い雲がかかり、野原はいつ果てるともなく、二人には永遠と思えるほど続いていた――そして風は一瞬、凪ぐ。
「あっ!」
 次の瞬間、二人は同時に叫んだ。
 間に合わなかったのだ。
 夏とは根本的に異なる、底から涼しい風があっという間に北の方からやってくると、少女たちの頬を撫で、髪を梳き、熱い身体を冷まし、おどけたような足取りで――二人にはそう思えた――南のナルダ村の方を目指し、流れ去っていったのだった。
「最初の秋だ!」
 思わず振り返って、ナンナは言った。
「間に合わなかったね……」
 レイベルはあっけにとられている。二人は次の季節がどんな所からどういう風にやってくるのか、今日こそ謎を突き止めようと、いつもの遊び場よりもかなり遠くまで来ていたのだった。
「せめて、追っかけようよ。後ろに乗って!」
 左右の手でせわしなく持ち替えながら重そうに運んできた魔法のほうきを水平にし、ナンナはそれにまたがった。レイベルも馴れたもので、ほうきの後ろにつき、親友の肩につかまった。
「うん!」
「ピロ、行くよ!」
 ナンナは自分の右肩にちょこんと留まっている真っ白いアルビノのインコ、大きな町で暮らしていた頃から仲良しだった使い魔のピロに出発を知らせた。小さなお供は早口で返事をした。
「ピロ子チャン、カワイイ!」
 そして三人はもと来た方へ大急ぎで飛んでいったのだ。
 


  8月17日△ 


 幼い頃、誰かが言っていたことを、ぼんやり思い出していた。
「水たまりは、別の世界へつながってるんだよ」

 頭が壊れそうな痛みもようやく治まりかけていた。辺りはひんやりとし、後ろ手をついた地面は岩のように固かった。空気の動きは殆ど無く、今が昼なのか夜なのかも分からなかったが、人工的な建物に特有の息苦しさも感じなかった。俺はしばらくの間、その場所で両脚を伸ばして座ったままの姿勢で呆然としていた。もとから〈視力〉というものがこの世に存在しなかったと思えるほど何も見えない真の闇の中では、瞳を閉じた方が僅かに明るいのではないかと錯覚した。ここがどこで、俺はどうしてこんな場所へ来たのか、それすら考えることも出来なかった。魂を抜かれていた、という表現が的を射ているかも知れない。
 ものすごく長い思考の空白を破ったのは、高いところから降ってきた水滴が泉のような場所に落ちる時の、あえて擬声語で表現するならば〈ポタッ〉という音だった。トンネルの中で響くのを想像させる響きを残して、その音は遠くの方に流れ、ゆっくりと消えていった。どうやら俺の聴覚はまともだったし、俺は生きてはいるらしいということを、テレビの向こうで起きている戦争で死んでゆく子供に同情するように、ひどくぼんやりと考えていた。
 ここはどこだ、という単純で最大の疑問に、唐突にぶち当たったのは、その直後だったと記憶している。最初は緩慢に、しだいに夢中に、俺はジーンズの後ろのポケットをまさぐっていた。何故か湿っていたハンカチらしきものと一緒に、安物のライターのプラスチック製の素材に指が触れた。この真っ暗闇の中へ誤って落とさないように注意しつつも、無理矢理に引っ張り出す。
 上下を確かめてから、俺は指先を二、三度動かし、いよいよ火を付ける動作をした。カチッカチッという懐かしい音とともに白っぽい火花が散った。ライターの小さな火花をこれほど眩しく感じたのも初めてだったが、唯一の仲間のような気持ちさえ抱いたのも当然ながら初めてだった。と同時に、やはり俺の五感は正常で、異常なのは今の状況なのだと瞬時に理解していた。
 何度かの試みのあと、今にも消えそうなか弱い炎が灯った。それでも俺にとっては偉大な進歩であったのだ。そう、言うなれば人類が火を手に入れたのと同じくらいの意味を持つほどに。
 炎は狭い洞窟の壁らしきものと、先の見えない水たまり――泉か池か湖かは分からないが――を思わせる黒っぽい液体を映し出した。もしかしたら透明な水かも知れないが、その時の俺には広くて黒い水たまりの一部にしか見えなかったのだ。
 そして火は消えた。

「水たまりは、別の世界へつながってるんだよ」
 幼い頃、姉が言っていたことを、はっきり思い出していた。
 


  8月16日× 


「ひゃー、涼しい!」
 駅前のスーパーの中は、熱風の吹き渡る外とはうって変わって秋の夜を思い出すような涼しさでした。小学二年生の麻里は夏休み中で、お母さんと一緒にお夕飯の買い物に来ました。
「暑くても、冷房に頼りすぎない方がいいのよ」
 麻里の家の居間にはエアコンがありますが、めったなことでは使いません。しかも単に電気代をケチっているわけではなさそうです。不思議に思って、麻里はお母さんに訊ねました。
「何か使わない理由があるの?」
「麻里ちゃんがもっと小さかった頃だけど、お部屋の冷房でひどい風邪をひいたことがあったの。それ以来、お母さんもお父さんも、我慢できるときには出来るだけ我慢することにしたのよ」
「ふうん、そうなんだ」
 麻里は納得して答えました。慣れてしまえば、たいがいの暑さは我慢できるものです。スーパーで久しぶりの冷房を浴び、いつしか麻里の腕には鳥肌が立ち、背中は寒気がしました。
「お母さん、お買い物が終わったら、はやく帰ろうね!」
「ええ」
 メモを見ながら、お母さんは必要最低限のものだけを赤いかごに入れ、早歩きでレジの方に運びます。その後ろを、麻里は他のお客さんに気を付けながら小走りに駆けていきました。
 


  8月15日− 


[夜半の雨](よわのあめ)

「……ですのぉ」
 サンゴーンは自分で作ったお気に入りの草のベッドの上で寝返りを打ち、むにゃむにゃと何やら寝言をつぶやく。その少し日に焼けた柔らかい頬の両側を軽くつねっている少女は誰だ?
「起きて、サンゴーン、大変なの!」
 真っ暗な部屋の中で、今度は肩を揺すり始めた犯人は、サンゴーンの親友のレフキルだった。闇につつまれていても銀色の髪はうっすらと見え、妖精の血の混じっていることを雄弁に語るやや長い耳は、時たま外から流れ込む淡く白っぽい光によって、何かの小動物に似て非なる不思議なシルエットを形作る。
「ふっ……わぁ」
 度重なる攻撃に耐えかね、まだ夢の続きを諦めきれない様子で嫌々ながら目を覚ましたサンゴーンだったが、誰もいないはずの部屋に人の気配を感じ取るとさすがに体をこわばらせた。
「どっ、泥棒さんですの?」
 ちょっと間の抜けたサンゴーンの質問に、本物の泥棒だったらどうするのだろうと少し心配しつつ、レフキルは笑って応えた。
「違う違う、あたしよ」
 彼女はおへその見えるほど丈の短い寝間着を着ていた。南国の夜は寝苦しいのである――しかし夜半も過ぎ、風は徐々に涼しさを増していた。その内側に秋の調べが混じっている。
 聞き慣れた声がすると、サンゴーンはほっと胸をなで下ろし、ベッドを抜け出してランプに明かりを灯そうと手探りで歩き始めたが、一つの重要な疑問に気づいて驚き声をあげるのだった。
「レフキル、どこから入ってきたんですの?」
「ごめん。そっから。部屋の鍵は閉まってたから」
 レフキルはぺろりと舌を出して窓を指さし、付け加える。
「ランプはいいよ。あたし、どうしてもサンゴーンに伝えたいことがあって、こんな時間に来たの。雨が……雨が降ってきたよ」
「じゃあ、お洗濯をしまわなきゃ、ですわ」
 いまだ睡魔から逃れられず、漠然とした気持ちで返事をしたサンゴーンは、闇の中でくすくす笑う親友に背中を押された。
「洗濯物は大丈夫。とにかく見てみて」

「本当に……雨ですの」
 そう言ったきり、サンゴーンは夢のつづきでも見ているかのように押し黙ってしまった。いや、実際に夢のつづきだったのかも知れぬ。彼女の部屋から覗いた夜空には、光の滝のようにきらびやかで、絹の糸のように繊細、かつ天使の涙のように秘やかな、天から海へ降り注ぐ流星雨が見られたのであった――。
 


  8月14日− 


 高いレンガ作りの塔からは、緩やかな山の斜面に沿って続く古びた貴族の邸宅と、その向こうの入り組んだ下町とが見渡せた。もともと派手さのない街並みだが、小雨がぱらつく今は、より一層くすんで見える。空気は夏とは思えないほど肌寒い。
「この国は……どうなってしまうのでしょう」
 少し青ざめ、厳しく結ばれた気品のある唇から、ふと不安げに洩れたのは、幼さを残す可愛らしい横顔にそぐわぬ重みのある言葉だった。彼女の表情は堅く、深い緑の瞳は沈んでいた。マホジール帝国のリリア・マホイシュタット皇女、十五歳である。
 政治面でも軍事面でも長らく人材不足が続き、手をこまぬいている間に属国は次々と独立し、頽廃の道をたどってきたマホジール帝国を立て直せるかも知れない――少なくとも、これ以上の崩壊を食い止めることが出来るかも知れない、おそらくは最後の人材が若いリリアであることは国内外に明白であった。
 リリアの実父で、現在の皇帝のラーン帝は、ここ数代の皇帝と同じように外交や軍事に関心が薄く、ひたすら文学や美術や音楽へ傾倒し、質の高い晩餐会を開くことを楽しみとしている。リリアの弟で皇太子のリーノも、軟弱で優柔不断のタイプだ。
「この国が無くなる前に……間に合うでしょうか」
 そう言いながら、彼女は小さく首を振った。
(必ずや、原因を突き止めねばなりません)
 かつてマホジール帝国が巨大な版図を築いていた頃は、魔法による遠方への通信網や、最強と謳われた魔術師軍が発達し、属国の抑えが効いていた。だが少しずつルデリア世界全体の魔法の力が衰えてゆくのに連れて、通信魔法は狭い範囲でしか効果を及ぼさなくなり、魔術師軍は冬山を舞台としたフレイド族との戦いで壊走し、のちに再結成したが振るわなかった。
 おそらくはマホジール町の遙か南方で広がり続ける〈死の砂漠〉と、ミザリア国の小島に住むと聞いている魔法民族〈古代人〉の二つがキーワードではないかとリリアは確信していた。
(けれど私は皇女です。まずは外交でこの国を延命させねば)
 雨は強まったり弱まったりし、眼下のマホジール町は霧の中に沈んでゆく。彼女は自らの内へ内へと考えに耽るのだった。
 


  8月13日○ 


[地元・ミグリへ]
「ケレンスとタックの故郷って、ここから近いんだよね?」
 リンが唐突に言った。俺たちがメラロール市に来たときのことだ。確かに、俺とタックの出身地であるミグリ町は、北門を抜けて街道沿いに歩けば、わずか半日程度で着く距離ではある。
「ええ、そうですよ」
 タックの奴はいつものように裏のありそうな明るすぎる笑顔をふりまいた。と同時に、俺の方へ意味ありげに視線を送る。
「ケレンスのお父さんには、ぜひ会うべきですよね」
「はぁ?」
 俺はタックの言葉で顔と耳が燃えるように熱くなってきた。
「確か、剣術道場の経営者なんだよね?」
「ま、まあな……」
 俺は不覚にもリンの質問にドギマギしてしまった。にやけているタックが恨めしい。横にいたシェリアも追い打ちをかける。
「すぐ仕事が見つかるわけでもないんだから、行ってみましょ。宿代が浮くのは有り難いわね。寝る場所くらいあるんでしょ?」
「そんなことする暇があるなら、さっさと仕事を探そうぜ」
 あのオヤジを紹介するのは正直、避けたいところだ。何もかも豪快すぎるし、雑で、庶民的だ。特に料理はすさまじい。食えるもんなら何でも、一緒くたに鍋に入れたりするのだ。根はお嬢様のリンやシェリアはひっくり返ってしまうんじゃなかろうか?
 その時、リーダーのルーグが重い口を開いた。
「もし、よければ、泊めてもらえると有り難いのだが」
「ルーグまでそんなこと言うのかよ」
 俺はあきれてしまった。話は悪い方向に進んでいる。しかも、そろそろ引き返せない段階まで来てしまった。もう絶望的だ。
「リンローナさんたちがミグリへ来るなんて想像できませんよ」
 タックが余裕綽々で話しているのが俺をさらに苛立たせた。
 こうして俺たち五人は北の小旅行へ出発したのであった。
 


  8月12日○ 


[旧友の絆]
 ルデリア世界有数の教育機関であるモニモニ町の魔法学院に、今日も夕暮れが訪れた。その石造りの広い校舎の一角から焼きたてのケーキの美味しそうな匂いがあふれ出してくる。
「たいへーん、大ニュース大ニュース!」
 突然、廊下を慌てて駆けてくる足音と、大声で騒ぎ立てる女子生徒らしき声が聞こえた。それがだんだん近づいてくる。
 ドシン。
 何かがぶつかり、入口の木製のドアが震えた。
「いったた〜」
 調理室という札が掛けられたドアをゆっくり開けて入ってきたのは、この学院の白を基調とした制服を着た十六、七の少女だった。赤い鼻先を撫でているのは、どうやらドアを開ける時間も勿体ないというほどの勢いで突進したからだろうと思われた。
 中にいて、椅子に腰掛け、焼き上がったばかりのケーキを今まさに試食しようとしていた〈料理研究会〉の面々は、突然の来訪者に注目しつつも、きょとんとした表情をしていた。入ってきた女生徒は〈料理研究会〉のメンバーではなかったからである。
「ねえ、みんな、大変なのよ!」
「……ナミリアさん?」
 つと立ち上がって低い声で応えたのは、濃い緑の瞳を伏せがちにし、長い金の髪を後ろで結んだ、背が高く地味で無表情な生徒だった。彼女の名はリナ・シグリア、少し――いや相当変わっている十七の少女だが、このサークルの代表者である。
 汗をダラダラ流し、茶色の髪を取り乱した聖術科所属のナミリア・エレフィンは、興奮を抑えきれぬ様子で矢継ぎ早に言う。
「みんなも仲が良かったたら、大ニュースを早く教えようと思って、家から走って来ちゃった。あのね、リンローナがね……」
「えっ? リンローナが帰ってくるの?」
 思わず立ち上がったのは、リナと同学年――つまりナミリアからすれば先輩に当たるメノアである。リンローナという一言で、にわかに他の〈料理研究会〉のメンバーもざわめき出す。
「あの、リンローナからね……」
 ナミリアはもったいぶって、全員の顔を見回しながら言い直す。そして後ろ手に隠していたものを今とばかりに高く掲げた。
「手紙が届いたの!」
 薄くて白っぽい封筒を見た刹那、場の空気は溜め息で塗り替えられた。この部にかつて在籍し、新入生ながら活躍していたのにも関わらず、突然休学してメラロール王国へ行ってしまったリンローナがいよいよ帰ってくると皆が期待していたのである。
 しかし今まで何一つ分からなかった彼女のその後の消息が分かるということは大きな前進であることに気づき、次の瞬間、ナミリアは殺到する女生徒に押し合いへし合いされていた。
「ちょっと、そんなに押さないで。せっかくの手紙が破れちゃう」
 悲鳴をあげるナミリアに気づいたのは、やはりリナと同学年でお酒好きの最上級生チャネだった。大声で場を引き締める。
「ストップ! みんな、見苦しいぞ〜」
 すると部員たちはピタっと動きを止めて静かになったが、その目を期待に輝かせ、ナミリアを囲んで円くなり、待ち続ける。
「はぁ、はぁ……お願い」
 息が上がっているナミリアから手紙を託されたのはリナだ。
「リナ、読み上げます」
「大声で頼むわね、大声で」
 チャネが注文を付けると、リナは少しだけ瞳を曇らせたが、すぐに封筒に向き直り、丁寧な手つきで中から便箋を取りだす。
 そして……。

 関連作品→『記憶の扉「学園編」』
 


  8月11日○ 


 このような暑い時期(といっても酷暑なのは亜熱帯のミザリア国ぐらいなのだが)には、貴族は避暑地や保養地と呼ばれる場所に集まり、さながら[貴族街]とでも呼ぶべき不思議なものが出来上がる。爵位や、家柄の権威や、財産によって別荘のランクは大きく異なり、そこへ行けば貴族界の縮図が分かってしまうのだった。そういった[貴族街]には必ずと言っていいほど社交場があり、夜ごとダンスパーティーや食事会が行われる。

 主な保養地を紹介しよう。

1.ミラス町(マホジール帝国・エスティア伯爵領)
 保養地のメッカといえば、ミラス町である。蒼い海、白い砂浜がなだらかなカーブを描くエメラリア海岸はあまりにも有名だ。夏はからっとした暑さで、ほど良く潮風が流れ、夜は降るような満天の星空である。また冬場も海流の影響で暖かく、非常に過ごしやすい気候で、一年中を通して貴族や観光客や吟遊詩人が訪れるが、純粋な旅人は少ない。物価が高いからである。
 この町を治めるのはエスティア伯爵家であるが、観光収入で潤い、財政的には公爵級とも言われる。南ルデリア共和国の建国時に、ヴァラス町を中心とするヒムイリア侯国を売却して侯爵から伯爵へ格が下がったが、その分、ミラス町に資本を集中し、ますます栄えている。形式上はマホジール帝国の属国だが、実質的にはマホジール帝国内の独立国である。観光収入目当てで、新興の南ルデリア共和国に熱い視線を注がれているが、エスティア伯爵家側は静観の構えである。住民は、ザーン族の多く住むミラス町と、ウエスタリア族の多く住む南ルデリア共和国は相容れないと秘かに話しているが、実際の所は他の国に吸収されて今の豊かさが減少することを恐れている。
 マホジール帝国の貴族のステータスの一つは、ミラス町に別荘を持つことだ。時代時代の各家柄の勢いを反映し、何度も持ち主の変わった豪奢絢爛で有名な別荘もいくつか存在する。
 →『海モグラ』を参照(レイヴァ、シャン、ルーユ、ニム)

2.サミス村(メラロール王国・トワイラ男爵領)
 現代の文化の起点、メラロール王国での避暑地と言えばサミス村である。サミス村の近辺でしか取れない〈紫の草〉を隠し味にした〈夢のスープ〉は一度食べれば忘れられない味という。ただメラロール王国自体がもともと涼しく、サミス村への交通の便が悪いため、避暑地の規模としてはミラス町に及ぶべくもない。が、その素朴さというものが思いのほか都会の貴族に受けているようだ。冬は大雪に見舞われ、観光客はほぼゼロである。
 →『すずらん日誌シリーズ』『紫色は夢の味』を参照

3.シャワラット町(ラット連合国・シャワラット州)
 ルデリア大陸の南東にあり三日月湾を擁するシャワラット島。主な町はシャワラット町だけであるが、この島全体が保養地と言っても差し支えない。波の穏やかな三日月湾沿いには貴族や金持ちの瀟洒な別荘が建ち並び、昼は海と戯れ、夜は舟を浮かべて酒を飲むのは最高の贅沢である。なおシャワラット町からは、吟遊詩人に[南国の楽園]と謳われる絶海の孤島、亜熱帯のフォーニア国・オレオン町への定期航路が出ている。

 そのほか、シャムル町(シャムル王国)・エルヴィール町(ラット連合)・リース町(マホジール帝国領リース公国)・セラーヌ町(メラロール王国)なども、その文化度の高さによって保養地として数えられているが、詳しくはまた別の機会にお話ししよう。
 


  8月10日○ 


[市街戦]

 空気は張りつめ、息苦しいほどだ。
 十九歳の新進女性格闘家・ユイランは、黒い前髪をなびかせて素早く武器を掲げ、相手の出方をうかがう。どんな動きも見逃さず、針の落ちる音さえ聞き逃さないように精神を集中させた。
「ふふふ……そこにいるのはバレてるよ」
 ユイランは不敵に微笑した。余裕ある態度とは裏腹に、彼女の厳しい視線には焦りさえ生じていた。かりそめの平和はもろくも崩れ、マツケ町のとある宿屋は死の匂いの修羅場と化した。
「大人しく出てきなさいっ!」
 良く通る高い声で怒鳴る――刹那、敵が姿を現した。
 振りかぶり、狙いを定め、思いきり振り下ろす。
「どりゃー!」
 そこは突如、凄惨とした殺戮(さつりく)の現場となった。
「どりゃ、どりゃ、どりゃあ!」
 ユイランの執拗な連続攻撃が繰り返される。敵は言葉もなく、その度にすんでの所で交わす。白熱した戦いは一方的なものであった。ユイランの額と背中を冷たい汗が流れ、ドアの隙間から覗いていた宿屋の娘はひっきりなしに金切り声をあげた。
「きゃあっ! こっちに来ないでっ」
 その時、敵は一度退却して体勢を立て直そうと判断し、素早く駆け出す。最後のチャンスに、ユイランの渾身の一撃が――。
 ついに相手の背中にめり込んだ!
「やった!」
 執念で逃げる敵に、彼女は二発目、三発目をお見舞いする。さすがに鍛え方が違う格闘家の波状攻撃に、さしも立派な装甲の敵も動かなくなった。相手の生命力を警戒し、ユイランは念のためにとどめを刺す。民家の戦いは、こうして幕切れとなった。
「さすがです、ユイラン様! ありがとうございます!」
 ドアの隙間から顔を覗かせていた宿屋の娘も、ようやく安堵して、ほっとため息をつく。ユイランはVサインを出して満足そう。
「ま、こんなもんよ。標的は必ず仕留めるわ……なんちゃって」
 ユイランのあまりの怪力に、武器であった箒(ほうき)の柄は折れ曲がり――粘液を流してペチャンコに潰れたゴキブリは、台所の片隅で冷たい骸となって神に召されたのだった。合掌。

 関連作品→『失くし物』
 


  8月 9日○ 


[明日があるから]

 言葉はいらなかった。
 体験したものでないと分かちあえないものがある。
 
 絵に残せず、文字では語り尽くせぬ光景があるとしたら、まさにこのことだったろう。どう表現して良いものか分からない。
 だだっ広いラーヌ河の下流の果て、河口の辺りにはメラロールの港と市街地が広がり、小高い丘の上にそびえる〈白の王宮〉もはっきりと判別できる。そうした瞳に映る全てのもの――緑の草原も、青い西海も、麦の畑も、かなたの森も、一番星の瞬き始めた空も――いまや夕陽の燃えるようなオレンジに染められていた。それも一色ではなく、多重で深みのある橙色に。
 運良く、この全貌を見ていたのは、かつて発ったメラロール市を再び目指して旅した五人の冒険者であった。彼らは誰が言うともなく背中の荷物を下ろし、しばらくその夕暮れに魅入っていた。リーダーのルーグは、このまま時間が止まればいいと真剣に願っていた。滅多に心の動かないタックでさえ、きっと一生思い出すだろうと確信した、それは美しいという言葉では足りぬ位、万物が微妙で繊細な色合いに変わった夕暮れであった。
「……」
 リンローナが素直な感動に胸を熱くし、目頭を拭う。何故だか無性に泣きたくなったのだ。遠く旅し、もう一度出立の地へ戻ったという安心感だけではなかった――五人で一緒にいられるという、こんな当たり前のような幸福な時間が、いつか消える日が来ることを〈現実の未来〉として強く直感したからであった。
「ばかだな、リンは。泣いてるのかよ」
 そう言ったケレンスの声も震えていた。リンローナは溜まらなくなって、汗くさいケレンスの胸に顔を埋め、押し殺した声で嗚咽した。リンローナの姉のシェリアも、もともとの感動屋の本性を現して何度も鼻をすすったが、恥ずかしさでそっぽを向く。
「ほんと、ばかよね、あんな夕陽くらいで」
 泣きたい気持ちが去ると、今度は安らぎと、淋しさがつのる。お互いの顔が見えなくなる少し手前まで、彼らは物思いにふけっていた。その夏、初めて夏の終わりを予感させた麗しの夕べも暮れてゆく。リンローナの顔の温もりだけがケレンスの胸に熱い夏の名残となり、いつしか音も立てず朽ちてゆくのだった。

 夕暮れは消える。
 思い出は消えぬ。もっと素晴らしい明日のために。
 


  8月 8日− 


[ラーヌ地方の怪談]
 その夜は、真夏だというのに細かな氷の粒が降り、背筋のぞっとするような冷たい突風が西へ東へ強く吹き荒れました。
 
 同じ日の昼間のことでした。メラロール王国の草原にある〈大氷穴〉の奥深くに住んでいた氷の精霊の子供が、防寒服で完全に身を固めた悪徳商人の一団に見つかって、独り逃げ遅れました。伝説とされていた氷の精霊が落とす涙は、冷たくも透き通る魔法のダイヤモンドになると言われていたからです。運悪く掴まった子供は、抵抗むなしく表へ引きずり出され、事もあろうに折からの夏の厳しい暑さによって溶けそうになったのです。
 子供は泣きました。伝説の通り、大粒の涙は凍りつくほど冷たいダイヤモンドとなり、男たちは狂ったように群がりました。
 その隙を見て、子供は逃げました。商人たちが気がついたときは、手の届かない高みに子供は舞い上がっていたのです。空から落ちてくるダイヤモンドは先が鋭く、大きくなり、商人たちはそれに頭を割られて、あっけなく次々と死んでいきました。
 天は氷の精霊の故郷です。子供は湯気を上げながら夢中で逃げました。後は分かっていませんが、夜は嵐となりました。夏だというのに氷が降り、精霊の祟りだろう、と囁かれました。
 
 その冬はかつてない大雪が降り、多くの子供が死にました。
 現在も〈大氷穴〉の奥の方は立ち入りが禁止されています。
 


  8月 7日− 


 ラーヌ三大侯都の三番目、メレーム町の酒場で、二十代も半ばほどの吟遊詩人の男が、たいして注目を浴びずに楽を奏でていた。天井の蜘蛛を見つけ、彼は曲に即興の詩を乗せる。

「あの天井を這っている蜘蛛には、
 この世は、どういう風に見えるんだろう?
 上も下も無いんだろうか。

 魚たちは水の中を縦横無尽に泳げるし、
 鳥たちは地面だけでなく空を、上から下まで。
 
 彼らのように広い世界は持っていない。
 僕たちは地面に繋がれ、縛られて生きる。
 
 でも彼らの生活を想像することはできるんだ。
 
 そう――
 何よりも自由な心があるのさ。

 何よりも、自由な心があるのさ」

 歌が終わると、まばらな拍手が鳴った。
 だが、その観客の一人に、大きな焦げ茶の瞳を強く輝かせている少女がいた。二人の運命はやがて交差してゆく――。
 


  8月 6日△ 


[静寂の夏〜国境より]
 その険しい岩だらけの界隈を離れれば、深い森に覆われた全く無人の辺境となる、中央山脈の峠にある要塞クリーズ。かつては外交関係の芳しくなかったメラロール王国とガルア帝国の国境であり、ガルア湖を経由しない陸路の唯一の関所として両国とも精鋭の兵団を駐屯させ、軍事上および交易上の要衝であった。今もこの場所が重要な位置にあることは変わりない。
 が、すでにガルア帝国がメラロール王国に併合されてから多くの月日が流れた。万が一にもルディア自治領に端を発してガルア公国全体を巻き込む黒髪族の反乱が起きたときの備えとして、最低限の兵は残されているが、もともと守りやすい山の砦ということもあり、特にここ数年は目に見えて兵の数は減少した。交易ルートも、標高が低く冬場でも通行可能なガルア湖経由がメインとなって宿場も寂れた。夏が盛りとなっても〈静寂〉こそが最大の主となった感のある、現在のクリーズ要塞である。

 見張り塔の番兵からは相変わらず火急を告げる連絡は入らない。非番の男は、兜も鎧も身につけず身軽な格好で、小さな鞄を手に要塞のいかめしい門を出て、細く曲がりくねった土の坂を下っていった。一帯は何もない盆地で、その向こうは果ての知れぬ翠の森である。妻子の待つオニスニ町はあまりに遠い。
 雲が頭の上のとても近い場所を速いスピードで流れる。かつての人々の喧噪は去り、いよいよ雲の街道と化したクリーズ峠は退歩したのか、それとも進歩したのか。打ち捨てられた開拓地は何も語らず、森の中にまだらの草原となって残っている。
 森から出てきた鹿の家族が男をじっとにらみ据え、警戒する。男が近づこうとすると、彼らは独特の軽い足取りで逃げ出した。遠く離れた自分の妻子が鹿となって去りゆくようにも感じられ、男は無性にふるさとの温もりと紺碧の海とが恋しくなった。
 松の生い茂る山の中腹に広がる名もなき湿原の手前まで来て、岩に腰掛ける。ふと足元を見ると、時季はずれの真っ白な花が一輪、忘れられた夢の欠片のようにぽつんと咲いている。
 それは、本来ならば七月中に咲き終えるはずの薄雪草――エーデルワイスとも呼ばれる――の可憐な優しい花であった。その姿は天使が飛び立つ様を思わせ、小さな花びらは均整の取れた四枚の羽であった。清らかで純真な遅咲きの薄雪草の花は風に揺れ、仲間を捜すのであろうか、微かに首を振った。
 男は手を伸ばし、すんでのところで手を引っ込めた。
 それから瞳を閉じて心に問いかけ、しばらく熟慮を重ねた。
 男は目を見開き、今度は決然とした動きで薄雪草のくきを掴んだ。痩せた彼女は弱々しくうなだれ、曲がり、すぐに折れた。
 罪悪感を胸に抱きつつ、男は鞄から古びた便箋のようなものを取り出した。そして薄雪草を挟んで押し花にし、封を閉じた。
「来年はみんなと一緒に咲くんだぞ。薄雪草」
 
 要塞に戻ると、男はそれを早馬の係にそっと渡した。定期便の伝令とともに、それは男の故郷のオニスニ町に向かうだろう。薄雪草は色あせても、手紙はその重みを増すだろう――。
 
 要塞クリーズは今日も静寂につつまれている。
 


  8月 5日× 


 外はうるさいほどの大雨で、地面に向かって水を投げつけるように勢い良く降っている。今日は朝から馬車に乗って遠くの海へ出かけるはずだったが、予定は雨とともに流れてしまった。
 いちばん楽しみにしていた友だちのレイベルを慰めに、ナンナは雨の中、頭から足先までびしょ濡れになりながら村長の家にやってきた(レイベルは村長の娘である)。レイベルの服を借りて着替え、部屋で色々とくだらない話をするナンナだったが、やはり友だちは元気がなく、上の空で薄暗い外ばかり見ている。
 そのうち、お昼近くになると、雨は上がって空はぱっと割れて眩しいほど明るくなり、虹が架かって気温もぐんぐん上昇した。
「きれいな七色の橋だね」
 その口調は内容とは裏腹に沈んでいた。天候のことをぼやいてみても仕方がない。レイベルは(今からじゃ……)という言葉をぐっと飲み込んだ。何もかも、もはや手遅れなのだ。部屋の隅に置きっぱなしの水泳の用意が太陽に輝き、妙に虚しかった。

「今からでも、ぜんぜん遅くないよっ!」
 その時だ――ナンナはあの太陽に負けないくらい叫んだ!

 彼女は後ろ手に隠していた箒(ほうき)を取り出し、恥ずかしそうに差し出す仕草をすると、レイベルの表情は変わっていく。忘れていたが、ナンナは魔女の孫、魔法使いの卵なのだ。
 レイベルの部屋の窓はにわかのヘリポートになり、いよいよ発進する。レイベルはしっかりとナンナにしがみついた。見る見るうちに地面が遠くなる。普段、若葉マークのナンナの箒の運転はひどいものだったが、なぜか二人乗りは安定するのだった。
 そうして少女らはどこまでも青い空に吸い込まれていった。
 


  8月 4日△ 


 メラロール王国の支配者は〈北の王〉を現す〈メラロ〉という称号で呼ばれ、現在の国王であるクライク・ラディアベルクも、臣民から通常は〈メラロ様〉と呼ばれている。代々〈火炎の神者〉も継承し、メラロール連合王国の国王だけでなく、連合王国に属するラーヌ公国の公爵も名目上兼任している形をとっている。
 そのメラロール王国の次の王は誰になるのだろうか? 現国王と王妃の間にはシルリナ王女しか生まれておらず、メラロール王国で女王が誕生したことは未だかつて無い――が、淑やかで賢いシルリナ王女は民衆の人望厚く、優位を保っている。
 次なる有力候補は、国王の実弟であり、ガルア公国公爵のラグナスである。だが世代的には現国王とほぼ同じであり、四十を過ぎたばかりの現国王メラロの跡継ぎになる可能性は高くない。むしろラグナス公を飛び越え、まだ若いが公の息子であるリグルス・レムノスの両公子の方があり得るかも知れない。
 言うまでもなく、由緒或る家柄の男をシルリナ王女の夫に迎え、その人物を国王にするという案もあるだろうし、メラロ王が老いぬうちにシルリナ王女に息子が生まれれば問題無いとも言われる。その場合、王女の夫には遠くシャムル公国のクロフ公子を迎え、メラロールとシャムルで同君連合を組むという大げさな案まで囁かれている――当然ながら王室は尊敬の対象ではあるが、民からすれば話題の種や噂の的でもあるのだった。
 


  8月 3日− 


[突然/運命]
(死は突然にやってくる、と言うけれど……)
 緑の草の原の自由な風に吹かれ、彼は考えていた。
(魂が宿るのは人間や動物だけじゃ無いような気がする。ものや建物だって、おそらく、魂を持っているのだと思うな。だって、この前の深夜の、この世のものとは違う冷たい風は、今になって考えてみると、たぶん君のさよならだったろう? 分かるよ)
 彼は、友の話に聞いた火災の様子を想像する。最も人間の本領が発揮される土壇場で、友らは臨機応変に必死の消火活動を展開した。だが、出火現場の二階は死の世界になっており近づけなかったという。炎が窓から出て、嫌な匂いがしたという。
(人だって、建物だって、いつかは消えゆく定めにあるけど。案外、あっけないもんだな。だけど、それも運命なのかな……)
 彼は〈限りある生〉について静かに思いを巡らしていた。
 


  8月 2日− 


 朝、土の空から上向きに雨が降って、草は湿ります。
 それとともに、土の空にはうっすらと白い雲がかかります。

 一方、空の大地は赤と橙と黄の花園になって咲き誇ります。
 悪戯好きの風も、海の嶺となる浪も、ふと立ち止まります。

 太陽が昇ってから三十分も経って、完全に人々が動き始めると、草を濡らした雨は溶け、地を滑る雲は風に混じって消え、空は普段の蒼さを取り戻してゆくけれど――そう、晴れた朝は大地と大空が入れ替われる、不思議で神秘的な時間なのです。

 以上、朝露と朝もやと朝焼けと朝凪のお話でした。
 


  8月 1日− 


 涼しい風が夢と現実の合間を吹き抜ける。まどろみから少し抜け出し、手探りでベッドから這い出すと、彼女は小さな〈照明妖術〉を唱え、フワフワした足取りで窓辺の方へ歩いていった。
 窓は開いており、かすかに木々の匂いがする。
 見上げると、朝は遠く、夏の夜空は静かに――。
 しかしながら、音無く賑やかである。
「何を喋っているの?」
 他の人間は誰もいない、サミス村の近くの森の一軒家で。淋しさを紛らわすように、あるいは自分の感動を再確認するかのように、二十一歳の若き賢者オーヴェルは空を見上げて独りごちた。色とりどりの星たちが、それぞれの間隔で瞬くのは、確かに〈おしゃべり〉をしていると説明されても不思議はないだろう。
 闇は単なる闇ではなく、闇にも大きな意味があるように思える。昼と違って明度を下げ、星をちりばめ、何かを語ろうとしているのだろうか? オーヴェルは思い出したように〈照明妖術〉を消して、窓に両肘をつき、その上に頭を乗せて夜を仰ぎ見た。
「それとも唄っているのかしら?」
 風の流れのように、飽きることのない星の瞬きを見ていたオーヴェル。ふと足元に手を伸ばすと、重くて難しい魔法書を捕らえた。星明かりしかない暗闇の中、彼女はその何ページ目かを開けると、ゆっくり持ち上げ、戯れに空へ貼り付ける仕草をした。
「この本に、あの瞬きを記録できればいいんだけれど……こればかりは実際に見る方が何千倍も素敵でしょうね、おそらく」
 そして彼女は本を閉じる。瞳に焼き付けようと目を凝らしつつも、まぶたは落ち、うつつの世界を再び旅立ってゆくのだった。

 ちりん、と銀の鈴の音色が聞こえた――ような気がした。
 






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