第四章 ローディ
「何から何まで、本当にありがとうございました。感謝します」
ルーグが代表して礼を述べ、右手を差し出す。がっしりした若者の手に、皺だらけの長老の手が重なった。
「幸運を祈る」
そして俺たちは並んで頭を下げ、長老の家を辞した。まぶしい太陽は天の坂道をだいぶ昇っていた。霧へと変わって谷を渡るノエラ河の後ろに見える、雲の白さと空の青さが懐かしかった。
マグラナの樹を離れ、秋草の花咲く野原を進んでゆく。ルーグは歩きながら、長老から返してもらった行商人の紹介状を背負い袋にしまっている。
道すがら、ふいにタックがつぶやいた。
「伝説となっている〈幸せの木の実〉は、どこにあるんでしょうねぇ」
長老は別れ際にローディの近況を教えてくれた。天才肌の詩人ローディは現在、この周辺を覆う広大な森のどこかにあるといわれる〈幸せの木の実〉を探しているのだそうだ……雫の谷を拠点として。
「さぞ、おいしいんでしょうね」
シェリアがぽつんとつぶやいた。
世代を越えて永く語り継がれている〈幸せの木の実〉は、長老いわく、形や大きさはりんごに似ているものの色は透明感のある青で、薄ぼんやり光を放つという。味は最高という他なく、それはそれは幸せな気分にひたれるらしい。もちろん新手の麻薬というわけではない、心身の健康にも良いのだそうだ。
さて、旅の醍醐味はこういうところにあるんじゃないだろうか。その地方でしか聴けない昔話、その地方でしか味わえない料理、その地方でしか体験できない何か……。俺たちは身を乗り出し、長老の語る伝説を真剣に聴いたのだった。
優しい草の匂いが風に乗って流れていく。澄みきった秋風は〈幸せの木の実〉のありかを知っているのだろうか。
「おいで!」
リンが快活に叫ぶと、木陰に隠れていた茶色の野兎はぴくりと震え、俺たちを警戒して一目散に逃げだした。
「あれは?」
右隣を歩いていたルーグが急に立ち止まって真面目な顔になり、草原の遠くを指さした。俺もそちらに視線を送る。
「ちょっと待って下さい」
タックはメモと首っ引きになっていたが、しばらくして顔を上げ、
「そうですね、方向的には合っています。たぶんあれですよ」
と胸を張った。
横からリンの声がする。
「あれがローディさんの家かぁ……」
俺たちはいつもの一列縦隊を崩して、好きな位置を好きなように歩いていた。草の原っぱには決められた道がなく、俺たちのたどった足跡が新しい道となりうる。俺たちは風のように自由で、どこをどう歩こうが俺たちの勝手だ。全ては委ねられている……狭い森の一本道では味わえない開放感だった。
俺が大海原を渡る船ならば、ローディの家はさながら沖の港町。ここと目的地とを結ぶ最短距離を大股でまっすぐ歩きながら、俺たちは今後の作戦を練った。
「全員で押し寄せたら、孤高の詩人はさらに心のドアを閉じてしまうのではないだろうか?」
というルーグの主張を、俺が補足する。
「芸術家って気むずかしいからな」
「リーダーの意見はもっともです。大勢で詰めかけても、すんなり受け容れてくれる相手とは思えません」
これはタックの弁。リンも賛同する。
「歌会で負けて出て行っちゃったような人なんだから、よほど気をつけて交渉しないとね」
俺が斜め後ろのシェリアの顔をのぞき込むと、彼女は驚いたように薄紫の瞳を瞬かせ、少し遅れてから、
「そうね」
とだけ言った。
俺たちは役割分担がしっかりしている。食事作りの中心となるのはリンだし、肉弾戦は俺とルーグ。色仕掛けが必要な場合はシェリアが活躍するのだろうし、会計や交渉事といえばおおよそタックだ。
今回の交渉役にもすんなりとタックが抜擢された。レンズの抜け落ちたボロ眼鏡をかけている親友に、ルーグは背負い袋から取りだした依頼人サバラの紹介状を手渡し、全員の命運を託した。
「頼んだぞ」
「僕に任せて下さい……と言いたいところですが、今回ばかりは正直不安ですね。とにかく、できる限り頑張ってみます」
タックの眼光が強まり、口元はわずかに緩んだ。あいつは困難な事態に直面すれば直面するほど、その状況を楽しんでしまうという、すごいやつなのだ。
そうこうするうちに目的地へ到着した。堅物婆さんの家と変わらない、丸太作りの質素な住居だ。草葺きの屋根はやはり苔類がびっしりと埋め尽くしている。
タックは念のためズボンのポケットから四つ折りのメモを取り出した。長老の幻影図でローディの居場所を教わった時に書いた簡素な地図だ。タックのメモ用紙は極度に質が悪いため、雫の谷の湿気を吸い込み、すでに変色を始めている。
やつは太陽を見上げて方角を調べ、再び視線をメモに戻した。そして、これがローディの家であることを確信すると、目で合図した。
「ローディさん、いるといいね」
この小声はリン。
「〈幸せの木の実〉を探しに、森へ出かけてるかも知れねえもんな……」
と、俺。
代表交渉人に指名されたタックは、上着の袖で口を押さえながら一度〈コホッ〉と咳払いをし、ささやいた。
「じゃあ、行って来ますよ」
ルーグがしっかりとうなずき、シェリアは何も言わず軽く頭を下げた。リンはこぶしを握りしめる。
「よろしくね」
「はい。皆さんはここで待機していて下さい。状況に変化があったらお呼びしますので、その時はお願いします」
タックはそう言い残し、ローディの家の玄関らしきところに立った。玄関とはいっても古ぼけた木製の戸があるだけだ。ローディの家には窓がないため、彼と外界とをつなぐ唯一の橋渡しをしているのが、この一枚のドアなのだ。
「すいませーん」
タックの声は明るく、付近一帯に響き渡った。もしも中にローディがいれば絶対に届くはずの声だ。
が、反応はない。
屋根を伝って大きくまとまった透明の水滴が、まるでタックの侵入を拒否するかのように、彼の頭上へぽつりと垂れた。
「ローディさん、いらっしゃいますか?」
再度、タックは呼びかけた。やや語調を強めている。
しかし依然として返事はない。
「ローディさん、入りますよ」
言いながら、やつはドアの取っ手をつかみ、ゆっくりと引っぱった。木のドアと丸太の壁の間に細い隙間が生まれ、しだいにそれが太くなる。鍵はかかっていない。
タックはするりと入り込み、手早くドアを閉めた。
「ローディ、居るのか? 見えた?」
ルーグに訊ねると、彼は険しい顔つきのまま静かに首を振った。
「わからない。とにかく私たちに出来るのはタックの帰りを待つことだけだ」
「そうそう。タックが戻って来れば全てがわかるから、今は辛抱強く待とうよ」
リンはやけに子音を強調してつぶやきながら、その場にしゃがみこんだ。姉のシェリアは、背中にかついでいた皮袋を地面に置き、その上に腰かけた。
「リン、ちゃんと座っちゃえよ。変な体勢だと足が疲れるぞ」
そう言って豪快に腰を下ろすと、リンは顔をしかめた。
「だって草が湿ってるんだもん。それに土も少しぬかるんでるし」
ここ数日、歩きまくっているせいで、休憩があるとすぐに足を休めたくなる。ルーグも俺と同じようにどっかりと座り込み、湿った草を気にせず足を崩した。
リーダーの彼は、俺とリンの顔を交互に見すえながら、唇に人差し指を当てて〈静かに〉という意志表示をした。
普段はシェリアが一番に騒ぎだすのに、あいつは未だに沈んでいた。これほどあいつが沈んでいるのは前例がなかったので、俺は困惑していた。真夜中に逃げ出そうとしたリンの行動は俺を心の底から動揺させたけれど、騒々しかったシェリアが黙り込んでいるのも非常に不気味だ。何となく嫌な予感がする。
昨日の午後、リンが魔法を使いまくって倒れたところから、どうもしっくり行っていない。あれ以来、リンが気絶したことについて誰も語らないし、元気のないシェリアの話題も避けている。
お互いがお互いの様子を気づかうのはいいことだけれど、過敏になりすぎるのは良くない。そのため人間関係がぎくしゃくしている。
それにしてもシェリアは、冒険者をやめようとした妹の突然の行動がよほどショックだったに違いない。
でも、言ったあとでそんなに後悔するのなら〈冒険者やめろ〉なんて言わなきゃいいのに。確かにルーグに怪我を負わせたリンだって悪いけどさ、わざとじゃないんだから仕方ねえだろう。
昨日の昼間を思い出し、俺は再びシェリアに対して怒りを覚えた。
「……ンス? ケレンス?」
誰かが名を呼び、思考の流れは寸断される。はっと気づいて顔を上げると、
「あ?」
怒りの矛先であるシェリアが、目の前で所在なさげに立ちつくしていた。
「ケレンス、ちょっといい?」
「何だよ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、こわばった顔をしていたシェリアを下から鋭く睨みつける。彼女の視線はやたらと不安げに泳いでいた。
「話があるんだけど。ここじゃ言いにくいから移動してもらえないかしら?」
シェリアは早口で喋り終えると急に黙り込んだ。直立の姿勢を保ったまま微動だにせず、俺が来るのを待っている今のシェリアは、まばたきだけを繰り返す等身大の人形だ。
何らかの覚悟がうかがえたので、特に逆らわずシェリアの言葉に従おうと決めた。相手を睨みつつ、両手で勢いをつけて一気に立ち上がる。
少し遅れて、ルーグとリンが心配そうに首をもたげた。
シェリアは少し離れたところにある背の低い樹を指さす。
「あっちの方に行きましょ」
その樹にも不思議な果実がたっぷりなっていた。朝飯代わりにつまみ食いした黄色い実の、さっぱりした味を思い出す。
シェリアは無言で歩き始めた。足下の起伏に注意しながら長い髪を追う。一筋の風は草原を撫でて通り過ぎ、ローディの家がわずかに遠ざかった。
「ここでいいわ」
俺たちの背丈とさほど変わらない小さな樹の陰に立つと、彼女は振り向いた。緊張感のあふれた真剣な眼差しだ。
俺とシェリアは向かい合ったまま、しばらく見つめ合った。じっと見ているうちに、薄紫の瞳の中へ吸い込まれてしまいそうな印象を受けた。
「ちょっと頼みがあるんだけど」
はっきりした声で、シェリアはそう切り出した。彼女がこれからどんな話をするのか俺は直感で何となく分かったが、とりあえず黙っておこうと思った。
「何だよ」
面倒くさそうに言うと、相手は目を逸らして顔を曇らせた。
少し語調を弱め、彼女は続ける。
「リンローナのこと、聞いたわよ」
やっぱりそうか、と内心うなずいたが、言葉はわざと平静を装う。
「リンのこと?」
「ねえ、あの子、冒険者やめようとしたんでしょ?」
シェリアはかすれ声でひそやかに語った。そういう様子を何だか可哀想に思いつつも、シェリアに傷つけられたリンのことを考えると甘やかしてはいけないという気持ちも起こったり……心中は非常に複雑だった。
「よく知らねえな」
という俺の回答を全く無視し、目の前の女魔術師は矢継ぎ早に質問する。
「やっぱり私のせい?」
「あんたの胸に聞いてみろよ」
言い放つ俺。
するとシェリアはさらに表情を険しくし、口をつぐんでしまった。俺はちょっぴり後悔した……もしかしたら言い過ぎたかも知れねえな。相手の出方を見守る。
シェリアはかみしめていた唇を少し開き、何かを言おうとしたが、何も言わぬまま再び閉じた。
そしてもう一度開けた。
「ねえケレンス」
「何?」
やや落ち着きを取り戻して、柔らかな声を出す。これ以上シェリアを刺激しても得るものはないだろう。
シェリアはすがるような目で俺を見た。
「リンローナと仲いいでしょ?」
「どういう意味だ?」
俺の疑問をほったらかして、シェリアは自分勝手に話を進める。
「お願いだから、リンローナに謝っておいてくれない? 気持ちが高ぶっていた時につい出てきちゃった言葉だから気にしないで、って伝えてよ」
それを聞いた俺は突如、頭に血が上った。こいつ要するに俺を利用しようとしているんだな? 人任せにして急場をしのごうなんてあまりにも都合が良すぎる。
鋭く反論した。
「おいおい、あんたの妹だろ? 何も俺を仲介としなくても、あんたが自分で謝ればいいじゃねえか」
するとシェリアの表情が変化した。明らかに狼狽している。断られるとは予想だにしなかったのだろう。
彼女は疲れきった顔のまま考え込んだ。何か言い返すべき言葉を探しているのだが見つからない、という困惑した状態のように見えた。
「違うのかよ?」
反応がなかったので俺はつい調子に乗って問いつめてしまった。
するとシェリアは顔を真っ赤にして捲し立てた。
「何よ、ちょっと代わりに謝ってくれるくらい、いいじゃない。けちんぼ!」
そう怒鳴られると、俺の冷静さは完全に吹っ飛んだ。負けずに言い返す。
「ああ俺はけちでも何でもかまわねえよ。実の妹に謝ることさえできない、誇りの高すぎる姉貴よりはましだからな!」
そう言い捨て、くるりと向きを変え、胸を張ってその場をあとにする。シェリアは、もはや何も言わなかった。
ローディの家の方へ戻ると、すぐにリンが首を回して振り返った。澄んだ薄緑の瞳はどことなく寂しそうな光を放っている。
ルーグは一瞬、俺を見上げただけで無言だった。空気が俺の両肩を押さえつける。ひどく重苦しい雰囲気だった。
タックはまだいなかった、つまりローディは在宅なのだろう。今日は〈幸せの木の実〉探しには行かないのだろうか。それとも俺たちの訪れが早かったから運良く家にいたのだろうか。
耳を傾けると屋内から確かに男の喋り声がするものの、よく聞き取れない。
「お姉ちゃん、来ないね」
ぽつりとリンが言った。ルーグは超然とした様子で座ったまま、ゆっくりと腕を組んだ。俺は黙っている。
微風がやんだ。ローディの家の軒先から、まっすぐに雫が落下する。
「お姉ちゃん、来ないよ?」
リンは微妙に語調を強めた。その言葉が胸につきささる。ルーグは静かに目を閉じ、獣のように低く唸った。
「様子、見てくる」
三度目にリンが腰を上げると、ルーグが素早く立ち、相手を右手で制した。
「私が見てくる」
「……わかった」
リンが力無く座るのと同時に、ルーグはしっかりと歩き出した。途中まで行くと急に立ち止まり、俺たちに再度告げる。
「ちょっと行って来る」
「すまねえな」
ふてくされてつぶやくと、彼は優しく言い残して、また歩き出した。
「気にするな、ケレンス。大丈夫だ」
大きな背中がしだいに遠くなり、ついに樹の陰へ隠れて消えた。それまで俺もリンも口をきかなかった。
リンは空を仰いで、独り疑問をつぶやく。
「お姉ちゃん、朝から元気なかったみたいだけど……何かあったのかな?」
その話し方はのんびりしていたが、明らかに俺を意識しているように思えた。
黙っていると、リンは俺の正面に移動し、目を見ながら言った。
「何かしたんでしょ?」
観念して本当のことを話す。
「朝方、タックに注意してもらった。言葉には気をつけろ、ってな」
「どうして、そんなことをするの?」
リンの声はなぜか小刻みに震えていた。俺はやつの言葉を笑い飛ばす。
「くっくっ……なんだよそれ。シェリアがお前に対して、傷つけるようなことを言ったから、タックに頼んでわざわざ注意してやったんだろ?」
するとリンは下を向く。
「お姉ちゃんは見た目ほど強くないよ」
しだいに俺はいらついてきた。リンは何を言ってるんだ? リンは何が言いたいんだ? リンは何を考えているんだ?
つい、意地悪な口調になる。
「あれだけ罵声を浴びたのに、お前、よくそんなことが言えるな。ちょっとおかしいんじゃねえ……」
「ケレンスの馬鹿っ!」
突如、リンが鋭く叫んだ。二つの瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちている。俺は激変するリンの様子にとまどわざるを得なかった。頭の中が真っ白になる……何ものも存在しない、永久に白銀の世界。
恨みのこもったようなリンの燃えたぎる視線は全て俺に向けられている。かつて見たことのない厳しい視線だ。俺の心はその視線に射抜かれて完璧に休眠した。涼しかった風がいやに生暖かく感じる。
続けざまに吐き出されるリンの言葉が、ますます俺を困惑の淵へと追いやった。
「ケレンスは、お姉ちゃんのこと、ぜんぜん分かってないよ! それから、あたしのことも!」
――分かってない?
俺は返事しようとして口を開いたが、何も言えずに絶句した。
何を言えばいいんだ?
俺は泣き続けるリンを前にして、もはや何もしてやれなかった。
――分かっていないって、何が?
分かってないと言われても、何が分かってないのかさえ分からないのだから、分かろうとするためにどうしたらいいのかも分からない。つまり何もかもが分からない。
今まで何をしてきたのだろう? 何も分かっていないじゃないか。
――そうだ、俺は何も分かっていない。
唯一分かるのは自分の感情が激しく動揺しているという事実だけだ。でも怒っていいのか泣けばいいのか分からない。
リンは手のひらで顔を覆い、とどまることを知らない悲嘆にくれていた。その様子を、どこか遠い国のお伽噺を読むような現実離れした感覚で眺めている俺。
向こうの樹の陰から痛々しい叫び声が、まるで稲妻のように響いてきた。
「私が冒険者やめるわ! 私みたいな役立たずこそ、やめるべきなのよ!」
シェリアの声だ。
俺は呆然と座りこんでいた。今ごろ目が濡れてくる。明るい草原の景色が涙の中に封印され、かすかに揺れはじめた。
「ごめんなさい……」
リンは次に自分を責めだした。さっきまでのように荒れた状態は過去のものとなり、声を押し殺してしんみりと泣く。やつは布きれを取りだして目のあたりを押さえ、延々と謝り始めた。
「ケレンスはあたしのことを本当に心配してくれたのに、あたし、ひどいこと言っちゃった。ごめんね、ごめんね……」
俺は何か言わなければいけないと思ったが、やはり何も思い浮かばなかった。
これまで生きてきた十七年の中で、自分の無知と無力さをこれほど痛感させられた時はなかった。リンの言った通りだ、俺はなんて馬鹿だったのだろう。シェリアを傷つけ、そのうえリンまでも同様に傷つけてしまったのだ。
リンは無雑作に髪をかきむしりながら膝をかかえ、激しく首を振る。
「あたし、もうどうしたらいいのか、分かんないよ……」
俺も同じだった。
でも何とかしなきゃ駄目だ、と自分を励ました。悲しみを交換して、寂しさを分かち合いたくて、夢中でリンの頭の上に右手を置いた。
すると、世界がちょっとだけ明るくなったような気がした。沸騰した体が、心が、だんだんと冷やされていく。リンも少しずつ落ち着いていった。
「もう大丈夫。ごめん」
柔らかなリンの声を聞くに及んで、やつの頭の上に置いていた手をそっと離した。俺の涙は完全に乾いていた。やつも、もう泣かなかった。雫の谷の湿り気だけがいつまでも体の奥に残っていた。
涙を拭いて鼻水をすすってから、リンは普段の声で最後にこう呼びかけた。
「でもねケレンス、一つだけ覚えておいて欲しいんだ。お姉ちゃんのことは悪く思わないで!」
「……」
俺は黙り、リンが話を続ける。
「理由はすごく簡単なの」
ごくり、と唾を飲み込み、小さく息を吸って、やつはひとつひとつの単語をすごく大切にしながら説明した。
「あたしの、ただ一人のお姉ちゃんだから」
リンは俺の顔を覗き込んだ、そして雲の切れ間から太陽が顔を出すようにパアッと表情をほころばせた。
「ねっ?」
「あ、ああ」
うなずくのが精一杯だった。またもや目の中が熱くなってきたからだ。
そして俺らはまぶたを閉じ、草原の風に身を任せて遠くへと想いを馳せた。優しい風をつかみ、どこへでも飛んで行けるような、夢の中をさまようような、とても気持ちのいい感覚にとらわれた。
いつしか大地を踏みしめる人間の足音が聞こえてきた。ゆっくりと誰かが近づいてくる。話し声は聞こえないが、間違いなく複数の人間だ。
ふいに足音が止まり、俺は目を開けた。
すると広い草原を背景にして、疲れ果てた顔のルーグと、真っ赤に泣きはらしたシェリアが立っていた。
ルーグは淡々と語った。
「どうも最近、みんなの考え方が変わってきたのではないだろうか。今回の冒険が終わったら、私たちの今後について全員でじっくり話し合おうと思う。場合によっては解散もあり得るだろう」
「解散?」
ルーグの言葉を繰り返す。
それを理解した瞬間、俺は背中から血の気が引いていくのを感じた。隣ではリンが文字通り目を丸くしている。
俺たちは今まで順調にやって来たつもりでいた。少なくとも俺はそう考えていた。しかし見えないところで〈しこり〉はたまっていたのかも知れない。
しんしんと降り積もった粉雪が大規模な雪崩を引き起こす……脳裏に浮かんだのはそういう図だった。緑の草原が銀色の波に呑まれて消えてゆく。
「明日の夕方まで、各自、今後の身の振り方を考えておいてくれ」
「そんなのって……」
リンはルーグに詰め寄る。しかし彼は相手の目を凝視して、力無く言った。
「あとはメンバーの考え方しだいだ」
虚ろな目をしていたシェリアは、がくんと膝の力が抜け、衣服が湿るのも気にならない様子でその場に座った。
危機は突然、やって来た。今まで幾度となく小競り合いはあったけれど、本当の危機は初めてだった。作り上げるのは大変なのに、崩壊する時はあっという間なんだな……俺は虚しく思った。
しかし現実味が乏しい。どこか遠い国の戦を人づてに聞いているかのようだ。一年以上、朝から晩まで顔をつきあわせてきた仲間たちと離れるなんて、全く想像できない。あいつらは俺の一部であり、俺はあいつらの一部なんだ。
ルーグはゆっくりと地に腰を下ろした。リンも、やり場のないたくさんの思いを小さな胸に秘めて、しゃがみ込んだ。
俺の瞳も、今のシェリアのように曇り、何ものをも映していないのだろうか。鏡があれば覗いてみたい、という変な気分に満たされたが、俺はようやく自分を取り戻し、起こってしまった事態をなるべく前向きに考えようと努力した。
町から町へ。故郷を離れて旅を続ける俺たちの心は、気づかぬうちに確実に蝕まれていたのだろう。惰性のままここまで来てしまったけれど、もっと本音で語り合う機会が必要だったんだ。
俺は〈それがたまたま今回来ただけなのだ〉と何度も自分に言い聞かせた。
そうだ、どの道、いつか必ずこうなった。
明日の晩……まだ一日以上ある。その間にシェリアの気持ち、リンの気持ちが好転することを願った。こういう時ばかり神頼みするのはずるいかも知れねえが、天界にまします創造神ラニモス様と聖守護神ユニラーダ様に強く願った。
それでも不安は消えず、むしろどんどん深化していった。樹が根を張るように、心の底へ不安の根が伸びていった。
太陽が薄雲に隠れ、また姿を現した。風が草原を撫でていった。土の匂いは暖かく、向こうの森は懐かしかった。永遠の虹は七色の光をたたえていた。
しばらくしてから、谷の遠くを眺めていたシェリアが高い声で歌い始める。
「知らない街まで
歩いてゆこう、幸せさがしに
希望は、きっと叶う
この旅路の果てで……」
それからなめらかなハミングで間奏を歌う。シェリアは妹のリンとは違って、音感は悪くない。美しい歌声はまるで平和の誉め歌。雫の谷の湿り気を凌駕して、谷全体を満たしていく。
シェリアの歌声はこれほどまでに綺麗だったろうか……俺はにわかに感動し、背中や両腕に鳥肌が立った。
彼女の歌は続く。
「輝く陽の光、この道を照らし出す
丘を越え、森を越え
道は果てしなく続く
今こそ手にしよう
木洩れ日の描き出した旅の地図
ずっと信じてた」
シェリアは陶酔しきったような顔で歌い続け、やがて一番を終えた。一番から二番への間奏でリンの鼻歌が加わる。
リンは姉の音程をしっかり聴いて声を合わせたので、いつものひどさはどこへやら、ちゃんとした歌になっていた。普段は気にならなかったものの、二人はさすが姉妹だけあって声質が良く似ていた。目をつぶると、まるで一人が歌っているように聞こえた。
姉妹はそのまま斉唱で歌い続け、二番の盛り上がる部分に突入した。
「悲しい気持ちを
偉大な森の木々に預けたら
優しさ取り戻……」
突然、姉妹の後ろにあった木製のドアが開き、歌は中断を余儀なくされた。
意を決して振り向く。
背筋を伸ばして立つ、若い男。アネッサ村の産んだ偉才、孤高の詩人。歌会で五回連続優勝を逃し、雫の谷へ引っ込んだ二十二歳。伝説の〈幸せの木の実〉を探している夢追い人。
もっと痩せているかと思っていたが、ローディは俺の想像していたよりずっと顔色が良く、健康そうに見えた。雫の谷に生えている新鮮な実のお陰だろうか。けれど手足や体の作りは非常に華奢だ。
彼の両眼は神秘的な光を放っている。背はルーグと同じくらい……つまり俺よりも高い。髪はあまり整えられていない。
俺たちは微動だにせず、彼の発言、あるいは行動を待った。
ローディは緩やかに俺たちを見回し、気が済んだところで第一声を発した。男にしては甲高い声だ。
「今のは何の歌ですか」
予期せぬ言葉だったので、姉妹の心を長く覆っていた緊張感がぷつんと途切れ、二人は顔を見合わせて吹き出した。
ローディの表情が険しくなる。
「何ですか、失礼な」
「申し訳ありません」
リンは軽く会釈して謝ると、ごく丁寧な口調で説明を始めた。さすがは高名な船長の次女、教養は申し分ない。
「さきほどの歌は、あたしたちのお母さんが大好きだった歌です。寝る前によく歌ってくれたんだ。いい歌でしょう?」
リンの話が終わるとシェリアも一礼した。ローディは無表情で感想を述べる。
「悪くないですね」
俺はせっかく感動していた姉妹の歌を〈悪くない〉などと低く評価されて頭に来たが、こいつは歌の専門家で耳が肥えているんだから仕方ない、と割り切って気を静めようとした。
ローディは講評を続ける。
「曲は悪くないと思いますね、内容の薄い世俗曲ですけれど。問題はお二人の歌唱力でしょうが、聴いていて何故か気分が良かったですね。大して上手いわけではないのに」
「この……」
あまりの高圧的な物言いに、俺は頭に来て立ち上がろうとしたが、
「待って」
とリンが左手で制止したので、沸き上がる怒りを抑えつけ、どうにか耐える。
すぐにリンはローディへ向き直り、嬉しそうに笑みを浮かべて言った。
「精一杯、心をこめているからね」
「心?」
ローディは眉間にしわを寄せた。彼の態度から感じるのは懐疑的な雰囲気だ。リンの言ったことを小馬鹿にしている。
「そう、心だ」
ルーグが一歩前に出て、堂々と語る。
「二人の心がこもっているから、想いが届くんだ。君はあの歌が気になったから、わざわざ家から出てきたんだろう?」
「あんな歌なんか……」
と口ごもるローディに、ここぞとばかりシェリアが追い打ちをかける。
「そう、心よ。私の心を全て歌声に乗せるの。すると聴いている人たちへ私の思いは届くのよ、面白いほどね」
「世俗曲でも伝承歌でも関係ないよ。素敵な歌は必ず世間に評価されるから」
リンが胸を張った。少しずつローディの表情が変化していくのが見て取れる。
「歌は技術じゃない、心だ」
ルーグの言葉がとどめをさす。ローディは明らかに動揺していた。わずかに震えていた声が、それを証明していた。
「心だと?」
そして俺たちはローディを説得するという一つの目標へ向かって意見を集約する中で、再び急速にまとまっていった。
「……」
ついにローディは考え込んでしまった。これ以上、この線で粘るのは危険と思って、あっさり話題を変える。
「ローディさんよ。森の中にある伝説の〈幸せの木の実〉は見つかったのか?」
「ローディ先生は〈幸せの木の実〉を見つけることによって新たな霊感を受け、素晴らしい歌を作り、アネッサ村の歌会への復帰を考えておられるようです」
いつの間に現れたのか、見慣れた男がローディの脇から顔を出していた。その男……タックはきわめて慎重な言葉遣いを用いた。両眼は任務に燃えている。
ローディはちょっとだけ素直になった。
「伝承されている〈幸せの木の実〉を見つけ出すまで、僕は絶対にアネッサへは帰りません。それを見つけ、伝承歌の新曲を作るのです。そうすれば優勝は堅い」
「こんな辺境で冬を迎えたら、お前は人間的に腐っちまうぞ! 負けたっていいじゃねえか、何度でも挑戦すれば!」
立ち上がり、きつく言い放つと、ローディはさも不愉快そうに俺を睨んだ。
その状況を和らげたのはリン。
「幸せの木の実は広大な森の中で探すものじゃないと思うよ、ローディさん」
「じゃあ、どこにあると言うんです?」
食ってかかったローディへ、シェリアが溜め息まじりに優しく声をかける。
「さっきから言ってるじゃないの」
「心……か?」
ローディは絶句した。上手いぞ、これでさっきの話とつながったわけだ。仲間の助け船に深く感謝する。
声の調子を下げ、リンは静かに語った。
「自分の心の中に幸せの木を持っていない人の前には、伝説の木の実はいつまで経っても姿を現さないと思うよ……」
ローディは呆然とした表情を崩さない。彼の周りだけ時間が止まったかのようだった。
やがて彼は一歩、二歩と後ずさりし、ゆっくりドアを閉めた。
その瞬間、残された俺たちは一斉に肩の力をぬいた。安堵感が広がる。
「どうだったのかしら?」
シェリアが素朴な疑問をつぶやいた。そういえばさっきの一件で、いつの間にやらシェリアは普段の饒舌さを取り戻し始めていた。
ルーグは腕を組み、しきりにうなずく。
「言いたいことは言った、これで駄目なら駄目だろう。まだ時間はあるから、タックの説得工作を待ってみよう」
「そうだな」
俺はいち早く彼に賛意を示し、座りこんで足を投げ出した。リンやシェリア、ルーグも次々に腰を下ろす。
仕事を終え、アネッサ村の歌会を見物し、我を忘れて大はしゃぎする……仲間たちにとって一番必要なのは、疲れている心を解き放つことだ、と俺は思った。
タックを待っている間、代わる代わる幼い頃の話をした。誰かが話している間は割り込まず、話者の言葉を真剣に聞いていた。笑いはほとんど起こらず、話はごく静かに進行した。
そのうち正式に順番を決め、昔話を楽しんだ。時折〈へぇー〉〈ほぉー〉などと合いの手を入れながら、俺たちは仲間の前に自分の過去をさらけだした。
空腹も気にせず話し込んでいると、急に風が涼しくなった。空の太陽はだいぶ傾いていた。
絶望こそ感じなかったが、少々嫌な気分でローディの家に向かい、俺は怒鳴った。
「タック! いい加減、行こうぜ。そろそろ村へ帰らないと陽が沈む」
「ちょっと待って下さい!」
中から親友の声が聞こえたきり、辺りには再び永遠とも思える静寂が戻った。
それからしばらくしてドアが開く。
「お待たせしました……帰りましょう」
タックは疲れきった顔をしていた。
やつが一足、歩を進める。
その後ろに人影。俺は目をこすった。
確かだ。大きな荷物を背負った華奢な男がうつむきがちに立っている。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
そしてその男――ローディは顔を上げ、はっきりと、こう言ったのだ。
「僕も連れて行って下さい」
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