第五章 アネッサ村
村の娘の巻き毛に映える髪飾り。農夫が履いている、良く磨かれた立派な黒い靴。洒落た帽子を被った壮年の旅人。
「待ってよ!」
母の裾をつかみ、幼子は悲鳴をあげた。
人々のすさまじい熱気が辺りを飲み込んでいる。秋の夜とは思えない気温の高さだ。歓声が、怒号が、罵声が、そして黄色い叫びが飛び交っている。
アネッサ村の中央にある、その名も〈歌会広場〉は、秋の歌会を見に来た聴衆で埋まり、ぎゅうぎゅうだ。気をつけていないと押し流されてしまう。
村役場の者が必死に声をあげている。
「男爵の馬車が参ります! 道をあけて下さい!」
そんなことを言っても無駄だ。聴衆の騒ぎぶりはなおも激しくなり、歌会の開始を今や遅しと待ちかねている。
食べ物を焼くいい匂いが運ばれてくる。すでにでき上がっている中年男たちは酒臭い。たまに吹いてくる夜風の心地よさ……額と背中にびっしり浮かんだ汗の粒が冷やされる。
「おめえは誰に?」
「もちろんサバラ。本命バリバリよ」
若い男たちが小声で話している。歌会の優勝者を賭けたギャンブルが公然と行われているのだ。
また向こうから人波が来て、女の悲鳴が上がる。俺は変な方へ流されそうになったが、どうにか踏みとどまる。
「すご……盛り……だ……」
横のルーグが何かつぶやいたが、周りが騒がしくて聞き取れない。
「ああ?」
顔をしかめると、ルーグは俺の耳元で、さっきよりも一回り大きな声で言った。
「すごい盛り上がりだな!」
「ああ!」
今度は思いきりうなずいてみせる。
「はぐれちゃいそうだわ!」
シェリアはずっとルーグの手を握っている。秋の星座きらめく夜空を仰いでいるタックは、背が低いので息苦しそうだ。
そういえばさっきから緑色の頭が見えない。俺は気になってシェリアに訊ねた。
「リンは?」
「そこに居たはずだけど……居ない?」
「居ない!」
あのちび、どこへ流されたんだ?
「ちょっくら捜してくるぜ!」
俺は人混みをかき分けかき分け、もと来た方へ逆戻りし始めた。
タックが向こうで叫んでいる。
「ケレンスー、無理ですよ! あぁ〜」
タックの方こそ、もみくちゃにされてしまった。額の汗を右手で拭きながら小走りすると、群衆の海の中で頭一つ飛び出していたルーグの姿が遠ざかる。
「あの野郎、どこ行ったんだ?」
焦って捜すが、タックも言った通り、この人出の中では限界があった。
「では、まもなく歌会が始まります!」
中年の司会者が言った。その声は拡声魔法で広場の隅々へ送られる。てんでに騒いでいた群衆から沸き起こった大きなどよめきが地を揺らし、天へとどろいた。
「いよいよか……」
故郷ミグリ町の祭りを思い出して歌会の雰囲気に酔いしれそうになったものの、邪念を断ち切り、必死に迷子を捜す。
「居た!」
緑の頭が動いている。周りの人にぶつかりながら無理矢理その場所へ移動し、肩をつかむ。
「リン!」
その女の子が振り向くと、
「あ……」
俺の声は落胆に彩られた。
「ごめんな」
簡単に謝る。それは十歳くらいの、見ず知らずの女の子だった。
「さあ、待ちに待った秋の歌会です!」
司会者が大声で叫ぶ。再びどよめきが重なって膨らみ始めた。
直後、会場の後ろ側で何発もの爆発魔法が打ち上げられ、天に明るい花を咲かせる。
歓声が最大音になり、俺は耳をふさいだ。その歓声の中で司会者が宣言した。
「ついに開始です!」
さかのぼること一日。
雫の谷を発った俺らがアネッサ村へ着いたのは、夕焼けが綺麗な頃だった。地平寄りは赤、その上へ黄色い空、青い空が乗り、天頂付近はもう暗かった。帰りは沼の主イヴェンラに襲われることもなく、とても穏やかな道のりだった。
朝から沈んでいたシェリアだったが、帰り道はいつも通りの元気さをほとんど取り戻していた。草原で見た彼女の横顔と、素朴な言葉が今でも心に残っている。
「私って本当に駄目よね、いつも素直になれなくって……」
風に溶けてしまいそうなほどかすかに、だが確かに、シェリアはそう言ったのだ。シェリアもシェリアで色々考えているんだ、ということを今さらながら気づき、俺は未熟な自分自身に対して感じた強い怒りをひそかに抑えねばならなかった。
リンは他人に優しさをふりまくことで、シェリアは他人に厳しく当たることで自分の存在というものを守ってきた。その防衛手段が一度壊れてしまえば、シェリアはむしろリンなんかよりずっと弱いのかも知れなかった。
そういやリンも言ってたっけ、お姉ちゃんは見た目ほど強くはない、って。
リンはいつも元気、シェリアはいつもわがまま、という俺のこれまでの印象は、今回の旅でがらりと変化した。人間の性格なんて、そんな単純に割り切れるものじゃねえんだ……。
とにかくアネッサへ到着した俺たちは、ローディの家へ不必要な荷物を置いたあと、旅の疲れを癒すため村はずれの温泉へと赴いた。歌会を明日にひかえ、男女別の湯は相当混み合っていたが、もろもろの旅の汚れを洗い流し、さっぱりと気分転換することができた。
一っ風呂浴びた俺らは、その足でサバラの家を訪問した。歌の練習を中断して出てきてくれた彼は、ローディの姿を見ると感極まったのか男泣きに泣いた。ローディもライバルの優しさに胸打たれ、潤んだ目をしきりに拭いていた。今回の一件でローディはだいぶ人間らしさを取り戻したようだった。
それから、前夜祭をしていた通称〈歌会広場〉の露店で夕飯を買い込み、ローディの家で食事を摂った。
アネッサ村のローディ宅は、一人暮らしなのに四部屋もある立派な家だ。内訳は書斎、居間、客間、寝室。彼の好意で居間と客間を開放してもらい、俺たちは寝る準備をした。
半年間もほったらかしだったので各部屋はさすがに埃っぽかったが、それでも暖かい屋内で眠れる喜びは格別だった。俺とルーグ、タックの男三人は居間の中央に寝袋を三枚並べて敷いた。
まだ就寝には早い時間だったけれども、部屋のランプを消すと旅の疲れが一気に出て、深い眠りへと堕ちていった。
目が醒めた時はまだ真夜中だった。夜番の癖でつい目覚めたのかも知れない。しんと静まり返る村の遠くから、酔っぱらいの騒いでいる声が流れてきた。
そして家の中には、南方伝来のメフマ茶らしき香ばしさが漂っていた。気になって寝袋を抜け出し、上着を羽織り、香ばしさの素を調べるために狭い廊下へと急いだ。
すると、あちら側からランプを持った黒い影が近づいてきた。背は低めだ。
「……誰?」
相手は立ち止まり、かすれた声で訊ねた。俺を亡霊と勘違いしているのだろう。
小声ですぐに返事をしてやる。
「俺だ、俺」
「なんだケレンスかぁ、びっくりしたなあ。こんな時間に何やってるの?」
予想通りリンだった。ここで立ち往生しても風邪をひくだけだから、俺は寝ぼけ眼をこすりながらも割と早口で応えた。
「目が醒めちまった。お前こそ、こんな真夜中に何してんだ?」
俺は不信感をあらわにした。この廊下の向こうには書斎しかない。お茶はそこから香ってくる。全く訳が分からない。
しかし心配するまでもなかった。リンはあっけなく事実を説明したからだ。
「書斎でローディさんが歌会用の新曲を作っているの。あたしはお茶を煎れたり、書き上がった譜面を楽団用に写したり……簡単なお手伝いをしてるんだ。お湯は客間の暖炉で沸かしているから、たまに書斎と客間とを往復してるの」
「そうだったのか、疑ってすまねえな」
俺が視線を下ろすと、リンが掲げている小さな灯火が形作る俺の影もいっしょに動いた。
「あ、そうだ。ケレンスもう寝るの?」
リンは思い出したように問いかけた。暗くて、あいつの表情までは分からない。俺は相手の真意を図りかね、困惑した。
「どういう意味だ?」
「もし良かったら散歩に行かない?」
リンはつとめて冷静にそう言った。一方、俺は急に心臓の鼓動が高鳴り、ついつい返事が声高になった。
「今からか?」
「シーッ」
リンは細い人差し指を口に当てて〈静かに〉の合図をしたあとで、
「嫌ならいいけど……」
と、さも残念そうに語った。俺は上着のボタンを閉じながらむくれてみせた。
「嫌なんて言ってねえぞ?」
「じゃあ行こうよ、ちょっと待ってて」
リンは抜き足差し足で書斎へ赴き、ローディに一声かけてきた。やつが動くごとに木の床がきしむ。
帰ってくると、リンはそのまま俺を通過して前へ進んだ。ランプの炎の中にそっと浮かび上がったリンの横顔がびっくりするほど大人びていたので、瞬間的にはっと息を飲む。
「あたしが先導するから」
リンが言った。今さら真っ暗な部屋で自分用のランプを捜すのは面倒なので、俺は素直にやつの背中を追うことにした。
手始めに玄関を目指す。途中、リンは何度も後ろを振り返って俺の姿を確かめた。その動作がまだるっこしく感じたので、呼びかけると、
「いいから先に進めよ」
黙ったままリンは歩き続けた。
やがて俺たちはローディの家を抜け出して、穏やかな闇がさまよう夜という空間へたっぷりと身をひたした。
やつの声がわずかに大きくなる。
「ずいぶん涼しくなったよね。季節はめぐり、もう秋だよ。ほんと早いね〜」
感慨深く独りごちたリン。俺はあまりの涼しさに肩をすぼめ、体を縮ませながら軽く同意した。
「そうだな」
夜の中で乱反射した俺の声はいつもと違う深みがあった。考え事をして気が抜けた俺の体は、次なる状況の変化に対応できない。
「行こう!」
と宣言するや否や、土の匂いが心地よい村の小道を、リンは突如として駆けだしたのだ。あっという間にランプ――光の粒が遠ざかる。まるで流れ星だ。
このままあいつが天上界へ飛翔するような錯覚を得て、しばしランプの描く輝きの軌跡に見とれていたが、昨夜の荒れたリンが脳裏をかすめたとたん、
「待てよ!」
と叫び、俺は懸命に地を蹴った。
しだいに二人の距離が縮まってゆき、光源が近づき、ようやく相手の肩をつかんだ。リンは短い悲鳴をあげ、道の脇に置いてあった牧草の丸い束へ身を投げた。
森から響いてくるフクロウの鳴き声が何となく笑っているように聞こえた。
「ふうふう……また負けちゃったね」
息も絶えだえに敗者の弁を語ったリンが可愛らしくもあり、憎らしくもある。
「冗談、言ってる場合、じゃあ、ねえだ、ろ!」
民家が減ったので心おきなく怒鳴る。呼吸が苦しく、言葉は途切れがちになった。リンも肺のあたりを抑えながら、吐き出す息といっしょにつぶやく。
「ちょっと、休もう……」
俺は言われるまでもなく体の力を抜き、やつの隣で牧草の束に寄りかかった。草の冷たさ、そして草本来の持つ暖かさが伝わってきて、なんとも気分が安らいだ。
「ねえねえ、覚えてる? 初めて会った夜のこと」
リンは顔を上げ、無邪気に言った。天空ではあまたの星たちによる舞踏会が盛んだった。赤や青、白や銀など、色とりどりにきらめいている。西の地平に沈みかけた五日月を子供の雲が隠してしまう。
「懐かしいな」
俺は、その五日月のように目を細めた。
世界的な文化都市メラロール。当時、駆け出しの冒険者だった俺とタックは仕事を探して夜の港を徘徊するうち、強盗にナイフを突きつけられている一人の少女に遭遇し、とっさの判断で救出した。
南の国から父の船に乗って長い航海の末、ようやくたどり着いたメラロール港で突然の犯罪に巻き込まれた少女は、ひどくおびえていた。仕方がないので俺たちは彼女の仲間が待つ酒場まで護衛をした。
俺とタックが冒険者を始めてから最初に人様の役に立てたのがその事件だったので、俺は鮮明に記憶している。助けた少女の名はリンローナ・ラサラ。酒場で待っていたのは船長であるリンの父親、姉のシェリアと友人ルーグの三人だった。
ルーグはメラロール王国の騎士団に志願したが定員の問題で断られ、やむなく冒険者として修行を積むことになった。そこでリンが提案し、以後、俺とタックはルーグたち三人と行動を共にしてきた。
「ちっちゃな炎みたいな縁が今の今まで続いているんだから、とっても不思議だよね。あの出会いは偶然じゃなく運命なんだと、あたし本気で信じてるんだ……」
そこまで話すとリンは大あくびをした。俺は声を曇らせる。
「眠いのか? 無理すんなよ」
「いつも心配してくれてありがとう」
急に立ち上がってリンがぺこりとお辞儀をしたので、何だか恥ずかしくなり、つい場を茶化す。
「別に心配してねえよ。勘違いするな」
するとリンは口を押さえて〈ふふっ〉と清楚に笑った。秋の予感を秘めた夜風が頬を、さらに体を撫でる。
リンは遠い目をした。
「そういえば、あの夜も強盗に襲われた恐怖で腰が抜けちゃったんだ。一昨日も……ぜんぜん成長してないんだね、あたし」
「いや、成長してるさ」
真っ向から否定したら、リンはすぐさま、ひそやかに質問した。
「背丈だけじゃなく?」
「もちろん!」
俺はしっかり応えた。
会話の途切れるごと、睡魔に襲われる。夢幻の精霊よ、今だけは見逃してくれ。大事な時なんだ、居眠りするわけにはいかない。
リンは星のささやきが聞こえてきそうな夜空を見つめ、しんみりと言った。
「あたしたち、これから、どうなっちゃうんだろうね」
そういえばリンと出会ったあの夜も星がきれいだった。港にちりばめた船や酒場の明かりと、空に蒔いた星の種が、闇を境に美しくきらめいていた。
黙っていると、やつは再び語り始めた。
「あたし、こわいよ。お姉ちゃん、冒険者やめちゃうのかな。あたしたち、ずうっといっしょにやってきたのに……」
結局、分かり合えないのかな。リンは寂しそうにつぶやいた。
心の奥にひそむ不安を追っ払うべく、ついでに睡魔を吹っ飛ばすべく、俺は腹に力を込めて声高に叫んだ。草の束を押し、その勢いでしっかりと立ち上がる。
「心配ねえ! 全て、なるようになるさ。これで壊れるような弱っちい縁なら、それだけの縁だった、ってことだな」
リンは大げさに溜め息をつく。
「ケレンスは強いんだね」
違う、俺はちっとも強くない。リンやルーグやタックやシェリアがいて、初めて強がれるんだ。
頬の緊張を緩め、首を横に動かす。
「特に強かぁねえよ、頭悪いから前向きにしか考えられねえのさ。俺は予言するね、誰も冒険者やめたりなんかしない」
自分自身を勇気づけるために精一杯、胸を張った。こうしていないと全てが崩れてしまいそうな暗がりの中で。
「あたし、ゆうべは冒険者やめたいと思ってたけど、今は〈他の誰かがやめたらどうしよう〉って不安で……」
にわかにリンが涙声へ変わると、俺の喉は締めつけられるように苦しくなった。
やつは続ける。
「あたしの中にみんながいて、みんなの中にあたしがいる。もう離れられないよ。なのに、どうして……」
リンは服に顔をうずめる。
同感だった。
「少なくとも俺はやめない、俺はどこにも行かない。何がなんでも残ってやる」
幼い妹を諭すつもりで、俺は柔らかな声を発した。一人っ子の俺だけど、その時だけはまさに臨時の兄となったのだ。
するとリンはふいに泣き崩れてしまった。足下にランプが落ちてガラスが割れ、淡い光は一瞬にして消え失せる。
俺は死んでしまったランプを気にせず、冷えきったリンの右手を大切に握りしめた。その小さな手が、だんだん暖まっていくのが分かった。雪が溶け、少しずつ春が訪れる……そんな感じだった。
過ぎ去る時間だけがリンの心を癒してくれるように思えた。俺はすごく悔しかったが、じっと悔しさに耐えていた。
「なんか、あたしの涙腺、ここ二、三日の間に狂っちゃったみたいだね」
星たちが微妙に動いたあと、リンはそう言って微笑んだ。当然、やつの顔は真っ暗で見えないのだが、俺の心には相手の表情がはっきりと浮かび上がった。共に生活し、培ってきた多くの経験が、俺の視力を越えたのだ。
無言で布きれを取りだし、リンの顔に押しつける。やつは俺の布きれで涙と鼻水をぬぐった。
「ありがとう」
リンは闇の中で礼を述べてから、ぱっと立ち上がった。今度はあいつが俺の左手を握りしめ、昼のように明るく叫んだ。
「さあ帰ろ! あたし、そろそろローディさんを手伝わなきゃ」
「ランプ、壊れちゃったぜ」
俺は右手で地面を探り、落っこちたランプを拾い上げた。五日月は遠くの山あいに沈み、辺境の村はいっそう暗い。
「たまには星のランプもいいんじゃないかなぁ? それに手をつないでいれば、少なくとも行方不明にはならないしね」
「わかったよ、お前にゃ負けた。じゃあ帰ろうぜ」
俺はリンの手を握りしめたまま、ゆっくりと歩き出す。地面の微妙な起伏が全く判別できないので、二人とも変な歩き方になった。
リンはのん気につぶやいた。
「ローディさんね、伝説の〈幸せの木の実〉を心の中に思い描きながら、新しい曲を作ってるんだって……」
「色々あったけど、ローディはやっと本来の自分を取り戻したみたいだな。心って不思議だ、自分に一番近いはずなのに操作するのは最も難しい」
なかなかいいこと言うじゃねえか、と自画自賛しながら口を閉じると、リンは右手にぎゅっと力を込めた。
「いい曲ができるといいね」
そうか、あいつはローディと二人で、お茶を飲みながら作業するんだよな……。
理由は判然としないが、何だかしゃくに障り、わざと意地悪く訊ねた。
「ローディが好きなのか?」
「ええっ? それ、どーゆう意味?」
びっくりし、高い声で言ったリンは、その拍子に集中が途切れたのか、石につまづき前のめりになった。手を引っぱってやると、何とか体勢を立て直す。
やつは慌てて説明した。
「あたしローディさんに特別な恋愛感情はないよ。第一、歳が離れすぎているしね。あたしは単純に誰かのお手伝いがしたいだけなの。ゆうべケレンス、森の中で言ってくれたよね? あたしには癒しの能力があるって。もしそれが本当なら、もっと自分の力を生かしていきたい。そう思ったんだ」
「そうか」
と、うなずくしかなかった。無性に気分が安らぎ、俺は天を仰ぎ見た。東の空はまだ暗いが、夜は後半だろうと思った。
リンは少し落ち着いて言う。
「あたし、根っからの聖術師みたい。誰かを手伝うのが好きなんだ」
「でも自分一人で溜め込み過ぎるなよ」
俺は昨日の夜と同じ助言をした。するとリンは首をまっすぐ縦に動かした……ような気配があった。暗くて見えない。
どうにかローディの家へ帰り着き、リンにおやすみを言うと、冷えた体も暖まった左手も全て寝袋の中へ突っ込み、俺は長いこと眠り続けた。
目を覚ますとリンとシェリアが調理場で飯の準備をしていた。俺はまだ体が重く、足を引きずって歩くような感じだった。何時間眠っても疲れがとれない。
寝ぼけ眼をこすりつつ訊ねる。
「朝飯か? 早いな」
緑色の新鮮そうな丸い野菜をみじん切りにしていたシェリアが手を休め、汗をぬぐい、まじまじと俺を見つめた。
「ケレンス、あんた何言ってんの?」
「はあ?」
俺がくしゃくしゃの髪の毛を指先で整えながらすっとんきょうな声をあげると、シェリアはこう返事した。
「もう昼じゃないの」
俺は唖然としてしまった。確かに窓の外から射してくる日光は予想以上に強く、通りには騒がしい群衆の声がこだましていた。驚いたことで一気に頭が醒める。
「ずいぶん寝てたよねえ〜」
自分の作業を続けつつリンが言った。腹が立ち、すぐさま反論した。
「ルーグもタックも寝てるんだろ?」
「二人とも、とっくに出かけたわよ」
シェリアは〈とっくに〉という部分に強いアクセントをつけた。俺は完敗を悟って口をつぐみ、居間に戻って着替え、心地よい井戸水で顔を洗った。
それにしてもリンとシェリアの姉妹、やけに仲良く見えた。二人とも泣いたり笑ったり傷ついたり癒し合ったりする中で絆が深まったのだろうか。
おいしそうな昼飯の香り漂う客間へ戻り、配膳作業に忙しい姉妹へ訊ねる。
「ルーグたちはどこ行った?」
「サバラさんの練習を見に行くって」
リンは面倒くさがらず答えた。
「ローディは?」
「まだ写譜してるよ、演奏家用に」
その時、シェリアが声を荒らげた。
「ちょっとケレンス! そんなところで突っ立ってないで、手伝ってよ!」
「ちっ……」
スプーンとフォークの束を渡され、舌打ちする。しゃくに障るが仕方がない、寝坊した者には人権がないらしい。シェリアは完全にいつもの状態へと戻っていた……静かだった頃を懐かしく思う。
配膳が終わる頃、上手い具合にルーグとタック、そしてサバラがやって来た。リンは書斎へローディを呼びに行き、総勢七人で食事を摂った。徹夜で作曲をした影響だろう、ローディは目が真っ赤に腫れあがり、見るからに痛々しかった。
午後になると、サバラは自宅へ帰って最終調整に励んだ。シェリアとリンは皿をゆすぎ、ローディも歌の練習をした。俺とタック、ルーグの三人は、食後の運動がてら村の野道を一回りした。
「じゃ、行って来るね!」
その後、リンはローディに付き添って歌会のエントリーに赴いた。歌会に出るには本当は予選があるのだが、ローディは前回・春の大会で準優勝だったため、すでに本戦出場の権利を得ているらしい。
そんなこんなでバタバタしているうちに約束の夕方を迎えた。俺たち五人は〈歌会広場〉の喧噪を背に、あえて人の少ない方へと向かった。坂道にさしかかり、いつしか村を見渡せる丘へ出た。アネッサ村も森も、俺たちの頬までもが西日を浴びて真っ赤に染まっていた。
俺たちは丸い輪を描いて草の上に座りこんだ。俺の左隣はタックで、その左がシェリア、さらにルーグと並び、俺の右隣はリンだ。みんな真面目な顔で、一言も無駄口を叩かない。
それぞれの影が長く延びている。秋の涼しい夕風がすすきの群れをかすかに揺らして過ぎ去っていく。広場の方から人々の歓声が聞こえたり途切れたりした。
何もかもが麗しい秋の黄昏だった。
「始めようか」
ルーグが穏やかな口調で言った。リンはぎゅっと目を閉じ、両手を組んで祈っている。タックは壊れた眼鏡をかけ直した。シェリアはやや視線を下げた。
俺は他のメンバーを信じようと思った。解散なんて……きっとたちの悪い冗談だ。そんなものは笑い飛ばしてやりたい。
しかし望みとは裏腹に、四肢は硬くなっていった。怖かった。
最初はみな黙りこくり、互いの様子をうかがう感じだったので、話は進まなかった。草の香りが全員をつつみ込む。
真っ赤な陽が地平線にかかる頃、ルーグはようやく重い口を開いた。
「私の独断による指名は避けたい。できれば自発的に話してもらいたいと考えている。今後どうしたいか、冒険を続けたいのかやめたいのか、それぞれ思うところを率直に語って欲しい。話す決心が固まったら挙手してくれ。誰からでも構わない」
「はい」
まずリンが天に向かって右手を突き刺した。その瞬間も陽は休まずに沈んでいった。時間は止まってはくれない。
「リンローナ」
進行役のルーグが、俺の右隣に座っている小柄な聖術師を指で示した。リンは手を下ろし、大きく息を吸った。
一昨日、イヴェンラに襲われてから、俺たちはぎくしゃくしていた。ルーグの怪我、妹を罵る姉、冒険者をやめようとしたリン、そして取り乱すシェリア。
色々な出来事を回想した俺は、真剣に願った……これから行う意見交換が素晴らしい再出発につながればいい、と。
注目を受けて、リンは緊張する。
「あたし、あんまり話が上手くないので、簡単に言います。あたしはこれからもみんなといっしょに、いつまでもみんないっしょに冒険を続けていきたいと思っています。それだけです」
あっという間だった。リンは話し終えると再び目をつぶって両手を組み、天上界の聖守護神に祈りを捧げていた。
良かった、リンが残ってくれて。
喜びがじわりじわりと俺の心に染み込む……あの夜の説得は無駄じゃなかったんだ。俺の瞳は早くも潤みそうだった。
ルーグは丁寧にうなずく。
「ありがとう。次の希望者は?」
雁の集団が夕空に黒い影となって展開し、かつて見たことのない奇妙な記号を形作った。
機会をうかがう。
今だ。さっと手を挙げる。
「俺が行く」
「ケレンス、どうぞ」
ルーグが俺の姿を認めたので手を下ろす。俺が注目を集める番だ。
あれ?
言いたいこと、言うべきことをちゃんと頭の中で整理したはずだが、すでに俺の思考はほころび始めていた。
「ああ、何を言うのか忘れちまった」
仕方なしに後ろ頭をかくと、場の雰囲気がわずかながら和んだ。心に光が射し、その弾みで語り出す。
「俺にはこういう真剣な話し合いは似合わねえや。とっとと終わりにしたいから簡単に話す」
ごくりと唾を飲み込む。さっきよりも若干、涼しくなった風が吹いた。
思い浮かんだ言葉を並べていく。
「せっかくの縁を大切にしたいと思っている。俺はお前らが好きだし、これからも互いに良い影響を与え合いたいと考えている。一人も欠けず五人で冒険を続けようぜ、世界を股にかけて。俺はお前らを最高の仲間と思っている。以上」
早口で言い終えたあと、自分の顔が火照っていくのを感じた。夕日に紛れてばれなかったろうが、俺は自分の言葉がものすごく恥ずかしかった。
仏頂面を装い、腕を組んだ。舌足らずだったけれど、伝えたかったメッセージは届いたのではないだろうか。
「ありがとう、次は?」
最年長のルーグは優しく目を細め、すみやかに話し合いを進行させた。俺は肩の荷が下りた気がして、歯の隙間から〈すうーっ〉と息を吐き出した。
俺に続いたのは昔からの親友タックだった。ルーグが話を促すとタックは手を下ろし、にこやかに微笑んだ。
「僕も長々と話すつもりはありません。僕、思うんですが、今は一つの壁じゃないかと。長い間いっしょに生活していれば仲違いくらい当たり前、日常茶飯事です。きっとこれまでが順調すぎたんです。だからこれを一つ一つ乗り越えて行こうじゃないか、と呼びかけたいわけです」
さすが普段から喋り慣れているだけのことはある……やつは落ち着きを保ったまま話し続けた。つられて俺の鼓動までが思わず穏やかになる。
やつは真面目に語った。
「僕の個人的な見解ですが、ここでやめるのは正直言ってもったいないと思いますね。色々あったのは知ってますけど、本当にもったいないですよ。僕はこのメンバーで続けていきたいですね」
饒舌なタックだが、むせたのか、急に咳き込んだ。
「げほっ、げほっ、ひいぃ」
こいつとのつきあいも長いな……過ぎ去った年月を数え、ふと感慨深く思った。故郷ミグリ町の旧市街の風景が脳裏をかすめる。遊びほうけた幼年時代、いたずらを繰り返した少年時代、冒険者を夢見て旅立った日――いつも俺のそばにはタックがいた。
ルーグが訊ねる。
「終わりか?」
「いや、あと一つ」
顔をしかめ、苦しそうに胸を叩きながら、タックが言葉を紡いでいった。
「さきほどケレンスが冒険続行を表明しましたけど、彼が冒険を続けるからには僕も近くに居ないと不安、というのも残留したい理由の一つです」
「何だよそれ!」
むくれて怒りを露わにすると、タックはこれ見よがしに俺を指さした。
「彼は見ての通り、すぐ感情的になりますので、誰かが抑えつけておかないと駄目なんですよ。僕がその役割をきちんと果たします。以上です」
「覚えとけよ……」
最大限の恨みを込めて、左側に居座る幼なじみに文句を言った。反対側のリンが口元を隠して〈ぷっ〉と吹きだす。
「次は私よ」
澄んだ声。
話し合いが始まってから、ずっと平静を保っていたシェリアがついに行動を起こした。しだいに薄暗くなって一番星が輝き始めた蒼い空へ、右腕を高く掲げる。
風が吹き、すすきの白い穂が揺れた。
「シェリア」
彩度を失ってゆく景色の底で、ルーグの呼びかけが決然と響いた。名も知らぬ鳥が数羽、木の上を緩やかに旋回していた。
極度に張りつめた雰囲気。
お前とはケンカばかりしてたけど、結構、楽しかったんだぜ……よどみない笑顔が頭の隅で弾けた。
どこにも行かないでくれ。
冒険者やめないでくれよ、シェリア。
俺の目と唇は渇き、耳鳴りがした。
シェリアが動く。
清らかな仕草で音もなく立ち上がると、一歩、リンの方へ進む。
「まず、あんたに言っとくことがあるわ」
リンはまばたきを繰り返し、機が熟すのをしばらく待ってから、
「うん」
と言い、シェリアの眼差しをしっかり受け止めて起立した。
風が凪ぐ。向かい合う姉妹と、座ったまま成り行きを注視する男三人。俺は心の中で懸命にシェリアを応援した。思わず、こぶしにも力が入る。
その時だった。
突然、シェリアは深く頭を垂れ、自らの思いをとつとつと語り始めた。
「ごめんなさい……調子に乗って、あんたを傷つけるようなことを言っちゃって。今度こそは本当に反省してるわ」
リンはゆっくりとうなずいた。春の野山に黄色い花が咲くように、小川が温むように、表情をほころばせて返事する。
「そんなに謝られると、あたし照れちゃう。もういいよ、顔、上げて。ね?」
妹が言い終わると、姉は少しずつ頭を持ち上げていく。髪の毛がなびき、首筋が覗き、額が露わになる。
頬を流れる河。
薄い紫色をしたシェリアの二つの瞳はあふれ出す透明な液体で濡れていた。俺の胸を雷のような激痛が駆け抜ける。
シェリアの声は震えていた。
「私がいくら怒鳴っても、あんたは今まで何も言ってくれなかったから、馬鹿な私は気づかなかったのよ……あんたがどれだけ傷ついていたのか。昨日の朝、タックから『リンローナが冒険者をやめて逃げ出そうとした』って聞いたとき、正直言って目の前が真っ暗になったわ」
シェリアはそこまで語り終えると、完全にむせび泣いてしまった。俺はより強くこぶしを握りしめ、音もなく天から降り注ぐ悲しさや寂しさ、何もできない悔しさ……渦を巻く感情の嵐に耐えた。
リンはゆるゆるとシェリアに歩み寄り、背の高い姉の体をきつく抱きしめた。
「お姉ちゃん、自分を責めすぎないで。あたし知ってるもん、お姉ちゃんの本当の優しさ。お姉ちゃんはね、きっとそれを素直に表現するのが苦手なだけなんだよ、だから心配しなくていいんだよ。あたし、ちゃんと分かってるんだから」
リンが姉の胸に顔を沈めて穏やかに慰めると、シェリアの泣き声は高まった。
髪の色も背の高さも性格も全然違う二人だけれど、やっぱり似てるんだな、と俺は思った――これが血というものか。俺は一人っ子だから、長いこと抱きしめ合う姉妹をちょっぴり羨ましく思った。
風がそよぎ出し、丘の草が波と変わる。
夕日の残照を浴びて顔を真っ赤に染め、リンはささやいた。
「お姉ちゃんがあたしを怒鳴ることで元気になってくれるのなら、これからもあたしを利用してくれて構わないよ」
ふとシェリアの泣き声がやむ。
妹は一息ついて鼻水をすすり、目頭を押さえて涙をこらえながら話を再開した。
「でもね、あたしにも辛い時があるんだ……」
間髪おかずにシェリアが謝る。
「ごめんなさい」
シェリアはいつも文句ばかり言って感じの悪いやつだと思っていたけれど、自分の感情を上手く表現できないでいるだけなのだ、ということが分かった。そう、あいつは正真正銘の恥ずかしがり屋さんなんだ。
タックは口を結び、ルーグはまばたきせず姉妹の様子を見守っている。
ごった煮された感情たちを真摯に受け入れ、リンは無理に笑顔を取り繕い、毅然とした態度で明るく言い放った。
「だから時々は手を抜いて叱ってね!」
シェリア、リン……。
世界でただ一人の妹を力強く抱きしめ、姉は号泣した。もう言葉にならない。
あの姉妹同様、俺の涙腺も完璧にぶっ壊れてしまったようで、またもや潤み、アネッサ村が温い水の中に沈んでいった。ルーグも目頭を押さえている。
リンは〈いつも元気に微笑んでいる子供〉だと思ってきたけれど、それは大きすぎる勘違いだった。当たり前だけど、リンだって色々と悩みをかかえ、必死に生きているんだ……遅ればせながら悟り、あいつの気持ちを分かってやれなかった自分自身の浅はかさを、心から申し訳なく思った。
涼しい夜風がみんなの体をひたすと、灼熱の夏を彷彿とさせる熱い魂は、冬の太陽のように暖かく変化していった。
涙を拭きつつ、シェリアは落ち着いた口調で妹に問いかけた。
「あんたが許してくれるんなら、私、冒険者を続けるわ」
静寂の時が流れ。
リンは二度、首を振った。
「許すも許さないも……お姉ちゃんがいなきゃ旅がつまんなくなるよっ!」
「決まりだな」
膝をポンと叩き、立ち上がったのはルーグだ。俺は直感した――表面には出さないけれど、もしかしたら一番嬉しかったのはルーグだったのかも知れない、と。
俺とタックも続けざまに立ち上がり、夜の空気を胸一杯に吸い込んだ。五人はお互いの顔を見回す。どの顔も、一山越えたという誇りに満ちていた。
今まで通り、冒険を続けられる……。
本当に大切なものは、失いそうになって初めて、秘められた価値を知る。土壇場になり、慌てて腕を伸ばし、ぎりぎりで取り戻す。大切なものの大切さに気づき、それは以前に増して大切となる。
ルーグは弾む声で呼びかけた。
「私の言いたいことはたった一つ!」
心臓の鼓動が速まる。
ルーグは右手をまっすぐ前へ差しだし、こう叫んだ。
「これからも、よろしくな!」
全員の歓声が上がった。ルーグのごつごつした手の上に俺の手が、そしてシェリア、タック、最後にリンの手が重なる。
俺は秒読みを始めた。
「五、四……」
全員の声が一つに合わさる。
「三、二、一……」
そして俺たちの歓喜は爆発したんだ。
「うぉーっ!」
奇声をあげながら緩やかな丘の斜面を駆け降りていく。アネッサ村の中央にある歌会の舞台へ向かって、とどまることなく走ってゆく。何度転んでも気にしない……また起き上がって笑いながら、思う存分、駆けてゆく。
「ちょっと、待ってよぉ〜!」
後ろからリンの悲鳴が聞こえた。
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