友情の壷

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 

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プロローグ


「また今日も怒られちゃったねぇ」
 と言ったのは、色白でロングスカートのよく似合う痩せぎすの少女、金の髪の美しい十六歳のリュナンである。世界最大の商業都市へと成長したズィートオーブ市では、今やスラムの形成さえ問題となっているが、リュナンたちが歩いている石造りの旧市街の通り道は、ここがまだ小さな港町だった頃に作られたマホジール調の重厚な作りで、長い年月に表面を削られて鈍い光を返し、人々の歴史の重みを感じさせる。雑然とした新市街に比べると、同心円状にこぢんまりとまとまっている旧市街は趣があった。雑貨屋の老婆は道の馬の糞の掃除をしている。
「ふわぁあ。今夜こそ、早く寝られるといいけどサ」
 大あくびをしながら両手を頭の後ろで組んだのは、リュナンとは学院の同級生で、大の〈悪友〉のサホだ。後ろで束ねた短い髪は燃えるような赤で、黒い瞳は意志の強さが見て取れる。
 リュナンとサホは、学院での講義中の居眠りという変わった縁で仲良くなった二人である。相も変わらず今日の講義でも注意を受け、クラスの笑い者となった帰り道の足取りは、思いのほか軽かった。そんなことくらいで懲りる二人ではないし、そもそも二人の居眠りにはやむの得ない事情があったのだから。
 サホの実家は老舗の〈オッグレイム骨董店〉で、母親が一人で切り盛りしている、商業の発展したズィートオーブ市では取引が連続し、非常に忙しい。サホは母親を手伝って、家事はもちろん、幼い弟や妹の面倒も見ており、場合によっては仕事のサポートまでしている。父親が海難事故で亡くなってから、こういう生活が続いており、彼女は慢性的な睡眠不足に陥っている。
 一方、リュナンは幼い頃から病弱だった。学舎に通っていた児童の頃、風邪をこじらして生死の境を彷徨い、休みを繰り返したあげく留年したこともあるほどだ。体力が足りないためか、身体は常に睡眠を求めており、あだ名はズバリ〈ねむ〉である。

 二人の通っている学院に制服はない。リュナンは、黄土色のロングスカートに茶色の長袖ブラウスという秋らしい出で立ちだった。他方、サホはぴっちりした赤い細ズボンに、白系統だが色とりどりの花の模様入りの七分袖のシャツを着て、その上に薄黄色のベストを羽織っている。この町は気候の穏和な大陸の南西部にあり、晩秋とは言っても晴れた日の昼間は暖かい。

「あ、そだ。ねむ、暇ならさあ、ちょっと付き合わない?」
 サホが気分を切り替えて呼びかけると、相手は顔を上げた。
「今日は何?」
 興味深そうな口調でリュナンが話に乗ってくると、さっそく商人の娘のサホは、ここぞとばかり言葉をつないで畳みかける。
「うちで壷を仕入れたんだけど、なんか魔法の力があるみたいでさぁ、良く分かんないのよ。一緒に調べて欲しいんだけど」
 聞き終えるとリュナンは軽くうなずき、口元をほころばせる。
「うん。いいよ」
「よしっ、決まりいッ!」
 サホはリュナンの前に回り込み、右のこぶしを前に突き出してポーズを取った。びっくりして立ち止まり、二、三度瞬きしたリュナンだったが、遅ればせながら自分もげんこつを作ると、サホのこぶしに突き合わせた。最近、学院で流行っている挨拶だ。
 サホも白い歯をのぞかせ、いたずらっぽい笑顔になる。
「そうと決まれば、行こ行こ!」
 そして大股で家路をたどり始めた。リュナンも遅れないように足取りを速める。空が青く深い、初秋のある日のことだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ただいまー」
「おじゃまします」
 商談中の母親の横を通り抜け、サホとリュナンが骨董店の奥の方にある狭い階段を登ろうとした時、母親から声がかかる。
「サホー、お洗濯お願い」
「あいよぉ」
 二つ返事で、サホは南向きの裏庭に出ると手際よく洗濯物を取り込んだ。リュナンも運ぶのを手伝い、それから改めて二人はサホの自室である二階の小さな部屋へ向かったのだった。

 ドアを開けると真っ直ぐ先に見える窓の手前に、簡素な部屋に不釣り合いな、何ともまがまがしい壷が置かれていた。この時代とは明らかに違う、意味不明な古代模様が彫られている焦げ茶色の壷である。この部屋には何度も遊びに来たことのあるリュナンだが、今日はいつもと空気の流れが異なる気がする。そう思った途端、背中に鳥肌が立ち、心細くなった。最も壷から離れた部屋の隅に立て膝をつき、友に低く呼びかける。
「ねえ、サホっち。ねむちゃんね、何か嫌な予感がするよ」
「まあ骨董品ってさあ、そもそも、あんまし楽しい気分になるもんじゃないし。とりあえず横の模様を古代語の辞書で調べよっ」
 さすが小さな頃から骨董品に馴れているサホは、普段通りのさっぱりした語り口で相手の気持ちを和ませようとした。リュナンは胸の辺りを抑えつつも、友の強気に押されて同意する。
「ねむちゃんの気のせいだといいけど……」
「そっそ。おっかぁは魔法の品の鑑定ができないから、今までもこういう妙な商品はいつもあたいの担当だったけどサ、そんなヒドい目に遭ったことはないし。別に心配することないって!」
「うん」
 同じ学年にも関わらず、家の手伝いに奔走するサホに対して尊敬の念を抱きつつ、両親を心配させてばかりいる病弱のリュナンは複雑な心境でうなずいた。それを知ってか知らずか、サホは早口を急に止め、落ち着いた優しい言い方で友を立てた。
「それに、ねむが居てくれると、あたいの気づかない魔法の意味が分かるかも知れないし、すっごい助かるよ。頭いいしさ」
 リュナンは大げさに手を振って、恥ずかしそうに応える。
「そんなことないよ。成績は悪いし、両親には心配かけてるし」
 そして驚きのあまりか、ゴホッと持病のぜんそくが出かかる。
 これ以上相手は興奮させてはと、サホは言葉を飲み込んだ。
(ねむ……あんたはあたいなんかと違って、もともと頭いいんだよ。成績が悪いのは出席日数が足りないだけなんだから。分けてあげられるんなら、あたいの元気を分けてあげたい。もっと自信持ってもらいたい。あたいは悔しいんだ、あんたが損するの。絶対、ねむの病気治したい。病は気からだって信じてるよ!)

 お互いが一瞬、それぞれの物思いにふけったが、沈黙が鳴り響いたのは短かった。再び静けさを破ったのはサホである。
「さっ、ちゃっちゃか調べちゃおうぜぃ」
「うん」
 リュナンもようやく笑顔を取り戻して言ったが、その段階では決して壷に近づこうとはせず、背中を壁につけたままだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「これは、強いて言えば『ζ』かな」
「次は?」
「そうだねぇ。ちょっと『й』に似てるかな」
 ぼろぼろの辞書を手に、奇怪な壷の横に彫られている蛇のような古代文字の判読作業を地道に進めるのはリュナンだ。当初の悪寒は改善し、奇怪な壷のそばに腰を下ろしているが、決して心を許したわけではなく、必要最低限しか触れようとしない。
「ζで、次がйと」
 店で使っている台帳とインクの予備をちょいと拝借し、サホは一心にメモを取っている。あとで母親から大目玉を食うのは承知の上。今は謎を解き明かすのが最優先で、他は二の次だ。
「ねむ、続きは?」
「うーんと……」
 リュナンは青い目を極限まで細め、今度は大きく見開き、何度か瞬きし、首をひねり、肩を叩き、壷から距離を置き、ぎりぎりまで近づき、再び目を細めた。サホはごくりと唾を飲み込む。
 やがてリュナンは金の髪を揺らし、自信なさげに振り向いた。
「ねむちゃんには、ちょっと難しいなぁ」
「大丈夫、ねむなら出来るって! 何の字に見えた?」
 サホが促すと、年上の同級生は辞書をめくりつつ応える。
「単語の始まりが、もしも『∬』だったとしたらの話だよ」
「続けて」
 サホは倒れそうになるくらい前に身を乗り出し、リュナンの言葉を聞き逃さないよう全身の神経を両方の耳に集中させた。
「最後の文字は、たぶん『Ш』か『Щ』かな……」
「確かに微妙なとこね。その単語、どういう意味になるの?」
 サホは自慢の赤毛を無造作に掻き上げ、右足のつま先をじれったそうに動かして貧乏揺すりした。古代語をしっかり勉強しておけば良かったと大いに苛立ち、ほんの少しだけ反省しつつ。
 どうも気の進まない〈にわか鑑定士〉の方は、落ち着き払って結果を報告する。信託を受けた占い師のように真剣な表情で。
「辞書によると、最後が『Щ』の『∬ζйЩ』なら動詞で、結びつく、友情が深まるという意味だよ。だけど、最後の文字が『Ш』だと名詞で、意味は、別離、亀裂、別れること、離ればなれ……」
「別れ……の壷」
 サホの低い声は部屋のすみずみへ飛んでいき、妙に響いた。ちょうど太陽が雲間に隠れて、午後の陽射しは急激に弱まり、ズィートオーブ市の旧市街にあるサホの小さな一室は薄暗くなった。木の床を、名もなき黒い虫が我が物顔に歩いていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「あ、あははっ。なんでコレが別れの壷なんだろ」
 サホは自分の言葉を笑い飛ばした。しかし、その後の沈黙は場の空気を余計に重く感じさせた。彼女は溜め息をついた。
 リュナンはここぞとばかりに勇気を出し、親友へ忠告する。
「これ、やっぱり良くない壷だと思うよ。何か籠もってるみたい」
 またもや背中を冷たい予兆のようなものが走り抜け、リュナンは後ろ手をついて座ったまま後ずさった。そして言葉を継ぐ。
「ねむちゃんには詳しいことは分からないけど、学院の先生に見てもらって、ちゃんと封印をした方がいいんじゃないかなぁ」
 普段はあまりハッキリと物を言わないタイプのリュナンとしては珍しい自己主張にサホは迫力負けし、うなだれて応える。
「うーん、ねむがそこまで言うなら、そうなのかも……あたい、ねむの直感を信じるよ。おっかぁを何とか説得して、この壷、学院に持ってって、専門の先生に見てもらう。それで納得でしょ?」
「ごめんごめん。これはもちろんサホっちの家の問題だし、ねむちゃんの話は参考程度で構わないし、変に気にしないでね」
 リュナンは右手を大きく振った。謙遜する時の癖のようだ。
「よーっし。そうと決まれば、さっさと梱包しちゃお。おっかぁには、あとから根回しすれば済むし、これの担当はあたいだし」
 サホは心を決め、晴れやかな顔で一気に立ち上がると、机の上の壷を持ち上げた。繊細なリュナンもほっと胸をなで下ろす。

 その時、サホに油断があったことは否めない。
「それにしても、これ、何を入れる壷なんだろ?」
 彼女は壷の入口付近をつかむようにして持ち上げ、目線の高さで妖しげな古代文字を眺めると、逆さまにして底を見下ろす。
「気を付けてね」
 リュナンの祈るようなささやきの直後であった。

「あ」
 サホの手が滑り、宙をつかんだ。
 
 首を地面に、胴を天に向けたまま。
 いにしえの壷は下降を始める。
 砂時計の砂は――動き出した時間は、止まらない。
 
 サホはとっさに手を伸ばしたが、虚しく空を切っただけだった。壷は徐々にスピードを増し、一瞬早く避けてしまったのだ。
「ああっ!」
「きゃあっ!」
 リュナンは顔を覆い、悲鳴をあげることしか出来なかった。
 
 そして〈別れの壷〉は堅い木の床に勢い良く激突した。
 ――皿が割れるように、高らかな音を周囲に遺して。
 数十個のかけらへと、あっけなく砕け散ったのであった。

(続)



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