2009年 5月

 
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2009年 5月の幻想断片です。

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  5月30日− 


 吹く風にシャツが、ズボンが、手袋がなびいている。
「人かと思った」
 思わず呟いてしまった。照りつける光の中で、わたしと同じシャツとズボンをはいた〈もう一人のわたし〉が手を振っている。
 まるで、行ってらっしゃい、とでも言っているかのように。
 それは何とも不思議でむずがゆい感覚だった。
 


  5月28日− 


[霞のトンネル]

 あんなに颯爽と現れた春の輪郭がぼやけてきていた。あの真新しかった季節にも曖昧な終わりがやって来て、それは朧(おぼろ)にかすんでゆく――日ごとに繰り返される雨のカーテンと、まぶしい光のカーテンの向こうに。
 春が終わり、夏はまだ来ない。短くも長い霞のトンネルの道端を、そっと紫陽花の蒼が埋めるのだった。
 


  5月25日− 


[逢魔時]
 
「よっこらせ」
 紅に染まる水平線に口づけした今日最後の太陽の輝きに、白い髭を山羊の尻尾のように左右に伸ばした魔導老師が、一本の細長い薪を掲げた。円い太陽が海に喰われて限りなく細くなり、昼と夜が交錯する瞬間、魔導老師の薪にパッと炎が乗り移り、まばゆい篝火(かがりび)となった。それは黄色になったり、緑みを帯びたり、淡い紫になったり、青白くなったりした。
「さて、帰るかの」
 火種を得た魔導老師は、右手に薪を持ち、左手で曲がった腰を押さえた。紺色の上へしだいに漆黒を塗り重ねる山の方へ、闇の影へと、滑るように歩きながらその姿を溶かしていった。
 


  5月22日− 


[暗がり森]

 その森は〈暗がり森〉と呼ばれていて、鬱蒼と木々が生い茂り、いつでも光が届かなかった。日中でもランプが必要だ。
 細くて長い木の枝たちは、まるで光を遮ること自体を目的としているかのように、混沌と複雑に、縦横無尽に伸びていた。
「こりゃ、巨大な洞窟みたいなもんだな」
 ケレンスが腕組みし、感心したような、それでいて呆れたような口調で言うと、女魔術師のシェリアが真面目な顔で呟いた。
「魔力を感じるわ。そんなに強くはないけど」
「道は細い。一列になって進もう」
 ルーグの指示に、後ろにいたタックとリンローナは頷いた。
「ええ」「うん」

 諜報者ギルド所属のタックが先頭になってランプを掲げ、戦士のルーグ、魔術師のシェリア、聖術師のリンローナ、そしてしんがりの剣術士のケレンスという〈いつもの〉隊列を組み、五人は冷ややかな風の吹く〈暗がり森〉に足を踏み入れたのだった。
 


  5月19日− 


[リンドライズ平野]

 これだけの緑の絨毯は、どんな大貴族だって引けやしない。

 強固な石の壁で囲まれた町を出れば見渡す限りの草原が続いていて、風が吹けば黄緑色の波になる。その草原を、煉瓦で舗装された太い街道が真っすぐに貫いてゆく景色は壮観だ。
 南ルデリア共和国は海路が盛んな地域だが、旧リンドライズ侯国――リンドル町を中心としたリンドライズ平野では陸路も栄えている。全体的に起伏の少ない、なだらかな地域だ。そこを二頭立ての荷馬車がゆったりと一定のリズムで歩いてゆく。
 所々に点在する農村も穏やかな風景だ。用水が引かれ、麦や野菜の畑が広がり、柵の内側で牛や羊が放牧されている。
 青空に行き交う雲が太陽を隠すたびに草原の色は褪せ、再び光が照らし出すと彩りを増す。そして道を西にたどれば、やがてリンドライズ侯国の都だった内陸のメポール町に到着する。


2007/05/27 ロマンチック街道
 


  5月15日− 


[今日の位置づけ]

 本の整理をしながら、僕は昨日の話を思い出していた。
「きのうの明日、だから……」
 言いかけて、僕はふと口をつぐんだ。
 すると妹のレイヴァがちょっと首をかしげて尋ねる。
「お兄ちゃん。それは今日のこと?」
「そうだね。じゃあ、予定は今日だった」
「うん」
 それから僕は戯れに呟いてみた。
「明日の、きのう……」
「えっ」
 レイヴァは遠い目をし、抱えていた本をテーブルに置いた。それから僕の言葉を吟味し、真面目に考えてから、こう答えた。
「それも今日だけど、少し不思議な響きだね」
「……」
 今日は、明日になれば昨日になる。
「そうだ。今日は〈今日〉だから今日なんだね」
 僕が感心して言うと、レイヴァは困惑気味に笑った。
「ふふっ。変なお兄ちゃん!」
 そして僕たちは本の片づけを続けたのだった。
 


  5月 9日− 


[鳥は海に、魚は空に]

「こりゃ眩しい」
 外に出て、思わず呟いた。北国の春の日差しは意外と強い。
 冷たい雨はゆうべには上がり、道端の草の間には幾つもの光り輝く宝石たちが、覗く位置をずらすたびにきらめいている。北国の春の空は、冬ほどの厳然とした澄みやかさはないけれど、それでも凜として青い。
 そしてもう少しこの道を下れば海に出る。北国の海は深い蒼をしている。広がる〈もう一つの世界〉は魚たちの宝庫だ。海の底には、見たこともない他の国が待っているような気がする。

 行き交う人のあまり多くない漁村の昼下がり、ゆうべ泊めてもらった木造りの民家を出て、私はしばらく立ちつくしていた。
 見上げると、渡り鳥が大きな翼を広げて空を滑ってゆく。
 その様子を眺めていて、ふと脳裏をよぎる光景があった。
(海を鳥が泳ぎ、空を銀の鱗の魚が泳ぐ――)
 どうして翼では、海を泳げないのだろう。
 どうしてヒレでは、空を飛べないのだろう。
 たまには逆転したっていいんじゃないかな。
 そうすれば人間だって、きっと――。

「ミラー、行くわよ〜!」
 旅の道連れ、シーラの呼ぶ声が聞こえた。
 少し冷たい風が頬に気持ちいい。
「はいはい」
 出発の時が来た。さあ出かけようか。この細く長い道を。
 




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