空の後ろで

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第六章 芽吹き


 自分一人で舟を漕ぐのに苦心したリュアは、どうにかコツをつかみ、やっとのことでジーナのいる雲の上までたどり着いた。まずは右足を慎重に、次に左足を乗せる。
 そこへジーナが駆け寄る。
「リュア!」
「ジーナちゃん!」
 抱き合う。上の方には少しずつ夜の闇が近づいている、赤く燃えた空の後ろで、二人は新たな友情を確かめあった。
「ほんと、心配したんだからね!」
 再会した時、リュアはまた涙が止まらなくなった。ジーナは、自分のために泣いてくれる友の体温を感じながら、うれし泣きをした。
「ありがとう」
 しばらくの間、二人は喜びに浸っていたが、ジーナはふっと顔を上げ、無限に続く夕空を仰いだ。
「それにしても、空の後ろでは雲が実体を持っているなんて……不思議だよね」
「うん」
 リュアはゆっくりとうなずき、遠い目をした。その視線の先に、小さな点が現れる。美しい銀の輝き、光のしずく。
「一番星、見ーつけた!」
 リュアが無邪気に指さす。その横で、やはり空を見上げるジーナは、自分たちがくぐり抜けた空のドアを探していた。
「……ねえ、リュア」
「そうだね。そろそろ帰ろっか?」
 リュアは、ジーナが本題を言う前に返事をして、いたずらっぽく微笑んだ。ジーナは一瞬どきりとしたが、すぐに笑った。
「何も言わなくても、伝わるんだ」
「うん。魔法なんかなくたって、気持ちは伝わるよ」
 リュアは胸を張り、自信を持って、そう答えた。ジーナが手を出し、リュアも真似する。二人の手が静かに重ねられた。
 
 空のドアを抜けると、青い鳥と鯨が仲良く並んで待っていた。ジーナとリュアは交代で小舟を漕ぎ、再び大地に上陸した。小舟は二人を降ろすと、風に乗り、どこか遠くへ終わらない旅に出発した。舟はやがて闇につつまれ、見えなくなった。
 陽が沈んだ。鳥と鯨の先導で、二人の少女は森の道を軽い足取りで歩き始めた。身体の疲労感はあるものの、気分は青空のように澄みきっていた。
 コートのポケットから、二人は最後の道具である星吹きストローを取り出した。口に当て、そっと息を吹き込むと、幾つものまばゆいシャボン玉が飛び出した。
 ふわりふわりと浮かんだ、夢色のシャボン玉。これは空の果てで星になり、二人の行く先を照らす道しるべとなった。
 森を出ると、町はすでに夕食時だった。役目を終えた青い鳥と鯨は、魔法の効果を失ったのか、単なる剥製となって音もなく落下した。もはや動かなかった。もう鳴かなかった。
 リュアは鳥の、ジーナは鯨の剥製を、それぞれきつく抱きしめる。それから二人は、次の交差点で別れた。
「今日は楽しかった」
「リュアも」
「また明日、学舎でね」
「うん。また明日……」
 
 森の向こう。デリシ街から遠く離れた山の中腹にある、おんぼろな一軒家は、わずかに傾いている。
 陽は沈み、窓の隙間から夜が染み込んでくる。室内にはランプが灯された。狭い部屋に、突如、老人の低い声が響く。
「よし、今日の研究はここまで。夕飯じゃ」
 彼こそが、テッテの師匠であり、かつ〈カーダ研究農園〉の主であるカーダ博士である。
「わかりました」
 と答えたのは弟子のテッテだ。薄暗い中、分厚い本をぱたんと閉じる音がした。
 テッテは腰を曲げたり首を動かしたりして運動し、両眼を何度かまばたきする。それから彼はすっと立ち上がると、窓辺に向かって歩いていった。
「きれいな夕焼けですねえ……ん?」
 テッテは空を見上げて驚いた。いつもよりも、星が三倍くらいある。白い星、青い星、赤い星。大きな星、小さな星。もう、どこを見ても星だらけだ。
「さては、あの子たち……」
 テッテは、眼鏡の奥の優しげな目をいっそう細めた。昼間出会った二人の少女の姿を瞼の裏に思い浮かべると、ついつい微笑みがこぼれる。
「ふふ。師匠には内緒にしておきますよ。黙って、高価な研究品をあげたこと」
 テッテは窓を開けて西の方角を眺めた。真っ赤な夕焼けの名残は闇に沈み、ほとんど判別できない状態だった。
 青年は、自分に言い聞かせるようにして、晴れやかな気持ちで語った。
「研究品は、また最初から丹念に育てます。種は余っていますからね。来年になれば、また収穫できるでしょう。それでいいんです」
 その時。いつもと違うテッテの様子を不審に思ったカーダは、研究室から顔を出し、大声で叱りつけた。
「おーい、早く夕食の用意をせんか!」
「すみません。今すぐに」
 テッテはぱたんと窓を閉めた。そして一言、短くつけ加えた。
「君たちの心に、幸せの芽が育てばね」
 無数の星の輝きと、弱々しいランプの光を頼りに、青年は手探りで台所へ向かった。
 
 数日が経った。
 真っ青な空、白い雲、暖かな空気。さわやかな春爛漫の午後に、リュアは町外れの森の入口で、ジーナと待ち合わせた。今日は夢曜日、学舎はお休みである。
 二人はこれからテッテの農場を訪ねてみるつもりだった。森の道は詳しく覚えていないので、二人で相談し、思い出しながら行くという手はずになっている。
「ジーナちゃん、遅いなぁ……どうしたんだろうね?」
 リュアは、腕の中に抱きかかえる四本足の青い鳥に話しかけた。剥製になったその鳥は、もちろん何の反応も示さない。今日はテッテに見せようと思って、わざわざ持ち出したのだった。
 急に、角の向こうからバタバタとせわしなく走る音が聞こえてきた。リュアは思わず顔をほころばせる。
「きっとジーナちゃんだ」
 図星。すぐに背の低い少女の姿が現れた。リュアが手を振ろうと右手を挙げる前に、ジーナは空を指さし、短く叫んだ。
「あの鯨さん、見失わないで!」
「えっ?」
 リュアの鳥と同じく、剥製になったはずの小さな青い鯨。ジーナの部屋の置物と化していたその鯨が、いま、悠々と空を飛んでいる。
「リュアたちを連れてってくれるの? 夢みたい。……あっ!」
 リュアの胸でじっとしていた青い鳥も、突然、瞳が生気を取り戻したかと思うと、一瞬のうちに大空に向かって羽ばたいていた。
「リュア、置いてくよ!」
 ジーナは、呆然としている友達の脇を走り抜け、その肩をぽんと叩くと、止まることなく森に駆け込んだ。
「あ、待ってよぉ!」
 リュアも慌てて後を追う。左手でスカートの裾を押さえ、右手はひりひり傷む自分の肩をさすりながら。
「もう。ジーナちゃんったら、相変わらず乱暴なんだからぁ」
 
 二人の心の奥深くに生まれた幸せの芽は、知らず知らずのうちにしっかりと根を張り、緑の葉を茂らせていた。
 
 草花が光った。
 春風が流れた。
 青空が笑った。

(了)



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