空の後ろで

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第三章 午後の草原


「またねー」
 とジーナ。
「それでは」
 とテッテ。
 何も言わずに、一生懸命手を振るリュア。それぞれに訪れた、それぞれの別れ。辺りにただよう霧のような雲の中で、お互いの姿が霞んでいく。
 テッテの人影が完全に雲と同化すると、少女たちはしっかり前を向いて歩き出した。こうして二人は〈カーダ研究農園〉をあとにして、もと来た道をたどる。
 草のトンネル、虹の橋。雪の横穴、流れ星のアーチ、水しぶき。そして再び現れた草のトンネル。
 草原に出て久しぶりの青空を仰ぐと、陽は少し傾いていた。体感気温と空の色から察するに、午後三時頃だろうか。しかしながら春になって昼間が延びたおかげで、夕暮れはまだ遠いと思われた。
 通り過ぎる春風が原っぱの草を揺らす。その時、草は海になる。黄緑色の波になる。こんな場所では風の通り道や足跡がはっきり見える。
「ジーナちゃん。これから、どうする?」
 リュアが、さらさら流れる銀の髪を抑えながら訊ねた。ジーナは薄手のコートのポケットから、さっきのお土産を取り出して、
「しおれちゃわないうちに、この素敵な道具たちを使おうよ!」
 と返事した。ほどなくして、リュアも賛成する。
「そうだね。そうしよっか。……でも、道具の使い方が分からないよ?」
 心配そうなリュアをよそに、ジーナは相手の肩をぽんと叩き、大きな声で笑った。
「あははっ。大丈夫、大丈夫。なんとかなるよ!」
 それを聞いたリュアは、腕を腰に当てて〈困ったなあ〉とこぼしながらも、顔にはついつい笑みが浮かんでしまう。
 そして一言。
「もう。ジーナちゃんは、いつも楽観的なんだからあ……」
「らっかんてき、って何?」
 ジーナがすぐに質問してきたので、リュアは頬を膨らませて、
「ジーナちゃんみたいな人のこと!」
 と叫ぶと、
「答えになってなーい!」
 ジーナはリュアにつかみかかった。じゃれあったまま斜面をごろごろ転がると、細かい草が口の中に入り込む。
「きゃははっ!」
 心の中が開放感で満たされている。草の匂いにまみれて、何だかとても気分がいい。花の中に顔を埋めていた食事中の蜜蜂が驚いて逃げ出しても気にしない。
 
 しばらく草と戯れた二人は軽く汗をかいたので、脱いだコートを丸くたたみ、それを枕代わりにして地面に寝転がった。暖まった身体が春風に溶けていく。
 あお向けで横になる二人の遙かな真正面には、青い空が無限に続いている。手を伸ばせば届いてしまいそうな錯覚に、しばしば襲われる。
 いつの間にか、ジーナはかすかな寝息を立て始めた。一方リュアは、あくびをしながらも上半身を起こすと、丸めていたコートを広げて、微風になびかせた。
 コートは、呑気な風見鶏のようにあっちへひらひら、こっちへひらひらし、その度ごとに、付着していた草の切れ端を風の中に舞わせた。
 そうして、リュアはしばらくの間、自分の横で眠りに堕ちたジーナの寝顔をぼんやり見下ろしていた。
 しかし突然、ふっと思い出したように瞳の輝きを取り戻すと、右手をコートのポケットにつっ込んで動かし、探った。
「あった!」
 眠るジーナを気づかい、小声で叫んだリュアは、水色の鋭い葉……空切り鋏を天に掲げる。
「どうやって使うんだろう?」
 再び横になり、空につつまれて一生懸命、考える。心の中で何度も繰り返す。空を切る鋏。空を切る、鋏。空を、切る……。
「空を?」
 リュアは、光をいっぱいに吸収して天に枝を張る木々のように、ゆっくりと腕を垂直に伸ばした。
 木々の先端にあるのは緑の葉だが、リュアの手にも今、一枚の不思議な葉っぱが握られている。
 ――樹は、地面に根を張るために、光の養分を葉っぱで吸収しているのかな。それとも、天に枝を張るために、根っこで地面から養分を吸っているのかなあ。
 リュアはそんなことを考えながら、青空に向かって空切り鋏を滑らせた。少し遅れて、空にすっと線が走る。
「!」
 手の届かなかった空は、この瞬間、一枚の布へと変化した。限りなく広い、真っ青な布地に。
「信じられない……」
 リュアは瞳の中いっぱいに青を映したまま、喜びのあまり、思わず言葉を失った。だが、これで驚くのは早かったと、彼女はすぐに気づくこととなる。
 今度は空切り鋏を掲げたまま、腕を円形に動かす。空の布が、リュアの動かした通りに、丸く切り取られる。それは風に乗ってひらひらと落ちてきた。
「よしっ、と」
 左手でつかんだ空の布は、すべすべしていた。半透明の青いセロファン……そんな感じだった。瞳にかぶせて景色を見ると、世界がすっぽりと空の内側に入ってしまったかのようだった。
 無数の草がざわめく。指揮者は春風だ。とびきりの野外コンサートは終わらない。その音楽を夢の中で聴きながら、ジーナはとても気持ちよさそうに眠っていた。
 どこからともなく黄色い蝶が現れ、ジーナのまわりを舞い始めた。紋黄蝶だ。続いて、雪の欠片を彷彿とさせる、真っ白い蝶が飛んできた。紋白蝶だ。
 さらには、半透明の羽を光らせて、青い蝶が仲間に加わった。他の蝶と一緒に、ジーナのそばをゆるやかに巡る。
 紋青蝶?
「やったぁ。大成功!」
 リュアだ。彼女の手には、まだ空切り鋏が握られている。……そう。空色の青い蝶は、リュアが創ったのだ。
 切り絵の要領で空に切り込みを入れると、ちょっと不格好だけれども、青い蝶が出来上がった。その完成直後、魔法の命を吹き込まれた蝶は、自ら母なる空を飛びだし、二人のもとへ来たのだった。
 上手くいって少し調子に乗ったリュアは、また新しい遊びを思いついたようで、ぽんと手を叩くと、再び空切り鋏を天に掲げた。
「えいっ、えいっ、えいっ」
 彼女はせわしなく指先を動かし、たくさんの花びらを切り取った。しばらくすると青い花びらが、まるで雪のように降ってきた。その中の一枚は、ジーナの鼻の上に着地した。
「ジーナちゃんたら、まだ寝てるよ。さあて、どうやって起こそうかな? ここからがリュアの腕の見せ所だね」
 少女はそうつぶやくと、いたずらっぽく微笑んだまま、思考を巡らせた。ああでもない、こうでもない……。
 彼女は草の上に座り込み、降り積もった青い花びらを見つめて、腕組みしながら楽しく悩んだ。
「何か素敵な方法ないかなあ」
「ふあ、ふあ」
 鼻にかぶさる一枚の花びらは、ちょっとくすぐったいようで、ジーナは突然、大きなくしゃみをした。
「……ふぁっくしょん!」
 その勢いで、彼女は目を覚ましてしまう。眠い目をこすりながら、だるそうに上半身を起こす。まだまだ夢と現実の間をさまよっており、焦点が定まらない。
「○×△☆……」
 口の中でもごもごと、ジーナは意味不明な言葉を喋っている。そこへリュアが駆けつけた。
「なあんだ。ジーナちゃん、もう起きちゃったの? せっかく、いい方法を考えついたのに」
 思惑が外れて、少しがっかりしたリュアの左肩には、小さな青い鳥が乗っていた。足が四本あるので、どこかしら違和感があるものの(リュアが多めに創ってしまったのだ)、鳥であることには間違いなさそうだ。
「どこで見つけたの? その鳥」
 本調子でないジーナは、リュアの肩にとまっている、透き通った身体を持つ青い鳥をぼんやり眺めた。
「そぉ〜れ!」
 リュアが放つと、鳥は忙しく羽ばたいて上昇気流をつかみ、きれいな形で滑空する。身体の色は空と同じだった。またもや羽を動かし、速度と高度を下げると、鳥は次に、寝ぼけ眼のジーナの肩にとまった。
 ジーナは驚いて、一気に目が醒めた。
「見た目はあんまり可愛くないけど、仕草がすごく可愛い!」
 するとリュアが、少しふてくされてそっぽを向いた。それから開き直って言う。
「いいもん。どうせリュア、切り絵は苦手だもん! あーあ。こんなことなら、もっと練習しておけば良かったなぁ」
 肩を落とすリュアと対照的に、一眠りして元気を取り戻したジーナは、もともとの好奇心が、今やはちきれんばかりに膨らんでいる。彼女は、詳しい事情を知っているはずの正面の友達……リュアに向かって、矢継ぎ早に質問した。
「切り絵? なんなの? あの鳥は? 教えて!」
 
「よーし……」
 ジーナは自分の空切り鋏を取り出して、リュアに習い、摩訶不思議な切り絵を始めた。
「できたっと!」
 処女作は、小さな小さな青い鯨。港町デリシに住む二人にとって、鯨は生活に密着した生き物だった。体の巨大さと肉の高価さから、二人の間では〈動物の王様〉となっていた。
 だから、ジーナが〈何かの動物を切り抜こう〉と考えたとき、真っ先に鯨が思い浮かんだのだった。
「リュア、見て!」
 ジーナが自作の鯨を指さす。それは身体と同じ澄んだ青色の潮を噴き、悠々と空を泳ぎ始めた。
「すごーい!」
 リュアも大はしゃぎで、さかんに拍手を繰り返している。その瞳は生き生きとしていた。つまらない悩み事なんか、ここでは何も必要ない。
 ジーナは急に、ぷっと吹き出した。
「あはは。変なの!」
「そうだね。鯨さん、海と空とを間違えちゃったみたい」
 リュアの青い鳥と仲良く並んで飛んでいる(泳いでいる?)ジーナの鯨を見上げて、二人はそれぞれの切り絵に自分たちの姿を重ね、また笑った。
「あたしたちも行こっ!」
 ジーナが握りこぶしに力を込め、次なる目標を高らかに宣言した。やる気と元気が、その小さな身体から溢れてしまいそうな勢いだ。
「でも、どうするの?」
 リュアは、さも不安そうに首をかしげる。一方、ジーナは自信たっぷりに胸を張り、リュアの顔を下からのぞき込んで、意味深にウインクした。
「えへへっ。方法でしょ? あたし、もう、ちゃんと考えてあるんだ」
 そして、ごにょごにょと、ジーナの耳元で、自分の計画をささやいた。リュアは途中、何度かうなずきながら聴いていたが、ジーナの話が終わると、
「大丈夫かなあ? ジーナちゃん、いつも無茶するから……落ちたら大変だし……ちょっと心配」
 と、半信半疑の様子だった。未だに安心できないでいるリュアの背中を、ジーナは思いきり叩いた。
「あたしに任せなさいっ!」
「きゃっ!」
 リュアは短く悲鳴をあげ、少しして、うっすら涙目になった。背中をさすりながら弱々しく返事をする。
「ジーナちゃんの方法は分かったけど……ちょっと痛かったよ」
「あっ、叩くの強すぎた? ごめんね」
 ジーナは謝り、そして頭をかいた。

(続)



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