I.D.

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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(二)


 サンゴーンを無理矢理起こし、外へ出る。太陽はやや傾いていた。おそらく午後三時頃と思われる。春になって日が延びたとはいえ、あまり猶予はないだろう。
「なんか、自分の体を探すなんて、変な感じだな。まあ仕方ないや。とりあえず四人で手分けして……」
 家から持ってきたほうきを振り上げ、レフキルが今後の方針を提案する。
 だが、彼女についてきたのは二人しかいなかった。仮に外見を重視すれば〈一人と一匹〉という表現になる。
「ふあ〜ぁ、春はとっても眠いですわ」
 と両目をこすっているサンゴーン、それから猫になった魔女の老婆である。
「わしにも責任がないとは言えん。猫どもが行きそうなところを、この体を活かして探してみることに致しますじゃ」
 責任がないどころか、あんたの責任じゃん……と愚痴の一つも言いたくなるレフキルだったが、ここで相手を怒らせて元に戻れなくなるのは得策ではないため、こみあげる不満をぐっと飲み込んだ。
「ルヴィエラさんはどこですの?」
 さて、きょとんとした顔でサンゴーンがもっともな質問を投げかけると、老婆は戸惑い気味の話しぶりでこう答えた。
「腰が痛くて体が重いと言ってな、出かけるのが億劫だと。まるでわしじゃ」
「そっか……今はお婆さんになってるんだったよね、ルヴィエラさんは」
 混乱しつつも、空を仰ぎ、何とか整理をつけようとするレフキルだった。
「ということはレフキルを……じゃない、猫さんを捕まえるのは一苦労ですわ」
 サンゴーンはぼそっとつぶやいた。親友と猫の視線を感じながら彼女は続ける。
「だって、さっきレフキルと猫さんの競走を見てましたけど、互角の勝負でしたの。レフキル、走るの速いですわ」
「うーん、こういう時に自分の足の速さがあだになっちゃうとはな……」
 褒められても嬉しくない、複雑な心情のレフキルである。神妙な顔をしてみるのだが、表情を変えるのさえ、いつもと勝手が違う。何をするのも他人の体では違和感がつきまとうのだ。
 ただ、その違和感が新鮮に思える瞬間もあるのが事実だった。一刻も早く自分の体を取り戻したいという願望とは裏腹に、生まれ変わった私を知り合いに見てもらいたいという相反するいたずら心もこんこんと湧いてくるのであった。
 どちらにせよ、ここにいるのは時間の無駄と判断し、話をまとめにかかる。
「あたしは商人仲間に聞いてみる。レフキルさんを見ませんでしたか、って」
「サンゴーンも頑張って探しますの。見つかったら、すぐに伝達の妖術〈クィザーフ〉で皆さんに連絡しますわ〜」
 のんびりしたいつも通りの話し口でサンゴーンは熱意を語った。人手は多い方がいい。レフキルはルヴィエラの瞳で相手を見つめ、かすれ声で懇願する。
「お願いね、サンゴーン」
「眠らないようにな、草木の神者どの」
 老婆からは釘を刺され、
「ハイですの!」
 とサンゴーンはうなずく。そして二人と一匹は目で合図をし、レフキルの体を求め、ばらばらに散っていった。
「それじゃ、またあとで……必ず!」
 
 レフキルには焦燥感はあったものの、決して悲壮感はなかった。間の抜けたような草月(五月)中旬、晩春の風が背中をくすぐる。いつもと違う靴音が別人になったということを一足ごとに確認させる。普段は履かない、かかとが少し上がっていて紐で止めるおしゃれな靴だと、歩き方も自然と女性っぽさを意識してしまう。背が高くて視界が広がり、見慣れた通りもどこか真新しく見えてくる。
「うふふっ」
 口元を抑え、清楚な感じに微笑んでみる。ひょんなことでルヴィエラになってしまったレフキルは考えた……この際、徹底的に素敵な女性を演じてみようと。ほうきを持っているのが恥ずかしくなってしまい、後ろ手に隠しつつ遊歩する。
 ルヴィエラはというと、さらさらした金色の長い髪が印象的な女性だ。良く手入れされた白い肌は艶やかな光に輝き、唇は嫌みのない桃色で、二重のまぶたもお似合いだ。肩や腕や脚はほっそりとしているが、出るところは出ており、シンプルなブラウスと洗練されたロングスカートが彼女の美しさを引き立てている。
 今のあたし、どういう姿なんだろう。レフキルは周りの視線が気になりだした。道端の露店に吊された手鏡を見つけるや否や、即座に顔を映してみる。
「これが、あたし?」
 そこには別の自分がいた。おそるおそる細い指先で髪をすいてみると、向こうの自分も同じ仕草をし、はにかんでいる。
「お嬢さんのような方を映せれば、この鏡のヤローも幸せですぜ。へっへへ」
 店の親爺が褒めたように、目鼻立ちも申し分ない。全般的に可愛らしさが目立つ発展途上のレフキルやサンゴーンに比べると、多少大げさだがルヴィエラは完成された一つの美の小宇宙を誇っていた。
「そうかな……いや、そうでしょうか」
 声だけは普段のレフキルではあるものの、気分が高揚して上擦っている。
「じゃ、こちらのお品、頂きますわ。はい……お釣りは取っておいて下さい」
 自分はもう、いつもの自分ではないのだ。しかし本当に誰もレフキルとは思わないだろうか――支払いを済ませ、店主からのお礼を背中で聞きつつ、その場をあとにして馴染みの場所を目指す。
 歩き方はすっかり変わってしまった。外見に合ったしとやかな歩き方をついつい意識してしまうのだ。先ほど表通りを大暴走していたのとはえらい違いだ。
 すれ違う男性からの羨望を秘めた視線と、女性からの嫉妬を含めた横目使いが妙に心地よく、さらに自信がついてくる。
 こんな気分は初めてだ。
「別人になるのも悪くない、かもね」
 得意の鼻歌を唄いたくなるが、はっと気付いて取りやめる。生まれ変わったレフキルに鼻歌はふさわしくないのだった。
 石造りの短い階段を下りると、仕事場のある地区につながっている。見慣れたはずの風景が初めての町のように見えるのは背が高くなったから。だけど、それだけだろうか……立ち止まり、辺りをくるりと見渡してから大きく深呼吸する。
「あっ……」
 自分が働いているお店のお得意さまである中年の女性が通りかかり、つい声をかけようとしたレフキルだったが、
「んっ?」
 相手はレフキルの顔を一瞥しただけで、誰かしら……とでも言いたげに少し首をかしげ、そのまま過ぎ去っていった。
 バレてないんだ!
 頭では分かってはいたことだけれど、それは爽快感の伴う驚きとなってレフキルの体を稲妻のように駆け抜けるのであった。秘密の任務を背負う盗賊に就いたかのようで、胸のドキドキが速まる。
 見慣れた皮のひさしが視界に入った。普段、商人見習いとして働いている、露店の雑貨売りだ。激しい鼓動は頂点に達し、何だかこめかみまで痛いようだ。
 その場で立ちすくんでいると、髭の似合う三十過ぎの店長と目が合ってしまう。お客さんにいつもしているのと同じように、彼は尊敬をこめて青い瞳で目配せし、それからレフキルに声をかけてきた。
「へい、らっしゃい。お嬢さん」
 やはり気付かれていない……相手のその一言に安心しかかったものの、むしろ最終的にはどぎまぎしてしまう。
 自分のいない店。変な感じだ。
 その頃、レフキルの考えの中から〈自分の体を探なければいけない〉ことは一時的に消え失せていたのだった。
 軽く会釈をしつつ、なるべく清楚な仕草を心がけて、二、三歩、進んでみる。そして売り物を眺める振りをしながら、レフキルは別のことに思いを廻らせる。
 今のあたし、どう見られるのかな……。
 普段は勝ち気で活発なレフキルなのに、まるで違う人のような考え方だった。
 さすがに〈私、どう見えますか〉などと直接聞くのはためらわれる。どう切り出せばいいのか、迷ってしまった。
 そうだ、あたしは自分の体を探してたんだっけ……と、こんな時に限って忘れていた重要事項を思い出してしまい、余計に混乱し、頭の中は収拾がつかない。
「お気に入りの品が見つかったかい?」
「はっ!」
 急に話しかけられたレフキルは大声をあげて我に返り、ひどく慌ててしまった。周囲の視線が痛いほど恥ずかしく、色白のルヴィエラの顔に赤みが差す。
「お嬢さん、大丈夫?」
 店主は不思議そうな顔でまじまじと、目の前に立っているおしゃれな女性を見つめた。相手がさっきから謎めいた反応を繰り返し、しかも後ろ手にほうきを隠しており、気になっている様子だった。
「だっ、だいじょぶです、お構いなく」
 レフキルは右手を激しく横に動かし、引きつった笑みを浮かべ、自分の正体がばれてしまったのかと再び危惧し始める。何しろ声は変わっていないのだ。
 けれど店主がそれ以上問いつめてくることはなかった。何となく二人の間に漂っている気まずい雰囲気を払拭するため、レフキルは適当な話題をでっち上げる。
「あ、あの……今日は店番の子は来ていないんでしょうか?」
 おっかなびっくり訊ねたレフキルに対し、店主は一瞬だけ怪訝そうな顔をした。単純な興味が疑念に変わった瞬間である。ただ、さすがは接客業を生業とする店主、すぐさま好意的な表情を取り戻す。
 一方、レフキルは違う風に切り出せば良かったと早くも反省していた。この地区に来たそもそもの理由はというと、レフキルを知る者が多く、もしかしたら猫に奪われた自分の体の情報が集められるかも知れないと思ったからだった。ということは〈私の友達のレフキルを見なかったか〉と軽く聞けば良かったのだ。
 自慢の髭を撫でながら、店主は予想の範疇を越える意外な答えを返してきた。
「あんた、レフキルの姉貴さんかい?」
「えっ?」
 いつものレフキルならば上手く誤魔化してしまう場面だが、ルヴィエラの外見を得た彼女はさらにまごついてしまう。
「あ、あの、友達、いえ、知り合いというか……知人みたいな間柄です」
「あ、そうなの。あまりに声がそっくりだったから姉貴かと思っちまってな。そういや、あいつ一人っ子だったっけか」
 男は何か腑に落ちないものを感じつつも、とりあえず大げさに頭をかいた。
 レフキルはというと、ルヴィエラの姿をしている限りは正体がばれることはないだろうと悟った。心の中でぺろりと舌を出し、落ち着きの波が広がってゆく。
「レフキルさんって……」
 と、何の気なしに言いかける。が、途中で思い直し、はっと口元を抑える。
 言いかけた質問――これは果たしてどんな結果を生むのだろうか。聞くのがとても怖くなる。一瞬にして背中に寒気を覚えるほどだ。はっきりとは分からないが、大切な人間関係が根底から壊れてしまいそうな予感がする。そして、その勘はあながち間違っているとは思えない。
 何より、そんな自分は卑怯で卑劣だ。
 と考えてみたものの、正面切ってそのことを訊ねるのは今しか出来ないのも確かだった。そもそも、今は本当の自分ではない、とも言える。好奇心も膨らむ。
 しかし自分の体でなければ、何をやってもいいのだろうか? たとえ卑怯なことでも。そんなのは許されるのか?
 良いことではない。
 それは理解している。でも聞いてみたい。聞かずにはいられない……。
 レフキルの心は大きな渦を巻き、深く葛藤していた。本来の自分と、ルヴィエラを演じる自分とが対立しているのだ。判断が立ち往生し、迷いの雨が降る。
「レフキルがどうかしたのかい?」
 自己対立の鎖を解いたのは、やはり店主の一言だった。その結果、レフキルの中の思考バランスが微妙に傾く。一度、崩壊し出すと、その潮流は大きくなる。
 勢いに乗り、レフキルは口を開く。
「レフキルさんって、どんな方です?」
 言ってしまった。ついに。
 同時に後悔の念が沸き起こる。
 まるで盗賊団の間諜だよ……あたしの調査を、別のアタシがやってるんだ。
 さっきまでは火照っていた顔から血の気が引いてゆき、今度は青ざめてしまう。
 複雑に変化する彼女の心中をよそに、髭男は低い声でうーんとうなり、あごに手を当て、いったん天の方角を仰いだ。
 こうなっては仕方ない、覚悟を決めようと肝を据えたつもりのレフキルだったが、男が眼差しを正面に戻し、顔をまじまじと見つめてくると、十歳以上離れている師弟関係、しかも相手は妻子持ちとはいえ、目のやり場に困ってしまう。
 よくよく思い出してみれば、ほんの僅かな間のはずなのに、その時はとこしえに近く感じた。レフキルが繰り返し瞳をしばたたいていると、ふいに店主は視線を逸らし、あっけらかんと言う。
「まあ、顔立ち的に言っちまえば、あんたの方が七倍は整ってるわな」
「な、七倍ですかぁ?」
 思わず聞き返したレフキルの言葉は裏返り、少し地が出てしまう。ルヴィエラには到底かなわないと思い、ライバル意識は薄かったものの、具体的な数字を出されるとさすがに全身の力が抜ける。
「それから……」
 えっ、まだ続くの?
 レフキルの心臓はきりりと締まり、不安と緊張で息苦しさを覚え、平衡感覚が少しおかしくなって足元が覚束なくなる。
 店主の評価は容赦なく進行する。
「頭のいい妖精の血を引いてるとは思えないんだよな。頭よりも体から生まれてきたようなやつだぜ。おっちょこちょいだし、おてんばだし、早とちりだし、しょっちゅう失敗はするし、商人の卵のくせに計算はすぐ間違えるし……」
 
 店主の声が遠ざかった。
 視界が圧倒的に狭まる。
 頭の中が真っ白になる。
 指の先が小刻みに震う。
 
 立っているのがやっとのくらいショックだった。これが全幅の信頼を置き、とりあえずの師匠であり、将来の好敵手となる可能性もある露天商の本音なのか。
 指摘されたのは自分でも認識していた点ばかりとはいえ、他人の口、しかも知り合いから直接に聞くのは痛かった。
 やっぱり聞かなけりゃ良かった――聞くべきじゃなかったんだ!
 そう思ってみても後の祭りである。想像力がフルに活動し、次々と悪い方へ連れてゆく。明日からはこれまで通りに仕事が出来なくなるのではないか、もうこの店では働けないのではないか……。
「だけどよ、おめぇ」
 別の男の声が思考を中断した。店主ではない、しかし聞き覚えのある声だ。
 見ると、隣の露店で働いている目つきの鋭い顔なじみの青年が立っていた。唇をかすかに動かし、頬に赤みがさし、眉はつり上がっている。普段から怖そうな人だが、いつも以上に機嫌が悪そうだ。
 背はもともとのレフキルと同じくらいなので、ルヴィエラになったレフキルからは彼を見下ろす形となる。しかし相手は痩せているものの筋肉質で肩幅が広く、金髪を短く刈っており、普段は寡黙で仕事熱心だが怒らせると大変なタイプだ。
 強い憎悪と軽蔑の念を直接的に受け、レフキルは思わず唾を飲み込み、棒立ちのまま身じろぎ一つ出来ない。言うなれば天敵に睨まれた小動物のような状態だ。
「はい」
 遅れてレフキルがやっとのことで相づちを打つ。熱くなる目頭を我慢し、外面的には平静を装おうと強く決めた。
 すると、青年は爆発しそうな憤りをどうにか抑えるかのように引きつった笑みを洩らし、トゲのある口調で話し始める。
「ここの親爺さんは色々喋ったがな、いいか、ここらでレフキルのことを悪く思ってるやつぁ、不思議といねえんだぜ」
「そ、そうなんですか」
 相手から発する圧倒的な威圧感に飲み込まれてしまったレフキルからは反論どころか賛成や疑問の意見さえ出てこない。ただ相手の話を聞くのが精一杯だった。
 青年はじわじわと歩み寄り、右手の人差し指を真っ直ぐに伸ばす。レフキルは反射的に瞳を閉じた。殴られてもおかしくないほどの気迫が伝わってきたからだ。重い冷や汗がじっとりと吹き出す。
 青年の指先が触れた。彼はレフキルの――つまりルヴィエラの額の中央に乗せ、軽く押し込む。あたしへの最大限の警告だろう……思考が停止していても、その程度は雰囲気で感じ取ることが出来る。
「だいたいなぁ、友達の評価を聞きに来るような腐った性根のやつぁ、レフキルの足元にも及ばねえぜ。あいつはな、確かに失敗はするけど、真っ直ぐな努力家で、いつも前向きに頑張ってる。おめぇみたいな卑怯な輩とは大違いだっ!」
 そこで相手は言葉を飲み込む。とっとと失せろ、とでも言いたげな剣幕だった。いつしか通行人の視線が二人に集まっていたがレフキルも青年も気付かなかった。
「まあ、そのへんで勘弁してやれ」
 店主が言うと、青年は満足とも不満とも判断出来ない微妙な仕草で静かにレフキルの額から指を離した。
 開放感の代わりに重圧感を覚える。考えはまとまらず、とにかく心が苦しかったが、それは自分の行為の代償だった。
 レフキルは恐怖におののき、顔は青ざめたのを通り越して蒼白だった。だが、その恐怖とは青年のせいだけではない。
 怖かったのだ。自分らしくない自分が。
 店主と青年の台詞が頭の中を駆けめぐる。視線は下がってしまい、相手の目をまともに見ることが出来ない。何か言おうとするものの、ぐっと喉が詰まってしまい会話が出来ない。何を言っても無意味で無駄な釈明に終わりそうだった。衝撃が大きく、涙さえ引っ込んだ。
「まあ、あの調子でやってりゃ、ちゃんとした商売人になれると思うぜ。レフキルには向いてんだ。俺が保証するよ」
 今度は店主が、今までになく優しい口調で語った。その後、少しずつ辺りの喧噪が再び聞こえ、視野が広がった。青年は腕組みし、斜めに睨んでいる。
「どうもありがとう。これからもレフキルのことをよろしくね……」
 レフキルはこう言い残して深く首を垂れ、痺れる両脚を引きずるようにして立ち去るのがやっとだった。背中の方角から店主のとぼけた声が追いかけてくる。
「おいおい、結局冷やかしかいっ!」

(続)



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