空の後ろで

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第二章 天空畑


 そこは、全く違った世界だった。
 見たこともない神秘の森には、濃い霧が立ちこめていた。空は曇り、太陽はおぼろげな輪郭をとどめるのみである。時折、聴いたこともない鳥の声がする。道端に生えている草も、どこかしら違和感がある。
 不安で顔を見合わせた二人は〈うん〉と同時にうなずき、息をひそめて細い小径を急いだ。
 木々が途切れ、畑が現れた。薄暗い畑には、これまた珍奇な植物が育っている。色とりどりの土筆。葉の先端がナイフのように細く鋭い、全身が空色の草。穂が退化して茎だけになっている、これまた空色の麦。
「何だろう、この畑は……」
 ジーナは独り言をつぶやき、珍しく神妙な顔つきになった。
「看板があるね」
 リュアは、畑のあぜ道に立ててある木で出来た立て札を指で示した。そこには、太い字でこう彫られていた。
 
〈カーダ研究農園・天空畑〉
 
「意味わかる?」
 と、すかさずジーナが訊ねたものの、リュアは首をかしげてしまった。
「てんくうばたけ……。どういうことだろう? リュアにも、わかんないよ」
 彼女もお手上げ状態だ。二人は胸騒ぎを感じ、しっかり手をつなぐと、硬い表情のまま畑のあぜ道を進んでいった。
 すると、つきあたりに太い切り株が見えてきた。霧がかかっているので視界は悪い。必死に目を凝らす。
「あっ、人がいる」
 ジーナが指さした。リュアも小声で同意する。
「ほんとだ」
 よくよく見ると、切り株の辺りに確かに人がいて、両手を素早く動かしている。何かの作業をしているようだ。
「行こう」
 ジーナはさらに早歩きになった。リュアも歩調を合わせる。
 
 二人が切り株に近づくと、もくもく煙が上がっているのが、はっきりと分かった。そう、切り株の中から煙が吹き出しているのだ。
「大変っ! きっと山火事だよ!」
 リュアが青ざめた。
「山火事……?」
 ジーナも事の重大さに気づき、身体じゅうの筋肉が恐怖で縮こまった。思考が止まり、かすかに両足が震えだす。
 しかし、その時。
「あれれ? どなたかいらっしゃいましたか?」
 切り株の前で何やら作業をしていた若い男性が、ゆっくりと振り返った。まだ二十代前半……か。
 彼はだぶだぶの薄皮ロングコートを羽織り、周囲に立ちこめる霧と同じ色をした白い手袋を、細い両腕にすっぽりとはめている。眼鏡の奥に潜む二つの黒っぽい瞳は、優しい光をたたえていた。
 ジーナは警戒しつつも、青年から発せられる独特の柔らかい視線を感じて〈悪い人じゃなさそう〉と判断し、勇気を出して訊ねた。
「あの……」
「ん?」
「火事じゃないの?」
「火事?」
 青年は不思議そうに語尾を上げたが、
「ああ、この煙ですか。大丈夫ですよ、そういう類のものではありません」
 と、はっきり答えた。それから自分よりもずっと幼い二人の少女を代わる代わる見つめて、大きく息を吸い込み、
「ほう。ずいぶんと可愛らしい訪問者だこと!」
 とつけ加えた。
 ジーナとリュアは次の言葉が思いつかず、両眼をしばたたく。ぎくしゃくした静寂が広がると、青年は苦笑した。
「心配をかけて申し訳ない。この煙はね、実は雲なんですよ、雲。これをこうして、ね……よく見てごらん」
 青年の手先を覗き込む二人の少女は首を伸ばしたが、どうしても限界がある。距離があるので、いまいち見えづらい。
 青年は静かに語りかけた。
「もっと近くにおいで。心配いらないよ」
 その言葉で安心したのか、ジーナとリュアはほぼ同時に、切り株の近くへと駆け寄っていた。
 煙を吐き続ける切り株の上に、白い手袋をはめたまま、手をかざす青年。まるで綿飴を作るように煙をかき集めると、それを器用に固めて球を作り、少し押しつぶして楕円形にした。
「最後に、真ん中をほじくって……さあ、できあがり」
「ドーナッツだ!」
 リュアとジーナは声をそろえて叫んだ。青年は微笑む。
「そう、大正解。雲で出来た、白いドーナッツですよ」
 これを風に乗せて飛ばすとね、大きく膨らんで本物の雲になるんだよ……青年は丁寧に説明してくれた。
「じゃあ、フォークもケーキも、お兄さんが作ったの?」
 ジーナは感嘆のため息をついた。青年はすぐに大きくうなずくと、照れた様子で後ろ頭をかいた。
「ええ、そうなんです。僕が作りました。ケーキは、ちょっと失敗作でしたけどね」
「すごいすごい! 全部、お兄さんが作ったんだ」
 リュアは嬉しくて、思いきり拍手喝采した。青年は頬を赤らめる。
「他人に誉められるなんて久しぶりだ……僕の名はテッテ。ここの畑を管理しているカーダ師匠の弟子です」
 そう言うと、テッテは深く一礼した。
「ようこそ、小さなお客様!」
 歓迎された二人は、それぞれ軽く自己紹介をした。テッテは、絶えず雲を吐き出す切り株の上にお構いなく腰掛けて、時折うなずきながら、二人の話に耳を傾けていた。
「すると、リュアさんは九歳、ジーナさんは八歳。学舎で同じクラス、というわけか。……ははは。二人の年齢を合わせても、僕には五歳足りないな」
 テッテは、二人を子供と思って見下したりはしなかった。名前も〈〜ちゃん〉ではなく〈〜さん〉と呼んだ。こんな風に呼ばれるのは、二人にとって初めての経験だった。テッテに共感した二人は、彼への信用をより深めていくのだった。
 親しくなったジーナは自らの好奇心を抑えられず、次々と思いつく限りの疑問をテッテにぶつけた。
「雲のドーナッツは、食べられるの?」
「食べられますけれど、味はありませんよ」
「ここらへんに漂っているのは、霧?」
「いえ、これも雲です」
「テッテお兄さんのはめてる不思議な手袋、一体、何なの?」
「普通の絹の手袋に、魔法で天空の属性をつけたんです。これで自由に雲を加工できます。研究の成果で生まれた、独自の発明品です」
 テッテは面倒くさがらずに、一つ一つきちんと答えてくれた。横で、リュアは真剣に二人のやりとりを聞いている。
 ジーナは再び問いかけた。
「じゃあ、研究や発明品は、どういう役に立つの?」
 この質問には、さすがのテッテもとまどったが、しばらく間をおいて頭の中を整理してから語り始めた。
「役に立つものを生み出すことばかりが、直接、世の中の役に立つ仕事であるとは限りません。すぐに役立たないことでも、別な方面で役に立つ場合があるんです」
「?」
 ジーナとリュアは顔を見合わせて、さも難しそうに首をかしげた。
「ごめんなさい。よくわかんない」
 ジーナが言うと、テッテは〈うーん〉と深く唸ってから、
「そうですね。たとえば、私の加工した雲を見つけて、あなたたちがここを訪ねてくれました」
「うん」
「変わった形をした雲を作り出すこと自体が直接、何かの役に立ったわけではないけれども、今こうして、新しい出会いがあった。それだけで充分、素晴らしいと思いませんか?」
「……なんとなくだけど、分かったような気がする」
 今まで聞き役だったリュアが言った。テッテはぱっと表情を明るくして、心から嬉しそうに自然体の笑みを浮かべた。
「ありがとう。せっかくだから、今日はお二人に、素敵なお土産をお贈りしましょう。さあ、ついておいで」
 彼は立ち上がり、まず不思議な手袋をはずして、休みなく雲を吹き続ける切り株の上に無造作に置くと、翻ってまっすぐに畑のあぜ道を歩き出した。ジーナとリュアも、青年に続く。
「この辺りは天空畑と言ってね。天空の力を凝縮したエキスを肥料にして、植物を育てているんですよ」
 テッテは時々振り向き、二人に分かるように出来るだけ平易な解説を加えながら、軽い足取りで進んでいった。
「ふーん」
 ジーナは興味津々だ。リュアも話に引き込まれている。二人は思った。学舎でつまらない講義を受けるよりも、テッテの話を聞く方が、数倍……いや、数十倍数百倍おもしろい、と。
 
「さあ、着きましたよ」
 そこは、二人が草のトンネルを抜けてから切り株に至るまでの途中にあった、奇妙な畑だった。そばに〈カーダ研究農園・天空畑〉という立て札が見える。
 畑に生えているのは、普通ではない色をした土筆、葉の先端が鋭く尖っている空色の草、そして穂のない薄水色の麦。
 どれもが一風、変わっている。
「変なの! 空色ばっかり」
 ジーナは率直な感想を述べた。リュアは目を凝らして、植物群をじっと眺めている。テッテはすぐに笑った。
「空色のエキスが肥料ですからね……。どうしても、そういう色が出てきてしまいます。でも、これは外見が変わっているだけじゃないんですよ。中身だって」
 言いながら青年はしゃがみ込み、まずは土筆を指さした。
「こちらにおられますのは〈雲塗り絵筆〉さんです」
「くもぬり・えふで?」
 きょとんとした少女たちをよそに、テッテは次に空色の草、続いて麦を指さす。
「こちらが〈空切り鋏〉さんで、向こうの麦わらは〈星吹きストロー〉さん」
「そらきり・ばさみ? ほしふき・すとろー?」
 ジーナとリュアは、聞いたことのない名前にとまどいながらも、期待で鼓動が速まるのを感じていた。
 テッテは言う。
「これらの使い方は、あなたたちなら、きっと分かるはずです……何本か、お土産にどうぞ」
「うん。ありがとう!」
「とっても、すてき!」
 ジーナとリュアは、すでに夢見心地だ。
 二人は、空色の草の葉〈空切り鋏〉を一枚ずつむしり、神秘の麦わら〈星吹きストロー〉も一本ずつ手に入れた。〈雲塗り絵筆〉は、赤・黄・緑・青・紫・桃色など、数種類を摘んだ。
 全部まとめて、春用の薄いコートのポケットにしまってから、二人はテッテの前にしっかり立って背の高い彼を見上げ、声を合わせて言った。
「テッテお兄さん。どうもありがとう!」
 青年は手を左右に振って謙遜する。
「何の何の。御礼を言うんなら、僕なんかではなく、森の神様にして下さいよ。あははは……ん?」
 テッテは急に真面目な顔になり、独り言を喋り始めた。
「はい、もしもし。はい。今ですか? 天空畑にいます。はい、そうです……」
 誰かと話をしているようだ。その間、リュアとジーナは片膝をついて目をつぶり、両手の平を合わせて森の神様に感謝の祈りを捧げた。
 ――森の神様、ありがとう。
 純粋な祈りを捧げる少女たち。テッテは、そんな二人の様子を気遣って、しだいに声を小さくした。
「ぇぇ……。え? 別に誰もいませんよ? はいはい。今すぐ参ります。はあ、のちほど」
 テッテは話を終えるや否や、ふぅと大きく息をついた。彼は、祈りを終えたジーナとリュアを代わる代わる見つめた。
「師匠から魔法通信が来ました。残念ですが、僕は行かねばなりません……」
「うん。あたしたちも帰る! ね、リュア?」
 テッテの気持ちを察したジーナが、並んで立つ友達に提案した。呼ばれた当人であるリュアは、
「うん、そうだね」
 と素直に受け入れる。
 テッテは心持ち寂しそう。
「そうですか。帰られますか。では……お土産、楽しんで下さいね」
「うん。テッテお兄さん、ありがとう」
 リュアがぺこりとお辞儀した。
「どういたしまして。また遊びに来て下さい。僕、基本的には暇ですので」
「絶対、また来る!」
 ジーナの言葉を嬉しそうに聞いたテッテは、しかし、ちょっと意地悪く笑って、好奇心旺盛な少女に釘を差した。
「でも、学舎をさぼっちゃ駄目ですからね!」
 するとジーナは舌を出す。
「てへへ……バレちゃったみたい」

(続)



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