幸せの木の実

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第三章 雫の谷


「きれいな場所だな」
 丘の上に立っている俺の口から、思わずそんな言葉が洩れた。谷を渡る風の旅人は俺たちの眠気を吸い込み、遙か遠い街を夢見ながら過ぎ去っていく。
 日の出とともに目を覚ました俺たちはテントをたたみ、さっそく歩き始めた。秋の冷え冷えする空気を全身に浴び、露のおりた草をかき分け森の小道を歩いていくと、まださわやかな朝の風がやまないうちに、目的の集落を見下ろす丘の上へたどり着いたというわけだ。
 それはノエラ河の上流にある秘境、雫の谷。淡い朝靄が谷を覆いつくしているので詳しい様子はわからない。
 今まで飽きるほど見てきた森の緑から解放されて、頭上に広がる空の青と、谷に流れ込む乳白色の朝靄を見たとき、俺はまるで雲の上に立っている天人のような新しい感覚を味わったのだった。
 辺りには湿り気の粒子が数多く漂っていた。曲がりくねった細い小道の表面は奇妙な苔の大群に隠されている。
「行きましょう」
 タックが促した。そして先頭のルーグが谷へ続く坂道に最初の一歩を踏みおろそうとした。
 が、思うところがあったのか、彼は出しかけた足を引っ込めて後ろを振り向き、俺たち四人の顔を代わる代わる見つめながら言った。
「滑らないように気をつけるんだ」
「そうね」
 と相づちを打ったシェリアは目に見えて顔色が悪く、いつもの強気はどこへやら、明らかに沈んでいた。
 タックは起きがけにシェリアをテントから少し離れた木陰に呼び出し、二人で話をしていた。きっとリンへの対応について、タックが色々と忠告したに違いない。タックは昔から、そういう説得工作に関して特別な才能を発揮してきた。
 やつがどうやって話をつけたかなんて俺にはさっぱり分からないが、寝起きが悪く不機嫌そうだったシェリアの顔が、タックとの会話後は苦悩の混ざった重い表情に変化していたのは事実だった。
 もともとはシェリアの吐いたきつい言葉が、疲れきって自信を喪失したリンの心にとどめを刺した……とはいえ、あんなに沈んだシェリアを見ていると、俺は正直言って罪悪感を禁じ得なかった。
 そういう姉のシェリアとは対照的、リンはつとめて普段通りに振る舞っている。夜更けの出来事がまるで嘘のよう、あれの名残は泣きはらして真っ赤に染まった大きな瞳ぐらいのもんだ。
「ねえケレンス、朝ごはん何がいい?」
 なんて平然とした顔で聞くもんだから、俺は取り乱したリンを何度も思い浮かべて、今の冷静なリンと比較して……返事をするのにまごついてしまった。
「そう、まあ、そうだな。うまけりゃ何でもいいぜ、俺は」
「わかった、考えておくね」
 飾り気のない素直な微笑みを浮かべ、リンはこっくりとうなずいた。仮に表面上だけとしても、やつが夜の件を引きずっていないのは俺にとって救いだった。あんなひどい状態が朝まで尾を引いていたら、すごく辛かったと思う。
 しかし、だ。リンの心は本当の意味で安定を取り戻したのだろうか? ……そんな疑問が頭の中を猛スピードで駆けめぐった。意識が希薄になる。
「うおっ?」
 雫の谷に根づく生命力あふれる苔が本領発揮し、考え事をして注意が散漫になっていた俺の右足を思いきり滑らせた。バランスを崩した俺は、前を歩いていたリンの背中に抱きつく格好となり、なんとか転ばずにとどまった。
「きゃっ!」
 悲鳴をあげるリン、一斉に振り向く他の仲間たち。鼻先にはリンの背負い袋があって視界はゼロ、そして手の平には生暖かい変な感触があった……小さくて固くて発展途上の、まさに少女の胸だ。
 驚いて手を離し、それから体勢を整えた。なぜか顔が火照ってくる。
 気まずさを振り払うため、ぶっきらぼうに謝る。
「悪い」
 するとリンはわざとらしく振り返り、口先を緩めてほくそ笑んだ。
「運動が得意なケレンスでも、滑っちゃったりすること、あるんだねー」
 意識的にせよ無意識的にせよ、リンはいつものリンを取り戻そうと努力している。それに協力してやることが、唯一、今の俺にできることじゃないだろうか。
 そう考え、わざと悪態をついた。
「今に見てろ、お前だって絶対滑るぞ」
「あたし、平気だもーん」
 と言い残し、やつは特に怒った素振りも見せず大股で歩き出した。仕方なく、幼さの残る後ろ姿を追う。
 いくら考えても分からないこと……世の中にはたくさん存在する。リンの心が落ち着いたかなんて、きっと当事者であるリン自身だって分かっていないはずだ。はっきり言って、そんなことを俺があれこれ悩んでも事態は進展しない。無意味な問いを頭の中から完全に追放するため、懸命に別のことを思い浮かべた。
 そもそも雫の谷に来るきっかけとなったのは何だっけ?
「こんな朝っぱらに訪問して……ローディさん、起きていらっしゃいますかねえ?」
 タックがつぶやいた。シェリアはずっと押し黙ったままだし、リンは長い下り坂で息を切らしている。誰も返事をしないのは悪いと思ったのか、先頭のルーグが前を向いたまま応えた。
「大丈夫だろう」
 俺は指をぱちんと鳴らす。そうだ、タックの言葉で思い出したが、俺たちはローディという男を説得するためにこんな辺境の集落へ来たんだった。
 
 ルデリア大陸の北部を統べるノーン族の大国、世界に冠たるメラロール王国。王都メラロール市から母なる大河ラーヌをさかのぼっていくと、三侯都の一つであるセラーヌ町に着く。そこから東へ、さらに内陸を進めば、アネッサという名の〈歌の村〉が待っている。基本的には小さな農村だが、街道沿いの宿場町としてそこそこの賑わいを見せている。
 そのアネッサ村がまるで彗星のごとく近隣地区で光り輝く日が、年に二回ある。俗称である〈歌の村〉でおおかた予想はつくと思うが、春と秋の二回、王国東部地区で最大規模の歌会が開催されるのだ。
 旅の途中、たまたま俺たちがアネッサに立ち寄ったとき、村は秋の歌会を三日後にひかえ、どことなく華やいでいた。夕暮れにアネッサ入りしたのだが、まさに村全体が熱っぽい暖色系の雰囲気につつまれていた。
 祭りでしか得られない、独特の昂揚感が好きだ。故郷を離れて旅を始めてから久しく味わっていなかった〈その感覚〉がよみがえり、すがすがしく思っていた。
 直後、奈落の底へつき落とされる。今夜こそは狭いテントではなく広いベッドで存分に休めると思ったのに、村の宿屋はどこも予約でいっぱい。とてもじゃないが冒険者五人の入り込める余地などなかった。
 シェリアはしつこく愚痴をこぼし、ルーグがたしなめる。タックは苦笑し、俺は腕を組んで皮肉を言う。するとシェリアがかんしゃくを起こし、リンは困って右往左往する。最後はルーグが一喝し、俺とシェリアはしぶしぶ仲直りする。
 村はずれの温泉に浸かり、しだいに薄暗くなる夕空を見上げながら体と心の疲れを徹底的に洗い流したのち、俺らは活気づく中心街へ繰り出した。
 熱気、麦酒の匂い、手拍子、叫び声。酒場の喧噪はあれから一日半が経った今でも鮮明に記憶している。酒場の入り口付近には特設ステージが用意され、三日後に行われる歌会の前哨戦さながら、すさまじい盛り上がりをみせていた。
 俺たちはあっけにとられ、ステージ上の少年が歌い終わるのを待った。厨房の横では笛吹きや太鼓叩き、弦楽器やらの専門家が並び、少年の歌声に合わせて即興の伴奏をつけていた。
 ステージの発表者が入れ替わるわずかな合間を縫って酒場の隅に移動し、唯一あいていた長方形の六人用テーブルを囲んで申し訳なさそうに座り、仕事そっちのけで歌に夢中なウェイトレスを呼び止めて酒と料理とを注文する。
 その料理が出てくるのが遅いので、ときどき手拍子をしながら歌を聞いていると、向こうの方で肩を組みリズムに合わせて揺れていた酔っぱらい集団のうち、背の低い中年の男が叫んだ。
「オーイ、次サバラ行けよォ」
 すると真っ赤な顔をした別の親父がふらふらしながら立ち上がる。
「ヨッ、アネッサの歌姫!」
「バッキャロー、サバラは男だせ」
 しばらく低俗な笑い声が響き渡ったが、その雑多な音を斜めに切り裂きながら、いかにも吟遊詩人らしい端正な顔立ちの若い男がさっそうとステージに登った。
「サバラです、応援よろしく」
 期待と羨望の視線が簡素な舞台に集まる。大きなどよめきと拍手の渦。
「地元の鏡だ!」
「また、一等かっさらって来いよ!」
 どうやら彼は地元アネッサの出身で、前回・春の歌会の優勝者らしかった。
 前奏が始まると酒場は急に静まり返り、おごそかな雰囲気につつまれた。まるで祝週(新年)を迎える夜明けのようだ。その変化があまりに突然だったので、俺のいい加減な手拍子だけが取り残された……周りから睨まれ、首をすくめる。
 サバラという名の歌い手は目をつぶり、気持ちよさそうに第一声を発した。あの痩せた体のどこから生まれるのか不思議で仕方がない、芯のある美しい声が酒場じゅうにこだました。はっきり言って、他のやつとは格段にレベルが違う……それが最初の印象だった。
 演奏が終わると当然のごとく、またもや大歓声が乱反射する。サバラは人垣を割って進み、酒場の隅にある六人用のテーブルに近寄った。
「ここ、あいてます?」
 彼は、俺の横の席を指さした。一瞬、何のことだか理解できなかった俺は、仲間たちと顔を見合わせた。するとタックが代わりに返事をしてくれた。
「あいてますよ、どうぞお掛け下さい」
「ありがとう」
 口調、礼の仕方、座る仕草……サバラはその行動すべてから〈吟遊詩人〉の青く澄んだ炎が感じられる、ごくまれな男だった。天職とはこういうものだろうか。
 その時ようやく料理が運ばれてきた。俺たちは空腹に耐えきれず、しばらくステージのことも目の前のサバラのことも忘れてがむしゃらに食べ、酒を飲んだ。
「あなた方、冒険者のようですが」
 食事が終盤にさしかかり、手と口を動かす速度が緩む頃、サバラが透明感のある高い声で話しかけてきた。
 内容を要約すると、こんな感じになる。
 
 サバラにはかつて、ローディという名の歌会のライバルがいた……年齢はローディの方が一つ上の二十二歳。両者はともにアネッサ村の出身で、歌会の開催地代表としてのメンツをかけ、戦いの火花を散らした。特に酒場での前哨戦は、今よりももっとすごかったらしい。
 ローディは満を持して二十歳で本選に初出場し、その年、春と秋の優勝をさらった。サバラはその翌年から参加したが、二回続けてローディに敗れた。つまりローディは四回連続優勝を達成し、あと一回で歌会連続優勝の記録を塗り替えるところまで昇りつめた。
 ローディは天才肌の吟遊詩人だったが、サバラはどちらかというと努力型だった。サバラは喉をつぶさないギリギリのところまで毎日毎夜必死に稽古を続け、練習量の差で勝利を得ようとした。
 そして迎えた今年の春の大会、下馬評では圧倒的にローディが優勢で空前絶後の五連勝に期待がかかり、ローディ本人も自信満々だったのだが、その野望をサバラが完全に打ち砕いた。
 ちやほやしていた民衆がローディを離れて、一斉にサバラのもとへと集まる。ローディは人生初の大きな挫折を味わい、誰にも告げず独りで村を去った。
 残されたサバラの心は空虚だった。高め合ってきたライバルが突然、消え失せたのだ。
 願いはただ一つ。
「もう一度、ローディと勝負したい」
 サバラは険しい目つきを崩さぬまま、俺たちに向かって何度もその言葉を繰り返していた。
 彼はこれまでの半年間、手をこまぬいていたわけではなく、ローディの居場所をつきとめるための情報収集を怠らなかった。
 努力が実り、ついに数日前、信用のおける旅の行商人から〈ローディらしき人物を雫の谷で見た〉という証言を得た。
 本当はすぐにでも飛んでいきたいが、歌会を目前にひかえ、今が一番大事な調整期間。ここで体調を壊しては元も子もない、だから冒険者の訪れを辛抱強く待っていた……という。
 冒険者は一言でいうと〈何でも屋〉だ。民衆の税金の一部が回り回って冒険者ギルドの運営費やら援助金に充てられている現実があるため、よほどのことがない限り依頼は断りにくい。
 すぐにうなずいた俺たち四人を横目で確認し、これも何かの縁です、引き受けましょう……とリーダーのルーグが代表して快諾した。
 もちろん仕事上の不安はあった。最大の懸念は、見ず知らずの俺たちが、果たして心を閉ざした孤高の詩人を説得できるのか、ということだった。
 サバラは報酬の八割を前金として現金で渡してくれたが、それは〈出かけていって一人の男を説得する〉には破格ともいえる額だった。成功すれば残りの二割を払ってくれる約束だが、失敗したとしても俺たちに損な話ではなかった。
 その夜はサバラの自宅に好意で泊めてもらった。寝る場所を確保する手間も、ついでに宿代も浮いたわけだ。大きなベッドで寝るという夢は叶わず、結局は雑魚寝だったが、久しぶりに暖かな屋内で休むことができた。
 翌日の朝、疲れのためか少し遅めに起きた俺たちは、昼過ぎに村を発って遙かな雫の谷を目指した。
 道中、イヴェンラに襲われてルーグが怪我する。リンが魔法を使いすぎて気絶し、野宿を余儀なくされる。夜番の途中で俺はリンを説得する。
 こうして新しい朝を迎え、ちょうど今、丘を下ってきた俺たちの目の前には、透き通った湧き水が流れている。そこまで来て、いったん足を止めた。
 辺りは勾配の緩やかな野原で、所々に草で屋根を葺いた丸太作りの質素な家が建っている。その屋根にもびっしりと、たくさんの植物が生い茂っている。
 草だけではない。野原には背の低い神秘的な樹が点在しており、収穫の秋を迎えて色とりどりの実を結んでいる。赤や黄が主で、橙や紫もあり、中には茶褐色や白といった変わり種も混ざっていた。
「うまそうだな」
 朝飯がまだだったので俺の腹の虫は急に騒ぎ出した。空腹に耐えきれず、さっとナイフを取りだして黄色の実を一つもぐ。どうにか手のひらにおさまるくらいの、比較的大きな実だ。
 意を決し、横側から思いきりかじる。サクサクした薄い皮、わき出してくる果汁、そして甘酸っぱい果実の味。
「おい、これ、うめえぞ!」
 俺が叫ぶと、横にいたリンはまぶしそうに手をかざしたままの状態で俺の方をちらりと振り向き、口をとがらせた。
「変なの食べて……おなか壊しても知らないよー」
 やつの薄緑色の髪の毛は谷に漂う水分を浴びて湿り気を帯び、朝の光に優しくきらめている。
「ふむ、大丈夫そうですね」
 毒味役の俺が平気だったのを見届けた後、タックも真似をして赤い実をもいだ。
 するとルーグも、
「どれどれ」
 と言いながら食べ出す。何だかんだ文句を言っていた調理担当のリンも、わざと大げさに溜め息をつきながら、結局は新鮮な実をかじる。
 突然、心臓がちくりと痛んだ。いつもは真っ先に乗ってくるはずのシェリアが黙りこくっていたからだ。だんだん気の毒になってきた俺は、適当な大きさの実を選び、やつに示した。
「食えよ」
「私はいいわ」
 力なく首を振るシェリアに、俺はなおも贈り物を渡そうとしたが、やつはかたくなに拒否する。
「いいの、食欲ないから」
「とっとけよ」
 シェリアの手の中にむりやり実を押しつけて、その場を去ろうとしたとき、後ろからささやき声が聞こえた。
「ありがとう、ケレンス」
 一方、手近な実を食べ終えたリンは、
「ほんと、これ、おいしいね〜。実も大きいし」
 と、布きれを出して口元を拭きながら言った。さすが高名な船長の次女、いかなる状況であっても礼儀作法を忘れない。
 冒険の途中でそんな風に気を使っても全く意味ねえぞ、と折にふれて忠告したものだが、最近は馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。進言するたび、リンはまっすぐにうなずいて反省していたのだが……小さい頃の習慣というのはなかなか抜けないようで、飯の後はいつまで経っても船長の次女のままなのだ。
 リンのつぶやきにルーグが応答する。
「適度な湿り気が保たれているから、植物が育ちやすいんだろう」
「そうですね、普通の環境ではこんなに大きな実はならないでしょう」
 言いながら天を仰いだタック。つられて見上げると、青い空は薄い朝靄の中に相変わらずぼんやりと沈んでいた。
 どことなく変だ。だいぶ陽が昇ってきたのに、未だ朝靄の消える気配がない。谷を覆いつくす朝靄らしきものは、正真正銘の朝靄なのだろうか?
「虹がきれいだね」
 リンの言う通り、雫の谷の上には左から右へ、あるいは右から左へ、七色の橋が架かっている。はかないからこそ心に残る虹は、場所が移動したり溶けていったりするのが普通なのにも関わらず、あの虹はさっきから微動だにしない。美しい橋が本当に実在するかのようなのだ。
「全く、信じがたい光景だ」
 ルーグの言葉は全員の気持ちを代弁していた。もちろんその中には感嘆だけでなく疑問の念も含まれている。
 あちらこちらで、ささやかなせせらぎの音がする。森からは高らかな鳥の歌が響いてくる。気持ちのいい朝なのに、何かが腑に落ちない。昨夜リンが取り乱したことが原因なのか、あるいはシェリアに普段の元気がないことか、それとも謎めいたこの谷の湿った感じが俺の心を揺するのか。
 もしかしたら、それら全てが原因なのかも知れねえなあ、などと珍しく思案していたら、背の低い幼なじみが不適な笑みを浮かべながら振り返った。
「この湿り気の原因、ぜひともつきとめてみたいですよねえ。ケレンスもそう思いませんか?」
 タックは自他ともに認める謎解き大好き人間だ。やつは今、この谷の不思議なからくりを夢見て、期待に胸踊らせているところなのだろう。
 まあ、な……と適当に相づちを打とうとした、ちょうどその時。
「あれは?」
 突如、ルーグが芯のある声を張り上げ、伸ばした腕で何かを指し示した。彼の声色からは危険という印象は受けなかったので、落ち着いて目を細める。
「婆さんだな」
 割と近場にある草葺きの家から腰の曲がった婆さんが出てきて、何やら作業をし始めたのだ。五人の中で視力の一番よい俺がそう判断したのだから間違いない。
「行こう!」
 とルーグが言い出すよりも早く、俺の足は反射的に地面を蹴飛ばしていた。背中の荷物が重いのでどうしても息が切れてしまうが、見知らぬ土地でのこういう貴重な出会いの機会を逃すわけにはいかないという一心で、俺は走りに走った。花びらの上で深い眠りについていた白い蝶が驚いて目を覚まし、逃げ出す。
 家が、婆さんが、瞳の中でじょじょに拡大していく。婆さんが大事そうに抱え込んでいるヒョウタン型の壺の姿もはっきりと見えてくる。
 ようやく婆さんの方も、自分に駆け寄ってくる若者たちの姿を認めたようで、わずかに顔を横へ動かしたかに見えた。が、次の刹那、俺たちの存在を無視するかのようにそっぽを向き、粗末な自宅の入口に向かって歩き出した。
 その間に割り込む。
「はあッ、はあッ、はあッ……待って、くれ、よォ、婆さん!」
 さすがに息苦しく、最低限の単語を叫ぶのがやっとだった。我ながら、初めて出会う人に対する挨拶としてはいささか無礼な感じがしたが、やむを得ない。
 すると相手は立ち止まった。当然のことながら〈しめた〉と思った。きっと婆さんは俺たちのことを相当いぶかしく思っているだろうが、それでも立ち止まったということは、少なくとも〈話す機会だけは与えてやる〉という意思の表れに違いないのだ。
 俺が息を整えているうちに他の仲間たちも追いついてくる。身軽なタック、荷物の少ないリン、重装備のルーグ、そして元気のないシェリアの順。
 見渡す野原には草葺きの家が何軒か建っているが、その全部に人が住んでいるとは限らない。こんなにひなびた集落だから空き家があってもおかしくない。家と家はずいぶん離れているから住民を探し出すのは大変かも知れないし、あるいは会えたとしても朝早いので眠っている可能性がある。
 しかしここで婆さんと話すことができれば、そういうくだらない手間が省ける。だから俺たちはあれほど目の色を変えて真剣に走りまくったんだ。
 白髪の婆さんはヒョウタン型の壺を抱いたまま微動だにせず、まばたきだけを繰り返している。
 俺は一息に言い切った。
「ローディがどこにいるか教えてくれ」
 耳が聞こえにくいのか、突然の来客に腹を立てているのか、それとも何か別の理由なのか……とにかく婆さんの反応はなかった。
「急に押しかけて申し訳ありません。僕ら、怪しいものではありません。雫の谷に住んでおられるローディさんという方を捜しているのですが、ご存じでしょうか?」
 交渉力抜群のタックがゆっくりはっきり訊ねると、婆さんは頬のしわを広げながら重い口を少しずつ開けていった。
「この村に住む他人の名は、存ぜぬ」
「誰一人として、ですか?」
 ルーグはあくまで冷静に述べたものの、その語尾の響き方は驚きを隠そうとしている彼の本心を浮き彫りにした。言うまでもなく俺も自分の耳を疑っていた。
 一般的に、海辺の大都市よりも、こういう内陸の〈ムラ社会〉の方が住民の間の交流は深いはずだ……少ない人数で助け合わねばならないのだから。
 それなのに他の住民の名前すら知らないとは。婆さんはさっきのルーグの質問に対し、ごく静かにうなずいた。
 すっかりあっけにとられていると、婆さんは再び壺を持って歩き出し、
「谷の天井を支えておるマグラナの樹の下に、この集落で最も質素な家がある。そこに住む長老を訪ねるがよい」
 という重要な情報を置き土産にして、草葺きの自宅の中へ姿を消した。その背中には〈もはや何も喋らぬぞ〉という柔らかな拒否の気持ちが混ざっていた。
 俺たちは顔を見合わせ、婆さんへの質問会があちらさんの都合でやむなく終了したことを確かめあった。
 リンが呆然とつぶやく。
「長老さん……」
 誰かを呼ぶとき、語尾に〈〜さん〉をつけるのはリンの癖だ。職業名や役職名だけでなく、いろんな単語の後ろに平気で〈〜さん〉をつけてしまう。例を挙げればきりがないが、狩人さん、男爵さん、怪物さん、魔獣さん……などなど。
 気持ちを切り替えて、俺は左右の崖が迫ってくる谷の遠くを見つめた。
「あれだな」
 こんもりと盛り上がった野原の奥の方に屹立する一本のひときわ高いマグラナの樹は、まるで墓標のように荘厳と居座り、谷全体を見守っている。俺は特に信心深い方ではないが、あの樹を見ていると無性に祈りを捧げたくなってきた。
 次なる目的地へ向かって舵を取る五人の冒険者を祝福するかのごとく、辺りに漂う水分によって永遠の生を受けた虹は彩りを増していった。
 さて、谷を覆いつくす異様な湿り気の原因は、のちほど長老から詳しく種明かしをしてもらうこととなる。
「実は、ノエラ河の水なのじゃ」
 湿り気の原因がノエラ河の水? なんだそりゃ、さっぱり分からん。俺の理解を越えている発言だ。
 長老は七十歳を過ぎたくらいだと思われる気むずかしそうな顔をした爺さんだが、実際に話してみれば意外と感じが良かったので、ちょっぴり安心した。彼の頭の上は肌色の砂漠が勢力を広げており、整えられていない白髪は後頭部と耳の上にわずか残っているだけだ。着ている服は、外の野原と同化してしまいそうに思える、全く地味な焦げ茶色のローブだった。
 俺たちがさっきの発言にとまどっているのを見かねた長老は、
「幻影図で示そう」
 と短く前置きしてから、両手を組み瞳を閉じて精神を集中し、何やら怪しげな呪文を唱え始めた。
「Υ*Π⊇†Φ……めぐりめぐる夢幻の精霊よ、今こそ我らの前に真の姿を現したまえ。フォゴーレ!」
 長老の手の中で強い光が輝いた。まぶしくて目がくらんでいるうちに、狭い部屋は明るさを失ってゆく。それと反比例して、雫の谷の立体細密画が、まさに薄ぼんやりと浮かび上がる。俺はその美しさにはっと息を飲んだ。
 横のリンが小声で言うには、長老の魔法、ルデリア世界の魔法系統の中では幻術という範疇に入るのだそうだ。俺は剣技ひとすじなので魔法については詳しく知らないし、別に知りたいとも思わないけれど、リンは無学な俺のためにいちいち解説してくれる。やつの魔法談義には少々うんざりすることもあるが、当人に悪気はないので断りにくい。
 さて、谷の精巧な俯瞰図には一面草原が広がり、その所々に木造草葺きの住居が建っているのがどうにか判別できる。
 ルーグは幻影図のほぼ中央に見えるマグラナの樹らしきものを指さし、次に天井を示して、自信なさそうに言った。
「これが、ここだろうか」
「いかにも」
 長老が無表情のまま、うなずいた。
「その幻影図で谷の柱となっている一本の巨木こそ、わしらの上に広がっているマグラナの樹に他ならぬ」
 堅物の婆さんから聞いた通り、長老の住居はマグラナの樹の真下にあった。いつも日陰でじめじめしているのかと思いきや、実際に入ってみるとそうでもなかった。生命の樹とされるマグラナのもたらす恩恵か、はたまた長老の不可解な魔力か……理由はともかくとして、非常に心が落ち着く場所だったのには間違いない。あえて言うなら、ちょうどいい湯加減の温泉に長いことつかっているような感じで、精神が安らぐのだった。
 見渡すと、仲間たちは四人とも神妙な表情をしていた。俺たちはしばらく口を閉ざし、なぜか濃密に感じる辺りの空気を繰り返し吸ったり吐いたりしていた。
 沈黙を破ったのは、またもや長老だった。
「ここを見てみい」
 彼は相変わらずの低い声を発し、幻影図のとある地点を二、三回人差し指でなぞった。それは山の頂からいくつもの小川を統合して勢いよく流れてきたノエラ河の源流が谷に注いでいる、切り立った崖だった。その場所から七色の虹の橋が生まれている。
 老人は幻の虹の弧を視線で追い、それが行き着く場所――すなわち狭い峡谷を指さした。ノエラ河はそこから勢いを増して再び下流へと走り続けていた。
「何か変ですね」
 タックがぽつりと言った。
「そうよね」
 まだ朝のショックから立ち直っていないのだろうか……今まで静かだったシェリアがずいぶん久しぶりに喋った。
「河が、消えてる?」
 信じられないといった様子で、リンは大きな瞳をゆっくりとまばたきさせた。
 唇に手を当てて悩んでいたルーグは、急に頭をもたげ、明るく言った。
「そうか、そういうことか」
「あっ、わかった!」
 リンがうなずく。ほどなくしてシェリアとタックも理解したようだ。
 わからねえのは俺だけ。
「おいおい。河が消えるって何だよ?」
 仲間外れにされた気分で、すぐに不満を洩らした。疑問があれば、知ったかぶりしないで早めに解決するに限る。
「つまり、こういうことです」
 説明好きなタックがわざとらしく手を挙げ、さも嬉しそうに話し始めた。
「ノエラ河が谷に注いでいますね」
「ああ」
 ぶっきらぼうに相づちを打つ。タックは先ほど長老がしたのと同じように、虹の橋の向こうとこっちを示した。
「で、ここからまた流れています」
「ん」
「で、その間がないわけです」
「あれ?」
 すっとんきょうな声を張り上げたとたん、横にいたリンがくすっと笑い、
「もうわかったよね? 雫の谷を覆いつくす、謎の湿気の正体!」
 と、俺の耳に口をつけてささやいた。
「わかんねえ。さっさと教えろよ!」
 じらされて頭に来た俺は腕を組み、リンの澄んだ両目を睨みつけた。
 やつはここぞとばかり追い打ちをかける。
「降参?」
「ああ、降参だよ降参。降参も降参、大降参だ」
 ふてくされると、今度は全員から笑い声が起きた。朝から元気がなかったシェリアも、今は口を押さえて笑いをこらえていたので、俺は恥ずかしさと同時に、少しだけ安心してしまった。
 とにかく真っ赤な顔で怒鳴る。
「何なんだ!」
「長老の言葉を覚えていますか?」
 いやに冷静なタックが、まるで〈だだっ子〉を諭すように穏やかな口調で問いかけたので、俺は内心よけい頭に来たが、勝ち目はないと悟って黙っていた。
「ほら、言っておられたじゃありませんか。さきほど長老へ谷の湿気の原因を訊ねたとき『実はノエラ河の水だ』と」
「……ああ、そういうことか」
 安堵した表情を見せると、再びみんなから笑い声が起き、俺はうつむく。
「そうじゃ。雫の谷に注いだノエラ河は、谷の上で霧のように拡散し、谷の向こうで再び一つに合わさっておる。まるで、マグラナの聖木を避けるかのように」
 長老は静かに語り、ルーグが補足した。
「本来は垂直に水が落下するはずの崖を無視し、河はそこから谷全体を覆いつくすように霧散している。だから谷にはいつでも適度な湿気が保たれ、永遠の虹が架かり、植物は思う存分に生育をとげているわけですね」
 長老は俺たち全員の顔を覗き込み、深々と一礼した。幻影図が薄くなり、空気へ溶けるようにして消えていった。火照った顔もじょじょに冷めてくる。
 長老は慎重に言葉を選びつつ、落ち着いた口調で谷の秘密を語ってくれた。
「ここでは夜のうちに表へ壺を出しておくだけで自然と飲料水が確保できる仕組みになっておる。食糧はもっと簡単じゃ。赤、橙、黄、緑、白、紫……色とりどりの実があちらこちらになっており、それぞれ別の味がするから飽きない」
「生産活動の必要がないのは、隠者の方々にとっては好都合かも知れませんね」
 タックが口を挟んだ。雫の谷には隠者……つまり世捨て人が住んでいる、というのは、アネッサ村の吟遊詩人で今回の依頼人・サバラからすでに聞いていた。
 草葺きの天井を遠い目つきで眺め、長老は溜め息まじりの声でつぶやいた。
「われわれは残り香の人生じゃ」
 彼によると、この谷の歴史は一人の隠者が住み着いたところから始まったらしい。その噂を耳にした世捨て人がしだいに近隣諸村から雫の谷へ移り、大工だった者が中心となって簡素な居を構え、一つのさびれた集落を形作っていった。
 その話を聞いている途中、ふと、かつて訪れた妖精族メルファの森を思い出した。黄昏時の風に身を任せて飛んだ先に待っていたのは、永遠に朽ち果ててゆく宿命を背負わされた長命のメルファ族たちだった。
 そういえば、あの時に世話になった一人のメルファと、今ここにいる雫の谷の長老。二人は種族も住んでいる場所も全く違うが、なんだか視線の醸し出す〈諦め〉のようなものが似ている気がした。
 そして次に俺の頭を支配した映像は、故郷の近くを流れるラーヌの大河だった。まもなく海に注ごうとする下流のラーヌ河は幅広で、全ての汚れを飲み込んでしまう豊かさを持っていた。
 軒先からすべり落ちる雫が水たまりに注ぐ不規則な音で、はっと我に返る。
 まさにここは雫の谷だ、これが雫の谷と呼ばれる由縁だ、と妙に感銘を覚える。
 長老の話は続いていた。
「外界との接触は一ヶ月に一度、若い行商人が来る時だけじゃ。夏の間だけとはいえ、こんな辺鄙な集落へ危険を省みず定期的に訪れてくれる彼に対して、わしは深く感謝しておる」
 抑揚をつけて勢いよく語った長老。喋り終えると、その老人は手元にある一通の紹介状の文字面を丹念に目で追い、相好を崩した。すかさず顔のしわが増える。
 長老の言葉にあった〈若い行商人〉とは、サバラにローディの居所を教えた男と同一人物である。その男は雫の谷だけでなく、付近のいくつかの集落を回っている。その中には当然ながら例のアネッサ村も入っているし、有名どころでは森の町リーゼンも含まれている。
 気が利く行商人の若者は、サバラに貴重な情報をもたらしたことに加え、念のためと二種類の文書を残していった。一つは雫の谷へ向かう道筋を書いたメモ。これがあったから俺たちは大きな苦労をせず秘境へ到達することができたのだ。
 そしてもう一つは、雫の谷の住民に宛てて書いた彼の紹介状。雫の谷の隠者たちと外界とをつなぐ唯一の橋渡しである〈若い行商人〉の手紙は、谷の住民と接触する際に絶大なる威力を発揮した。
 そう……最初は半信半疑か、むしろ疑惑の方に傾いていた俺らに関する長老の認識が、行商人の紹介状を見せたとたん急激に和らいだのだ。
 俺たちを行商人の仲間とみなし、親密な態度に切り替わった長老は、谷の湿気の秘密や歴史を教えてくれたりしたわけ。
 紹介状を丁寧に折りたたみ、長老は少し表情を堅くした。俺たちは黙りこくって次なる言葉を待っていた。
 一語ごと噛みしめるように彼は言う。
「冬となれば行商人もやって来ない。谷を覆うノエラ河の水は一つ残らず氷の粒となる。この谷は全く、陸の孤島じゃ。何もかもが静まり返り、わしらにとっては最も心が安らぐ季節……」
「冬がお好きなんですか?」
 リンが訊ねると、長老はさっきと同じことを言い、それをリンヘの回答とした。
「われわれは残り香の人生じゃ」
「残り香、ですか」
 タックは長老の言葉を繰り返した。老人は瞳を閉じ、ゆっくりと首を垂れる。
「そうじゃ。ここに住んでいるものは、ほとんどが五十歳以上の高齢者。若いもんは、ここの冬の厳しさ、あるいは寂しさに耐えきれんのじゃ」
 いつしか話に引き込まれ、ごくりと唾を飲み込む。
 長老は瞳を鋭く見開き、今度は語気を強めた。
「あの詩人も、まだ、ここへ来るべき時期ではない。わし個人としては、彼が隠者として谷住まいをするのはあと三十年先でも構わないと思っておる」
「詩人……ローディさんのことですね」
 ルーグが言った。やっと身近な話題に移ったからだろうか、ルーグの言葉は期待に満ち満ちていた。
 対照的に、長老は苦渋の表情で語る。
「互いの生活に必要以上に干渉しないこと……それは谷で生活する者どもの暗黙の了解となっておる。わしはあの詩人を説得することはできん」
「お気持ち、お察しいたします」
 タックは真剣な顔で唇をきっと結んだ。
「だから、わしには彼の居場所を教えることくらいしかできないのじゃ」
 そう言って長老が右腕をかざし、呪文を唱えると、再び辺りの明度が下がり、雫の谷の幻影図がおぼろに浮かび上がった。何度見ても、この立体細密画像は美しい。
 長老はさらに精神を集中し、手先を素早く回転させる。すると幻影図の草原のかなたにぽつんと建っていた一軒家が煌々と輝きだした。あれがローディの家、ということらしい。
 どちらの方向にあるのかをタックが正確に把握し、メモをとった。やつが作業を終えて長老に礼を述べた瞬間、幻影図は再び空気へ溶けてゆく。
 リンはささやき声で俺に告げた。
「長老さん、すごいよね。あれだけ高度な魔法を使っても、ぜんぜん疲れる素振りをみせないんだもん」
 その一言にあいつの本心を垣間見た俺は口をつぐんだ。あいつはやっぱり昨日のことを気にしているんだ。昨日、ルーグに治癒聖術を使いまくって倒れた自分を情けなく思っているに違いない。
 タックがルーグに耳打ちした。
「リーダー、そろそろ……」
「ああ」
 雫の谷の秘密と詩人ローディの情報を得ることができた俺たち。長老の家を去るにはちょうど良い頃合いだった。

(続)



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