幸せの木の実

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第一章 沼


 本当にすがすがしい初秋の風を浴びながら、俺たちは森の小道を歩いていた。鬱蒼とした森の中はほどよく涼しい状態が保たれているので、汗をかくことはあんまりなかった。夏の暑さが嘘のよう、いつしかヤブ蚊も消えている。
 細い獣道は右へ左へ曲がりくねって延々と続き、果ては見えない。大地はほんの少しだけ湿り気を帯び、梢の間から差し込んでくる日光は優しかった。辺りは苔や草や木々の醸し出す独特の森の匂いで満ちている。
 俺たち五人の規則的な足音がいつしかリズムとなり、高らかな鳥の鳴き声のメロディーが重なって、最後に風のハーモニーが混じりあい、森の交響曲が完成する。背中にしょっている重い荷物のことをしばし忘れて、俺は得意な口笛を吹き、森の音楽会に参加しようとした。
 上手くいっていた曲をぶち壊してしまう恐るべき雑音が入り始めたのは、ちょうどその時だった。音階を全く無視した調子っぱずれのひどい歌。せっかくの即興演奏会の邪魔をするのは誰だ?
 周囲を見回し、小さなため息をつく……やっぱりあいつの仕業か。
「おい、その歌やめてくれよな。はっきりいって気持ちわりい」
 そうつぶやき、リンの後ろ頭をこづく。
 細い獣道を一列縦隊でつき進む俺たち五人は冒険者の一団だ。しんがりをつとめている俺のすぐ前を歩いていたのがリンだった。
 あいつの本名はリンローナ・ラサラというのだが、面倒なのでいつもリンと略している。十七歳の俺から二つ下、つまり十五歳だ。やつの冒険者職種は聖術師――聖守護神ユニラーダ様の力を司る〈聖術〉という魔法を扱える。性格は素直で穏和、得意なのは料理。外見的には背丈の低さ、それと色気のなさが目につく。
 こづかれたリンは驚いて一瞬びくっと震えたが、薄緑色をしたさらさらの髪を揺らしながら半分だけ振り向き、不服そうに愚痴をこぼした。
「なあに、急に? ケレンスが口笛吹いたから、それに合わせて歌おうと思ったのに。ひどいなあ……」
 ほおを膨らませて不満をあらわにするリンに対して、わざと意地悪く追い打ちをかける。
「リンのすっばらしーい音楽的才能は、リン自身が一番良く知ってるだろ? あまりに素晴らしすぎて、こっちは聞いちゃいられねえぜ」
「ふんっ……」
 リンはむくれて、もはや何も言わず前を向いてしまった。そう、あいつは根っからの音痴なのだ。外見も性格も悪くはないのだが、あの音感のなさには誰もが閉口してしまう。
 もしもこれが町の中でのやりとりならば、あいつが俺を追い回して確実にひと騒動起こるところだが、今日は森の小道を歩きっぱなしでお互い疲れきっているため、じゃれ合う余力はない。
「こんな移動中にケンカなんてしないで下さいよ!」
 リンの前を歩いているタックが、暇つぶしがてら大声で叫んだ。あいつは俺の幼なじみ。冒険者職種は盗賊、手先が器用で鍵開けや罠外しは朝飯前だ。冷静沈着が売りの十七歳なのだが、背の低さに強い劣等感を抱いている……タックとリン、この二人に対して背の話は厳禁だ。
 さて、長年のつきあいからタックを一番の親友として認める俺だが、レンズの抜け落ちた眼鏡を愛用するという変な嗜好だけはどうしても理解不能だ。
「気をつけろ、下り坂だぞ!」
 先頭のルーグが大声をあげた。彼は俺たちの兄貴分的な存在で、まとめ役の二十二歳。普段はおとなしいが、しめるところはきちんとしめる。騎士を志す清廉潔白の好青年で、夢を叶えるため冒険者として修行を積んでいる。
 木が減っていくのと同時に光の粒子が増え始め、久しぶりに森を抜け出す。急斜面の下にはそこそこの大きさの黒ずんだ沼が待ち構えていた。
「不気味ねえ」
 と、本音をもらしたのはシェリア。冒険者職種は魔術師で、地水火風の力を操る魔術を得意とする。背が高く派手好みの十九歳で、性格は多少わがままなところがある。なお、驚くべきことにシェリアとリンは実の姉妹だ。外見も性格もまるっきり逆なのにな。
 以上、タックとルーグと姉妹一組、これが俺の仲間たちだ。最後に俺、ケレンス・セイル、冒険者職種は剣術士。背丈はまあ普通だな。いい加減で軽い男に見られがちだが、少なくとも根は真面目だと自分では思っている。
 とにかく俺たちは休まずに坂を下っていった。獣道は沼を大きく迂回しながら弱々しく続き、その向こうで再び林の中に潜り込んでいる。
 道の角度はかなり急なので、大地を一歩一歩踏みしめながら慎重に進む。仮に一人が転べば、連鎖的に事故を引き起こしかねないからだ。俺やタックは身軽なので平気だが、厚い皮の鎧を身につけているルーグや、もともと運動神経の鈍いリンは苦労しているようだ。
 リンなんか、両腕を水平に伸ばしてバランスを取りながら歩いているのに、あっちへふらふら、こっちへふらふらと危なっかしくて見ちゃいられねえ。
 にも関わらず、やつは突然振り向いたかと思うと、
「ケレンスぅ、ぜったい転ばないでね」
 なんて真剣な顔して言うものだから、つい吹き出してしまった。
「ぷははっ、せっかくのご忠告だけどな、そのまんまリンにお返しするぜ」
「あたし大丈夫だもん」
 と話し終わるや否や、
「あっ!」
 一瞬気が緩んだのか、リンは体勢を崩して悲鳴をあげ、前のめりに倒れていった。すんでのところでタックが両肩を支えて押し返し、事なきを得る。
「気をつけて下さいリンローナさん。いいですか、ケレンスの挑発なんかに乗っちゃ駄目ですよ」
 タックは年上だろうが年下だろうが、相手に関係なく丁寧な言葉を使う。頭が冴えるし第一印象もいいので、交渉の現場ではタックが脚光を浴びることとなる。
「ほら、しっかりして下さい」
「ありがとう」
 リンはタックの補助で体勢を立て直すと、さっきよりも注意深く歩き始める……そしてちらりと俺の方に視線を送り、明るく謝った。
「ごめん、図星だったね。気をつける」
 こういう素朴な返事をされると、からかい甲斐がなくなってしまう。俺もごく普通に応えざるを得なかった。
「あと少しだからな、頑張れよ」
「ケレンス、心配してくれるの?」
 リンの嬉しそうな声を聞くと再び俺のいたずら心がよみがえり、うずきだす。幸か不幸か、上手い具合にある考えがひらめいたので、さっそく言ってみる。
「ああ、お前が倒れたらルーグもシェリアもタックも巻き添えを食うからな。三人がとても心配だぜ」
 こんなことばかり口走っていると、よほどひどい人間に思われそうだが、決して悪意があるわけではない。大げさに表現すれば〈こういうくだらない会話から相互理解が深まるんじゃないだろうか〉という俺なりの信念の実践だ……もちろん長旅の退屈しのぎの一環というのは否めないが。
 リンも馬鹿じゃないから意図するところは暗黙の了解で分かってくれていると思う。事実、俺らは数限りない小競り合いこそすれ、本格的なケンカは一度たりともしていなかった気がする。
「むっ」
 という変な声がして我に帰ると、リンが振り向きざま、こぶしを掲げていた。いつの間にか俺たちは急な坂道を通り越し、四方を森に囲まれた沼のほとりへたどり着いていたのだ。
「ケ・レ・ン・ス! あたし本気で怒るよー」
 嘘だ、怒るつもりなんてないくせに。
「冗談だよ、悪い悪い」
 珍しく平謝りする。重い荷物を背負って何時間も歩いた後なら、誰だって面倒なもめごとは起こしたくないだろう。それはやつも同じと見えて、俺が簡単に降参するとすぐに穏やかな微笑みを取り戻し、いくぶん大げさに溜め息をついた。
「今回だけは許してあげるからね」
「先に行っちゃいますよー」
 向こうでタックの呼ぶ声がしたので、俺とリンは顔を見合わせ、小走りで駆けていく。
 これほど和やかな雰囲気がのちに一変するなんて、その時の俺は知るよしもなかった……俺だけじゃない、リンもタックもシェリアもルーグも、みんな。
 沼に沿って小道を進むと、短い草がびっしり生い茂っている広場のような場所に出た。目の前には新たな森が口を開け、旅人の訪れを今や遅しと待ち受けている。
「そろそろ〈雫の谷〉に着くはず……」
 先頭のルーグは仲間を励まそうとしたが、言いかけた言葉を途中で飲み込んでしまった。その視線はきわめて厳しさを増し、じっと何かを見据えている。
 ただならぬ気配を感じて、
「どうしたんだ?」
 と訊ねたが、次の刹那、そんなのは聞くまでもない愚問だったと後悔する。俺たちが向かうはずの森から、黒ずくめの肉食獣が顔を出したのだ。仲間たちに緊張が走り、俺は腰に引っかけている短剣を反射的に構えた。
「イヴェンラ……沼の、主」
 軽く舌打ちしたあと、シェリアが途切れ途切れにつぶやいた。鹿のような角と猪のような牙を併せ持つ泥まみれの肉食獣、それがイヴェンラだ。
 瞬時に頭の中をやつの断片的な情報が駆けめぐる。沼の付近に生息、腹が減ってさえいなければ人間を襲うことは少ない、強靱な肉体を誇る、なわばりの沼を荒らされると暴れ回る……等々。
「できればやつを刺激せずに通過したいところですけど、難しそうですねえ」
 タックがいつも通り落ち着いて語った言葉は、全員の考えを代弁していた。できれば無駄な争いは避けたい。俺たちはあくまでも冒険者であって、狩人ではないのだから。最低限必要な食糧以外に、自分たちの腕試しと称して動物を殺したり森を荒らしたりするのは納得できない。
「グオオオォ……」
 イヴェンラの低い咆哮が響き渡る。やつは鋭い歯をむき出しにして戦闘の意志を明確にした。ルーグは背負っていた長剣の鞘を抜き、利き腕の左手でしっかり握る。研ぎ澄まされた鉄剣の刃先が西日を受けてきらりと光った。
「タック、まずはいつものを頼む」
 ルーグは正面を向いてイヴェンラの凶悪な目を睨みつけたまま、きわめて冷静に――まるで通い慣れた酒場の親父に好みのワインでも注文するかのような口調で、タックに的確な指示を出した。
「わかりました」
 素早くうなずいて背中の荷物からパチンコと麻の袋を取り出したタックは、袋の中身をかき回す。一瞬のうちに手頃な小石を探し出すと、それをパチンコに乗せて投石の準備をする。
「えい」
 彼がパチンコに軽く力を込めて弾くと、丸い小石はきれいな弧を描いて飛んでいった。一発目は威嚇射撃だ、タックはわざとはずす。息をひそめ、対峙している獣の反応を注視する。
 コトリ、とかすかな音を立てて、イヴェンラのそばに落ちた小石。しかし沼の主は全く動じない。ただ低い唸りをあげているだけで、やつの戦闘の意志は変わらないようだった。動物によっては、驚いて逃げてしまうのだが……。
 俺たちは落胆したが、ぎりぎりまで戦いを避けようと努力する。腕を組み、難しい顔をして立ちすくんでいる背の高い女魔術師に、ルーグが声をかけた。
「シェリア」
 名前を呼ぶだけでルーグの言わんとする内容は相手に伝わる。冒険者として長い間いっしょに暮らしていると、こういうことがだんだんと可能になるのだ。
「仕方ないわねえ」
 シェリアは面倒くさそうに愚痴をこぼしたが、言葉とは裏腹に彼女の表情はいつもとうって変わって真剣そのものだ。精神を集中し、呪文の詠唱を始める。
「дюε塔イ……ドカーっ!」
 火炎系魔術の基本となる〈ドカ〉。シェリアの細い指先から小さな火の玉がまっすぐに飛んでいき、イヴェンラの前足にぶつかった。ジュッと毛が焦げる音がして、辺りに嫌な匂いがたちこめる。
「グアアアッアア!」
 イヴェンラはシェリアの威嚇で困惑し、暴れ始めた。荒れた毛並みを逆立て、牙をむき、角を振り回す。こういう状態になった獣は何をしでかすか分からない危険な代物だ。イヴェンラの体毛である闇の色が俺たちをさらに不安にさせる。
 これは後から考えたことだが、俺たちはやつのすみかである沼を背後にして立っていた。やつは自分の沼を奪われたと勘違いし、怒り狂ったのだろう。
「まずいぞ!」
 先頭に陣取っていたルーグが叫んだ。イヴェンラは後ろ足で地面を何度も蹴り、勢いをつけようとしている。皆、顔面蒼白になった。あんな巨体が向かってきたら誰にも止められやしない。体格のいいルーグでさえ、十中八九、失敗するだろう。まして他のメンバーは……。
 直後、悪い予感は現実となった。やつは全速力でつっこんで来たのだ。脚の筋肉、獣の臭気。ひとたび動き出すと猫のように素早いイヴェンラの速さに俺たちは翻弄され、圧倒された。
「くっ」
「何よ!」
「おっと」
 ルーグ、シェリア、タックの三人は相手をぎりぎりまで引きつけてから、なんとか避けることに成功した。イヴェンラのような大きい獣は小回りが利かない、それを冒険者の勘で判断していたのだ。もちろん俺も同様にしてイヴェンラをおびきよせ、直前でひらりとかわす。やつはまっすぐに走り去り、自分のすみかである沼へ飲み込まれていった。
「ざまあみろ、だぜ」
 俺は短剣をしっかり握ったまま、右腕を掲げた。沼に落ちればしめたもの、やつの体毛は沼の水分を含んで重くなり、さっきのような速い突進ができなくなるだろう。そうすれば色んな小細工の使える俺たちの方が断然有利だ。
 仲間にふっと安堵が走る……しかしリンだけは一人、様子が違っていた。さっきから何も喋っていない。
「おいリン、こっち来いよ!」
 大声で呼んだが、あいつはイヴェンラの恐怖におびえきっていた。右手は小刻みに震え、護身用に握っていたナイフを落としてしまう。
「何やってるのよ!」
 シェリアが怒鳴った。リンはしゃがみこみ、落としたナイフをおぼつかない手つきで拾ったが、今度は腰が抜けて立てなくなってしまう。
「あ、あ……」
「しっかりするんだ!」
 ルーグの叫びが虚しくこだまする。その間に沼から引き返してきたイヴェンラは再び上陸し、体を左右に激しく振って泥を払い落とした。
 その儀式が済むと黒い野獣は丸腰のリンに目をつけて、今夜の夕食は決まったとばかり、速度を増して駆けだした。
「……」
 目をつぶり、リンは声にならない悲鳴をあげる。やつをかばうべく思わず飛び出したが、俺よりもルーグの方が一足早かった。彼はしゃがみ込むリンの前へ死にものぐるいで走っていき、すんでのところでイヴェンラの横っ腹へ思いきり体当たりした。おかげで方向がそれた巨獣はリンの横を素通りし、別の方へ流れていった。
 そのころ俺はようやくリンのもとに駆けつけたが、彼女はまだ震えていて体に力が入らないようだった。おびえるリンを背負って危険な区域から脱出をはかる……やつの体温が背中を暖めた。
 シェリアとタックは沼から離れ、いったん森の方に避難したため、沼のほとりにはルーグだけが独り残された形となった。猛り狂うイヴェンラは急いで反転すると、今度はルーグに狙いを定める。
「グアアアッアッ!」
 不気味な雄叫びをあげてルーグに突進するイヴェンラの巨体。背中におぶったリンを避難させるべきか、ルーグに加勢するか迷った俺は、彼のきれいな青い瞳を覗く。視線で送った質問に対する返事は、やはり視線で送られてきた……ルーグの目は〈大丈夫だ〉と言っている。彼は弾む息のまま長剣を構えた。
 その合図を確認し、ちょっと安心して早歩きしようとした矢先だった。
「うあっ!」
 ガラスのように張りつめた空気を粉々に砕いたのは、ルーグの悲鳴。
 何が起こった?
 間髪入れず首を曲げて後ろを振り返ったが、その刹那さえもまだるっこしく感じた。
 見るとルーグの剣はイヴェンラの最大の凶器である鋭い牙の先端を見事に断ち切っていた。
 しかし残念なことにやつの牙は左右に一本ずつあったのだ。無傷の方の牙は、ルーグの右肩に深々と突き刺さっていた。
「ルーグ!」
「リーダー!」
 一瞬ののち、シェリアとタックが悲痛な叫びをあげた。イヴェンラはルーグの肩から自らの牙を抜き、勝ち誇ったように二、三歩後退する。イヴェンラの灰色がかった牙がルーグの鮮血で赤く染まっているのは、遠目にもはっきり分かった。
「ああ!」
 リンをその場に下ろし、ルーグの方へとって返す。やっぱりさっきルーグに加勢すれば良かった、などと後悔するのは戦いが終わってから考えること。今はできることをできる限りやるだけだ……懸命に地面を蹴る。
 辛そうな表情をして歯を食いしばっていたルーグは、剣を杖代わりにして、がくんと片膝をついた。優勢のイヴェンラはルーグの周りをゆっくりと一巡し、神妙な面もちで眺めている。次にあいつが飛びかかれば確実に一つの命が失われる。
 隙を見て、俺はルーグとイヴェンラの間に割って入った……倒れるルーグをかばうように。
 すかさず短剣を出して相手を威嚇するが、沼の主は先ほどまでとはうって変わって落ち着きを取り戻していた。
 焦るのは俺たちだ。
「この野郎、かかってきやがれ!」
 短剣を高く掲げて怒鳴る。そうしないと相手の迫力に負けてしまいそうだったから。はっきり言って、やつと接近戦になった場合、勝つ見込みなど皆無だった。自分一人ならともかく、傷ついたルーグを守らなければならない。もしもこんな状況で接近戦を行えば被害をゼロに抑えるのは至難の業だ。熟考するまでもなく、少しでも多く時間を稼ぎ、仲間の支援を待った方が得策だという結論に至った。
 イヴェンラは背後に人間の気配を感じ、慌てて振り返った。仲間は期待を裏切らない……そこには沼から遠ざかって避難していたはずの背の低い男が立っていた。頭脳派タックは、高価な保存食である薫製の肉を躊躇せずに目の前の地面へばらまき、イヴェンラへ呼びかける。
「遠慮せず食べてくださいな」
「そうか、あいつ腹が減ってるんだな」
 早口でつぶやき、イヴェンラについての基本的な情報をもう一度頭の中でおさらいする。沼の付近に生息、腹が減っていない限りは人間を襲うことは少ない、強靱な肉体を誇る、なわばりの沼を荒らされると暴れ回る……。
 イヴェンラはその恐ろしい外見に似合わず、もともと比較的穏和な獣である。それがこれほどまでに激昂するということは、沼を荒らされたと勘違いしたのか、何らかの事情で腹が減っているのか、あるいはその両方だろう。タックは機転を利かして、薫製の肉をばらまくという実験をしたのだ。
 案の定、低脳な獣は小さな肉の切片に飛びついた。よほど空腹だったと見える。なぜあんな強い動物が豊かな森で飯にありつけなかったのか。理由は分からないが、とにかくやつは空腹であり、タックのまいた肉片をむさぼった。
 イヴェンラがもともと夜行性なのにも関わらず昼間に動いていることを考慮すると、睡眠の途中で何となく目覚めてしまい、餌を求めて森を徘徊していた、というのが妥当な線だろう。
「ほれ、こっち、こっちです」
 タックは薫製の肉のかけらをまき散らしながら少しずつ場所を移動し、しだいにイヴェンラを沼の方へと追いやる。タックはいつ獣が暴れ出しても逃げられるように適当な距離を保ちながら、根気よく作業を続ける。盗賊のタックだからこそ上手くいく、細心の注意を必要とする神業だ。俺には絶対、無理だろうな。
 その間に俺は、肩を押さえてしゃがみ込み、苦しそうにうめいているルーグの止血を始めようとするが、必要な道具が手元にない。服を破ってにわかの包帯を作ろうとするが、焦って思うようにできない。
 大声で治癒の専門家を呼ぶ。
「おいリン、手当てを頼む!」
「うん!」
 向こうで茫然としていたリンが本来の精神状態をやや取り戻すと、背負い袋をひっくり返して応急手当の道具を見つけ出し、それを胸に抱いたまま沼のほとりへ駆けてくる。
「さあっ!」
 一方、タックは薫製の肉を入れておいた袋を惜しみなく沼に投げ捨てた。また買えばいいさ……命あっての物種だ。
 こうなると沼の支配者イヴェンラも豆をつつく鳩と変わりない。自らのすみかである沼地にズブズブと足を踏み入れ、袋を探して動き回る。
「シェリアさーん、あの魔法を!」
 タックは声を張りあげ、手を振り回して指示するが、シェリアはタックの作戦を理解できず、おもむろに考え込んだ。
「あれですよ!」
 しびれを切らしてタックが再び叫ぶと、シェリアもシェリアで怒鳴り返す。
「『あれ』じゃわかんないわよ!」
「シャ、シュ……何だっけ?」
 今度はタックの方が頭をかかえて地団駄を踏む番だ。どうやらやつは魔法の名前を思い出そうとしているようだった。
 シェリアは顔をゆがめ、悲鳴のような高い声を発した。
「正式名なんていいわよ、早く!」
「氷の魔術を!」
 タックは正式名を思い出すのを諦め、得意の早口で言い放った。
 彼のヒントを聞くや否や、薄紫色の髪の毛を持つ女魔術師は真剣な顔をしたままポンと手を打った。
「わかったわ!」
 イヴェンラ封じ担当のタックとシェリアには構わず、俺はリンといっしょにルーグの止血を始めた。まず俺がルーグの鎧を脱がせ、それと同時進行でリンは白い布を取り出し適当な大きさに破る。ルーグの患部に当て、やや強めに押さえると、瞬く間に白い布が赤く染まっていった。傷は相当深いようで、ルーグの顔がゆがむ。
 沈んだ肉の切片を求め、イヴェンラは沼の中をまだ徘徊していた。タックの作戦を引き継いだシェリアは、機を逃さぬうちに精神を集中させ、人差し指を沼に向けて呪文の詠唱を始める。
「ξбэйфд……水の精霊よ、暖を捨て去り形を定めよ! シュリームド!」
 呪文が正しく詠唱され、極度の精神統一が成功すると、魔源界へつながる細い魔源口が開く。そこから得た微量の魔源物質の組成を呪文の残響が変化させることによって魔法が発動する。魔源口が開いたり魔源物質が魔法に変化するのは、ほんのわずかな時間のうちに行われるので、残念ながら俺たちの目には見えない。
 呪文が唱え終わるとともに、シェリアの指先から大量の白い霧が吹き出した。これは単なる霧ではなく、北国の吹雪をも凌ぐほどの強力な冷気である。氷水魔術の一つである〈シュリームド〉は液体を凝固させる魔法なのだ。
 冷気はまっすぐに沼へ向かって飛んでいく。すると泥の水分が急激に冷やされ、沼はシェリアの立っている側からじょじょに凍っていった。全てを飲み込んでしまいそうな暗い色をしていた沼が白く浄化されていくのは神秘的な光景だった。
「はぁ、はぁ……やったわ」
 シェリアは肩で息をしている。魔法とは精神力だけでなく体力までも激しく消費するらしい。
 沼はかなり大きいので全部が凍りつくというわけにはいかなかったが、イヴェンラの周辺は部分的に氷の固まりと化した。
「グオォァア!」
 相変わらずの鋭い咆哮を発し、四本の足に力を込めて必死に沼から抜けだそうともがくイヴェンラは、今や完全に氷の檻へ閉じこめられた。やつの力をもってしてもそこから抜け出すのは困難だ。
「今のうちよ!」
 シェリアが森の入口で叫んだ。魔法は使用者の集中力が途切れれば効果を失う、つまりシェリアの集中が途切れれば氷は溶けてしまう。その前に何としてもこの場を離れたかった。
 俺とタックは左右からルーグと肩を組み、彼を支えつつ、ゆっくりとシェリアの方へ歩いていった。ルーグの剣と鎧はリンが預かっている。
 ルーグの肩の傷は、血こそ止まったものの決して良い状態ではなかった。その原因となったイヴェンラはもはや抵抗の素振りを見せず、去りゆく俺たちを睨むことしかできなかった。アネッサ村へ戻ったら、イヴェンラに注意するよう村人に伝えなければいけねえな、と心に刻む。
 かくして再び森へ入った。少し歩くとシェリアは氷化魔法の維持をやめたが、もはやイヴェンラの追ってくる気配はなかった。みんなの顔には疲労の色がにじんでいた。
 重苦しい雰囲気の中で、タックが最初に口を開いた。彼の仮説は俺の考えと全く同じだった。
「本来は夜行性なのにも関わらず昼に起きてしまって、やつ、きっと空腹だったんですよ。そういう、むしゃくしゃしている時に僕らが沼に近づいてしまったので、やつは家を乗っ取られると勘違いし、怒り狂ったのでしょう。普段はそんなに凶暴ではない獣ですから……運が悪かったですね」
「すまん」
 肩の傷を押さえ、地面を見下ろして、ルーグが苦しそうにつぶやいた。リーダーなのにこんな怪我を負ってしまって……ルーグの思いは痛いほど伝わってきた。
 静閑な森に乾いた音が響き渡ったのは、まさにその直後だった。
 パシン。
「あ」
 振り向くと、リンが唖然とした表情で立ちつくしていた。シェリアがリンの頬を力一杯ひっぱたいたのだ。シェリアの瞳はさっきのイヴェンラに似て冷静さを欠いていた。
 彼女は一気に捲し立てる。
「何ボーッとしてんのよ! ルーグが怪我したのよ、あんたのせいで。早く傷を治しなさいよ、それがあんたの役割でしょ! みんなに迷惑かけるだけで何もしないんなら、あんたなんていらないわよ! 今すぐ冒険者やめたほうがいいんじゃないの? あんたはいつだって……」
「やめろっ!」
 ルーグが辛そうな表情のまま怒鳴ると、シェリアは不満そうに口を閉ざす。最悪のパターンだ……このままほっておけば事態はさらに悪化する。
 すぐさま、わざと明るい口調で提案してみる。
「おい、このへんで休まねえか? みんな疲れてるんだ、まずは落ち着こうぜ」
 そう言った俺の語尾は震えていた。
 やがてシェリアは無言で道端に腰を下ろす。俺とタックはルーグの両肩を支えたまま、その場にゆっくりと座った。
「ごめんなさい」
 蚊の鳴くような声で返事をしたリンは、ふらついた足取りでルーグのそばに近づいていく。悲痛なほどやつれた表情を無理矢理に和らげ、魔法を施すために右腕をさしのべる。
「あたしのせいで怪我させちゃってごめんね、ルーグ。今すぐに治すからね」
 それから目をつぶって精神を集中させ、少女は治癒聖術の詠唱を始めた。
「БЁЦД、聖なる女神ユニラーダよ、この者の怪我を治したまえ! ハロ!」
 やつの指先から暖かな白い光が発せられ、ルーグの患部をつつんだ。日光の優しさと月光の神秘さを兼ね備えた神々しい輝きだ。痛みが引いたのか、ルーグの顔が一瞬、穏やかになる。
 リンは間髪入れず治癒聖術を唱え続けた。
「БЁЦД、聖なる女神ユニラーダよ、この者の怪我を治したまえ、ハロ! БЁЦД、聖なる女神ユニラーダよ、この者の怪我を治したまえ……ハロ、БЁЦД、聖なる女神ユニラーダよ、この者の怪我を治したまえ、ハロっ! БЁЦД、聖なる女神ユニラーダよ……」
 子供を殺された親鳥が絶え間なく鳴きわめくように、あるいは踏みつぶされて内臓が破裂した兎の子が激しくもがくかのように、なおも呪文を唱え続けるリンの細い肩を慌てて揺り動かす。
「何してんだ、やめろよ!」
 このままではあいつのほうが参っちまう。ルーグも思わず立ち上がり、リンの魔法をやめさせようするが効果がない。シェリアは驚いた顔をして、実の妹であるリンの行動を傍観している。もちろんタックも心配そうだ。
「БЁЦД……БЁ……Д……」
 最後は口をぱくぱくさせながら、リンは精神力と体力の浪費に耐えかねて気を失い、崩れるようにしてゆっくりと倒れた。無音の刹那――すべての時間が静止したように感じた。
「リン!」
 地面に激突するすんでのところで、そばにいた俺が腕を伸ばして体を支えると、止まっていた時間が再び動き出す。
「おい、しっかりしろよ!」
 やつの意識を回復させるために幾度も肩を揺り動かし、必死で呼びかけたものの、大きな緑色の目はすでに瞳孔が開き、広い世界の何ものをもとらえていなかった。

(続)



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