空の後ろで

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第五章 空の後ろで


「よいしょ」
 リュアが手を伸ばした。取っ手をつかみ、引っ張る。彼女が作り出した空のドアが、ついに開かれる時が来たのだ。
 ぎぎーっ……。変に重苦しい音を立てて、青いドアは少しずつ開いていった。ジーナはその機会を逃さず、両腕に均等の力を込める。
「今だ!」
 小舟はすっと前進した。まるで、春風の一部分と化したように。見えない空の波に乗って、新しい世界を目指して、舟の先端がドアに吸い込まれていく。
 辺りが強く輝き、まぶしくて目がくらんだ。そして次の瞬間、二人はすでにドアをくぐり抜けていた。
 表の空から、まだ誰も見ぬ空の裏へ。
 空の後ろへ!
 
「……ここは?」
 次第に目が慣れ、視線を動かす。遙か天上から下の方へ向かって、青、白、黄、赤へと変化していく天然のグラデーションが美しい。青だと思えばいつの間にか白へ。白だと思えば黄、黄だと思えば赤。色の変化がごく自然で、その間の境界などは存在しないように思えた。
「どこを見ても、空だけの世界」
 ジーナが静かにつぶやいた。リュアは何も言わず、こくんとうなずく。二人とも永遠に続く色の変化に魅了され、呆然としている。
 いきなり、目の前が真っ白になった。
「きゃあ!」
 驚くリュア。前に座るジーナの背中にしがみつき、恐怖で身を縮めている。瞼を閉じ、微動だにしない。
 一方、ジーナは好奇心に負けて、恐る恐る手を差し出す。
「何だろう? でも……この感じ、どこかで見た覚えがある」
 漂う白い靄の正体は何だかわからないが、爽やかで涼しげな印象を受けた。
 その時、何の前触れもなく、視界は元に戻った。ジーナは謎が解けた様子で、ほっとした笑顔を浮かべた。
 そして自分の後ろに座る友達を呼ぶ。
「リュア。ほら、見て」
「ん?」
 リュアが少しずつ目を開けると、音もなく遠ざかる巨大な白い物体があった。リュアはそれをじっと見ていたが、やがてぽんと手を打った。
「なるほどね」
「道理で、見覚えがあると思った。あの独特の白さは、テッテお兄さんがいた場所と同じ」
 ジーナが言った。
 そう。白いものの正体は雲だったのだ。
 空の後ろは、時間に応じて色を変化させる永遠のグラデーションと、流れる雲、たったそれだけの世界だった。他には何一つ存在しない。太陽さえ見えない。
 しかし殺風景というわけではなく、心が落ち着く場所だった。夏の木陰、冬の暖炉、母のぬくもり。それと同じ類の、深い安らぎを与えてくれた。
 空が見ている。空と触れあっている。空につつまれている! もはや時間を忘れて、このままずっと、空と一緒にいたい……地面と一緒にいる土筆のように。
「土筆?」
 ジーナが、かすかな声で言った。
「そうだった」
 リュアもふっと我に返り、コートのポケットから数本の道具を取り出した。色とりどりの土筆。テッテにもらった、雲塗り絵筆だ。
 リュアはそれを示し、訊ねた。
「ジーナちゃん。これから、どうする? 夕焼けに向かって少しずつ赤を濃くしていく、この空間をじっと見ているのも悪くはないと思うけど……」
「遊ぼう!」
 と、ジーナは開口一番に言った。微妙な間をおいてから、その理由を簡潔に説明する。
「せっかく、テッテお兄さんにもらったんだもん、不思議な道具たちを。しおれちゃう前に、使わなきゃ!」
「そうだよね。実はリュアもそう思ってたんだ」
 一つ年上の友達も同意した。方針は決まった。ジーナは、オールを握る両手に再び力を込める。
「よしっ、行くよ!」
 空のドアを離れて、青い小舟がゆっくりと動き出した。
 
「あれにしようよ」
 リュアが指さした。その先には、ふわりふわりと漂う可愛らしい雲が見える。巨大な雲から分離した切れ端のようだ。
「子供の雲だね」
 リュアはもう夢見心地で、自分までもがあの雲になり、のんびりと流されているような、とても穏やかな気分だった。
「よいしょ、よいしょ」
 大変なのはジーナである。リュアの示した雲を目指して、一心に漕ぐ。リュアの目的は、ジーナの目的でもあるのだ。いま、二人の気持ちは一つになっていた。
 リュアはポケットから雲塗り絵筆を取り出し、丁寧に撫でた。
「本当にこれで、雲を塗ることが出来るのかな?」
「きっと大丈夫……よいしょお!」
 漕ぎ手のジーナは顔が真っ赤だ。懸命に力を入れ、歯を食いしばっているためだが、それだけではない。夕焼けが、ジーナの頬をほんのり染めているのだ。
「やったやった。ジーナちゃん、やったよ!」
 リュアははしゃいで、飛び上がった。ぐらぐら揺れる小舟の目の前には、先ほどの、ちっちゃな雲が待っていた。
「ふわぁー」
 気が抜けて、ジーナは大きく息をついた。オールを手放し、そのまま前のめりに倒れ、力尽きてへばっている。
「よーし。リュア、実験してみるよ」
 やる気満々のリュアは、まずは紫色の絵筆を取り出すと、それを握ったまま雲に向かって水平に腕を伸ばした。
「上手く描けるかなあ?」
 このルデリア世界で、紫色は夢と幻とを象徴している。リュアは胸いっぱいの夢を託して、紫の絵筆でいくつかの円を描き、仕上げに緑色の筆を取りだした。
「こうして、斜めに線を引いて……出来上がり!」
「ヴーぅン」
 だるそうに低い声で唸りながら顔を上げたジーナは、リュアの作品を見るや否や、表情をぱっと明るくした。
「あっ。葡萄だ!」
「大当たりです。えへへ」
 リュアは、真っ白のキャンバスに描かれた自分の絵と、感心するジーナの顔を代わる代わる見つめて、はにかんだ。
「あたしも!」
 ジーナはいっぺんに元気を取り戻し、コートから数本の雲塗り絵筆を取り出すと、率先してお絵描きを始めた。
「ここなら、思う存分、落書きが出来るよ!」
 ジーナは時々筆を換え、自由自在に色を変え、さらさらと絵を描いていく。ルデリアでは紙の値段が高く、それでいて質もあまり良くない。紙に落書きなんて、もっての他。だからといって、家の壁に落書きすれば、当然ながら怒られる。
 とにかく、好き放題に絵が描けるなんて、滅多に出来ないのだ。嬉しくて仕方がないジーナは、身体が弾み、ついつい好きな歌を口ずさんでしまう。
「虹の橋を〜、空に架けて〜、遙か遠くへ想いを馳せる〜」
「ジーナちゃん、相変わらず器用だね」
 リュアは目を丸くして誉めたたえた。ジーナは虹の橋を描き終わり、そのまわりを薄い桃色で塗っているところだった。手先は手先で筆を縦横無尽に動かし、口は口で高らかに歌を唄っているジーナ。曲は、しだいに盛り上がる。
「希望はぁ〜、きーっと叶う〜。この〜旅路の〜果てで!」
 リュアは目をつぶり、ジーナの澄んだ歌声に聞き惚れながら、通り過ぎる風に夕暮れの涼しさを感じていた。
 空の後ろの国は、全てが赤く染まってゆく。ある辺りは炎のように、情熱的に。別の方角では、紅いパンジーの花びらのような、豊かな深い色合いを忘れない。
 休息するリュアをよそに、ジーナはまだまだ絵を描いていた。広場と噴水、三日月、兎……頭にふっと浮かんだものを、浮かんだままに描いていく。
 途中、ジーナはちょっと困った顔をした。腕を突き出したり引っ込めたりしながら、苦しそうにつぶやく。
「ちょっと遠いな」
 二人が乗っている小舟はその場にとどまっているのだが、雲はかすかな空気の流れに乗り、ゆっくりとした速さながらも動いている。舟と雲との距離が開いたので、ジーナは思いきり身を乗り出した。
 その時。
「わっとっと……きゃああ!」
 空気を切り裂くジーナの悲鳴。
 一気に傾く舟。
 リュアは嫌な予感がして飛び起き、すぐに青ざめた。
「どうしたの? あっ!」
 ジーナが舟の舳先をつかみ、それにぶら下がっている。彼女は、無理して身体を乗り出したせいで、バランスを崩し、舟から転落してしまったのだ。
「ううん……」
 なんとか這い上がろうとするジーナ。しかし、八歳の女の子の筋肉では高が知れている。運の悪いことには、さっきまで船を漕いでいたために腕が張って、疲れきっているのだ。
「駄目」
 楽天家のジーナも、この時ばかりはさすがに死にものぐるいの形相で、舳先をしっかりつかみ、なんとか舟に登ろうと力むのだが、顔が心持ち上がる程度で勢いは止まってしまう。
「ジーナちゃん、ジーナちゃん!」
 リュアは友の名を呼びながら立ち上がって小舟の先端へ駆け寄った。そして、どこまで続くのかわからない空の後ろの世界を見下ろして、めまいを覚えた。
「どうしたらいいの?」
 震える声で言い、突然のことに冷静さを失ったリュアは混乱する。思考も動作も凍りついてしまう。
「リュア、助けて……」
 這い上がろうと、勢いをつけてもがくジーナは、瞳いっぱいに涙を浮かべ、船上で待つ親友に助けを乞う。その間にも舳先をつかんでいる手は、じわりじわりと確実にしびれてくるのだった。
 ジーナの懇願を聞いて少し落ち着きを取り戻したリュアは、とりあえずしゃがんで、自らの手を垂らす。
「リュアが必ず引き上げるからね!」
 リュアはジーナを諦めさせないためにそう叫んではみたものの、引き上げる自信など全くなかった。場合によっては、自分さえ落ちてしまうかも知れない。
 しかし、何もやらないよりはましだった。リュアは必死に両手を伸ばし、ジーナの腕に重ねると、それを強くつかんだ。
「ジーナちゃん、頑張って!」
 おびえるジーナを励ますことも忘れない。リュアは、これから自分に掛かるであろうジーナの全体重を支えるのが不安で、次の言葉をためらったが、思いきって言った。
「ジーナちゃん! ゆっくり舳先を放してみて! リュアが、ジーナちゃんの腕を支えてるから、安心して!」
「……うん」
 普段からは想像もできないほど弱々しいジーナの声が、舟の下方から聞こえた。直後、リュアは自分の両腕がジーナの命をつかまえている責任の重さを感じた。
「うううっ……」
 負けるもんか。リュアは一瞬ふらついたが、両手に力を入れて安定を取り戻し、なんとかジーナの身体を持ち上げようと努力する。
 腕は持ち上げにくいな。とっさに判断したリュアは、ジーナの腕をつかみながら少しずつ自分の手を滑らせていき、最後は二人、手をつなぐ所までこぎつけた。お互い、手は全体的に冷えていたが、手の平には脂汗をかいていた。
「痛いよう、痛いよう……」
 肩の痛み、腕のしびれを訴えるジーナ。早くも、二人に限界が近づいていた。リュアのか細い腕でジーナを助けるのは非常に酷だった。
「ぐっ」
 それでも諦めず、後ろ方向に自分の全体重をかけ、大物の魚を一本釣りするような格好で、ジーナの命を自分の細い腕で釣りあげようとリュアは試行錯誤する。
 しかしジーナの身体は、時間が経つにつれて、だんだん持ち上がらなくなってきた。双方ともに疲れ果て、手は汗で滑り、力が抜けていく。
 あとは時間の問題となりつつあった。二人とも、もはや口を利かなかったが、それでも今まで通りの真剣な表情で、風前の灯火となってしまった希望を信じ、相手を信じ……万が一の可能性に賭けて、再び力を込めた。
 リュアが叫んだ。
「そうだ。鳥さん、鯨さん。リュアたちを手伝って!」
 空の航海で、小舟を先導してくれた青い鳥と青い鯨。空を薄く切り抜いて作った、動く切り絵。二人の作品。
 猫の手も借りたいような緊迫した事態だからこそ、リュアは鳥と鯨にも手伝ってもらいたいと思ったのだ。
 振り向きざま、リュアは絶句した。
「いない……」
 思い出してみる。船を造って、空を飛んで、ドアをくぐって、まぶしい光につつまれて……。そうだ、空の後ろに来たときから、すでに鳥も鯨もいなかった。
 別のことを考えてしまい、リュアは気が散った。その刹那。
 
 手が、滑り、
 手が、ほどけ、
 手が、離れた!
 
 リュアは舳先へ駆け寄り、瞳を大きく見開いて下を覗き込む。瞬間、落ちていくジーナと目が合った。そして遠ざかる。
 
「ああああーっ!」
 遅れて聞こえた、ジーナの悲痛な叫び。リュアは、はたと座り込んだ。まだ手のしびれが残っていた。声は出ない。熱い涙が、頬を濡らす。
 放心。
 ジーナちゃんを救えなかった、ジーナちゃんを見殺しにしてしまった……。助けることが出来なかった!
 自責の念が幼な心を傷つける。目の前に広がるのは暗闇の世界。リュアは身をかがめ、狂ったように泣き叫んだ。
「ジーナちゃーんっ!」
 
 希望がついえた、その数秒後。
「……」
 
「え?」
 リュアはふっと顔を上げた。
 空耳? いや、何かが聞こえた。とめどなく流れる涙はほったらかしのまま、リュアは震える声でその名を呼んだ。
「ジーナ、ちゃん?」
「……ァ」
「ジーナちゃん!」
 リュアは、汗と涙が混じり合って滅茶苦茶になっている瞳を、コートの袖でごしごし拭うと、舟の舳先から顔を出して、一縷の望みを胸に、下を覗いた。
「ジーナちゃん!」
「……ュァ」
 確かに。
「ジーナちゃーん!」
「リュアーっ!」
 聞こえた!
「リュアーっ、あたし、助かったよ!」
 遠くから響くジーナの声。真っ赤な夕焼け空の中で、ジーナが一心に手を振っていた。その親友は雲の上に立っている。
「この雲、乗れるんだー。すごく気持ちいいの。リュアもおいでよ!」
「よかった。本当によかった……」
 景色が潤む。リュアは緊張の糸が切れ、その場に突っ伏して泣き崩れた。

(続)



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