幸せの木の実

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第二章 森


 パチパチパチ……薪の燃える音、ひんやりとして湿った空気、俺の吐息、草の匂い、白い煙。
 その日の真夜中、俺は眠気を我慢し、森の夜番を続けていた。
「ふぁ〜ぁ」
 夜半までは俺が担当し、夜半過ぎからタックに代わる。普段はルーグとタックと俺の三人で輪番するのだが、ルーグは今日だけ怪我の大事をとって休ませた。責任感の強い彼は〈私にもやらせてくれ〉と相当抵抗したのだが、最後はタックが説き伏せた。
 澄みきった涼しい風が流れ去った。辺りには、昼間とは違う緊迫した雰囲気が漂っていた。静寂の奥深くにひっそりとたたずむ夜の森。フクロウの低い鳴き声が聞こえた直後、名も知らぬ獣の遠吠えが響き渡った。
 いつもよりも長い夜番の時間をいささか持て余し気味の俺は、しばしば立ち上がって体を動かす。
「よっしゃ」
 上体を右へ左へ揺すり、ついでに首も振ってみる。そして思いきり胸を広げ、眠気を吐き出して新鮮な空気を吸い込む。狭いテントは男女各一つずつあり、片方にはルーグとタックが、もう片方にはシェリアとリンが寝ている。
 一連の運動が終わると、また焚火の近くに座り直して、脈略もなく色々なことを考える。
「あいつら元気かなぁ……」
 山奥のサミス村で夏に出会った宿屋の看板娘の穏やかな顔がふっと脳裏をかすめた。俺と同じ十七歳の娘は森の案内人として冒険についてきてくれた。冒険が終わった翌日、彼女と彼女の三つ下の妹といっしょに、俺たちは森で遊んだのだった。
 せっかく仲良くなれたけれど、俺たちは旅の者。あまりにも早い別れが訪れ、とまどったことを、まるで昨日のように思い出す。
 その時だった。
「ん?」
 反射的に短剣を握りしめる。テントのそばに黒い影が呆然と立っていたからだ。
 背の低い華奢な体格から、すぐに〈あいつ〉だと判断し、短剣をしまって小さく声をかける。
「リンか? 朝にはまだ早いぜ。もういっぺん寝とけよ」
 しかし、やつは荷物をしょったまま俺の発言には何も応答せず、一歩一歩地面を確認しながら近づくと、焚火のそばにかがみこみ、手にしたランプへ火を移した。やつの動作を見ていて、何か強烈な違和感を覚え、言いようのない不安にかられた。
 知らず知らずのうちに鼓動の速まった心臓を軽く押さえ、つとめて明るく訊ねようとしたが、思惑とは裏腹に心配の入り混じった暗い声になってしまう。
「リン……お前、何やってんだ?」
 するとやつは放心したように俺の顔を見つめ、一度まばたきしてから、はっきりとした口調で自分の意志を語った。
「ケレンス、今までありがとう。あたし、冒険者やめることにしたの。さよなら」
「は?」
 冒険者やめる? さよなら?
 頭の中が驚愕で真っ白に凍りついた。シェリアが昼間使った氷化魔術〈シュリームド〉の比じゃない、俺はリンの言葉で確かに頭の中が凍りついたのだ。
 頭が機能を停止した一瞬の隙を見計らい、リンは闇という名の大海原へ全速力で駆けだした。
「ま、待てよ! おい!」
 足音が、灯火が遠ざかる。慌てて土を蹴る。ランプも持たないまま、漆黒の森の中、リンが掲げる小さな光の粒を追って懸命に走った。
 普段、冗談でじゃれあう時には俺が逃げる役でリンが追う役なのだが、今は違っていた。それだけではない、光と闇、弛緩と緊張……全てが反対で、違和感だらけだった。
 樹にぶつからないよう両手を振り回しながら、死にものぐるいで走り、そして大声を張りあげる。
「リン! こんな真夜中に、どこへ行こうって言うんだ?」
「お願い、あたしに構わないで!」
 闇を切り裂く鋭い声でリンが叫んだ。
 畜生、負けてたまるか。
 しだいに呼吸が苦しくなってきたが、さっきよりももっと大きな声で、途切れ途切れに言い放つ。
「馬鹿野郎。構わ、ないで、いられるかっ!」
「駄目だよ! はぁはぁ……あたしが、いると、みんなの足、引っぱる……」
 もうリンは泣き声だったが、その声とランプの光はいくぶん近づいた。俺は歯を食いしばり、足下に細心の注意を払いながら大胆に走るという難しいことを続けなければならなかった。
「あっ!」
 先に失敗したのは運良くリンの方だった、やつが突っかかって派手に転倒する音が夜のしじまに鳴り響いた。俺はもう息が苦しくて仕方がなかったが、気力で走った。
 そしてとうとう地面に倒れている縮こまったリンを発見した。
「はぁはぁはぁ、追いついたぞ」
「……ひっ、ひっ……ひっ」
 リンは倒れたまま顔を手で覆い、しゃくり上げるように泣いていた。その様子を見ながら、さっきの言葉を思い返すと、俺は無言にならざるを得なかった。
 あいつは確かにこう言った。
 
「ケレンス、今までありがとう。あたし、冒険者やめることにしたの。さよなら」
 
 昼間の姉の言葉がよほどショックだったのだろう……シェリアの口の悪さに怒りを覚え、強く恨まずにはいられなかった。早い段階であいつを止めることができなかった自分までが情けなく感じる。
 あまりに気持ちが混乱し、俺まで涙があふれてきたから、上を向いて息をひそめ、リンにはばれないようにした。
「うっ……うっ……」
 リンの方は一向に泣きやむ気配がない。こういう時にはどんな素晴らしい言葉をかけても無駄に思えて、所在なく立ちつくしていた俺は、自分の涙を服の袖で拭きながらリンの手元に転がっているランプを拾い上げた。森は相変わらず永遠の闇の中に沈み、リンの泣き声だけが沈黙から置き忘れられたように響いていた。
 本当はこういう時、静かに抱き寄せてやるくらいのことができれば格好いいのだろうけど、残念ながら、肩や背中を叩いてやるのがやっとだ。
「どんどん泣いとけよ、今まで溜まってたものを残らず吐き出せ」
「ごめんね、ごめんね……」
 リンの泣き声が強くなる。再び決壊しそうな涙をなんとか我慢し、ひとつひとつの言葉をふりしぼって俺は訊ねた。
「なんで謝るんだ?」
「あたし、あたし、ごめんね……」
「それ以上謝るな、お前は頑張った、本当によく頑張ったんだよ、心配すんな」
 何を言ったらいいのか分からなかったが、必死に言葉を捜して、やつを元気づけようと努力した。
 するとリンはひとしきり激しく泣いたが、しだいに落ち着きを取り戻し始めた。
 ランプで照らすと、あいつは本当にひどい顔をしていた。艶のある柔らかい頬には涙の河が幾本も光り、目は充血して腫れあがっていた。
「ケレンス……」
 最後に何度か鼻水をすすると、リンはようやく泣きやんだものの、まだまだいつ泣き出してもおかしくない不安定で危うい精神状態に違いなかった。涼しい秋の夜風が体を撫でつつ通り過ぎると、俺は急に夜番の仕事を思い出した。
「リン、ここは冷える。テントに移動するぞ」
「……」
 やつは服をはたいて立ち上がったが、一言も喋らない。でも俺がランプを掲げて歩き始めれば、ちゃんとついてきた。ときどきリンはすすり泣きをしていたが、素直に従ってくれたので、ちょっぴり安心した。
 すると今度は辺りをつつむ静寂の刃が気になりだし、何とはなしにつぶやいた。
「悪かったな」
「なんでケレンスが謝るの?」
 間髪入れずにリンが疑問をぶつけた。その言い方にいつもの優しさはなく、シェリアの怒鳴り声に似てとげとげしかった。俺は結局、その疑問に対して何の回答もしなかったし、できなかった。テントに着くまでが気の遠くなるくらい長く感じられた。
 緩やかな坂道を上っている途中で、突然リンが、
「ケレンス……」
 と弱々しい声で言ったのを耳にした俺の心は、消えかかっていた不安どもがぶり返し、あっという間に版図を拡大した。
 立ち止まり、振り返る。
「どうした?」
 冷えきったリンの右手が俺の左手に触れたので、俺の体は驚いて小さく震えた。次にリンの柔らかな手が俺の堅いこぶしをしっかりと握りしめる。
「こわいよ、置いていかないで」
 しかし、とっさに手を離し、わざと突き放す。これは一つの賭けだった。
「駄目だ、置いてくぞ」
「どうして?」
 やつのこわばった声を確かめてから、絶妙のタイミングで前言を撤回する。
「冗談だよ」
「こんな時に冗談言わないでよ……」
 リンは本音を洩らすと、もう一度俺の手をぎゅっと握りしめた。リンの手は、さっきよりも血の気が通っていたような印象を受けた。
 ところで〈こんな時に冗談言わないでよ〉というリンの指摘はある意味もっともかも知れないが、俺は何としてもやつのこわばった気持ちを和らげてあげたかったから、わざわざ〈こんな時〉に冗談めいたことを言ったのだ。
 闇と体温……リンと初めて会った日の夜を思い出す。メラロール王国の首都メラロール市の裏道で恐喝され、おびえていたリンを助けたのは、たまたま通りがかった俺とタックだった。俺はその夜、あいつを背負って危険な場所から脱出した。それが縁でルーグとシェリアに知り合い、冒険を初めて一年以上が経つ。
「ケレンス、ごめんね」
「もういいっての。聞き飽きたぜ、お前の〈ごめんね〉は」
「ふふっ」
 リンが今夜初めて笑った。リンの笑顔なんて見慣れているはずなのに、俺は純粋な幼子のように澄んだ心持ちで深く感動した――それによって闇の海の雰囲気がほんの少しだけ軽くなったのを、肌全体で感じながら。
「もうすぐだぞ」
「うん」
 向こうに見えてきた赤い灯火の勢いは、暇そうに見張っていた頃よりも衰退し、過ぎ去った時間の長さを告げた。幸いなことに焚火の炎は相変わらずおとなしく揺らいでいるだけで、飛び火はしていなかった。焚火の周りの草を丹念に刈ったのが幸いしたようだ。
 リンは子音を強調して、ささやく。
「ケレンスの手、あったかいね……。なんだか亡くなったお母さんみたい」
 そう、リンの母さんは早くして亡くなったのだ。母さんの話をする時のリンは決まって寂しそうに見える。俺は会ったことのないリンの母さんを想像して、その人の左手を想像して、俺の左手と比べてみた。
「俺、こんなごつごつした手だぜ?」
「手触りは違うけど、ケレンスのこぶしの中って暖かさが座ってるの。それはお母さんと同じ」
「まあな。落ち着くだろ?」
 自信たっぷりに言うと、リンは首をまっすぐ縦に動かした。ランプの光の輪の中に少女の微笑みが浮かぶ……ようやくリンは一つずつ心の扉の鍵を開け始めたようだった。
 まもなく焚火にたどり着き、俺とリンはテントを背に、並んで座った。二人ともだいぶ落ち着き、まともな会話ができる状態になっていた。
 座りこんだまま、リンの次なる言葉を待つ。その間に襲い来る眠気を繰り返し繰り返し噛み殺す。
「ねえ」
 ようやくリンが、堅く結んでいた口を開いたので、すぐに返事をした。
「おう」
「おう?」
 リンは俺の返事を真似すると、
「ふふ、ふふふ、あはは、あははっ!」
 急に口元を抑えて笑い出した――それもテントで眠っているルーグたちが起きてしまわないか心配なくらいの大きな声で。あの夜のリンは本当にどこか変だった。
 真面目な顔で、
「何がおかしいんだ?」
 と訊ねても全く逆効果、やつは腹を抱えて笑いまくる。何が何だかさっぱり分からず、呆然と様子を眺めていることしかできなかった。
「あは、あははっ! ひぃ、ひぃ」
 最後は息苦しそうに呼吸をし、ようやく思う存分笑い終えたリンは、一転して静かに語りだす。
「ごめん、泣いたり笑ったり……あたし馬鹿みたいだよね」
「感情のない冷酷人間よりも、感情の起伏が激しい方がよっぽどマシだぜ」
 俺は大げさに手を広げて見せた。リンはもはや泣きも笑いもせず、夜に溶けてしまいそうな溜め息をかすかに洩らしただけだった。
 やつはゆっくりと後ろのテントを振り向き、すぐ向き直って俺の顔を覗き込むと、恐る恐る質問した。
「ルーグの具合は?」
「あれだけ治癒魔法使えば、完治しない方が間違ってるぜ」
「そう……よかった」
 リンの気持ちがまた少し和らぎ、それにつられて俺も安らぐ。今まで聞いていたはずなのに、ちゃんと聞く余裕のなかった獣の遠吠えが再び気になり出した。
 リンは次々と疑問をぶつけてくる。
「お夕飯はみんなで作ったの? あたしがいなくても別に平気だったでしょ?」
 野外で食事するとき、木の実・小魚・キノコ・野菜……森の恵みがリンの手にかかればあっという間に素敵な食材へと変化する。その他、鍋の不足など色々な厳しい制約の中でも、かなりまともな飯を作ってくれる。旅の途中、娯楽のない俺たちにとって、リンの食事は体と心の疲れを癒してくれる必要不可欠なものなのだ。
「まあ平気と言っちゃあ平気だけどさ、やっぱりリンの作った夕食よりも遙かに味が落ちるな、物足りねえ」
 俺は表向きぶっきらぼうな発言を連発したが、心の中では注意深く言葉を選んでいるつもりだった。俺はリンのように気持ちを素直に出すのは苦手だから、ときどきあいつが羨ましくなる。
「あたしがいなくても、お食事くらいなんとかなるよ」
「なんとかならねえよ!」
 そう厳しく言い放ってから相手の両目を覗き込み、真意をさぐろうとしたが、あいにく視線を逸らされてしまった。
 リンはそっぽを向いたまま、さらに質問攻めを続ける。
「お姉ちゃん、怒ってたでしょ?」
「初めはな。でもルーグが一喝すると、あとはしゅんとしてたぜ」
「お姉ちゃん、きっとルーグのことを一番に心配してたのに、その張本人に怒られたから悲しくなっちゃったんだと思うよ。お姉ちゃんは悪くないのにね」
「いや、シェリアも悪いだろ」
「ううん、そうじゃない」
 リンが左右に首を振って俺の考えをきっぱり否定したので、その話を進めることが難しくなり、やむを得ず口を閉ざす。
 リンはどんどん話題を変えてくる。
「ローディさんには会えたの?」
「お前をほったらかして行くわけにはいかないだろ、かといって背負うのは重いし。全ては明日に延期だ」
 ふーん、とわざとらしく相づちを打ち、足下の黒い土を指先でいじりながら、リンは低い声で言った。
「じゃあ、結局またあたしのせいで足止め食っちゃったんだ」
「いや、みんなバテ気味だったからちょうど良い休憩だったぜ。気にすんな」
「気にするよ」
 どうもさっきからぎくしゃくした会話だと思っていたが、それは俺とやつの思惑が全く違うからだということに、ようやく気づいた。あいつは自分を責めるような後ろ向きのことばかり言ってるし、俺はなるべくあいつを責めないようにしている。やっていることが正反対、ぎくしゃくするのも当たり前だ。
 話の方向性を変えることにした。
「う〜ん、やっぱり気になるのか? 魔法を使いすぎて倒れたこと」
「だって、無理と分かってて無理したあたしが悪いんだもん。それより、ルーグに怪我させちゃって」
「あれはしょうがねえよ。次回は気を取り直して……」
 言いかけた俺の言葉を手で制し、リンが立ち上がる。最初はいつものような優しい口調で俺を諭すように語り始めたリンだったが、最後の方は叫んでいた。
「ねえ、いい? もう次回はないんだよ。さっきも言ったけど、あたし、本気で冒険者やめるんだからねっ!」
 やつは言いたいことを言い終えると急に口をつぐみ、こぼれだす涙を服の袖で拭いた。これでまた脱退論議は振り出しに戻ったわけだ。俺はもちろんリンを心配していたけれど、正直なところ若干持て余していたのも事実だった。
「冒険者やめて、どうするんだ?」
 爆発しそうな感情をどうにか抑えつけて素朴な疑問を投げかけると、相手は泣き声のまま途切れがちに応じた。
「モニモニ町に帰って……学院に通って……お菓子屋さんで働こうと思う。前から少しずつ考えてたんだ」
 ショックだった。あいつが前から悩んでいたなんて、ちっとも気づかなかった。俺は自責の念にかられて低く唸りつつも、どうやってリンを説得していけばいいのか思案をめぐらす。
 タックやルーグを起こして説得してもらうのはしゃくに障る。二対一や三対一で話し合うのは何となく卑怯な気がしたし、そうすれば今のリンならもっと心を閉ざしかねないと思ったからだ。
 それにしても、常日頃は明るくて穏やか、きわめて人当たりの良いリンだっただけに、豹変してしまった今との落差にいちいち戸惑わざるを得なかった。普段のリンが本物で今は偽物なのか、それとも普段は猫をかぶっていたのだろうか……つられて俺までがどんどん後ろ向きの考えになってくる。そしてそんな駄目な自分に気づく別の自分がいて、頭の中はもう滅茶苦茶で、やりきれない気分だった。
「リンが冒険者をやめるだって? そんなの絶対に信じられねえよ!」
 もう我慢できなかった、あんな弱気なリンをこれ以上見ていたくなかった。気がつくと俺はリンに負けないくらい激しく嗚咽していた。熱い涙がとめどなく頬を伝う。
 しばらく二人で泣き続けたが、いつしかほぼ同時に泣きやみ、お互い泣きはらした目でまっすぐ見つめ合った。
 リンが言う。
「ごめんね、いつも迷惑ばかりかけて」
「いい加減にしろ、それ以上謝るな! お前は何も分かっちゃいねえよ。俺ははっきり言ってお前を過大評価するつもりは毛頭ない、だから正当に評価する。自覚はないかも知れねえが、お前ほど優れたムードメーカーはいねえんだぞ!」
 一気に喋り終えると、リンは特徴的な緑色の瞳を大きく見開いた。そしてかすれ声で訊ねる。
「ムードメーカー? あたしが?」
「そう。仮に偉大な聖術師がいるとする、そいつはきっと体の怪我を治すのはお安い御用だろうが、心の疲れまで簡単に取り除くことはできやしない。でもリン、お前には類いまれな〈そういう能力〉があるんだよ」
 俺の口調は落ち着いていた。相手は信じられないといった様子で、何度もまばたきを繰り返している。察するに、リンが抱いていた〈冒険者をやめる〉という強固な信念に細いひび割れが入ったのは確かだった。
 ここぞとばかり、思っていたことを正直に語る。
「お前が作った料理やお前の素直な行動、そして何よりもその明るい笑顔が、どれだけ俺たち全員の心を癒し、支えてきたことか。お前が笑っているだけで俺たちの心はいつしか和らぎ、いいムードになるんだよ。はっきり言って、緩衝役のリンがいなくなれば俺らのパーティーはあっという間に崩壊だ」
 リンは何も言わず話に耳を傾けている。
「……」
 鼓動の速まった心臓を服の上から軽く押さえたまま、深々と新しい夜風を吸い込み、テントで眠っている三人を気づかって声のトーンを一段階下げつつ説得を続ける。
「ただ、癒しの能力うんぬんというのは理由の一つにすぎない。理屈抜きに、俺はお前に残って欲しいと願っている。そりゃ、いつかは別れの日が来るんだろうけどさ、今はまだあまりに早すぎるぜ」
「でもねケレンス、あたし笑ってるだけなんて嫌だよ。もっと積極的にみんなの役に立ちたいし、できる限り足は引っ張りたくない」
 ゆっくりと語ったリン、ただしその口調は重々しかった。あいつめ、やっぱり責任感が人一倍強いんだな。その点ではルーグに似ている……俺は思った。
 ポケットの中をまさぐって一枚の薄汚れたコインを取り出し、リンに示す。
「ちょっと待てよ。いいか、俺たち人間は一人の例外もなく、全員ある種のコインなんだ。コインには必ず裏と表がある」
 銀貨は焚火の光をあるがままに受け容れて、ぼんやり赤く輝いた。表面をかざしたり、ひっくり返して裏面にすると、コインは微妙に輝きを変化させた。
「なのに今のお前はこうだ。自分のことは裏面しか見ていなし、俺たちについては表の方ばっかり指摘してる」
「そうなの……かな?」
 語勢が弱まったことから察するに、やつの心はぐらぐら揺れているんだろう。握りこぶしをあごに当てて真剣に考え込んでいる。
 少し待っても反論が来ないので、さらに自分の考えを伝える。
「昨日の昼間のように凶暴な獣が出てきて肉弾戦が始まれば、確かにリンは足手まといになるかも知れない。だけどさ、洞窟の奥底で高度な魔法の知識が試される試練があったとしたら、どうだ?」
 そこでいったん話をやめた、あとはリン自身に気づいて欲しかったからだ。
 なあ、その時に足手まといになるのは、魔法にうとい俺やルーグだろう?
 はっとした顔になったかと思うと、リンは四方八方にとまどいの視線をまき散らした。
 やつの変化を確認してから、これまでの話をまとめにかかる。
「そういうのを補う合うために、俺たちはパーティーを組んでるんじゃなかったのか?」
「そういえば、ケレンスにも苦手なものがあったんだよね。水泳とか……」
「人間は神様じゃねえんだから、欠点があって当たり前だ。コインなんだよ」
 俺は水泳が大の苦手だ。以前、冒険の途中でやむを得ず泳がなければならない状況に陥ったことがあった。その際、俺を力強く励ましてくれたのは目の前の少女……リンだった。
 わざと顔をしかめる。
「今ごろ、嫌な記憶を蒸し返すなよ」
「てへ、ごめん」
 リンは舌の先をぺろっと出した。その頃、やつはほとんどいつも通りの明るさを取り戻していたが、俺にはまだ一抹の不安が残っていた。恩返しのつもりで、今夜は徹底的にあいつの心の疲れを癒してやりたい……そう決めていた。
「他に質問は?」
 魔法学院の堅物教授を彷彿とさせる〈口ひげを整える真似〉をしながら、すっくと立ち上がってリンに訊ねる。
「はーい」
 と、相手が元気良く手を挙げた。俺は下手くそな演技を続ける。
「リンローナ君、何かね?」
「はい。あの……ケレンス教授は誰のために、そして何のために冒険を続けているんですか? あたし、なんで冒険を続けているのか目標を見失ってしまったんです、もしよろしければ参考のために教えて下さい」
「コホン、コホン」
 大げさに咳払いをしてから、使い慣れない丁寧語を用い、わざと変なイントネーションをつけて喋る。
「えー、わたくしは誰かのために冒険をしていると思うことはほとんどありません、しいて言えば自分のためです。誰しも自分が一番かわいいのです」
「自分のため……」
 リンは俺の言葉をかみしめている。俺は空を仰いで、枝と枝の間に見え隠れする新しい星座を捜しながら、ひとつひとつ丁寧に言葉を紡いだ。
「確かに冒険の結果として誰かの役に立つことはあるが、それは俺にとっては付属品に過ぎない。結局はもっと自分自身を成長させてみたいんだ、体も心もな」
「うん」
 素直にうなずき、真面目な顔をして俺の話に聞き入っているリン。二人の間を緩やかな夜風が吹き抜けていく。
「まずは自分、それから他人。自己中心的かも知れねえが、変に〈誰かのため〉なんて考えると疲れちまう」
「そっか」
 リンはひとまずうなずいてから、
「教授ぅ、ふだんの口調に戻ってるよ」
 と冗談を言い出した。いつの間にか頬が熱くなっていたのを自覚してちょっと恥ずかしくなり、俺は慌てて取り繕う。
「いいんだよ、面倒くせえから。とにかく俺だって、冒険者なんか、しょっちゅうやめたいと思ってるんだぜ」
「えっ、ケレンスも?」
「コホン、失敬な。私はケレンス教授ですよ!」
 さっきから逆襲のチャンスを狙っていたんだ。まんまと罠にひっかかったな。
 少女は口元を緩める。
「ふふっ、ケレンスに教授は似合わないよ、だってケレンスはケレンスだもん」
「まあいいや……そこでさっきの話につながって来るんだけどな。そういう、途中で投げ出しそうになる後ろ向きの気持ちをリンが癒してくれるから、俺は冒険者をやめずに済んでいるわけだ」
 リンが上半身を前に乗り出す。
「え、嘘でしょ?」
「こんな時に、わざわざ嘘つくか?」
「……本当なの?」
 その質問に答える代わりに、リンの頭を何度も撫でてやった。髪の毛のさらさらした手触りが気持ちいい。
 リンは遠い目をした。
「あたし、ここにいる意味あったんだ」
 すでにだいぶ傾いた月が薄雲から顔を出した。ガラス板よりはかない静寂を壊さないよう注意しながら、俺は森の小妖精がおやすみを言うような感じで喋る。
「俺たちみんな、今までお前の癒しを利用するばっかりで、大切なことに気づいていなかった……心の疲れを和らげてくれるお前の心こそが、いつの間にか一番疲れていたということに。俺たちはお前に謝らなければならないな」
 その刹那、焚火の勢いが強まった。
「ありがとう。ケレンスが色々話してくれて、なんだか、すごくほっとした。本当にありがとう」
 そう言うと、リンはぽたりぽたり涙をこぼした。先ほどまでの取り乱した状態とは違う、素敵な泣き方。ほのかな闇と薄暗い光につつまれて、今にも夜と同化してしまいそうだ。
 もう大丈夫……ようやく胸をなで下ろす。リンも少し気が抜けたのか、腹の虫がぐうと鳴った。
「あっ」
「お前、腹減ってるんだろ?」
「お夕飯食べずに気絶してたから……」
 うつむくリンをその場に残し、
「ちょっと待ってろ」
 テントへ戻って自分の背負い袋の口を開け、保存用の丸い乾パンを二つ取り出した。それを握りしめたままリンのもとへ帰り、無雑作に突き出す。
「食えよ」
「え、でも、あたしの分があるから」
「馬鹿野郎! 素直にとっとけよ」
 俺は心の中ですぐ後悔した、つい怒鳴ってしまったことに。リンはぴくりと震え、またもや黙りこくってしまう。雰囲気が微妙に重くなった。
 今度はできるだけ穏便な言い方で、乾パンを相手の目の前へ突きつける。
「いいから食え」
「……」
 何も言わずにうなずいたリンの小さな手のひらの上に、球形の乾パンを二つ並べて乗せる。やつはしばらくの間、そのあどけない顔で目の前の穀物をじっと見つめていたが、おもむろに腕を持ち上げると、片方のパンを口へ運んだ。
「どうだ?」
 即座に訊ねると、リンはパンのかけらをごくんと飲み込んでから、
「おいしいよ」
 とつぶやいた……けれど、表情は依然として硬かった。
「そうか? まずそうな顔してるぞ」
「おいしいっ!」
 リンは必死になってとびきりの笑顔を繕うが、それは全く不自然な偽物だった。
「無理せず、いつものように笑ってみろよ。無理しないのが一番いいんだ」
 顔の筋肉を動かして試行錯誤するリン。
「こうかな? こう?」
「違う違う、そうじゃない」
 俺は、意地悪な剣術士が剣の持ち方を細かく指導するかのように、つれない返事ばかりを浴びせかけた。リンはその都度いろんな笑顔を作ってくれたが、俺が否定ばかりしていたので飽きてしまい、最後にいたずらっぽく微笑んだ。
「あーあ、もうわかんないよ」
「それだ!」
 と、相手の顔を指さしたとたん、やつは再び食べ出そうとしていた残りのパンを持ったまま大きな眼を見開いた。
 そして突然、自らの心境の変化を語ったのだった。
「ケレンス……あたし、もう少し考えてみる。自分のために泣いてくれる人をほったらかしにしてどこかへ行くなんて、そんなひどいことはできないもん」
 言い終わって溜め息を一つ落としたリンは、また泣くかと思ったが、素早くまばたきを繰り返してこらえている。
「よしよし、それでこそリンだ。泣いてると可愛くなくなるからな」
 俺だって我慢していた。あいつに涙を見せるのは気恥ずかしかったのだ。
 鼻をすすって下を向いていた俺は、
「ふふっ、ありがとう」
 リンの優しい声がしたとたん、涙腺が安堵で緩んだ。俺はそっぽを向き、怒ったような口調で言い捨てた。
「飯食ったら今日は寝ろ、俺もとっくに交代の時間を……」
 交代の時間を過ぎているはずだから俺も寝る。そう言おうとしたのに、語尾はかすれてしまった。こぼれだす暖かい涙。リンの泣き虫が伝染したのか?
 困惑した俺は一刻も早くその場を離れたくてテントの方へ小走りに赴き、新しい薪を探した。数本の薪をかかえてリンのそばへ戻るころには、俺の気持ちはだいぶ小康状態を保っていた。
 消えかかった灯火へ慎重に薪をくべていると、リンが急に立ち上がって告げた。
「あたし、もう寝るね。おやすみ」
「おい」
「なあに?」
 リンが歩みを止める、つられて夜風の流れも一瞬止まる。
 寝る前にどうしても言っておきたかったので、前置きを入れつつ正直に語る。
「ちょっとしつこいかも知れねえが、念を押しとく。いろんな事をあんまり一人で溜め込み過ぎるなよ、何か不安なことがあったら早めに言え。俺が嫌ならルーグでもタックでも構わねえ、あいつらも親身に聞いてくれるはずだ」
「わかった」
 そのとき振り向いたリンの顔を、俺は一生忘れないだろう。涙に濡れた瞳も、柔らかな髪の毛も、すべすべした頬も……みな、美しく輝いていた。
「まずはケレンスに相談するからね!」
 語尾が静寂の中で乱反射した。俺はもう何も言えなくて、リンの背中を呆然と眺めているだけだった。リンも、もはや振り向かず、姉のシェリアが独り寝ているこぢんまりしたテントへ入っていった。ガサゴソ音がしたかと思うと、にわかに森は安らぎの闇につつまれ、フクロウだけが相変わらず遙か遠くで鳴いていた。
 何だか胸が熱くて、なかなか眠れそうになかった。でも体は心よりも正直で、思わずあくびが込み上げてくる。
 夜番を交代するためテントへ向かうと、小柄な黒い影が立っていた。
「おい、寝たんじゃなかったのか?」
 相手がリンのつもりでそう言ったのだが、返事は男の声だった。
「たった今、目が醒めたんです。そろそろ交代の時間じゃないですか?」
「なんだ、タックか」
 違和感がある。確かに、もうとっくに交代してもいい時間ではあったし、タックはもともと目覚めのいい男だったが、それらを隅から隅まで考慮しても納得いかないほど、やつの瞳はあまりに冴え渡っていた……夜の闇を忠実に映して。
 口を閉ざして考え込んでいると、タックがつぶやいた。
「どうかしたんですか?」
 白々しい。やつは上手く誤魔化したつもりだったのかも知れないが、その言い方で全てを理解してしまった。
 そう、やつはすでに起きていたのだ。
「最初から聞いてたのか?」
 訊ねると、案の定タックは頭をかく。
「途中からですよ」
「頼みがある」
 幼なじみのタックと俺は、ある程度、お互いの気持ちや行動が予想できる。俺たちの心をつなぐのに魔法はいらない。
「シェリアさんの件ですね」
「そうだ、やんわりと注意しておいてくれないか?」
 朝になってシェリアがリンを叱らないとも限らない。それは、やっと血の止まった傷口をいじくり回すのと同じことだ。それだけは何としても避けたかった。
 俺は正直、シェリアとはあまり仲がよろしくない。だから俺が直接注意すると角が立ち、パーティー内はよけい険悪になる可能性がある。
 ルーグ……駄目だ。シェリアがリンに対して本気で怒ったのは、リンをかばって怪我したルーグを心配していたからだ。その張本人から諭されればシェリアはさらに逆上するか、あるいは衝撃を受けるだろう。だからと言ってリン自身が姉に直訴するのは論外だ。
 この場合、シェリアとそこそこ仲が良く、かつ第三者であるタックが、まぎれもなく最高の適任者だった。
「わかりました。起きがけにでも、当分はリンローナさんを責めないようにって伝えておきますよ」
 親友が二つ返事で了解してくれたので、ほっと胸をなで下ろす。
「じゃあ、あとは頼むな」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 眠気でふらふらしながらテントへ入った俺は、タックの暖の残る毛布に潜り込み、新しい太陽が昇り終えるまで死んだように眠った。

(続)



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