春を呼ぶ花

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 厳冬期、マツケ河を下る途中に凍り付いた水が河口にたどり着き、押されて湾から飛び出して、メロウ島に接岸していた。北国の深い海は、やや蒼色を帯びた氷に見渡す限り埋め尽くされ、さながら曖昧で不安定な〈氷の陸地〉を形成していた。離れ小島であるメロウ島は、この時期、大陸と陸続きになるのだ。
 今や、それら流氷の群れも遠ざかって久しく、冬の風物詩である氷上船の姿も消えた。最も気候の厳しい頃には無人の野となり、眠りについていた島にも、少しずつではあるが人の姿が戻りつつあった。人の数こそが、メロウ島の春を測る物差しだ。

「ほっ、ほっ」
 筋肉質の長い右足をしなやかに出し、一定のリズムに乗って左足を下ろす。分厚い靴の後ろに付いている鉄製の太い針が、何度も融けては凍りついた根雪に刺さって、ザクッと割り、えぐった。右、左と、踏み込まれた足跡はほとんど等間隔である。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、はっ……ほっ、ほっ」

 まだ雪の残っている荒れ果てた島の海岸を駆けているのは、二人の若い女性であった。十九歳のユイラン、そして二十二歳のメイザだ。遠くから見ている者がいれば、二つの小さな人影となっている後ろ姿が、太陽の光――薄曇を突き抜けて霧雨のように弱々しく降り注いでくる――を集め、求めるかのように、おおよそ東の方角へ向かっている、ということが分かっただろう。
 鼻と口から絶えず煙のように白い吐息が漏れているが、苦しそうではなく、まだ余力はありそうだ。滑りやすい氷の雪の上なのにも関わらず、軽快と言い切ってしまっても決して間違いではないくらいの、馴れた走り方だ。登りでも下りでも、速度は極端な変化をつけず、長い脚と両腕を淡々と動かしている。顎を引き、並んで走る二人の姿は、横から眺めても美しい。その向こうには黒ずんだ冷たい北の海が見える――波頭が踊っている。
 彼女たちはコートを羽織っていない。この地域に暮らしている者は、寒さにはめっぽう強く、冬でも驚くほど薄着であるが、それに比べても彼女たちは薄着の、動きやすい格好をしていた。

「つらら潰し、出来なくなるのは、つまんないっすよねぇ」
 額にうっすらと汗を浮かべ、呼吸の合間を縫って喋ったのは、艶やかな黒髪を邪魔にならないように束ねたユイランである。下は色の落ちかかった赤い長ズボンで、上は白黒の縞模様をした綿の半袖シャツの上に、黄土色をした厚手の木綿の運動着(トレーナー)を羽織っている。その背中には、素手の格闘家たちを育てている道場としては世界最強として名高い〈メロウ修行場〉のシンボルである鷹の刺繍が、辛うじて鳥に見えるほどの下手さではあったが、極めて誇らしげに縫い込まれていた。

「うん」
 応えたのは先輩のメイザだ。やや小柄な体格で、笑顔のえくぼが可愛らしい女性である。黒い髪を、格闘家としては珍しくアップにして留め、長袖のセーターを羽織っている。闇色の瞳は、ユイランよりも幾分、優しい輝きを湛えている。もちろん、それでも試合になれば、雪をも溶かす情熱と集中力を見せるのだが。
 ところで、ユイランの言う〈つらら潰し〉とは――。
 土壌が悪く、気候の厳しいメロウ島に生息できる植物は、地に張りつくような草か、背伸びできない痩せた木々ばかりだ。その木とも言えないような木から垂れたつららを素早く叩き割り、一連の動作の格好良さ、切り口の秀麗さや、破片の大きさ、飛び方、飛距離などで総合的に競う遊びである。雪かきばかりで冬場の楽しみの少ない北国の子供たちが自然と考え出し、改良を加えていった。他方、大人たちは家の中で編み物の内職をしたり、酒の醸造に力を入れた。というわけで、メロウ島の対岸にあるマツケ町では、独特の細かい織り方が発展して〈マツケ織り〉として世界的に有名であるし、ライ麦を用いて作った強い蒸留酒(ウオッカ)は、純粋な雪を溶かした水で作ると特に美味しい。地元の人々に親しまれており、旅人たちの評判も高い。

 そのマツケ町も、メロウ島から遠く望める。漁をする小舟の姿が微かに見える。雪と寒さとの戦いの日々は終わったのだ。

「でも、温かくなってきて、うれしいよね」
 駈けながらメイザが言う。ユイランはうなずく。うなずいてから、めぐる季節に関する万感の思いが、じわじわと染み出してきたのだろうか――薄雲から洩れてくる光の筋道に目を細める。
 小さな島の、道とも言えぬほどの雪残る海沿いの原野は、右へ急に舵を取って南へ向かう。二人は、春を呼ぶ南風になる。

 花月(かづき)と呼ばれる四月になっても、花のつぼみさえ見えぬ北辺の島で、彼女たちは今日も、強く美しく咲いている。

(了)



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