旅先にて 〜
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秋月 涼 |
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「この時間でお店が閉まってるなんて。ほんと田舎だわ」 ベッドの縁に腰掛けていた二十五歳のシーラは、そのまま上半身の力を抜き、後ろへ勢い良く倒れかかった。長い黒髪が一瞬だけ生き物のように広がり、すぐに収束する。古いベッドの脚はきしみ、ほこりの白っぽい霧が薄暗い室内に舞い上がった。 「ふぁーあぁ」 それから深い溜め息をつき、彼女は虚ろな瞳を軽く閉じる。 旅人のシーラはかなり辺鄙な地域に来ている。どうにかして夜になるまでにこの宿場町へ着くため、強行軍で朝から晩まで歩き通したせいか、足が熱を持って、しかも重たく沈んでいる。 「それに、お酒の飲めない夜なんて……」 「そんなこともあろうかと思ってね」 ランプの下で、何やら荷物をガサゴソと探っていた旅の連れのミラーが思わせぶりな口調で言った。二人は同年齢である。 彼は穏やかな表情の落ち着いた青年であり、この国では珍しい魔術を会得している。背丈は普通だが、女性にしてはかなり背の高い恋人のシーラと並ぶと若干低く見えてしまう。普段はのん気に構えているが、ここぞという時に踏ん張れる性格だ。 シーラの方も、これまたガルア公国には数の多くない聖術師だった。お酒とお金が大好きという困った性格ではあるものの、手入れの行き届いた肌や髪は瑞々しく、脚はすらりと長い。腐れ縁のミラーを振り回すこともあるけれど、曲がったことが大嫌いで、鋭い洞察力と判断力を持つ有能な大人の女性である。 「え?」 現金なシーラは、疲れを即座に忘れて素早く身を起こした。中毒まではいかないけれど、晩酌が習慣となっている。黒い瞳を期待に爛々と輝かせ、魔術師を見下ろして次なる台詞を待つ。 「これなんか、どうかな?」 ミラーが取り出したのは手のひらに載るほどのひどく小さなビンだ。振ると、水の揺れ動く微かな音が静寂の客室に響いた。 「素敵! 最高! ミラーさん、さすが気がきくわ〜」 シーラは有頂天だ。揉み手で駆け寄り、猫なで声をあげた。 「この際、何のお酒でもいいし、少しでも我慢するわ」 「じゃ、はい」 他方、ミラーは妙に冷静な口調で、機械的にビンを相手に差し出した。シーラの酒と浪費癖を心配している彼としては、まず彼の方から薦めることはない。にも関わらず素直にビンを手渡す、という時点でシーラは本来、もっと警戒すべきだったのだ。 「るんるん♪」 さて、シーラが鼻歌交じりにフタを回すと――。 ポンッ! 火にかけていた卵が破裂するような軽い爆発音が響いて。 蛇のごとき白い煙が吹き出した。 「きゃっ!」 短い悲鳴をあげて反射的に後ずさりし、シーラは目を見開き、その小さな妖しいビンを投げ捨てた。明らかに魔法の品物だ。 呆然としている彼女の目の前で白い煙は煙草のように流れ、しだいに黒髪族の間で使われている幾つかの文字を形作る。 た ま に は 休 肝 日 「はぁ?」 シーラがその意味を理解し、肩の力が抜けたとたん、煙は夜の空気の中に溶けていった。残ったのは空っぽのビンだけだ。 「なかなか面白いだろう? 前の町で見つけたんだよ」 仕掛け人の魔術師はここへ至ってようやく相好を崩し、勝ち誇って語り出す。シーラは当然、煮えたぎるような不愉快さが募っていて、文句の一つどころか引っぱたいてやりたい気持ちだ。 しかし歩き続けた疲れが一気に舞い戻り、夢から覚めきれなくて何も言えないでいるかのような、寝ぼけ眼に似た焦点の定まらぬ濁った視線で――それでも精一杯、相手をねめつけた。 そこでミラーはとどめをさす。 「お酒とは言ってないからね、僕は」 「バカバカしい……私、寝るわ」 今度こそ本当に脱力し、怒る気も失せたシーラは、全ての感情を忘れたかのような能面になる。襲い来る夜の重力に抗うこともなくベッドに寝転がり、毛布を頭からかぶって黙り込んだ。 「君の健康を気遣ってのことだからね。おやすみ」 恋人の様子に少し良心の痛んだミラーは、低い声で言い訳をつぶやいた。それから起き上がってそっと魔法の空きビンを拾い上げ、消えかかったランプの炎を一息で吹き消すのだった。 | ||
(了) | ||
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