I.D.

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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(三)


 町の景色も過ぎゆく人も、みな虚ろに見える。どこへ行くあてもないというのに留まることなく歩き続ける。
 普段は元気印のレフキルも、さすがにうなだれている。自分の体を失ったことで自分の心まで見失ってしまったようだ。
 レフキルの足元にも及ばない、か。
 青年に言われたことを追想し、深い溜め息をつく。今さらながら、彼女は〈自分を失う〉ということの重大さをひしひしと感じ始めていた。他人に変身することの面白さはすでに過去の亡霊となり果て、無性に自分の体が恋しかった。
 突然、ふわりと前髪が舞い上がる。
 暖かな春の精霊は優しく頬を撫で、沸騰していた感情を冷ましてくれる。ささやかな自然の営みが人の気持ちを変えてゆくきっかけになることもあるのだ。
 ふっと見上げた南国の空は晴れ渡り、吸い込まれそうなほど青く、飛んでみたくなるほどすがすがしい。さまざまな美しさから力をもらい、心の軸が動き出す。
 黎明が曙となって、ついには陽が昇るように、ゆっくりとではあるが確実に、しかも加速しつつ胸の氷が溶けてゆく。
 こんなことで悩んでちゃ、ほんとにあたしらしくないな。あれだけ言われたのに、ぜんぜん分かってないじゃん!
 平静さを回復していったレフキルが持ち前の楽天的な性格を取り戻すまで、それほど長い時間はかからなかった。
 悩んでいることが馬鹿馬鹿しくなり、そんな自分がおかしくてたまらなくなる。周囲の目を気にして笑うのを我慢するのだが、こらえればこらえるほど面白くなり、爆発しそうになって肩が震える。
「ぷくくっ……」
 そう、失敗はしたけれど得るものがなかったわけではないのだ。いつも仕事に関して細かい注意をしてくる隣の店の青年がそんな風にを自分を評価していてくれたとは意外で新鮮な気もした。
「よーっし!」
 低く叫んで笑いの渦をひとまず止める。遠くの何かを見据えるような挑戦的な表情で、右の拳に力を込め、左のほうきを握りしめ、二本の脚で大地を蹴った。
 悩むより、動いてみる。目標が見つかれば、それに向かって邁進するのみだ。
「泥棒猫め、覚悟してなよ。絶対に奪い返してやるんだから……あたしを!」
 ルヴィエラの美貌にはかなわないけど、そんなのはどうだっていい。背伸びをしない、本当の自分が大好きだから。
 
「うーん……見つからないですの」
 同じ頃、サンゴーンは町はずれの裏道を通り抜け、再び表通りへ出るところだった。春の出産シーズンなのか、廃屋と化した納屋から子猫たちの鳴き声がする。
 サンゴーンは地道な聞き込みを続けていた。買い物帰りと思われるザーン族の小太りのおばさんを捕まえ、訊ねる。
「こんにちは、ちょっとよろしいですの? 私、草木の神者のサンゴーンですわ。聞きたいことがあるんですの」
「おやおや、あんたが今の神者のサンゴーンさんかい。しばらく見なかったから顔を忘れてしまったよ。何の用だい?」
 先代の神者で、サンゴーンの実の祖母のサンローンはここイラッサの町長を長く務めており、人柄と才能で町人から尊敬されていた。しかし、その後を継承した若いサンゴーンへの風当たりは強く、住民に慕われているとは言い難い。一時期は嫌がらせをする輩もいたほどである。
 そういう事情もあり、意外と引っ込み思案になってしまったサンゴーンだが、親友の手助けをするために勇気を奮い立たせ、片っ端から情報収集を続けていた。
「焼き魚を口にくわえたリィメル族の女の子を探してるんですわ。今日の午後、この辺で見なかったですの?」
 すると相手は不思議に首をひねる。
「焼き魚を口にくわえた、ねえ。まるで猫……そう、猫じゃないか」
「はい、猫さんなんですの」
 応じつつ、サンゴーンは自分の中で違和感が残った。確かに猫を探していたはずだが、猫ではないような気もするのだ。
 考えごとは相手の話に中断される。
「なんだ、猫かい。野良猫はこのへん多いけどさ、焼き魚をくわえてるのは今日は見なかったねえ。何日か前なら、そういう猫も見たことがあるんだけども」
「そうですの……どうもありがとうですわ」
 礼を述べて中年の女性と別れ、サンゴーンはぼんやりと歩き始める。
 私は何を求めていたんですの? 猫は猫のはずだけど、どこかつじつまが合わないような、あいまいな気分ですわ。
 立ち止まり、いったん足元の小石に視線を落とし、数秒後に顔をもたげる。
 まさにその時だった。
 向こうの裏通りから見慣れた女の子が姿を現したのだ。あの背丈、ほっそりした体つき、服の趣味、長めの耳、緑がかった銀の髪……まごう方なき大親友だ。
「レフキル!」
 声をかけ、大げさに手を振る。しかし相手は半分だけ振り向いてサンゴーンに一瞥をくれるだけで反応を示さない。
「猫さんは見つかったですの?」
 すっかり勘違いが定着してしまったサンゴーンは真面目な顔でレフキルに愚問を投げかけ、小走りに近づいてゆく。
 当然のごとく、相手はサンゴーンを警戒し、自分のテリトリーに入られた瞬間、驚いた様子で逃げ出してしまう。
 サンゴーンはただ慌てるのみである。
「レフキル、どこ行くんですの〜」
 そう言って駆けながら手を伸ばすのであるが、得意の俊足を活かしたレフキルにはかなわず、小路に入られて見失う。
 腕組みをし、珍しく考え込んだ仕草のサンゴーンは独り言をつぶやく。
「猫さんは見つからないし、レフキルはどこかへ行ってしまうし……サンゴーン、とっても困ってしまいましたわ〜」
 猫とレフキル。口に出したことで離れていた記憶が結びつき、彼女の脳裏を突如として鋭い雷撃が走り抜けた。
「あらっ!」
 そう、レフキルの体を操作しているはずの猫を探していたのだった。今ごろ思い出しても捕捉には手遅れである。
 町はずれは中心部のような喧噪もなく、向こうには畑と野原が広がっている。
 サンゴーンは瞳を閉じ、集中力を高めた。深呼吸を繰り返して鼓動を落ち着かせ、雑念を追い払い、呪文を詠唱する。
「ψ∫ιщяoaζ……音の精霊よ、私の声をあの人のもとに届けて! クィザーフ!」
 天の陽はさらに傾き、昼下がりは夕暮れへと確実に変化を遂げてゆくのだった。
 
「そっちへ向かうから、待っててね」
 サンゴーンから魔法通信を受けたレフキルは自分の体が見つかったという地区へ急いだ。迷いはない。何はともあれ自分の体を見つけることが先決だ。
 心まで他人の体に奪われてはいけない。ほんの少しの焦り、そして必ずや見つけ出すという情熱の炎を燃やし、さっきの失敗からはひとまず立ち直り、次の目標に向かって全力でぶつかる。これが本来のレフキルであり、自分としても納得がゆく。走り方はもう気にしないが、かかとの高い靴だと痛くなってくる。
 足の痛みもさることながら、そもそもルヴィエラの体は言うことを聞かない。ちょっと全力で走っただけで、すぐに息が上がってしまうのだ。スピードを落とすか、さもなくば休み休み行くしかない。
「はぁはぁ……自分の体がないと、こんなに不便なんて」
 吹き出る汗が滝のように流れ、頬を濡らし、服が湿り、瞳が沁みる。その一粒ごとに〈絶対に取り戻してやるんだから〉という決意はむしろ強まっていく。
 しばらくするとサンゴーンから二度目の連絡が届いた。耳元で相手の声がする。
「ふわぁ、サンゴーン、疲れましたの」
「どこにいるの?」
 レフキルは言い終わったあとに気付く――サンゴーンの唱えた伝達魔法〈クィザーフ〉は一方的に声を運ぶ妖術なので、いくらこちらが頑張って声を張り上げても向こうには聞こえないのだ、と。
 やきもきしながら早歩きしていると、両耳へ直に響いてくるサンゴーンの激しい息づかいはおさまってゆき、落ち着いた口調で居場所を教えてくれた。
「〈潮風通り〉の西の端、果樹園の入口辺りでレフキル猫さんと向かい合ってますの。事態は切迫してますわ〜」
 サンゴーンが話すとまるで切迫感がない。それにしても〈レフキル猫さん〉とは……無二の親友のレフキルでさえ、彼女のセンスには時々ついていけなくなる。
「とにかく急がなきゃ!」
 行き馴れているはずの〈潮風通り〉が普段に比べてかなり遠くに感じられた。
 
「ひぃはぁ……サンゴーン!」
 ルヴィエラの姿をしたレフキルが息せき切って駆けつけた時には、サンゴーンはもちろんのこと、猫の姿をした老婆もすでにその場で待ち構えていた。
「レフキル、来ましたのね!」
 入れ替わりの難を逃れたサンゴーンはレフキルの到着を歓迎したものの、すぐ眉間に可愛い皺を寄せ、後ろを指さした。
 くだんの〈レフキル猫〉とのご対面だ。相手は四つん這いになって茂みの間から顔を出し、こちらの方を睨んでいる。
 鏡ではなく真の自分自身と向き合う。それだけでも奇妙な感じなのに、相手が未だに焼き魚をくわえたまま、よだれを垂らしているのはショックだった。
 あんなの、あたしじゃないよ!
 血の気が引いてゆき、思わず目をそむけて全否定し、絶叫したくなる衝動が心の底から湧き上がる。それを精神力で強制的に抑え込み、再び茂みを凝視する。
 それにしても我ながら恥ずかしい姿だ、とレフキルは思った。こんな姿を知り合いにでも見られてしまったら……身の毛もよだつ最悪の事態である。花も恥じらう十六歳の乙女心(自称)は傷ついた。
 どちらも動くに動けず、歯がゆい膠着状態が続いた。老婆は済まなそうに言う。
「本来ならば、わしの魔法で何とかするところじゃが。あいにく猫の体では魔力が足りず、使うことが出来んのじゃよ」
 人間には魔力の豊富な者、僅かな者、ゼロの者がいて、扱える魔法はそれぞれ変わってくる――魔法学院に通った経験のないレフキルでさえ自然と覚えてしまった、ルデリア世界の常識である。
 まして人間とは勝手の違う野良猫だ、その魔力は推して知るべしであろう。
「ここはサンゴーンにお任せですの!」
 ブラウスの袖をまくって気合いを入れ、やる気満々なサンゴーンを、レフキルと老婆はやや不安げに見守っている。
「ξκζμψσ……マトゥージャ!」
 訓練によって極限まで高めた集中力で魔源界への扉を開き、魔源物質の組成を呪文の残響が変化させ、魔法が発動する。
「ギャオ!」
 にわかにレフキル猫が騒ぎ出した。突然の鳴き声に驚いてレフキルと老婆は目を丸くしたが、次なる状況の変化に対応するため腰を低くして身構える。
 術者だけは沈着。悪く言えばのん気だ。
「蔓が伸びて、足にからみついたんですわ〜。サンゴーンの得意な妖術ですの」
 彼女の口調は場を和ませるという素晴らしい隠し味を持っており、これは彼女のみに与えられた先天的な魔法であろう。だが、勝負所ではそれが裏目に出て全員の緊張の糸を切ってしまう効果を生む。
 その友に思いきり引きずられてしまい、レフキルも間延びした言い方になる。
「でも、さあ〜。あの猫をルヴィエラさんちの魔法陣まで運ばないと、元には戻れない……解決しないんだよねぇ?」
 サンゴーンと猫老婆を交互に見つめ、レフキルはあいまいな疑問形で訊ねた。
「ふむ、そうじゃな。一時的な足止めにはなっても根本解決にはつながらぬ」
 巨人のように見えるレフキルを仰ぎ、小さくなった魔女は軽く意見を述べた。
「あらあ? 作戦失敗ですの?」
 と、神者が拍子抜けした直後だった。
「ミャオーン!」
 レフキル猫は弱まった蔓を力ずくで振り切り、茂みから飛びだす。待ち構えていた二人と一匹のスキを狙った、野性的な判断だった。反射的にレフキルが動いたが、あと一歩というところで間に合わず、繊細な両手は空しく宙をつかむ。
 猫になった老婆が地面を蹴って大きく跳躍し、お尋ね者であるレフキル猫の腕につかみかかる。しかし敵も然る者で、走りながら器用に体をくねらせ、避けてしまう。野良猫の直感とレフキルの運動能力が合わさっており、なかなか手強い。
 気がつくと包囲網を突破されていた。逃亡者は〈潮風通り〉を東の方にさかのぼる。恥ずかしい四つん這いではなく、人間を真似て二本足で走ってくれたのは、レフキルにとっては救いであった。
「こらっ! あたしの体、返してよ!」
「待つんじゃ!」
 きれいに着地した猫老婆は先頭のレフキル猫に照準を合わせる。事情を知らない人が見れば〈リィメル族の少女が猫に尾行(つけ)られている〉と誤解するだろう。
「わしゃあ若いおなごになって、かわゆい男どもに囲まれたかったんじゃ。猫になるのは何が何でもお断りじゃあ!」
「待ちなさいったら、あたし猫!」
 ルヴィエラと化したレフキルはワンテンポ遅れたが、ほうきの先を天に刺し、猛然と自分の後ろ姿に詰め寄ってゆく。
「ああもう、こんなの邪魔なだけだ」
 文字通り足かせになってしまう、かかとの高いしゃれた靴を、手を使わずに素早く脱ぎ捨てて小脇に抱える。レフキルはそのまま素足で追跡劇を敢行した。
 だいぶ離れてサンゴーンがついてくる。明るい水色のロングスカートの裾を品良く持ち上げ、弱音を吐きつつも頑張る。
「走り回って、魔法を使って、もうへとへとですわ〜」
 西の空は黄色い光を放ちつつあり、通り抜ける風はさわやかさを増していた。
 
「あれっ、ルヴィエラさんでは?」
 丸い縁の眼鏡をかけ、痩せてヒョロヒョロした、いかにも見た感じ穏和そうな青年が高速で去るレフキルに気付く。当然、彼はレフキルをルヴィエラだと思い込んでしまう。無理もないだろう。
「どうしてこんな場所にいるんだろう。僕に会いに来てくれるはずもないし」
 苦笑しつつも、さっき追い越された時の横顔が頭の中で反芻する。空に焦がれる高い鼻、つぶらな瞳はサファイア的、南国人には珍しい真っ白な肌、僅かに開かれた唇で苦しそうに呼吸する姿――。
 いつの間にやら顔は耳まで赤くなり、胸の鼓動が速まってゆく。手足は緊張感に満ちあふれ、鼻の上の眼鏡まで震える。
「美しいお方……」
 青い瞳が尊敬と愛おしさの視線へと変化した。景色は全く持って霞んでしまい、今やただ一点のみが聖らかに浮き上がって見える。それはしだいに通りの向こうへ小さくなってゆく彼女の華奢な背中だ。
 夢見心地で前へ踏み出した男は〈それ〉につまづいて我に返った。やにわに拾い上げると、右手で丁寧に回転させて綿密に品定めする。細長い〈それ〉は太陽の光を受けてまばゆい銀色に輝いた。
 思わず、ごくりと唾を飲み込む。
 それはルヴィエラの髪飾りだった。
「大変だ、送り届けなきゃいけない」
 かくして、レフキルの姿をした猫、猫の姿をした老婆、ルヴィエラの姿をしたレフキル、その後ろから〈草木の神者〉のサンゴーン……という複雑な追いかけっこに奇妙な男が加わる結果となった。
「ルヴィエラさ〜ん!」
 線の細いその声を聞いたとたん、老婆は半分だけ振り向いて新手の追跡者を確かめ、面倒くさそうに独りごちた。
「何じゃ、あやつか。こんな時に何の用じゃろう。うっとうしいわい」
「あいつ、知ってるの? はぁ……」
 文化教養系のルヴィエラの体に入ったとしては限界に近い運動量をこなし、何とか猫老婆につかず離れずの間隔を保っているレフキルが苦しそうに質問した。心臓と肺が壊れそうで、口は砂漠のように渇き、もはや気力だけで走っていた。裸足の痛みもいずこかへ遠ざかってゆく。
 猫の老婆にはいくぶん余力がある。
「ポルフとかいう男でな、ルヴィエラよりも二つ三つ年上で、薬草の研究をしとる地味なやつじゃ。わしの魔法屋と取引をしとるんじゃが、あやつめ、売れないものばかり作りおるから困っとる。その上、わしの孫娘に気があるようでのぉ」
 老婆は戸惑い気味に語った。その口調からは怒りは感じられぬ。むしろ〈ひどく鈍くさいのに、何故か憎めない男じゃ〉とでも付け加えそうな雰囲気だった。
「孫娘にしつこく迫ったりしない分、そこいらのふぬけどもよりは扱いやすいが……面倒なことになりそうじゃわい」
「ふーん」
 自分の体を見失わないように凝視しながら老齢の魔女の話に相づちを打ったものの、酸素が不足しているレフキルの脳では右から入って左へと抜けてしまった。
 猫を捕獲するだけに猫の手も借りたい状況であるし、前述のごとく頭の働きが鈍っていたことの相乗効果が発揮され、レフキルはポルフに向かってこう叫んだ。
「お願い、あたしを捕まえて!」
 当然、レフキルは猫に奪われている自分の体を取り戻したくて仕方がない。が、今の運動能力では限界があり、無我夢中でポルフに頼んでしまったのだった。
 他方、入れ替わりの事情は知る由もなく、そうでなくとも頭の働きの鈍い男がレフキルの切なる望みを正確に受け取る可能性は皆無だった。起こるべくして起こった勘違いであるといえよう。
 ポルフはまず口を大きく開けて相手の言葉に驚嘆し、それから握りこぶしに力を込めて、走りながら武者震いを始めた。
「ル、ルヴィエラさん。ついに僕の存在を認めて下すったのですね。わっ、分かりました、このポルフ、命に代えましても貴女様をつか、捕ま……がっ!」
 興奮しすぎて舌がもつれ、しまいには噛んでしまう。しばらくは何も喋れないまま、低くうめき、大量の涙を垂れ流しにするに任せた哀れなポルフであった。
 さて、その意気込みはある意味で立派だったけれども、残念と言うべきか、当然と言うべきかはともかく、結論として初志貫徹にはほど遠かった――運動音痴のポルフは体力が続かなかったのだ。
 激しすぎる息づかいを押して無理矢理に地面を蹴ったが、先頭集団との差は広がる一方。しだいに足の動きがおかしくなり、しまいにはからまってバランスを崩し、勢い良く頬から地面に倒れ込んだ。
「ぐぇ」
 足をつってしまい呼吸も困難、打ち付けた頬も痛み、うつぶせのまま動くに動けない。状況としてはひっくり返った昆虫と大差なく、いかに褒めようとしても褒め言葉の見つからぬ無様な格好である。
 その脇をサンゴーンが駆け抜けた。
「お先に失礼しますの……ふぅふぅ」
 通りにたむろしている一般の人々は〈何だか分からないが面白そうだ〉というほぼ共通する認識で、怒濤のごとく過ぎゆくレフキルたちを興味深く見ていた。
 
「ふぁー、そろそろ駄目かも」
 ついに音をあげて立ち止まったレフキルは肩で大きく息をしながら膝に両手をついた。こめかみが小動物並みの速さで脈を打ち、背中や額は汗びっしょりだ。
「あすこじゃ!」
 レフキルの脱落により唯一の先遣隊となった猫老婆が角を曲がり、裏道に入る。レフキルは気分が悪くなって口元を右腕で抑え、真っ直ぐ歩けないほど足取りもふらついていたが、荒い呼吸を繰り返しつつ最後の力を振り絞り、ほうきを杖代わりに体を引きずるようにして前進する。
「ここじゃここじゃ、追いつめたぞい」
 こみあげてくる笑みをかみ殺し、老婆がしゃがれ声で言い、低くうなった。
 レフキルが顔を半分上げると、そこは崩れかけた石造りの小さな倉庫だった。入口のドアは倒れており、中が覗ける。
「やっと観念したようね……あたし猫」
 顔中の汗を手で叩き払い、頬がこけて疲れ切った表情で、レフキルはルヴィエラの澄んだ瞳だけを爛々と輝かせた。
 風の旅人が体の体温を奪って通り過ぎる。喉が渇ききって、くっついてしまうかのような感じだが、図らずも全力で運動したあとに特有の心地よさを覚える。
 しばし休んでいるうちにサンゴーンも追いつき、二人と一匹は割と幅広な倉庫の入口を完全に包囲したのであった。
「まずはわしが見てこよう。これでも猫の姿をしているから相手の警戒が弱まるかも知れん。もし、やつが逃げ出したら、二人がかりでとっつかまえるんじゃ」
 レフキルとサンゴーンがうなずくのを確かめてから、老婆は暗がりに消えていった。いつの間にか歩き方が猫らしくなっている。年老いた女性の声を発する茶色の猫――事情を知らない者からすれば化け猫と言われても仕方ないだろう。
「いったい、中で何が起こっているんですの? 気になりますわ〜」
 両目をしばたたかせ、うら若き〈草木の神者〉は率直な感想を洩らした。他方、レフキルは闇を凝視して緊張感を高めつつ、相手の話には首だけを左右に振る。
「分かんない。やけに静かだよね……」
 物音一つしない。本当にここで合っているのだろうか、という疑念の芽が生まれ、それは不安の花へと成長する。何とかなるさという楽観的な考えもあるのだが、かすかに流れつつある夕風が心細い。
 刻一刻と日没が迫ってくる。時間は河の流れと同じく、待ってはくれないのだ。
「大丈夫ですの、きっと上手くいきますわ」
 励ましてくれるサンゴーンに右手をしっかりと握られ、安心するかと思いきや、
「はっ!」
 と短く叫び、レフキルは愕然とした。握られた右手がわなわなと痙攣する。
 
 握手の感覚までがいつもと違うのだ!
 
 この日は色々な事件が続いていて、もう慣れっこになったかと思いきや、何気ない触覚の喪失は彼女に最大級の衝撃を与えた。強固な鉄も、絶え間ない炎を浴びせて鍛冶屋が叩けば形を変えるように、本来は明るい南国娘であるレフキルの歯車は少しずつ狂いが生じていたのだった。
 にわかに目頭が熱くなった。景色が池の水面に映ったかのように揺らぎ始める。けれど〈泣くのは嫌だ〉と固い意志を増幅させ、何とか踏みとどまろうとする。
「レフキル?」
 心配そうなサンゴーンの視線を見たとたん、レフキルは思わず親友の手をふりほどき、後ずさって顔をそむけた。自分の弱い部分はとっくに知られているけれど、それでもなお見られたくなかったのだ。
「あたしじゃないんだ、ね……」
 改めて〈自分〉と〈他人〉とを隔てる埋めようのない深淵が迫り来る。レフキルの口調は妙に冷静だったが、整った華奢な肩は小刻みに震えていた。それが暗にショックの大きさを物語っている。
 悲しいという感情とは違っていた。しいて言えば〈悔しい〉が適当であった。
 
 自分でないことが悔しい。
 自分を失くすことが悔しい。
 自分を取り戻せないのが悔しい。
 何より、自分であることの大切さを甘く見ていたのが悔しくて仕方がない。
 
 両眼が燃えるように痺れ、もう止めることは出来なかった。白っぽく透き通った真珠が二、三粒、じわりと湧き出したかと思うと急激に速度を上げて頬に細い筋を作り、あごから落ちて地面に弾ける。
「レフキルはレフキルですわっ!」
 サンゴーンが力を込め、彼女としては珍しく声を荒げた。瞬間、レフキルの胸は針で突かれたように痛む。親友の言葉は雷となってルヴィエラの膜を通り越し、確かにレフキルの心まで届いたのだ。
 後ろ向きになりかけていたレフキルの思考の河が際どいところで押し留まり、ついには逆流さえ始めようとしている。
 呆然としたまま立ちすくむレフキルに、長年のつきあいで辛苦をともにした若き神者はさらに駄目押しをする。
「きっと、絶対に戻れますわ。大丈夫ですの、サンゴーンが保証しちゃいますわ。だからお願い、元気出して下さいの!」
 悪魔を彷彿とさせるほど真っ黒な雲の渦が世界を根底からひっくり返そうと企て、空を覆いつくし、昼なお暗く、しおれかかった七色の花園は見る影もない。
 だがしかし、突如、天から力強い何者かが吹き寄せ、上下左右東西南北に雲を引きちぎった。限りなく優しい太陽の光は再びまんべんなく降りそそぎ、蝶が舞い始めた。いつしか風も和らぐ。枯れかかった花園は命を取り戻した……。
 サンゴーンの励ましはまさにそういう効果をもたらしたのだ。我慢していたレフキルの気持ちが溶解してゆく。左手に持っていたほうきがゆっくりと倒れていき、狭い裏通りにしばらく響きを残した。
 顔をもたげ、唯一無二の親友を見据えたまま腕を前に差し出す。涙はいらない。
 今、必要なのはたったこれだけだ。
「サンゴーン……ありがとう!」
「どういたしまして、ですの〜」
 のんびりした口調はもう普段通り。サンゴーンはいたずらっぽく微笑み、ほっそりした指をきれいに伸ばし、それからしっかりと相手の手を握りしめた。
 レフキルの表情も自然とゆるむ。手の触感はいつもと違ったけれど、親友の温もりを感じ取れる自分の魂は変わらない。
 その時だった。
 待ち焦がれていた声がしたのである。
「神者どの、ルネアは使えるかのう?」
 猫老婆が姿を現したのだ。急に訊ねられたサンゴーンはレフキルの背中を支えたまま、目玉だけをぐるぐる廻して記憶をたぐり、戸惑いながらも答える。
「睡眠幻術の〈ルネア〉ですのね? サンゴーン、おばあ様から習いましたわ」
「それなら話が早い。他に気を取られているスキに、やつを眠らせるんじゃ。人間には効き難いが、相手が猫なら余裕じゃろうて。魔法持続時間も延びよう」
「分かりましたの!」
 疲れてはいるものの、相好を崩し、サンゴーンは屈託なく表情をゆるめる。
「んっ」
 レフキルはというと、現実的に直面している難題に引き戻され、ふと我に返った。完全に醒めてしまうと久しぶりに泣いてしまったことが恥ずかしくさえ思われてくる。体を奪い返せる確証はなく、不安きわまりない状態だが、自分自身が夢を描かなければ幸運も逃げてしまう。やはり今は出来ることをやるべきだ。
 泣くのはそれからでも遅くないよね!
 瞳を濡らした僅かな水分を袖で素早く拭き取った。すると今度は粘っこい鼻水がきたならしく大量に垂れてきた。思いきりすすったが、そちらは手遅れで、天と地の間を宙ぶらりんの状態で彷徨う。
 大雑把な生活習慣のため、布きれを出すことを考えつかなかったレフキルは少女らしくない暴挙に出た。友と別の方を向き、服に例の物質をこすりつけたのである――ルヴィエラのだからいいや、と。
 サンゴーンは相変わらずの口調で言う。
「さっき、通りの西の茂みで〈ルネア〉を使えば良かったですわ。残念ですの」
「うむむ……」
 痛いところを突かれる正論だった。老婆はうめき、頭を抱えてしまう。はた目には猫が顔を洗っているように見える。
「ま、まあ、中に入ってみんしゃい」
 冷や汗をかきながら促す魔女にサンゴーンはすかさず賛意を示し、一人と一匹の焦点は無言でたたずむ女性に集まる。
 きっかり五十パーセントの微笑み。それが張本人であるレフキルの回答だった。残りの半分は倉庫の中に待っている。
「行こう」
 燃えるような意志を込めてささやき、最初の歩みを踏み出した。小さな音量なのに周囲の空気は変動し、老婆は思わずごくりと唾を飲み込んだほどだった。
 やがてレフキルは倉庫に近い場所までたどり着き、友人の神者に声をかける。
「サンゴーン、よろしく」
「ハイですの!」
 二人はあうんの呼吸で通じ合い、頼まれた方は得意な魔法の準備をした。
「ЖЩЛЫЭЮ……空を照らす陽の光よ、我に力を与えたまえ! ライポール!」
 まばゆいばかりの白い光球がサンゴーンの指先から浮かび上がり、小さな太陽となって倉庫の中を明るく照らし出す。
「あっ!」
 直後、レフキルとサンゴーンはほぼ同時に驚きの叫びをあげた。そこには予想だにしなかった光景が展開していた。
 二人を注意深く睨みつけたまま、メス猫が横たわっており、その腹に子猫が四匹、頭を寄せ、母のミルクを吸っている。
 その近くで所在なげにたたずんでいるのが大捕物の犯人を演じたレフキル猫だった。取ってきた焼き魚を口にくわえ、懸命にメス猫へ差し出しているのだが、人間の体では警戒されるばかりだ。妻の方は体を地に任せて授乳を続けながらも、鋭い歯を見せて今にも夫に飛びかかりそうな勢いで、夫の方の困惑が見て取れた。
 レフキルとサンゴーンは向き合い、目で合図をした。もはや言葉は不要である。この状態が全てを雄弁に語っている。
 そう。彼は産前産後のメス猫に栄養をつけさせるため、レフキルの家を狙い、幾度も食べ物を盗んだのであろう。
「あいつはあたしの焼き魚を盗んだ意味では罪人だったけど、入れ替わりの件では被害者でもあったんだね……」
 ようやくレフキルが唇を開いた。確かにメス猫の不信は続いており、夫が寂しげに鳴いてみても効果はないようだった。
「やっぱり、このままじゃ、みんな不幸になっちゃう。元に戻ろう!」
 レフキルはそう言って隣の親友をすがるように見つめた。彼女の声を聞き、メス猫は少し離れたレフキルを一瞥する。
 サンゴーンは瞳を閉じ、決意を固めた。音もなく右手を上げ、肩の力を抜いて深呼吸し、無理を承知で精神を集中させる。
「φлGゞлσ……活気を植ゆる天使たち、夢を彩る睡魔たち、深き安堵をもたらしたまえ。ルネア!」
 呪文を唱え終わると紫色の霧がレフキル猫に向かって噴射された。唾液まみれの焼き魚が鉛直下方に落ちてゆく。適切な効果が現れ、すぐさま相手は夢幻の世界へと運ばれて眠りに堕ち、ゆっくりと崩れかかる。その体をレフキルが支えた。
「捕まえたっと」
 これ以上、猫たちの日常を荒らしたくないので、自分の体の肩を抱いて倉庫を出ようとしたレフキルは目がチカチカ痛むのに気付いた。サンゴーンの打ち上げた照明魔法が妙に点滅していたのだ。
「もうだめ〜」
 立ちくらみのように血の気が引いていき、白濁する意識に耐えきれず、痩せ気味の神者はふらついた。一日で使える魔法の限界を越え、気絶寸前だ。レフキルは反射的に腕を伸ばして助けようとした。
 そのとたん。
「ああっ、サンゴーン!」
 眠り猫に奪われている自分の体に寄りかかられ、サンゴーンにも引きずられた。細身のルヴィエラの体では支えきれず、三人は大音響とともに倒れ伏してゆく。
 照明が消え、倉庫は再び暗転した。

(続)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】

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