港の宵

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 波止場もそう遠くない飲み屋街の一角であった。店内には何とも言えぬ洗練された雰囲気があり、鈍く光る柱の木目は情緒を醸し出している。カウンターは十席強あったが、そのうち半分くらいが埋まっていた。旅人風の男女の二人連れが居れば、酒を愉しむ中年の商人、短い髪に白い物が混じる年輩客もいる。

 二人連れの片割れである男は、名をミラーと云った。
 彼は冷えたグラスを片手に載せて、少し傾け、弄ぶ。
 揺れる氷塊は角が取れ、一つの小さな楽器となって――。
 透き通るほどに薄い緑に染まる硝子を打つ度、軽く響いた。
 ジンとアルコールの混ざった匂いが常に鼻腔を刺激する。

 洩れいづる深き紅の灯火は奇怪な光を投げかけ、物の凹凸をよりはっきりと見せる極めて繊細な影を落とした。遠く波の音が宵の旋律を奏で、潮の香をほのかに含んだ隙間風に、天井の行燈(あんどん)は微かに振れた。それがバーのカウンターに緩やかな時間を刻み、全てを流転させた――心に至るまで。

 奥まった席に座っている別の客が葉巻を持ち上げると、目つきの鋭い店主は素早くも遅くもない落ち着いた動作で、ほむらの揺れる油皿を渡した。高級な刻み煙草に火が移ると、男は無言のうちに皿を店主へ返し、それからしばらくは目を閉じて葉巻をくゆらせていた。酒とは違う安らぎを味わった男の口からは、吐息に乗せて艶美な煙の筋が立ち昇る。煙の流れは天井へ広がるとともに姿を消したが、独特の匂いの方は湖に落ちた水滴のように見えない斑紋を描いて、バーの空気に拡散してゆく。
 男が顔を動かすと、行燈の光を受けて黒眼鏡が紅く輝いた。
 そして髭面の店の親爺は無表情のまま、拍子をつけて瓶を小刻みに振り、注文を受けた追加のジントニックを造るのだった。

 最終的にその品が置かれたのは、先ほどの若い旅人ミラーの連れである二十代半ばの黒髪の女性、シーラの前だった。
 
 
(二)

「ジントニックお待ち」
 店主はグラスの中の氷を軽く鳴らし、馴れた的確な動作でシーラの前に注文の品を置いた。酒と場所の提供こそが自分の仕事とわきまえ、決して無駄口は叩かぬ。波の音さえ微かに響く――静寂の住まうバーの中で、客同士はささめき、笑い声も秘やかに響く。シーラは表情を変えず、目だけで礼を言った。
 一方、店主は威圧的でも卑屈でもなく、長年の職業人としての威厳と、歳経る哀愁に彩られた顔つきを少しも崩さない。ごく自然な態度で彼は引き出しを開けて平たい黒い石を手に取り、シーラの前に置いた。彼女の前には置かれている黒い石はこれで五枚目だった。他にも青や白の石が並んでおり、天井のランプに照り映えて、本来の色よりも全体的に赤っぽく見える。
 シーラとミラーの間には、旬の山菜を混ぜたガルア風ピザや、生魚の刺身の切れ端が残る陶器、口直しに注文した野菜スープの器が見える。店主が置いた石は伝票の代わりであった。

 シーラは何のためらいもなく冷えたグラスを持ち上げ、少しずつ角度をつけるとともに艶めかしい唇を近づけていった。しだいに嗅覚を打つ蒸留酒のアルコール臭は新しい期待を高める。

 そして一筋の細い水の流れとなった透明な液体は唇の先端を湿らせ、歯の隙間を刺激し――次の刹那、深き味わいが広がる。群青色の夜に光が生まれ、明け初めてゆくかのように。
 まぶたを閉じ、温くならない程度に舌の上で転がしてみる。いつもよりも高級な品は、さすがにそれだけ払う価値があった。
 飲み込めば、喉を焼いて胃を火照らせ、身体に染み込んだ。現実はしばし遠ざかり、心には安らぎと満足感が満ちてゆく。

 彼女の横顔を覗き込むミラーの黒い瞳は大きく見開かれた。恋人の白いうなじ、女性らしい華奢な肩の曲線、旅から旅の生活にしては良く手入れされた長く麗しい後ろ髪は朧気に瞬く。
 外で風が吹くと天井の紅い炎が揺れて濃い陰影を変化させ、瞬間ごとに彼女を別人にする。ミラーは思うのだった、何人ものシーラがいるようだ、と。行燈の光だけでなく、五杯目の酔いのせいもあるのだろう――恋人の頬はほのかに染まっていた。
 
 
(三)

 ミラーは、改めてシーラに惚れ直したのだろうか?
 彼は腐れ縁の恋人の名を、優しく静かに呼ぶのだった。
「シーラ」

 すると相手はゆっくり顔をもたげ、未だに夢の中を漂うかのような焦点の定まらぬ目つきで、隣に座っている男を見上げた。
「何?」
「まだ飲むのかい?」
 ミラーはうつむきがちに問うた。その表情は読み取れない。

 黒髪の女性は少し不服そうに、来たばかりの蒸留酒のグラスを爪で弾いた。その中身はいつしか半分程度まで減っている。
 さらに声を押し殺し、口をシーラの耳元に近づけ、男は言う。

「……僕らには似合わないんじゃないかな、こういう雰囲気」

 重いため息ののち――。
 しばらく困惑と苦悩を露わにし、彼女にしては珍しく頭を抱えて考えに沈んでいたシーラは、うめくように掠れた声で呟いた。
「残念ながら……認めざるを得ないわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 バーを出た所で潮の香を帯びた夜風に吹かれていたシーラは、急速に酔いが醒めてゆくのを感じていた。北国ガルアの春にはまだ寒さが居座っている。彼女はコートの前ボタンを閉じ、相棒を待っていた。支払いを終えてミラーが出てくると、彼女は少し眠そうな目つきで、腕を高く突き出し、景気良く宣言する。
「さー、飲み直そう。もっと安い店でね」
「まだ飲むんかい……せっかく仕事にありついたのに」
 軽くなった財布を開き、これ見よがしに見せつけて、ミラーは情けない声を出した。シーラの方は語気を強めて口答えする。
「だから、お祝いじゃないの。違う?」

 本人はあまり酒を飲まず、無駄遣いも控える堅実な性格のミラーはさすがにむっとして相手を睨んだが、すぐに肩を落とす。
「たまには奮発して、少し高級で静かな店に来れば抑制するかと思ったんだが。無駄にお金がかかっただけだ。失策だった」
「だって、美味しかったけど、あれじゃあ飲み足りないもの」
 とは、もちろん旅の聖術師、二十五歳のシーラの弁である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「早く、次のお店を探しましょ。ねえ?」
 シーラに強引に腕を組まれると、ミラーはやむを得ず応じる。
「まあ、仕方がない……今夜だけは許してあげよう」
「さーっすがミラー! それでなくっちゃ!」
 褒め称える恋人の言葉に何となく釈然としない思いを胸の奥に懐きつつも、結局、最後まで付き合ってしまうミラーだった。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】