I.D.

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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(四)


 大きめの馬車を手配したレフキルは無骨な中年の馭者と力を合わせ、自分の体とサンゴーンを荷台に押し込んだ。それから猫老婆を持ち上げて椅子代わりの木製の箱に座らせ、最後にレフキル本人も乗り込んで足元にほうきを転がした。
「〈あけぼの通り〉でよろしいですな」
「そうですじゃ」
 老婆の声が客席から聞こえ、馭者は手綱を握ったまま目を丸くして振り返った。しかし、そこにいるのは美しい女性と茶色の子猫、眠っている二人の少女だけだ。
 男は腑に落ちない表情で前に向き直り、首をかしげて考え込んでいたが、南国人らしく〈春のせいだ、気のせいだ〉と思うに至り、二頭に次々と鞭を入れた。
「ヒヒーン!」
 威勢良く馬がいななき、車はきしみながら動き出した。レフキルと老婆はくすくす笑い合い、真相を知らない馭者はますます合点がいかぬ顔つきであった。
 レフキルは振り返り、熟睡している自分の体とサンゴーンとを交互に見つめた。照明魔法はサンゴーンの気絶とともに消え失せたが、睡眠幻術は一度成功すると数十秒から数分は維持される。犯罪に使われると困るので、人間にかかりづらい種類のものしか一般には普及していないが、もともと寝る時間の多い猫の魂ならば効果てきめんであった。すでに術が解けて通常の昼寝に移行した可能性もあり得るが、何にせよ穏やかに眠っており当分の間は目覚める気配すらなかった。
 あたしって、こういう寝顔なんだ……。
 絵でも描いてもらわない限りは絶対に見ることのできない自分の寝顔はレフキルにとって実に新鮮だった。まぶたは閉じられ、僅かに唇が開いており、割と可愛いんじゃないかと自惚(うぬぼ)れてみたりもする。たまに長い耳が振れたりしていた。
 その隣で馬車の揺れに身を任せている親友もぐっすりだ。魔法の使い過ぎで一瞬は気絶したものの、こちらも今は疲労の蓄積で寝てしまっただけのようだった。
「ありがとう」
 と小さくつぶやいてから、何だかサンゴーンって猫に似てるなあ、と思った。
 西の方は橙色に染まり始めていた。さんざん走り回ったレフキルも急に体が重く感じ、細い首が船を漕ぎ出す。猫老婆もいつの間にか静かな寝息を立てていた。
 
「アーロ・マーノ・ラーニョ」
「違うわい。もう一度、良く聞くんじゃぞ。アーロ・マーノ・ラーヨ、じゃ」
 老婆が秘術の巻物を手にルヴィエラを指導する。猫だけにはなりたくない老婆は必死である。教わる方のルヴィエラも真剣そのものだが、意味不明な古代語の紛らわしい発音にいらついてくる。
「どうしてそんなに細かいんです?」
 老女の姿のルヴィエラが眉間に皺を寄せると、いっそう醜悪になってしまう。声だけは若く華やかで、そのギャップは相変わらず不気味さを醸し出していた。
「あなたしか出来ないんだから、ちゃんと覚えて下さいよ。お願いします!」
 レフキルは相手を店のお客さんと思い、頭を下げてなだめすかす。全くやっかいな祖母と孫娘だよ、と溜め息が洩れる。
 親友の捨て身の魔法が効いたのか、あるいは逃げ回って疲れたのか、レフキル猫は魔法陣に着いても目覚めなかった。その親友も一向に起きず、二人を奥の部屋に運ぶのは難儀したが、馭者が快く背負ってくれたので助かった。日没までは余裕があり、ようやく元に戻れると、ほっと胸をなで下ろしたのも束の間――。
 最後の最後でこんなことが起きるとは思いもよらず、問題の魔法陣と巻物を前にして、レフキルは大弱りだった。じょじょに追いつめられ、さすがに焦り出す。
 薬屋を経営する老婆は孫娘を諭した。
「ルヴィエラよ。わしの体、つまりわしの魔力を持ったおぬしが解除の呪文を正確に唱えぬ限りは……」
「分かってます! もう、おばあちゃんのせいで、本当にさんざんな一日だわ」
 見かけは老婆のルヴィエラが〈おばあちゃんのせい〉と憤るのはある意味で滑稽とも言えるが、今のレフキルにはそれを楽しいと思う余裕もなくなっていた。刻一刻とタイムリミットが近づいている。
 レフキル猫は魔法陣に横たわり、未だに夢の中を彷徨い続けている。彼をそういう状態にして倒れた草木の神者も同様の格好だが、寝ている場所は異なる。もしも秘術を解除する際に別な者が加わってしまうと、さらに入れ替わり、混乱に拍車がかかる可能性を考慮したのだ。
 しかし、あのアクシデントの結果、老婆の体にルヴィエラの魂が入ったのは不幸中の幸いであった。もしも猫が入ってしまったら、呪文を教えることが出来ない。それを思うとレフキルはぞっとした。
「それじゃあ、やりますわよ」
 曲がった腰を押さえて立ち上がり、巻物を手にルヴィエラは渋々言った。
「お願いしまっす」
 目の前にたたずむ使い古された姿の新米魔女と、天にまします〈聖守護神ユニラーダ〉へ敬虔な祈りを捧げ、レフキルは無の境地で魔法陣に足を踏み入れる。
 老婆、ルヴィエラ、猫、そしてレフキルという四人の役者がそろった。太陽の位置は分からないが余裕はないはずだ。
 やがてルヴィエラにより呪文が正しく詠唱され、決して広くない部屋の中は昼間と似た紫色の妖しげな霧に覆われた。不安は一応、杞憂に終わったのである。
「けほっ、けほっ……」
 ひどくむせるレフキル。
「ふわぁ、やっと元に戻れたわ」
 手の握り方や腕の曲げ方、腰の伸び具合、なめらかな頬、長い髪を手でとかした感触などを確かめ、ルヴィエラが言う。
「おそらくギリギリじゃろうて」
 猫の軽々しい体を失い、年齢の重みが身にしみる老婆は嬉しいような悲しいような、良かったような悪かったような、複雑な後味だ。ただ全ては幕を下ろし、若返りの夢が夢で終わったことだけは確かで、喪失感は強かった。こんな気持ちは夫を亡くして以来のことである。
 そこに孫娘が追い打ちをかける。
「秘術書はすぐ焼き捨てますからね!」
 老婆は力無く首を振り、霧の晴れてゆく天井を見上げ、自嘲気味に語った。
「陽が沈めば自動的に消滅するはずじゃ。わしの積年の望みも今や虫の息じゃな。秘術は秘術のままにしておくのが良かったのかも知れん。ひどく辛いがのう」
 その足元ではようやく覚醒した茶色のオス猫が大あくびをしたところだった。
 さて、レフキルはというと……。
「たっ、助けてよ」
 身の毛のよだつほどの嫌悪に凍りつき、おびえきってかすれた口調で懇願する。
 ルヴィエラと老婆はあっけにとられて静止したが、ただちに事態を飲み込み、失礼とは思いつつも一緒に吹き出した。
「ぷっ」
「わっ、わらっ、笑ってる場合じゃないでしょ! 早くしなさいよオっ!」
 レフキルは空前絶後の動揺をしていた。饒舌な商人の卵が上手く喋れなくなるほどの衝撃であり、頭の中は滅茶苦茶だ。
 断末魔を彷彿とさせ、喉が一発でつぶれるのではないかと思えるほど存在の底から爆発するかのごとく発せられる、この世のものとは思えぬ龍の雄叫びのような激烈きわまりない絶叫が響きわたる。
「早くゥウワアァッ!」
 その声の主は一匹のハエであった……。
 
 部屋の中は再び霧につつまれていた。自分の体に宿る魔力を取り戻した老女がすかさず巻物の呪文を読み上げたからだ。それが終わるや否や、今日の陽は海に沈んだようで、数々の騒動を巻き起こした古代人の秘術書は最初から何もなかったかのように跡形を残さず完璧に消滅した。
「あわわわ……」
 魔法陣に尻餅をつき、レフキルは恐怖や緊張が抜けきらず、歯をガチガチと震わせた。これまで十六年生きてきた中で最大級の悪夢だ、としか言いようがない。
「やつが運悪く魔法陣の上を飛んでいて、運悪く魔法が働き、運悪く入れ替わってしまったんじゃな。運が悪かったのう」
「ふふふっ。でも、ふふっ、さっきはお気の毒でしたね、あはっ、済みません」
 しきりに〈悪運〉のせいにする老婆と、笑いをこらえつつお悔やみの言葉を投げかけるルヴィエラ。レフキルはしばらく何も思い浮かばず、呆然とその場に座り込んでいた。おそるおそる手を見ると、今度こそは確実に自分のものだった。
 直ってる。
 遅れていた安堵の気持ちが今ごろになって頭の先から足の果てまで駆けめぐる。すると他の感情も次々に交錯した。恥ずかしいやら、怒り心頭やら、胸が痛いやら、後悔やら、幸せやら、わけが分からないやら……ふいに指先が、顔が、耳が、目頭が熱くなる。一双の瞳からは金剛石や水晶のかけらを彷彿とさせる透き通った涙がこぼれ落ち、頬を伝った。
 時間との、そして自分との戦いに勝った。もう、いくら泣いても大丈夫なのだ。
 涙に揺れる視界を見つめながら、レフキルは二つのことを繰り返し考えていた。
 
 あたしを失くさずに済んだんだ……。
 あたしはあたしで本当に良かった!
 
 レフキルも、薬屋の二人も落ち着きを取り戻し、起き上がった茶色の野良猫はいつの間にやらドアの隙間からそそくさと去って行った。ここは暗室なのではっきりとは断言できないが、そろそろ町には夜のとばりがおり始めたろう。
 老婆が溜め息混じりにつぶやいた。
「色々あったが、一件落着じゃな」
「最後が楽しかったです、うふふ」
 ルヴィエラが思わず吹き出すと、レフキルはその華奢な肩をわしづかみにし前後に激しく振りながら、甲高く叫んだ。
「それは言わない約束でしょ〜が!」
 今だから笑い話に出来ることだ。部屋のランプが短くなるのに連れてレフキルもおかしさがこみあげ、三人はお互いの顔を見つめ合って柔和な表情をした。
「ふわっ……」
 ようやくサンゴーンが目を覚まして上半身を起こしかけたが、体と頭にはだるさがのしかかり、立つことが出来ない。
「よいしょ」
 レフキルとルヴィエラに両腕を引っ張られて、神者は何とか二本足で地を踏む。
 それからお決まりの質問が飛びだした。
「朝ですのぉ?」
 
 部屋をあとにし、さわやかな外気を思いきり吸い込む。今までの自分なのに何か新しく生まれ変わったような気分だ。
 レフキルは首を廻して体を見直し、弾む声で言う。笑顔の半分が戻ってきた。
「やっぱり、自分が一等安心するよ」
「良かったですわ、ふわぁ〜」
 相づちを打ったサンゴーンは、さっきからあくびが止まらない。その様子を横目で見つめるにつけ、レフキルは親友への感謝の念をいっそう深めるのだった。
「本当にそうですわね。わたくしの身の丈に合っている、とでも言うのかしら」
 ルヴィエラが別のことを考えながら同意する。言葉には出さないが〈美しい魂は美しい体に宿るべき〉というオーラを発散している。あの祖母あって、この孫娘――ひどいほど個性的な一家である。
 外見なんかよりも中身で勝負だよね、とレフキルは強く誓ったのであった。
 夕暮れの置き土産である橙色が太陽とともに海の底へ沈んでゆく西の空から目線を下ろし、サンゴーンはレフキルの服を見つめていたが、ふいに指摘した。
「ずいぶん汚れちゃったですわ」
「あの猫め……」
 悔しいが怒りには達しない。産後の妻のために盗みを犯したのは情状を汲むべき点である。ただ、もしも魚を口にくわえたところをレフキルの知り合いに見られたとしたら誤解を解くのは大変だろう。
 その時、ルヴィエラも異変に気付いた。
「あららっ、わたくしのも!」
 ほつれや破けが目立っており、土や泥がついている。しゃれた靴はせっかくの高いかかとが微妙に磨り減っている。
 だが、服や靴はましな方だった。裸足で疾走したため足の裏が痛いし、ほうきを長きに渡って握りしめていた右腕には筋肉痛の症状も現れ始める。整えられた髪型は見るも無惨に崩れていた。銀の髪飾りもいつの間にかなくなっている。
「何故か鼻先もすりむいたようです」
 と、レフキルに厳しい視線を送る。
「それはね、倉庫であたしの体とサンゴーンが倒れそうで、捕まえようとして、引っ張られて、転んじゃって」
 しどろもどろに応じたレフキルも、ルヴィエラからの次なる質問には絶句する。
「じゃあ、この袖のテカテカは何です」
 まさか〈鼻水を……〉とは言えない。
「あははっ、何でしょうねぇ〜」
 あさっての方角を仰いで冷や汗をかきつつ、適当に誤魔化すしかなかった。
「せっかく新調したばかりだったのに……野蛮です、野蛮すぎますっ!」
 ルヴィエラは地団駄を踏み、それをなだめるのにレフキルは労力を使わざるを得なかった――困った人だと思いながら。
 サンゴーンは夕風に当たっているうちに、ようやく寝ぼけがおさまってきた。老婆は哀愁の漂う横顔で、祭りの後のような侘びしさが漂っていた。西の空の暖色が闇に溶けてゆく。すでに暗い東の空には星たちが一つ、また一つと現れる。
 
 レフキルとルヴィエラの口論もおさまった頃、静寂を奏でる〈あけぼの通り〉に突如、耳に覚えのある男の声が響いた。
「ああ、ルヴィエラさん。やっとのことで、このポルフ、追いつきましたよ!」
 痩せ気味のシルエットが闇から浮き出した。ルヴィエラは店主である老婆の顔を見つめる。今日は納品の予定ではないのに、何でしょう……とでも言いたげだ。
「さっき、あたしを勘違いした人ね」
 レフキルが一人で納得しているうちに、ポルフは愛さずにいられぬ若き娘を瞳で捉え、じょじょに間合いを詰めてゆく。
「ルヴィエラさ〜ん」
 眼鏡が光った。はた目のレフキルでさえ、さすがに不気味さを感じ、背中に鳥肌が立つ。獲物となった当事者であるルヴィエラの恐怖は想像に難くないだろう。
「な、何よ……」
 事務的な普段の薬草取引とは違う、妙な熱っぽいオーラをポルフから察知し、ルヴィエラは相手と一定の距離を保ちつつ、じわりじわりと後ずさりする。
 かかとが固いものに当たった。振り返ると、背中の向こうは薬屋の石壁だった。逃げ場を失い、悲劇的な状況である。それでも引きつった表情で精一杯のけぞる。
 老婆もレフキルも現場には近づき難く、事態の成り行きを見守ることしか出来ない。サンゴーンだけが興味津々である。
 次の刹那、ポルフが動いた。
「ルヴィエラさん、捕まえた〜っ!」
 彼はレフキルの頼んだ〈あたしを捕まえて〉という言葉を真に受けており、相手に抱きつこうと狼のように飛びかかったのだ。絶体絶命のルヴィエラを助けるため、レフキルは青ざめて口を開け、反射的に体当たりをしようと土を蹴る。
 直後、高らかな破裂音が辺りに連続して響きわたる。悲鳴が上がり、何者かが倒れた。一瞬のことなので意味不明だ。
 両手をはたき、勝利宣言したのは、
「二度と来ないでっ!」
 ルヴィエラの方だった。老婆はほっと胸をなで下ろし、レフキルは唖然として立ち止まり、サンゴーンは不思議そうだ。
「あわ、あわわわ」
 強烈な平手打ちを何度も食らい、ポルフは頬を真っ赤に張らして仰向けになった。瞳を潤ませ、声を詰まらせる。
「ルヴィエラさんに、ルヴィエラさんに……」
 そして涙を流し、こう言いのけた。
「初めて触ってもらえた! 今日という日はなんて素晴らしいんだろう!」
 脱力感と無力感に襲われたルヴィエラの脇をすり抜け、多少ふらつきながらも勢い良く駆け出し、ポルフは闇に消えた。
「狂ってるワ……」
 右手で額を押さえたルヴィエラに向かって、はっとひらめいたレフキルがここぞとばかり厳しい皮肉を浴びせかける。
「実は結構、野蛮なんですねぇ」
 ルヴィエラは何も言わず、引きつった笑みをした。サンゴーンだけがただ一人で取り残され、きょとんとしていた。
「何が起こったんですの? サンゴーン、わけが分からないですわ〜」
 
「それじゃ」
「どうも」
 簡単に挨拶をし、レフキルは〈あけぼの通り〉を歩き始めた。サンゴーンがその横をついていく。あれだけの事件に巻き込まれても、別れ際は名残惜しい。
 レフキルは無意識のうちに記憶の糸をたぐり寄せていた。盗っ人猫を追いかけ、薬屋の暗がりに追いつめたこと。霧につつまれ、ルヴィエラの体に魂と声が乗り移ってしまったこと。申し分のない容姿を得た嬉しさ、世話になっている露店主とのやりとり。隣の青年に叱られたこと。焼き魚を口にくわえた自分との対面、倉庫でのメス猫と四匹の子供。レフキルたちのために魔法を使いすぎて倒れたサンゴーンへの感謝の念。最後の最後でとんでもないものに化けてしまったこと。
 そういう過程を経て、唯一無二、かけがえのない〈あたし〉を奪い返したこと。
 振り向くと、ルヴィエラと老婆が並んで大きく手を振っていた。その姿がしだいに暗がりと区別できなくなる。
「ルヴィエラさんはいいですのね」
 サンゴーンがぽつりと洩らした言葉は感情の氷山の一角に過ぎず、レフキルはその陰に潜むものをおおよそ理解する。
 何から何まで世話になった唯一の肉親であり、前代の神者をも務めた祖母・サンローンを亡くしたこと――それをサンゴーンは回想していたに違いない。
 微妙に重みを増した雰囲気を塗り替えるため、親友の痛みを和らげるため、レフキルはあえて明るい話題を口にする。
「でもさ、体はやっぱし自分のに限るよ。いくら背伸びをしてみたって、結局のところ、あたしはあたしだからね!」
 レフキルは右腕を天に掲げた。ほうきは反対の手で引きずっている。その横顔は昨日よりも僅かに大人びていた。
 こうして家路をたどる二人の道しるべは星の輝きだけだ。空は晴れだが月はまだ昇らない。
 サンゴーンも遠い目で感想を述べる。
「レフキルが戻れたのは良かったですけど、今日はとっても混乱しましたわ。疲れたので、きっとぐっすり眠れますの」
 あれだけ寝ても足りぬようだ。レフキルはすかさず、いたずらっぽく提案する。
「サンゴーンもさぁ、試しに〈転魂秘術〉やってもらえば? 自分であることのありがたみが分かるかもよ?」
「怖いですわ、嫌ですわ〜。サンゴーンはサンゴーンのままで充分ですの」
 激しくかぶりを振るサンゴーンに、冗談だよ、と言ってレフキルは大笑いした。
「やっぱり、自分が一番!」
 再び高く右腕を突き出した遙か先では夜の宝石箱が賑わい出す。その間を縫うように、ひときわ長い尾を描き、まばゆい流れ星が斜めにこぼれ落ちていった。
 
 後日談。
「待てぇ! 今度ばかりは絶対、ぜーったい許さないんだから。覚悟してよ!」
 すっかりトレードマークとなってしまった威嚇用のほうきを振り上げ、イラッサ町の坂道を疾走するのはレフキルだ。
「なんであたしが一人で食べてる時だけ狙うのよ〜。焼き魚、返してよっ!」
 しかし敵も然る者、大規模な陽動作戦を展開し、レフキルの集中力をそいだ。
 結果として標的を見失い、レフキルは完敗した。さも悔しそうに唇を噛む。
 その現場にサンゴーンが通りかかる。
「レフキル、お疲れ様ですわ〜。もしかして猫さんと追いかけっこですの?」
「はぁはぁ、そうなのよー」
 肩で荒い呼吸をするレフキルに、サンゴーンは首をかしげて疑問をぶつける。
「あれからずいぶん経っているのに、まだ狙われているんですの?」
 問われた方のレフキルはいきなり、ほうきの頭を地面に叩きつけ、腹の虫がおさまらない様子で親友に愚痴をこぼす。
「それがね、聞いてよ!」
 言いながら、レフキルの目線は速やかに下へ移行した。サンゴーンの足元を例のオス猫が横切ったのである。
 レフキルはほうきを構え、振りかぶる。
「こいつら、家族ぐるみで!」
 おびえたサンゴーンは退き、かろうじて攻撃を避けることが出来たが、尻餅をついた。その目の前を二匹の親猫と四匹の子猫が雨のごとく逃げ去ってゆく――それぞれの口に焼き魚をくわえながら。
「待て待てぇ、止まりなさいったら!」
 その怒鳴り声が遠くなる。サンゴーンは思いきり息を吸い込み、叫んでみた。
「頑張って下さいの〜」
「頑張りま〜す」
 何故か別の方から返事がした。サンゴーンはびっくりして、そちらを見る。
「あなたは頑張らなくていいんです。どうして今日に限って、そんなに追い回してくるの。いい加減、帰って下さい!」
 髪の乱れを気にする余裕もなく、ルヴィエラが早足で歩いている。彼女につきまとっているのは言うに及ばぬあの男だ。
「あの日から大事にしまっておいたんですが、しまった場所を忘れてしまって。でも、やっと見つかったんです。お願いします、どうしても渡したいものがあるんですよ。きっと喜んで下さると信じています。せめて話だけでも……」
 色々な男から聞き飽きた台詞である〈どうしても渡したいものがある〉を、ルヴィエラはまさか、よりによって鈍くさいポルフから聞くことになるとは思わなかった。どうせ花や服の類だろう。
「もう、しっつこいのよーっ!」
 彼女が得意とする護身の平手打ちが飛ぶと相手はあっけなく倒れ、気絶した。
 明らかに正当防衛のレベルを越えてしまった。ルヴィエラは急に不安を覚える。
「だ、大丈夫ですかっ?」
 慌てて近づき、清楚にひざまずいて痩せ細った男の両肩を激しく揺り動かす。
 その時、彼の手から何かがこぼれた。
「まあ……」
 それを拾い上げたルヴィエラの表情が一変する。彼女はまず驚愕したが、それから申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 それは転魂秘術で大騒ぎした日に失くしたお気に入りの銀の髪飾りだったのだ。それを返そうとしていた彼を、全く聞く耳持たずにはねのけてしまった。
「どうして、そうならそうと早く言ってくれなかったの、ポルフさん……」
 彼女は溜め息をつく。その瞬間、男はむくりと元気良く起き上がり、真っ赤に腫らした顔で太陽のごとく純朴に笑った。
「はははっ、ぜんっぜん平気ですよ!」
「あなた、意外とタフなんですね……」
 ルヴィエラも頬をゆるめる。変わり者同士、案外、上手くゆくのかも知れない。
「いいお天気ですの〜」
 雲が切れて光が射し込み、若き神者はまぶしそうに手をかざした。そして何事もなかったかのように坂を下ってゆく。
 微風が流れる。夏本番の到来を感じさせる暑い南国は今日も極めて平穏だった。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】

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