すずらん日誌

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 



【補四話・夜半過ぎ】


 木目の曲線や楕円が繊細な芸術作品のように優美なのは、さすが豊かな森に育まれた山奥のサミス村である。その良質の材木で作られた堅牢で朴訥な床の繊維のすみずみまでも凍死させそうな勢いで、見えないけれども感じることの出来る〈氷水の精霊〉たちは窓の隙間から止むことなく染み込んでくる。
 外の雪は夜半過ぎにやんだ。それが分かったのは、月が久方ぶりに姿を現したからである。満月に少し足りぬ十四日目の月は、手が届きそうにないほど高い場所から凍った銀色の明かりを粉々にして世界に散りばめ、白い大地をおぼろげに浮き上がらせている。それは、まるで雪自身がぼんやりと光っているかのようでもあったし、夜明け前、山の頂から見渡した綿菓子の花びら野原――どこまでも果てぬ雲海をも彷彿とさせた。

 ファルナは布団の中で、しかも心の奥でつぶやいた。
(落ち着かないのだっ)
 彼女は左右に寝返りを打った。確かに眠気はあるのだが、目をつぶっても夢幻の睡魔は本領を発揮しない。これは寝付きのいい彼女にしては珍しいことであった。足の指の先までも温かさが保たれ、身体に関して言えば眠りの準備は完了している。ただし頭の方が冴え渡り、眠気を発動させないほど働き続けているのだ。鼓動はたまに駆け足をし、胸は本来よりも少し窪んでいる気がする――締め付けられる、とまでは行かないが。
 今宵、使っているベッドは馴染みの自分のものではなく、長さも幅も、堅さも、きしむ音も異なっている。彼女がいるのは、家族で経営している宿屋の客室、その空き部屋のベッドである。
 寝床が普段と違うことは眠れない理由の一つではあるが、副次的な要素に過ぎない。彼女が行き着く考えは一つだった。

(心配ですよん!)

 闇に充たされた刻、しかも布団に頭まで潜り込んでいる。それでもファルナの目の前に、シルキア――三つ年下の妹――の明るい茶色の髪、それと同じ色の瞳、やんちゃで悪戯っぽい微笑みがはっきりと形を取って現れ、他方、耳元では〈お姉ちゃん〉と慕ってくれる親しみのある若い声がよみがえるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その時、廊下の床がきしむような低い音がして、ファルナは少し身をこわばらせた。可能な限り両耳に全ての関心を集める。
 ほどなくして二回目、三回目――風の叫び声にしては現実感がありすぎるし、寒さの仕業にしては間隔が短い。どうやら誰かが階段を上り、こちらに近づいてくるようだ。かすかに密やかな言葉の行き交いも捉えることが出来る。おそらく話し声だろう。
 そしてファルナの鼻は唐突に何かを嗅ぎつけたのであった。

 口の中に唾液をもたらし、猛烈に食欲をそそり、胃のあたりを温めてくれる特殊な種類の香りが、漆黒の空間の上の方を漂い始めた。その食べ物に間違いなく芋は入っており、ほくほくと芯まで熱が通り、自然な甘みの湯気を立てているはずだ。きっと豚か羊の肉も混じっているだろう。旅の行商人から購入した貴重な冬野菜を惜しげなく使ったかも知れない。山の幸をふんだんに取り入れて豊富な栄養を含み、素朴で深い味わいだ。

 ファルナの至った結論は、母親特製のスープかシチューだった――匂いにつられて、お腹がぐぅーっと鳴り響く。この家では宿屋だけでなく酒場も開いており、両親ともに料理が自慢だ。
 村で唯一の酒場は時期を問わず繁盛しており、例えば春の山菜や夏の取れたての野菜、秋の川魚を使った季節のメニューは人気の的だ。真冬は真冬とて、雪かきを終え、身体の底から暖まりたい飲んべえの男たちが集まる。自家製のビールに、紅白の葡萄酒――ラーヌ河の最上流にある水の良いサミス村で作られた地酒は、大貴族も唸らせるコクのある味わいだ。
 十七歳のファルナはそこの看板娘で、裏のない穏やかな笑顔は皆に愛されている。もちろん、この時間では喧噪もとっくに果てて久しく、耳が痛くなるほどの絶対的な静寂の世界である。

 まもなく隣の寝室のドアが慎重に閉じる音が聞こえた。そこは本来、ファルナとシルキアの姉妹にあてがわれた部屋である。今晩は妹が一人きりで夢と現の狭間をさまよっているはずだ。
 二人が仲違いをしたわけでは決してない。雪遊びではしゃぎ過ぎた妹のシルキアは悪性の風邪をひいてしまい、朝から食事も摂ることも出来ず、ひどい咳と熱に浮かされて寝込んでいたのである。シルキアは可哀想だが、ファルナにまで伝染っては大変だと両親に説得され、その結果として彼女は隣の部屋で毛布にくるまっていたのだ。雪深い辺境のサミス村で、冬場の宿はいつも閑散としている。空き部屋はいくらでもあった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ファルナは身体を丸め、闇にうごめく小さな山になる。息をひそめて口で呼吸すれば、喉の奥から気管まで冷やされるのが分かる。味覚よりも触覚に訴えてくる、まさに〈冬の味〉だ。この冷え過ぎた飲み物はどちらかというと苦手なファルナである。
 そのままの体勢でしばらくじっとしていたが、心の準備が出来たのか、おもむろに手探りして毛布のすそをつかんだ。ここから先が最も勇気が要るところだ。彼女はまず瞳を閉じ、視界に映るものは何も変わらないことに気づく。ついに最終的な覚悟を決めて、身を守ってくれる温もりのヴェールを少し持ち上げ――。
 鼻の頭を、冬のさなかへと慎重に出していったのである。

(ありゃ?)
 ファルナは思わず拍子抜けした。予想していたほどに鼻は痛くならなかったからだ。勢いに乗って、顔全体を闇夜にさらす。
 考えは甘かった。無数の氷水の精霊は、砂糖に群がる蟻のように、彼女の顔の温かさを奪うため躍起になって集う。それに留まらず、毛布の隙間を縫い、少しでも身体に近づこうとする。
 たまらないのはファルナだ。冬の海に浸した影響で、凍みた瞳からは涙が湧き、耳はむしろ熱くなり、肩の筋肉はこわばった。一方、頬はカンナに削られ、滑らかになったように感じる。

「だっ!」
 面倒くさがり屋の彼女は、一気に毛布をはぎ取ってしまった。腕から背中から足先まで、ありとあらゆる汗腺に鳥肌が立つのを跳ね返すかのような身軽さで立ち上がると、両手を広げ、一歩、二歩、三歩――指先がひんやりしたものに触れた。天性の勘を活かし、樫の木で作られた服掛けを探り当てたのである。
 毛皮の上着を正確にひっさらい、大慌てで袖を通し、羽織る。引き続き流れるような早業で上着のポケットから羊毛の靴下を取り出し、無造作に履いた。いったんベッドに戻って腰掛け、脇に置いてある靴に片方ずつ足を突っこむと、ほっと一息つく。
 僅かに微かな星明かりを除けば、寝室は真なる闇が覆っている。白いはずの吐息さえ、光がなければ見えぬ。この部屋に細い月光が降りそそぐのは、もう少し時間的に後のことである。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ひゃっ」
 背骨の辺りを昇ってくる寒気に耐えかね、ファルナは肩まで動かすほど大きく震えた。右手を左の腰に当て、反対の手を同じように伸ばし、あごを鎖骨に近づける。身体は縮こまるが、むしろ寒さによって内側へと押し込まれているようにも感じられた。
 上下の歯は離れることと触れ合うことを繰り返し、不安定なリズムを奏でていた。温もりの残る毛布をひどく渇望している。

 この状態でいるのは限界だった。彼女は腕組みしたまま、虫が触角を伸ばすようにひじだけを前に突き出す。得意の直感を働かせ、ドアまでの方向と距離を頭に描き、足早に前進する。

 ――ゴツン。

「いたっ……」
 突如、脳天付近に予期せぬ軽い電撃が走り、華奢なファルナは軽くよろめいた。結果としては頭が先に出て、ドアの場所を痛みとともに教えてくれたのだ――時おり露わになる、妙にどんくさいところは彼女の欠点でもあり、反面、魅力でもあるだろう。

 熟睡の度合いでは家族随一。いつもなら夜中に起き出すことなど考えられないファルナだ。夢も見ずに夜から朝まで直行するのが常であるし、珍しく夜中に目覚めたとしても布団から出ないうちに再び眠ってしまう。そもそも暗闇は好きな方ではない。
 その晩に彼女を突き動かしたのは、心配している妹の体調の最新情報が分かるかも知れないということと、そして何より食欲をそそり廊下から湯気となって漂ってくる〈あの匂い〉だった。
「いくよ」
 ファルナは自らを鼓舞し、外から迫ってくる寒さを押し返すように力強くささやいた。人差し指を目の代わりにして縦横無尽に探り、ついに見つけたドアの取っ手を掴んで、ひねった。最後まで回りきったのを確認してから自分の方にゆっくりと引っ張る。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 廊下の空気は凍傷になりそうなほど厳しかったが、それは寒さだけでなく、耳が痛くなるくらいの〈沈黙〉と〈静寂〉の影響が大きかった。気温の低さの素となって散らばるかのような、ほのかに降り注ぐ月明かり――あるいは天からの視線――は、張りつめた濃密な空間が色褪せぬよう、絶えず塗り替えている。
 窓の外はぼんやり乳白色に染まっていた。その傾向が強いのは、より遠くを眺めた場合だ。動くものは何一つ存在しない。
 刹那、ファルナはようやく雪がやんだことを悟った。夢の続きを思わせる幻惑的な銀の月だけでは実感が湧かなかったのだ。
 踏み下ろすとカツンという軽い足音が後追いで鳴り響くのを確かめつつ、ファルナは窓辺に寄り添っていった。久しぶりの晴れた夜空を見たいと思い、近づけば近づくほど、防寒対策の二重ガラスの内側の方の一枚はファルナの吐息で曇ってしまう。
 さて、美味しそうな香りはさざ波のごとく――山奥の村娘が知っているのは湖のさざ波くらいだが――濃くなったり薄まったりを繰り返した。つかず離れず、つきすぎず離れすぎず、不規則でしかも心地よい周期と幅を保ち、陽炎に似て揺らいでいる。ファルナには、匂いが手招きをしているようにさえ感じられた。

 彼女は左向け左をして窓に背を向け、手を前に差し伸べて前進しつつ壁を探った。部屋の中とは異なり、月光の白い炎(ほむら)が照らしているぶん作業は楽になっている。今度はすんなり到達したファルナは、右を向き、人気(ひとけ)のない宿屋の二階の廊下を見据えた。身体の震えは止まらず、腿(もも)や背中の筋肉も収縮しているが、ほんの少しだけ夜の海に馴れてきたのだろうか――上着の中に閉じこめられた温もりは間違いなく生命の力強さを膨らましている。もちろん寒いことは変わらないし、肌が出ている部分は猛烈に痛いくらいなのだけれど。
 ファルナは一呼吸置くと、左手で壁を伝いながら、スープかシチューらしき匂いの源泉を求める短い旅路についたのである。

 と、その時。音の失われた世界の片隅に――。
 割り込んできたのは、木の床のきしみ。
 しかもファルナとは明らかに無関係な場所だ。

 立ち止まって耳をそばだてれば、誰かの動く足音がする。
 気配。何も変わった点は見えないが、近づいてくる、誰か。

 匂いにせよ音にせよ、全ての証拠は、明らかにシルキアが眠っている部屋をさしていた。もともとは姉妹二人の部屋である。

 ファルナはどうしようかと、一瞬ためらう。
 結果として、先に行動を起こしたのは相手の方だった。取っ手が回るような軽い響きがあり、問題となっている部屋のドアの隙間から黄色がかった弱い輝きが洩れ、慎重に広がってゆき、それに伴って香りも高まる。彼女はごくりと唾を飲み込んだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その時突然、真っ黒の影が首を出したのである。
(はっ!)
 突然の出来事に身構えるゆとりはなかった。ファルナは悲鳴を上げることも出来ず、反射的に上体をのけぞり、瞳を大きく見開いた。全身が一気に縮まってしまうような錯覚を覚える。美味しそうな匂いが示唆し続ける優しさとは別に、背景の闇が増幅する恐怖の方は一歩先んじて確実にやって来たのであった。

「……ファルナ?」
 立ちすくんでいると女性の囁きが聞こえた。自分の名前を呼ばれることにファルナは一瞬ぎくりとする――とともに、その声には憶えがあると直感した。しかしながら密なる夜気が頭の中を針のような痛みで繰り返し突き刺し、思考の流れを切り裂いて痙攣させ、彼女の〈関連づける〉という行為を邪魔していた。
 働かない頭を放棄し、視覚に頼って目を凝らすと、月の光を受けて朧にかすむ相手はファルナと同じくらいの背丈のようだ。

「あら、どうしたの? 起きちゃったかしら」
 今度は語りかけるようにメッセージが届けられたが、それは言葉よりも少し淡泊にこだました。ファルナの耳の奥に残る響き、そこに闇との摩擦で磨り減った親しみ深い感情を的確に補うならば、相手の正体はおのずと明らかになる。間違いない――。

「お母さん?」
 それでもなお軽い疑問形になったのは、妖しい精霊が現れてもおかしくない夜の不思議さに浸りすぎたからだろう。光の治める時刻とは全ての組成が変わったかに思える闇の中で、確かなものは何一つとして存在しないことを彼女は直感していた。

「ええ。私よ」
 すぐになじみのある声で返事があり、ファルナはようやく一安心して溜め息をついた。その息の流れが白く霞んで見える。
 そう、ここでは〈見える〉のだ――。
 ドアの隙間から洩れてくる柔らかで微細な明かりの曲線たちを片側の頬に受けて、母親のスザーヌがそこに立っていた。

「よかったのだっ」
 守ってくれる人がいる実感は彼女の緊張をほどくのに充分であり、奇怪な触手を伸ばしていた闇が遠ざかるように思えた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「何してるのだっ?」
 と、ファルナが訊ねた時だった。陽炎のように母の顔がゆらめき、影がうごめく。ファルナが身をこわばらせると、母は言った。
「心配しないで。お父さんが来るところよ」
 それは部屋の中から湧き出すランプの灯りの作用だったが、河のせせらぎに照り映えて飛び跳ねる陽のように光と闇が入れ替わる不思議な競演は、ファルナにとって魔法そのものだ。
「うん」
 首だけでうなずいたのに、寒さの粒は相変わらず抜け目がない。隙を縫い、ファルナの体温を奪おうと大挙してやって来る。
「シルキアに食事を持ってきたの」
 母はささやきながら、慎重にドアを半開きにして身体を出し、ファルナのそばに歩み寄った。距離が縮まり、手が合わさる。
 その感触は予想と異なり、素手でもなく動物の毛で作った手袋でもなく――厚い布で作った料理用の〈鍋つかみ〉だった。
 母の両手に自分のこぶしを握りしめてもらうと、血行が良くなって指の先が熱くなる。わずかな温もりだが、とても安らいだ。

 妹の名前が出たので、ファルナは一番の心配事を訊ねる。
「シルキアに? お母さん、シルキア、大丈夫なのだっ?」
「熱は下がった。しっかり眠れば、じきに治ると思うわ」
 最低限の言葉のやり取りが、最大限の心の交流を生む。

 その時、突然。
「ファルナかい?」
 男性の声がするとともに、まばゆい輝きがファルナの焦げ茶色の瞳を射る――漆黒の世界に長く浸かっていると、かすかな灯りでも目はくらんでしまう。新しい光の量に馴れてくると、ランプを持って父のソルディが立っているのが、はっきり分かった。
「うん、お父さん……あれっ?」
 返事をしたファルナは、思わず鼻を動かし、乾いた口の中には唾が湧いてくるのを感じた。父の訪れとともに部屋の風の流れが変化して、さっきから彼女を誘っている、美味しそうなスープかシチューの匂いが微妙に強まったのだった。期待は膨らむ。

 空気の冷たさも忘れ、ためらわずにファルナは訊いた。
「この香り、シルキアのお夕飯なのだっ?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ええ、そうよ」
 母親の顔は心なしか陰影を深めたように、ファルナは思った。ランプの中で不規則に踊り続ける炎の影響もあるが、決してそれだけではない。いわば太陽が薄雲に隠れるほどの些細な変化だったが、彼女は母の言葉から言葉以上の何かを捉えた。
「私たちの寝室まで起こしに来たの、シルキアが。おなかがへったって……。あの子、朝から何も食べてなかったでしょう?」

 木で作られた床がミシッと鳴り、母はささやきを休止する。住居までもが身震いして凍える、避暑地の冬の真夜中である。

「柔らかめにお芋を煮込んで、手早く作ったんだけど……」
「すやすやと寝息を立てていたよ」
 母がすまなそうに口ごもると、後を受けて父が説明する。
「咳は治まったし、食欲も出てきた。汗をかいていたから母さんに着替えを持たせた……薄くて、汗を良く吸収する綿の服を。朝になれば熱も下がるだろう。ずっと良くなっているはずだよ」
 娘と妻を安心させるように、父は優しい口調で語りかけた。彼の掲げる灯火は親子三人に、狭いけれど安全な丸い共同空間をもたらす。ファルナはあまりの寒さに手袋を口に当てて、思いきり吐息を吹きかける。空気に溶けてゆく雪色の温もりを瑞々しい頬に抱き寄せながら、彼女は頭一つ分高い父を見上げた。
「シルキアの寝顔、見たのだっ?」
「寝顔? ……ああ。ファルナも見たいのかい?」
 予想外な問いを受け、父は微妙に声の調子を上げた。それでもシルキアを起こさないよう、かなり注意深く喋っているのに、他の音が皆無のため廊下に響く。昼と夜では、価値観や存在感は裏表のようにひっくり返るのだ――ここでは取るに足らないものにこそ光が当たる。ランプが唯一の太陽に、ほんの小さな言葉が主要なメッセージを伝え、人肌は心地よい暖炉となる。

「行くかい?」
 父は腕の方向を変えて、姉妹の部屋のドアを照らした。いくぶん黄色みを帯びた木目が、闇のまにまに薄ぼんやり浮かぶ。

 ファルナはしばらく検討していたが、やがて曖昧に首を振る。
「シルキアが元気になってから見たいですよん」
「それはいい考えだと思うわ。今日はもう休みましょう」
 固く腕組みし、染み込む空気の冷たさを必死に防いでいた母が同意する。その声は震えていた。指先はかじかみ、足の指は冷えきっている。布団に潜ってもすぐには寝付けないだろう。

「そうだな。もう遅いし、ファルナまで風邪をひいてはいけない」
 父親が言い、妻と娘を先導しようとした、まさにその時。

 シチューのいい香りが忘れられなかったのだろう。
 静寂の奥底で、ファルナのおなかが〈クゥ〉と鳴った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「あっ」
 すぐに二度目の音の波がやってきて、ファルナはへその辺りを慌てて抑えた。空腹の合図はより長く、より高く響き――失くした音を求めて彷徨う廊下の闇の粒子に吸い込まれてゆく。
「あらあら」
 母は相好を崩した。ほころぶ口元に白い歯が鈍く光った。
「ファルナまでお腹が減ったのかい?」
 夕食からはだいぶ時間が経っている。フード付きのコートに身をつつんだ父親のソルディは明かりを手に密やかに訊ねた。宿が混み合う書き入れ時の夏場、家族の夕食は交替で、しかも夜遅いことが多いのだが、今は冬のトンネルの最深部である。

「う゛〜」
 看板娘は小さな唸り声をあげて困ったように首を横に曲げたが、結局のところ、はにかんだ笑みを浮かべて素直に応える。
「はい、なのだっ」
「まだシチュー、残ってるわよ。下に行けば」
 さも寒そうに軽くつま先立ちして、母のスザーヌはささやく。
「やっぱりシチューだったんですよん!」
 喜びに満ちあふれて思わずファルナが声量を高めると、父親は寝ているシルキアに気を遣って指を唇に当て、注意を促す。
「ファルナ、静かにね」
「はっ……うん」
 息を吸い込んでうなずくと、喉が凍みる。両親と話している間には忘れていた冬が、再びその版図を広げようと動き出した。

 硬質な月の光に照らされる淡雪の名残は氷の霞となって夜空に散りばめられ、その遠くには星たちが永遠の瞬きを繰り返している。再び家のきしむ音が響き、ランプの炎は天井に溶けゆく白い吐息を映し出す曲面鏡となって右に左に揺らめいた。
 靴下と靴を履いていても体温は少しずつ逃げてゆく。

 しばらく考えていた父は、娘をおぼろに見つめ、語りかける。
「冷えた身体を暖めるのは悪くないかも知れないね」
「なのだっ」
 ファルナはいたずらっぽく微笑み、今度は声量を抑えて慎重に返事をした。妹の部屋からは相変わらず何の物音もしない。食欲をそそる美味しそうな匂いはさっきよりも弱まっていた。

 ランプを持つ父を先頭に、三人は闇の奥底を歩き始める。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ファルナは父の後ろにぴったり張りつき、三人の親子は濃密な闇を掻き分けるようにして進んだ。か細い月明かりの廊下は長い洞穴と化し、深い湖の底を思わせる絶対的な静寂と刺すような冷気の中で、ファルナは身の引き締まる緊張感の他にも、確かに〈安らぎ〉に似たものを感じていた。もはや心配は必要ないし、独りではない――何と心強いことだろう。彼女は思った。

 昼と夜とでは、一ガイト銀貨の裏表のように、同じ場所でも全く違う景色に変わる。普段はあっという間に駆け抜ける廊下も、永遠に続くのではないかとさえ思われた。父はその間も休まず歩き続け、やがてランプの光はあっけなく壁を照らし出す。ここからは右向きに半円を描いて一階に下る洒落た階段である。

「気をつけるんだよ」
 ソルディは振り向きざま、十七歳の娘に言った。ファルナが無言でうなずくと、彼女の長い影も一緒にゆらめきつつ動いた。

 木造りの手すりに掴まるが、手袋をはめていると滑りやすい。足元の木の板を一歩ずつ確かめながら親子は慎重に進んだ。
 シルキアの部屋から遠ざかり、一度は消えかかったシチューの香りは、再びひそやかに漂い来る。ファルナの喉が鳴った。
「お鍋の蓋は閉めておいたわ。冷めていなければいいけれど」
 母のスザーヌが後ろから声をかける。湯気を立てている鍋の姿が看板娘の頭をよぎるが、すぐに首を振って幻を追い出す。

 手すりに沿って身体の向きを変えながら、父が頭上に掲げるランプの光の届く範囲を頼りにこわごわと足を出し、板を探して踏み下ろす――その作業を十数回続けたあとのことであった。
「ふっ!」
 ファルナは不意に息を吸い込む。降りようとしたのにその場で足踏みし、危うくバランスを崩しそうになったのだ。爪先を眼の代わりにし、反対の足を差し出しても次の段は見つからない。
「降りきったようね」
 母は娘の肩に軽く手を乗せた。そこはもう一階だった。
 星明かりも届かず、漆黒が床から天井まで充たしている。

 思わず身体の芯まで時間を止められそうなほど寒さの募る玄関ホールを横切り、食堂の入口を通り越し、やや横幅の狭くなった廊下の床を軋ませながら、三人の親子は厨房を目指した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 父が右に回すと、ドアの取っ手は軽く鳴った。あまりに冷え切り、むしろ奇妙な熱っぽさを感じさせる耳が、その音を捉えた。
 手前に引くと、独特の〈ぎぃーっ〉という声を発して木のドアが挨拶をする。昼なら気にならないのに、夜の静けさは微かな囁きを増幅させる。とても不気味に響いたのでファルナは少し身を強ばらせた――が、やがて驚きに充ちた小さな叫びをあげる。
「あっ」
 ランプに照らされて、ドアの細い隙間が広がってゆくと、ひそやかに高まりつつあるシチューの香りは明確に膨らんだ。ドアのこちら側も向こう側も真っ暗闇で、まだ何も見えない。微妙に澱んでいる空気には煤の匂いも入り混じり、調理の際の暖が残っているのか、ほんの少しだけ冷気が緩んだように感じる。
 風が通り抜けた。父親が歩き出したのでファルナも後を追う。

 窓辺の調理台の上へ逆さに置いてある鉄製の小鍋が、ランプの光を受けて鈍い輝きを反射した。反対側の壁に沿って黒く続いている四角い塊は、ファルナの腰ほどの高さしかない頑丈な木の台だ。普段は両親が調理した料理の大皿や鍋を並べ、ファルナやシルキアが受け取って客席まで運ぶのだが、閑散期の冬場はあまり活躍する機会がない。台の下には低い丸椅子が数脚置かれ、それを引っ張り出せばセレニア家の面々が仕事の合間にちょっとした腹ごしらえを出来るようになっていた。

「暖炉に火を入れてくるわ」
 母のスザーヌはファルナの横をすり抜け、前に歩み出た。父は手際よく妻にランプを渡す。眩しい光の珠が遠ざかってゆく。
「ファルナはここで待っていなさい」
 父が静かに語りかけると、茶色の瞳の愛娘はうなずいた。
「うん」

 何かをこすり合わせる音が、しんと静まりかえる夜更けの厨房にこだました。暖炉のそばで母が火打ち金を摺っているようだ。やがて火花が散ると、馴れた手つきで火口(ほくち)箱に掬い取る。油を染み込ませた大鋸屑(おがくず)や、粉末状にした炭を混ぜ合わせ、火炎の魔力を帯びた高価な赤い粒をまぶしたもの――そこに火が移り、ほむらが立ちのぼって揺らめく。
 独特の焦げ臭さがファルナの嗅覚を刺激する頃、母の方は暖炉の薪の内側に火口箱を近づけていた。赤くなった木はやがて限界に達し、パチパチと鳴りながら最初は穏やかに、しだいに周りを巻き込みながら激しく燃え盛るのだろう。母は火口箱の小さな炎を吹き消してフタを閉めると、暖炉の近くにある台の上に置き、忘れずにランプを手にし、夫と娘の元へと引き返した。

 本格的に暖炉が稼働したわけではないが、それでも部屋の中はぼんやりと薄明るくなった。父のソルディがいよいよシチューの入った鍋に手を伸ばすと、ファルナの喉はごくりと鳴った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 父はいきなりシチューの鍋を開けたわけではなかった。まずは鍋のふたに載せてある、厚い布で作った妻の手製の〈鍋つかみ〉を取り、左手にはめた。右手は木のお玉を持ち上げる。
 ファルナは高まる期待をどうにか抑えていた。食べてもいないのに、胃のあたりがほんのり温まってきたような気さえする。
 その間に母のスザーヌは素晴らしい連携能力を発揮し、洗い台にひっくり返してあった底の深い小さくて円い皿を用意した。

 身を切るような寒さは続いており、気合いを抜けば一斉に鳥肌が立つ。けれど身体を動かしていれば気が紛れるし、何より厨房の片隅で炎の子を散らしている暖炉が徐々に効果を発揮していた。明るさと温かさ――両者を兼ね備えた暖炉は、闇と冷気の下で一つの重要な拠り所になっていた。もっとも彼女らの心は、常に家族愛という名の暖炉に照らされていたのだが。

 滞りなく準備の整った父のソルディは、一瞬だけ振り向く。
 父娘(おやこ)の瞳が、言葉を使わずに意思の疎通を図る。
 おぼろな影が壁に映し出され、炎の踊りに合わせて妖しげに揺れ動いていた。それは真夜中にふさわしい一つの神秘だ。

 ソルディはためらわず、右手を鉄の鍋のふたに差し出した。
 取っ手をつかみ、力を籠めて一気に持ち上げる。

 ふたのふちが高く鳴り、わずかな隙間が生まれて。
 良く煮込んだ栄養満点のシチューが再び姿を現すのだった。
 我慢できず、娘は思いきり鼻から息を吸ってみたのだが――その瞳は失望に彩られる。湯気の名残も、強い香りもしない。

 だが、変化は突然にやってきた。
 なま暖かい風が遅れて届き、宿屋の娘の嗅覚を刺激した。

「あっ!」
 茶色の前髪が目にかかるのも気にせず、ファルナは叫んだ。
 芋や冬野菜や羊肉、雪の間に見つけた貴重なきのこや山菜などの森の幸を混ぜ合わせ、丁寧に溶かした食欲をそそる匂いが最高潮に達した。口の中に沸き起こった唾液を飲み込む。

 父は冷静に鍋のふたを台に置き、お玉を中に差し入れる。具を混ぜ合わせる豊かな音をトポッと響かせ――彼はついに掬い上げた。待ちきれずにファルナが皿を手渡すと、父は表情を緩めて〈すずらん亭〉の自慢のシチューをたっぷり注ぐのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 輪郭の霞んだランプの光の底で、幽霊のように白くぼんやりと立ちのぼって見えるのは微かな湯気だ。作りたての頃の熱はすでに失せていたけれど、凍えるほどの冬につつみ込まれて、むしろ温かな生命の証をたぎらせていた。真夜中の陽炎――細雪に似たヴェールの後ろに、父と母の姿が揺らいで見える。

「さあ、おがなりなさい」
 夜の冷たさに肩を怒らせ、父のソルディが言った。こういう時に〈体が温まったら寝るんだよ〉などと決して焦らせることなく、娘の行動を辛抱強く待つ両親の態度が、天真爛漫で素朴なファルナの性格形成に影響を与えたのは疑うべくもないだろう。
「ゆっくり、頂くのよ」
 動きをやめると再び寒さが襲いかかってきたのか、母のスザーヌはきつく腕を組み、小刻みに歯を鳴らし、かすれ声でつぶやいた。風邪引きのシルキアの二の舞になるのを心配した夫がそっと寄り添い、妻の華奢な左肩を守るように筋肉質の腕を当てる。相手は安心して腰の力を緩め、瞳を伏せるのだった。

 一方、ファルナは鍋の中身のことで頭がいっぱいだった。濃密な闇の版図でひときわ明るく見える、シチューの白い池の奇跡――具の匂いの渦はいっそう膨らみ、厨房を充たしてゆく。彼女には小さな鍋が世界の隅々までを温めるように感じられた。

「ひゃっ」
 丸椅子のあまりの冷たさに十七歳の看板娘は驚き、一度は手を引っ込めたが、はやる気持ちを抑えきれずに手前へ運び出した。椅子の脚と床が擦れ合い、静寂の内側でギギッと響く。
 普段は料理を載せる木の台の上に、父がよそってくれたシチューの深い皿が置かれ、横に銀のスプーンも添えられている。

 いつの間にか、口の中は水っぽい唾液にあふれている。
(食べていいんだよね……いよいよなのだっ)
 ファルナの胸は苦しくなり、鼓動はにわかに速まるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 夜にむしばまれる痩せた光の尾びれのように、微かな湯気が細い糸になって立ちのぼっている。それを凝視していたファルナは、本能的な食欲に惹かれて無意識に右足を踏み出した。軽く椅子を引く音さえ、雪降る真夜中の奥底では増幅して響いた。
 キィ――トゥ。
 余韻は鋭い空気の刃に切り刻まれ、木造の宿屋の壁に、天井に、床に、そして厨房の洗い場へ、窓へと染み渡ってゆく。

 母が腕組みした右手の先に握りしめているランプの角度を、震えながらほんの少しだけずらした時――今はほとんど色を失い、暗く沈んでいたファルナの明るい茶の髪も刹那の輝きを取り戻す。彼女の瞳がまばたきするたび、妖精の絵筆のように繊細で長い睫毛が小さな風を起こし、僅かな冷気をふりまいた。
 凍えるほどの寒さに、厨房のどこかの木材がミシッと鳴った。

 宿屋の娘は固く縮こまった膝や腿の筋肉に出来るだけの力を込めて、背丈の低い丸椅子へ静かに腰を下ろしてゆく。服とコートを着ているので、椅子の死んだような冷ややかさは直接には伝わってこない。やや着膨れ気味で、普段よりも椅子とテーブルの間は広かったが、彼女はそんなことなど気にも留めぬ。

 父は無言のうちに手を出して母からランプを受け取り、やがて二人は互いを暖め合うように軽く背中を寄せ合った。揺れ動くランプの光と、優しい眼差しは十七になった愛娘に絶えず注がれている。部屋の隅の暖炉では薪の燃える香ばしい匂いがして、忘れた頃に火の粉がはぜ、飛び跳ねる音が響き、ランプの油は絶えず嗅覚に刺激を与える。それら冬の匂いの遙か上を滑らかに行き交うのは、シチューが発している深みのある香りだ。

 ついに手の届くところまで辿り着いた温かな器を、ファルナはまじまじと見つめた。触れると消えてしまう山の老婆の魔法料理、それでいて長い間に渡って一番探していた宝物――最初は廊下に流れてきた〈ほんの微かな匂い〉という偶然に誘われたファルナにとって、いつしかシチューとの出会いは大きな意味を持っていた。冬の夜半過ぎに、対照的な生命の象徴である。
 闇は食欲を増幅させ、期待を煽っていた。とろけそうな芋、味わい深い山の幸のキノコ、雪道を越えて行商人が運んでくれた冬野菜――目で見るよりも鼻で想像したシチューが、いよいよ食べる段階まで至るという喜びは、素朴な村娘に感銘を与えるのに充分だった。にわかに鼓動が速まり、息苦しさを覚える。
 まして雪に閉ざされた辺境の村で、子供ならば食べること、大人ならば酒を飲むことは、厳しい自然と共に生き、春を待ち侘びつつ日々の暮らしを営む上では必要不可欠の気晴らしだった。

「……」
 まぶたを再び開けた時、ファルナは珍しくも厳粛そうな顔つきをしていた。真冬だからこそ膨らむシチューの味わいに、今では冬の神シオネスへ逆に感謝でもしているかのような、不思議に聖者めいた、真面目で大人っぽく、少し眠たげな表情だった。

 ファルナは噛みしめるように、ゆっくりとうなずいた。
 そして半分だけ振り向き、心からの感謝を込めて挨拶する。
「お父さん、お母さん。いただきます」

 火の粉がパチッと弾けて。

「召し上がれ」
 父のソルディは、温かみのある声で薦めるように言った。
「召し上がれ……」
 娘を安心させる穏やかな口調で、母のスザーヌが呟いた。

 ファルナは口の中に湧き出した水分の多い唾液を一気に飲み干し、まるで遠い異国で作られたガラス細工を扱うように、恐る恐る、利き手を器の脇のスプーンへ差し伸べてゆくのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 スプーンの先を、とろりと深いシチューのお皿へ沈めてゆく。
 柔らかいお芋の岩をかき分け、冬野菜の翠の草原を抜けて。
 やがて手応えがあり――スプーンの櫂は器の底にぶつかって、静寂(しじま)にたゆたう真夜中に無機質な音を鳴らした。
 
 ファルナは指先に力を込めて、そっとルーを掬い上げる。お芋の切れ端が乗っていたので思ったよりも重みが伝わってきた。手がかじかんでおり、さじは少し傾いて、お芋は滑り落ちた。

 とぽん――。
 それが何かの合図であったかのように、娘の後ろでじっと立っていた中肉中背の父はランプを左手に持ち替えた。その間も二つ年下の妻が風邪をひかぬ様に気遣い、身体を寄せている。
 父が手を動かした時、一瞬だけ望月が雲隠れしたかのように部屋は闇のヴェールに覆われたが、次の刹那には冴え渡る銀の月にも似ているシチューの乳白色が、小さくて丸い、この料理に適した深い器にぼんやりと朝靄のごとく浮かび上がった。
 外に降り積もった根雪、つららの雫。それと対照的に温もりの残る大好きな料理。高原の真冬は本物の白が映える世界だ。

 樹の幹を思い出させる茶色の瞳を軽くつぶって心を落ち着ける。こめかみの辺りで、期待の鼓動が生命の刻を奏でている。
 睫毛を繊細に揺らす冷たい空気の流れを感じつつ、ファルナは目覚め、瑞々しい十七歳の唇を器の真上に運んでいった。
 震えながら待っているスプーンとの距離が縮まって――。
 満を持して口を開き、指先を気持ちだけ傾け、滑り込ませる。

「んっ!」
 待ちに待ったシチューの第一陣が、ゆったりとやって来た。ファルナの両眼は驚きと喜びで大きく広がり、表情は輝くようだ。
 しんしんと更ける夜の心細さを忘れさせてくれる、待ちに待った温かみが頬を内側から暖める。少し遅れて、心までがとろけてしまうような独特の甘みが舌に伝わり、あまりの気持ちよさに目頭が熱くなって頭の奥がじぃんと痙攣した。部屋の隅で燃えはぜる暖炉の薪よりも、直接的に熱のかけらを届けてくれる。
 飲み込めば、喉を和ませ、胃に安らぎをもたらし――それからおなかの果てまでも緩やかに染み込んだ。下品にならない程度にシチューの膜を舐めながら、スプーンを口から引き出す。

「ほんと、おいしいのだっ……」
 ファルナは恍惚とした表情で、ため息のような感想を洩らす。
 そしてすぐさま衝動に駆られ、手を伸ばして二口目に取りかかるのだった。今度は唾液が邪魔しないので、煮込んだ味わいがより鮮明になる。しばらくの間、ファルナは唇の周りが汚れるのも気にせずに、夢中で目の前の手料理をむさぼるのだった。

「身体があったまるだろう。お前も食べるかい?」
 父のソルディは隣のスザーヌに提案した。妻は首を振った。
「大丈夫。このままで充分、身体は温まってきたわ……」
 母の頬は、確かに一時よりもだいぶ赤みがさしている。
 厨房の空気はしんと冷えても、家族の心は春のようだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 燃えはぜる暖炉の炎が滑らかに激しく姿を変えるたび、何もかも全ての影が奇妙にゆらめく宿屋の厨房には、ファルナがスプーンでシチューを掬い、傾けた時にちょっとルーを器にこぼし、唇を近づけて啜る音が淡々と響いていた。ランプの光が届く範囲を離れれば、彼女たち自身の声や存在すら失われてしまいそうに思える、それは限りなく深い冬の真ん中の闇夜だった。
「ほんとに、おいしい、のだっ」
 すっかり美味しさに魅せられたファルナは、スプーンを持ち上げたまま語った。食欲と温かさを求める本能を露わにし、彼女は具のたっぷり乗ったシチューを口に注ぎ、涙目で頬張った。

 半分溶けた柔らかい芋を口の中で転がす。芋にはまだ芯の温かさが残っているし、少し苦みのある冬野菜は山の料理らしく全体の味を引き締める。羊の肉には良く火が通っていて臭みはなく、川の小魚を乾かしたものも入っている。色々な栄養が含まれ、病気のシルキアが食べれば元気が出そうな代物だ。
 それは出来立ての温かみの名残を抱いていた。確かに見た目の湯気ほど熱くはないが、奥の方はまだまだ食べ頃である。高らかな匂いを辺りに振りまき、表面は急速に冷めていった。
「外部の寒さと、内面の温かさ……この相反する条件が冬の料理をさらに美味しくさせるのだろう。魔法の〈紫の草〉ほどにね」
 父はランプを持ったまま、ゆったりした口調で思いを伝えた。

 サミスの村から、この村の衆しか知らぬ秘密の森の小径を抜けて、かなり歩いた所にかつての採石所跡がある。丸太の橋を渡ると見渡す限りの野原の斜面で、短い夏の盛りになれば夢色の花のじゅうたんが広がる。そこでしか採れない貴重な植物が〈紫の草〉で、食べ物を美味しくする効果があり、辺境のサミスの村が避暑地として繁盛するのに一役も二役も買っている。

「紫の草……」
 父の言葉を耳にしたファルナは、思わずスプーンを動かす手を休めた。彼女の脳裏を懐かしい想い出がよぎったからである。
 幾つの頃だか正確には分からないが、紫の草のエキスを混ぜた魔法料理を初めて食べた時の感動が遙かによみがえる。
 料理も、人も、その夜も。二度と戻らぬ一期一会であろう。

 ファルナは茶色の瞳を瞬きし、無意識に手元を凝視する。
 今、目の前で食欲をそそるのは、魔法の品でも何でもない。
 贅沢でもなく高価でもなく、材料も調理法も一般的――。
 とても寒い夜に両親が心を込めて作った普通のシチューだ。

(でも、なんて素朴で……なんて温かい、深い味なのだっ)

 いつの間にか震えが止まっていることに十七歳の宿屋の看板娘はまだ気付いていないけれど、廊下で彼女を手招きしたシチューの香りが体の中に染み込んでくる感覚は分かっていた。

「白く雪化粧した森に見えるわ。そのシチューは」
 母のスザーヌがぽつりと喋った。その内側でたくさんの具が息づいているシチューは、白い森と呼ぶのにふさわしかった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その時、木が寒さに震えるのとは少し違う響きで、どこか遠くの床がミシッと鳴った。しっかりした造りの〈すずらん亭〉では静寂に紛れてほんのかすかに聞こえる程度だ。シチューに夢中のファルナは気付かなかったが、母は小声で背中の夫に訊く。
「シルキア、起きたのかしら?」
「そうかも知れないね……」
 少し遅れて、相手のいらえがあった。しんしんと冴え渡る星の瞬きのように、父の声は静かな威厳と慈しみとに充ちていた。
 看板娘のファルナは一瞬だけ不思議そうに顔を上げ、スプーンを持ったまま瞳を見開き、小首をかしげた。しばらく同じ姿勢で静止していたが、匂いにつられてシチューへの興味を取り戻し、再び取りかかる。両親は頬を緩め、白い吐息を軽く洩らす。

 まもなくカッ、カッという硬い音が厨房の壁に響き始めた。早くもシチューの池は底を現したのである。量が減ると、玲瓏な空気は四方八方から襲いかかり、表面の温かさを剥いでしまう。
 急がないと冷めそうなのにファルナの動作は反比例して鈍っていた。スプーンの動きが落ち着き、口も緩慢になる。何よりもまぶたが、満腹と眠気と満足感でとろんと垂れ下がっている。

「おかわりは?」
 父が訊ねる。強制するわけでも、逆に相手を急かすのでもなく、ごく自然な言い方で。母もゆっくりと娘の方に眼差しを注ぐ。
 ファルナはスプーンを置き、唇を軽く舌なめずりしてから、両親に向かって座ったまま礼をした。少し寝癖のついた茶色の髪がこぼれ、父が持ち替えたランプの光を受けて鈍い光を宿した。
「ごちそうさまでした」
 その口調は安らぎにあふれた眠りの世界を彷徨うがごとく、いつもに増して穏和であった。温かなシチューは両親の愛――ファルナにとっては、まさに〈夢の続き〉と感じられたのだった。

 彼女は続ける。
「本当はもっと欲しいけど……朝まで我慢しますよん。ほっぺがとろけそうで、ファルナはまだまだ食べられる気がするけど、これ以上食べると寝る前に胃がもたれるのだっ。たぶん、きっと」
「それもそうね。ふふっ」
 母親のスザーヌは、夜更けにふさわしく秘やかに微笑んだ。

「他にも理由がありますよん……」
 最後の方のシチューの冷たさが、少しずつ現実を呼び覚ましてゆくのだろう。ファルナは食欲と温かさに充たされた優しい顔で、半分瞳を閉じ、明瞭な話し方で今の願いを語るのだった。
「早くシルキアに元気になって欲しいから、大好きなシチューをひと皿で我慢して、お空のユニラーダ様にお祈りするのだっ」
 辺境のサミス村では、ラニモス教は深くは浸透しておらず、土着の信仰と混じり合っている。それでもラニモス教の女神、聖守護神ユニラーダが恢復を司るのは、都会と何ら変わらない。

 微細に流れ落ちる銀色の月の粉は、根雪の上に奇跡の模様を映し出していることだろう。だが、それを見る者はごくわずかに過ぎない。真夜中に活動するキツネや鹿や山ウサギ――自らも白い帽子をかぶった背の高い針葉樹の木々たちくらいだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ふぁー」
 ファルナは口を大きく開け、時間をかけて生あくびをした。涙の泉がじわりと湧き、ランプの光が潤んでにじむ。空腹が充たされて身体の内側から暖まると、今度は眠気が堰を切ったように襲ってくる。丸椅子に腰掛けているとはいえ、腰や足先に力が入らず、視界が霞んで耳が遠くなってゆくのをおぼろげに感じる。
「ふぁっ」
 母のスザーヌは娘につられ、自分の内部から沸き出してくる眠気をかみ殺す。父だけが、じっとその場にたたずんでいる。茶色のひげをかすかに光らせ、母と背中を合わせたままの姿で。
 彼が掲げているランプの油は、いつしかだいぶ減っていた。

 大陸の中西部、内陸の山奥に位置するサミス村の冬の夜はすでに半ばを過ぎたが、闇はいよいよ深く、しんと冷え切っている。これから曙、黎明、そして早朝へと移りゆく中、氷柱は最も硬度を増し、束の間の宝石となって透明感を誇るのであろう。
 なんとか足の筋肉を張り、ファルナが立ちあがると、木の板は微かに鳴り響く。今まで足を置いていた場所から離れると、靴下を通して寒さが足の裏に染み込んでくるような感覚がする。
 暖炉の炎は魔女の奇怪な手のようにうごめき、三人の親娘(おやこ)の影法師はもてあそばれて、ゆらりと踊る。物の形が定まらぬ闇と光の輪舞は、どんな絵にも残せぬほど印象的で、しかも次の瞬間には人の心のごとく様相を変じるのだった。息を飲み込むと鼻と喉がハッカのように凍み、ようやく我に返る。

「食器は流しに置いておきなさい。朝に洗うからね」
 父はランプを反対の手に持ち替え、囁き声で喋りかけた。

「うん、なのだっ」
 ファルナはいつも以上に緩慢な動作で腕を伸ばし、スプーンを入れたままの空っぽのお皿を両手で持ち上げた。酒場の給仕で馴れている背と腰を伸ばす良い姿勢を保ちつつ、眠気でよろけそうになりながらも一歩ずつ床を踏みしめ、流しに向かった。
 石を重ねて作られた洗い場と、燃えはぜる暖炉の間には、幾つかの樽が置いてある。もともとの中身は新雪だったが、部屋の空気で溶け、冷たい飲み水となっている。ファルナはシチューの器を左手で支え、空いた右手で樽のふたを開けてずらし、小さな桶で水をわずかに掬い、お皿の表面に掛けて軽くすすぐ。
 茶色の髪が似合っている十七歳の看板娘、彼女の手袋は少し湿っていた。器を洗い場に置くと、かたんという接触音が夜の内側に響き、静寂の底へと染み込んでゆく――風のない池に垂らした雫が同心円状に広がるかのように。家の中に置いている樽の水が凍ってしまう晩もあるほど、何もかも無駄なものが削がれて生と死の彩りがはっきりする、寒い冬の盛りである。
 両親はファルナの後かたづけが終わるのを、ただ黙って見守っているのだった。それが済み、娘が顔を上げると、父は言う。
「暖炉を消してくる」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 父の背中が遠ざかり、暖炉の手前で黒い影になっている。ファルナは馴れた厨房を後ずさりし、木の壁にそっと寄りかかった。眠気がひどくて、やや平衡感覚がおかしくなっている上、膝に力が入らないのだ。落ちてくるまぶたを繰り返し持ち上げる。
 暖炉の消火に水を使うと、ものすごい湯気が煤けた匂いと一緒に立ちのぼり、やり方が悪ければ燃えていない薪までも湿ってしまう。燃えつきるまで待つ、という自然消火が基本だが、空気の取り入れ口を絞ることで消火時間を早めることは出来る。
 闇は再び満ち潮のように音もなく忍び寄り、じわりじわりと版図を広げつつある。それのゆっくりとした変化が凍えるような冬の夜を思い出させるのか、ファルナは小さく背中を震わせた。
「大丈夫?」
 そっと近づき、心配そうに声をかけたのは母のスザーヌである。すると娘は安らいだ微笑みを浮かべて、うなずくのだった。
「うん、お母さん」
 油が染みついて、少し黄ばんでいる厨房の窓は、外と中の温度差のために結露している。雫は合わさって流れるが、朝まだきの頃には動きをやめるだろう――白い氷の球と姿を変えて。

 父が戻ってくると、彼の掲げる消えかかったランプを道しるべに、三人の家族は厨房を後にしてもと来た道をたどり始める。暖炉の光と温もりの届く範囲を離れると、いよいよ手探り足探りの闇泳ぎとなり、寒さもしだいに身体の芯へ染み込むがごとく厳しくなってくる。ファルナたちは無意識のうちに歩く感覚を詰めていた。先頭をゆく父の上着の腰の辺りをファルナがつかみ、彼女を守るようにしんがりの母が続いている。ドアを開け、床が鳴るのを感じながら廊下を歩き、手すりに掴まって階段を登る。
 二階に来る頃には、三人の吐息は真っ白に染まっていた。それが夢と現実との境を示す薄い膜のように漂い、橙色のランプと、微妙に位置を変えた限りなく細い銀の月明かりが織りなす幻想的な木の道が、おぼろげに続いている。あれほどファルナの食欲をそそったシチューの匂いもいつしか溶け去っていた。

「部屋まで送ろう」
 父のソルディは前を向いたまま子音を立てて呟く。両親の寝室は一階だが、ランプを持たぬ娘のため、ここまで来たのだ。
 ちょうど、そこには妹のシルキアの療養している部屋のドアがあった。もともとは姉妹で使っていたが、今は両親の忠告を聞き入れ、風邪が移らぬようにファルナが出ていく形となっている。
 ふいに彼女は立ち止まり、壁に手を当てた。それから眠気の入り混じった声で、ゆっくりと精一杯の願いをかけるのだった。
「早く元気になって欲しいですよん、シルキア……」
「大丈夫だよ。朝になれば良くなっているさ」
 父が娘の不安を解きほぐすように語った。
「ええ」
 母も力強く同意した。

「おやすみ」
 ――。
 ファルナが眠い目をこすりながらドアを閉めるのを見届け、廊下を歩き始めてから、母のスザーヌはぽつりと想いを洩らす。
「あの子は、やっぱり〈お姉ちゃん〉なのね……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ファルナはぼんやりと瞳を開けた。朝の新鮮な空気を縫って、輝かしい鳥の唄は窓ガラスに染み込み、微かに響いている。
 真夜中の寒さに身をよじり、頭まですっぽりと毛布の海に沈めていたが、遠い明るさを感じて無意識に顔だけを出してみると――カーテンの隙間が白い縦線になり、まばゆく光っている。
「ん……」
 遅い時間に動き回った割には眠気はそれほどでもなく、むしろすっきりしている。毛布の中は体温で暖まっているが、息をすれば鼻や喉は冷え切り、耳は痛い。雪がくれた適度な湿り気のお陰もあり、十七歳の彼女の肌は若く自然で瑞々しかった。

 整えられていない髪の毛も気にせず、ファルナは再び毛布の中に潜ってしなやかな身体を丸めた。そして大きく伸びをする。
「んーっ、朝なのだっ」
 寝る頃には冷え切っていた両脚は、今や程良く血が通っていて、まどろみの世界へいざなう。彼女はこの柔らかな眠りが大好きだ。抵抗せず心を任せて、気持ち良く二度寝をしてしまう。
(どうせシルキアが起こしてくれますよん)
 意識の奥で考えていた彼女は、まもなく浅い夢に舞い戻る。
 ――と思いきや。
(シルキア?)
 墜落する、すんでのところで妹が病気だと思い出した宿屋の長女は、勢い良く上半身の厚い毛布を両腕で跳ね飛ばした。
「シルキア!」

 夜とは違った意味での緊張感が部屋の中を充たしていた。冷え切った空気は鋭い刃物のごとく身体を切り刻もうとするが、凝縮したつぼみの開花前を思わせる神聖で厳かな期待に覆われている。地元の良質の木で作られた焦げ茶のタンスや戸棚さえ、生まれ変わったように真新しい影となってたたずんでいる。
 曇りや雪で始まる数日が続いた後に訪れた、久しぶりの晴れた朝だ。耳を澄ませば、軒下から腕を伸ばした氷柱(つらら)が緩やかに溶けて、こぼれ落ちる雫の爽やかな音楽も拾える。

 起き上がったファルナは、珍しく躊躇せずに毛布を払いのけ、右足を床に下ろした。ゆうべから靴下は履きっぱなしである。
「うー。寒いのだっ」
 あわてて上着を羽織り、腕組みして震えながら扉を開ける。
 木の匂いのする廊下は光にあふれ、一瞬だけ眼が眩んだ。

 ファルナは目的の場所に着くと、冷え切ったドアノブに触れ、息を飲んで注意深く右に回し、音を立てぬように引いていく。寝息も咳も聞こえない。その時――誰かのひそやかな話し声が流れてきて、彼女はドアを半分開けた状態で静止してしまう。

「おはよう。ファルナ?」
 すかさず問いかけたのは、まごう方なき母の声だった。
 茶色の髪の看板娘は安心し、一気にドアを開けて顔を出す。
「おはようですよん」
 娘が冴えた目のまま、母の影響で覚えた中途半端な敬語で挨拶すると、ベッドの傍らの椅子に腰掛けた相手は微笑んだ。
「ねぼすけのファルナが自分で早起きするなんて珍しいわね」
「うん。あの、シルキアの具合はどうなのだっ?」
 風邪をひいた妹を起こさぬよう、娘はささやくように訊ねる。

 直後、返事は思わぬ場所からやって来た――。
「おはよう、お姉ちゃん」
 喉を悪くして、少しかすれた声になってはいるが、応えたのは確かに三つ年下のシルキアだ。病み上がりの妹は毛布の中で反転し、姉と似ている茶色の前髪を左右に分けて顔を見せる。

 表情を歓びに爆発させ、ファルナは妹のベッドに駆け寄った。
「シルキア! 気分はどうなのだっ?」
「うん、なんかもう、すっきりしてるよ。身体はだるいけどね」
「良かったですよん……」
 ファルナは大きく息を吐き出した。肩が軽くなった気がする。
「この薬が効いたみたいだよ」
 妹は空っぽになったシチューのお皿を指さした。ゆうべ厨房にいた時、両親が捉えた二階の物音はやはりシルキアだった。

「さあ、カーテンを開けましょうね」
 窓辺に着いた母が厚いカーテンを引くと、光の洪水が部屋の奥の方まで射し込んでくる。外は一面の銀世界で、待ち侘びた陽をたっぷり受けて白い海のように果てしなく広がっていた。針葉樹の上にも新雪がきらきらと輝いていて、枝は重みに耐えきれなくなると首を垂れ、雪の固まりがドサリと落ちる音が響く。

 それは長い冬のうち、最大の険しい峠を乗り越えたと感じられた朝であった。いまだに冷え込みは厳しいけれども、二月の〈すずらん亭〉は揺らぐことのない温かな優しさにつつまれている。

「シルキアが元気になったら、また外で、雪の塔を作るのだっ」
「うん……ありがとう、お姉ちゃん」

(了)



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