一番あったかい暖炉について 〜
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秋月 涼 |
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子供たちが割って歩いたのか、水たまりの氷は粉々に砕かれていた。その破片が朝の光に瞬いている。ひときわ背が高くて目立つ一本松の影が小さな広場に長く落ち、伸びている。 古いけれども歴史を感じさせ、がっしりと無骨に、三階建ての木造の商店が並んでいる。塀も庭もなく、通りに面してすぐに両開きのドアが見え、パン屋や八百屋など、いくつかは開いていて活気があったが、乾物屋や雑貨屋などは閉まっていた。どの店も正面の窓は広く、営業中は中の様子が伺えるようになっていた。店と店の間には狭い路地があり、その背中に囲まれたささやかな共同庭園へと続いている。看板には、それぞれの店を端的に示す絵入りのマークが描かれ、意匠が凝らしてあった。 「寒いよぉ」 もやの消えかかったズィートオーブ市の旧市街を歩きながら、しきりに身を縮めているのは、十六歳のリュナン・ユネールだ。やや痩せて、貧弱なリュナンの身体は、今やコートやマフラー、帽子や手袋の厳重装備で着ぶくれしていた。顔色は白っぽく、金の髪はきちんと結ばれているものの、あまり艶がなかった。 「大きな暖炉で、町中を暖められればいいのになぁ」 居眠りが多く、いつしか〈ねむ〉という愛称をつけられたリュナンの浅葱色の瞳は、とろんとして夢から醒めきっていない。ぬくもりの残っていたベッドを恋しげに思い出しているのだろうか。 「ならさぁ、ねむ、一番あったかい暖炉、知ってる?」 肩から布製の鞄を提げ、歩きながら胸の辺りをドンと叩いたのは、赤毛の同級生サホ・オッグレイムだ。長袖に長ズボン、コートという冬らしい格好はしているが、生地はどれも薄手だった。肌はうっすら日焼けし、手足の肉付きも良く、健康そのものだ。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「それはね、あたいだよ」 サホはいたずらっぽく笑うと、自分の心臓の辺りを指さす。 その時、北風が通りを駆け抜け、話は途切れた。さすがのサホも背中を丸めるほどの底冷えの流れで、リュナンの方はうめき声をあげながら斜め下を向いた。顔だけはどうしようもない。 「うぅぅ〜」 それが済んで一段落すると、リュナンは歯の隙間から溜めていた息を吐き出し、半信半疑の口調で友に訊ねるのだった。 「あの……サホっちって、暖炉だったの?」 「へぇ?」 思わず、サホがすっとんきょうな声をあげると、取れたての新鮮な野菜を売っている八百屋の中年男が驚いて振り向いた。 混乱した頭の中を片づけながら、サホは笑うような怒るような、呆れるような情けないような顔で、こう説明するのだった。 「違う違う、ほんとに暖炉じゃなくて……うーん、例えだよ。つまり、自分の身体(からだ)が、暖炉の代わりなんだってこと!」 リュナンはしばらく瞳を瞬きつつ、友の言葉を噛みしめ、理解しようと努めていた。その間、サホは色々なことを補足説明したくてウズウズしていたが、相手の答えを我慢して待っていた。 「そうなの?」 ようやくリュナンは簡素で曖昧な返事をした。が、たったそれだけでは悪いと思ったのだろうか、すぐに質問を重ねてみる。 「ねむちゃんの身体の中にも?」 「そう。誰の身体の中にも、暖炉はあるんだから。部屋をあっためるのも一つの手だけどさァ、内側からが一番、効くんだよ!」 サホはしだいに、普段通りの冷静さを取り戻し始めていた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ねむ、朝ご飯、ちゃんと食べてる?」 サホが訊ねると、リュナンはどぎまぎしながら目をそらした。 「うん、ちょっとは……」 「だめだよ、この暖炉は、食べ物が一番の燃料なんだから!」 地毛の赤みがかった髪を朝の風になびかせて、さっそうと歩きながら、サホは空いている方の手で胃の辺りを指し示した。 「サホっち、お父さんとお母さんと同じこと言ってる」 ぼやいたリュナンは、ややうつむき、足下の石畳を見つめながら呟いた。弱い口調で、少し口を尖らせ、言い訳を始める。 「だって、朝からたくさん食べると、気持ち悪くなるから……」 「ちょい待ち。いいもんがあんの!」 サホは肩に掛けていた布の鞄を持ち上げ、歩きながら左手で内側の留め金を外し、その中から茶色の紙袋を器用に取り出した。ほとんど消えかけた微かな香ばしさが微かに現れ、漂う。 「ハイ、これ」 笑顔とともに、サホは友の目の前へ茶色の袋を差し出した。 「え?」 半信半疑の様子で受け取るリュナンを、サホはすぐに促す。 「開けてみれば分かるって!」 言い終わるや否や、十五歳の赤毛の少女の健康的な身体が、空腹を告げる低音を鳴らした。さわやかな朝の空気の中、それは一緒に歩くリュナンにも聞こえるほどの大きさだった。 「起きてから、時間なかったから、途中で買ってきた」 さすがに恥ずかしかったのか、サホはそっぽを向く。横顔は勝ち気な普段と裏腹に、はにかんだ微笑みだった。くすんだ赤い前髪が港湾地区の方から流れてきた潮の香と混じり合い、さらさらと空気の流れに合わせ、蝶の羽のように舞い踊っていた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 指がやや短く、あまり形が良いとは言えない手を動かし、リュナンはガサゴソと音を立てながら袋の口を広げた。抱きかかえるようにして中身を改めると、見えない霧になってあふれ出す香ばしさとともに、横長の大きなパンが垣間見えた。嗅覚の刺激を受け、サホは湧き上がる唾液に耐えきれず、説明を始める。 「ここのパン、あたいの小遣いで頻繁に買えるくらい安いけど、腹持ちがいいし、重宝してんだ。味はまあ、普通だけどサぁ」 「美味しそう」 と洩らしたリュナンの声は、言葉とは裏腹に堅く、それほど感銘した様子は見られない。まぶたが落ちかかり、顔色が冴えなくて眠そうなのはいつも通り――せっかくのパンに食欲をそそられるわけでもなく、それどころか茶色の袋を抱きかかえたまま、ほっそりした色白の腕を伸ばし、さっそく親友に返そうとする。 サホの顔は少し曇ったが、新たな希望を灯らせ、提案する。 「半分こにして食べよ。半分なら入るっしょ?」 「うん……たぶん」 リュナンは友の厚意をむげに断る気にはなれず、観念してうなずいた。手袋を外して四分の一ほど千切り、残りをサホに渡したのだが、相手は〈少ないよ、もっと食べなよ〉と反発した。軽い押し問答の末、リュナンの分担は三分の一ほどに落ち着く。 「むぐ、むぐ……んー、んまい」 サホはもう夢中でかじり付き、顎と舌を動かしている。歩きながら食べれば、細かいくずが道端に落ちる。それはきっと、街の小鳥たちが掃除してくれるだろう。冬の朝日は低く、空はどの季節よりも青く澄んでいた。温暖なズィートオーブ市はめったに雪は降らず、それどころか冬は空っ風に見舞われ、晴れた日が多い。踵の高い洒落た靴を規則的に鳴らし、背の高い若い女性が通りを横切っていく。学舎へ向かう子供たちもいる。賑やかで穏やか、しかも秩序のある旧市街だ。一日の始まりに特有の、期待感が街のあちらこちらに薄い靄となって漂っている。霜はほとんど下りず、郊外では冬野菜も盛んに栽培されている。 「……」 リュナンは浅黄色の瞳を瞬きし、正面を見据えたまま、何度も何度も繰り返しパンを噛んでいる。それを飲み込むと、ようやく次の秘匿に取りかかる、という段取りで、そうこうするうちにサホのパンはリュナンのと同じくらいの小ささに収縮していった。 最後のかけらを口に放り込んでから、唇をぐるりと舐め、袖で拭き――当座の腹が充たされたサホは自信たっぷりに語る。 「で、これで暖炉に薪をくべたことになるから!」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「……んっ」 リュナンは喉を鳴らした。噛み砕いたパンのかけらを、飲み物無しに何とか飲み込むと、胃の辺りに軽く右手のこぶしを重ねた。苦しかったのだろうか――うっすらと涙を浮かべているが、それでも朝食の礼はきちんと親友のサホに伝えるのだった。 「ごちそうさま」 「お粗末様。じゃあ、少し落ち着いたら、薪を燃やすからサぁ」 お腹いっぱいという訳にはいかなかったが、当座の食欲が充たされたサホは満足そうに語った。授業が終わって帰宅してから、家業や家事の手伝い、弟たちの面倒で忙しい彼女にとり、食べ物は身体だけでなく心をも満足させてくれる元気の源だ。 「ふーん」 半信半疑なのだろう、リュナンはあまり気のない返事をした。学院では主に聖術と妖術を専門に勉強し、詩を好み花を愛でる十六歳の少女は、割と素直に物事を受け容れる性格である。 ところが自分の持病である喘息や、身体の弱さに関する小言や助言には、何故だか無性に反発したくなるのだった。それは両親に対してはもちろん、たとえ親友のサホであっても、その類の反抗心を抑えられない。相手が自分のことを心配してくれているからだと痛いほど分かっていても、なかなか実践する気にはなれないのだ。長年に渡って調子を崩してきた彼女は、丈夫な身体になるという点について――淡い夢を取り越してほとんど諦めていたし、健康に関して斜に構えている部分もあった。 「どいた、どいたー」 「今日の講義、すげー憂鬱なんだよな、俺。だってさ……」 「そうなんさ。最近、あっちの方じゃ大漁続きでよォ」 「ええ。葉が落ちてからは、掃除もだいぶ楽になりましたわ」 ズィートオーブ市の旧市街は、かつてはロンゼ町と呼ばれていた商業で賑わう由緒のある町だ。たいがいの建物は三階建てで、一階が店になっており、その上が住まいで、倉庫代わりの屋根裏部屋と煙突があった。各地の文化を貿易商が運んできたからか、木造の家、石の家、煉瓦の家と、種類は豊富だ。 下水口の隙間から洩れてくる嫌な臭いに息を止め、冬の陽光に手をかざす。朝から馬車の行き交っている表通りからしばし離れ、近道となっている短い坂にさしかかると、急に閑散としてサホとリュナンの靴音は高らかに響いた。見上げると空に続いているような小径に、表通りのような並木はないが、道の両脇にささやかな花壇がしつらえられ、春の種が埋められている。 「早く、町が温かくなって欲しいな」 リュナンは相変わらず寒そうに、首をすぼめて小さく首を振った。防寒具を身につけた姿は重そうで、本当は痩せているのに着膨れし、隣の健康的な赤毛の少女よりも体格が良く見える。 そのサホはいよいよ話題を引き戻し、一気に核心へと迫る。 「自分の暖炉で、すぐあったかくなるよ。ねむさぁ、本物の暖炉を想像して欲しいんだけど……思い切り燃す時、どーする?」 「……油を注ぐか、風を吹き込むか」 と、やや不機嫌そうに答えた友達を指さして、サホは叫ぶ。 「そーそー、風。風さァ!」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「本物の暖炉だってさぁ、新鮮な風を送り込んだり、薪を入れ替えてかき回したりすれば、新しい炎がメラメラ燃えるっしょ?」 面白い悪戯を思いついた場合に特有の、水を得た魚を彷彿とさせる生き生きとした口調で、赤毛のサホは身振り手振りを交えつつ話し続けた。自分の考えを押しつけるわけではなく、あくまでも相手に同意を求めて聞いているのだが、彼女の頭の中では面白い考えや表現が次々と浮かんでは弾けているようで、それを言葉に置き換えるのがまだるっこしいような様子をしていた――というのも、歩きながらむず痒そうに肩を上下させたり、落ち着きなく揺すったり、視線の行く先が現実の街並みを通り越して、楽しい思念の世界に焦点が合っていたりしたからだ。 さて、いつもなら話に乗ってくるリュナンであるが、事は自分の身体に関係していたためか、慎重に言葉を選んで諾った。 「うん……そうだね」 「あたいらが持ってる一番あったかい暖炉の燃料は、食べ物。食べてから、たくさん風を送り込めば、よーく燃えるんさァ!」 満足げに背を伸ばして顎を引き、軽く胸を張ったサホは、口元が緩んでくるのを我慢できなかった。この後の〈作戦〉にリュナンがどう反応するのかを早く知りたくて、楽しみで仕方がない様子である。鼻歌を唄いながらにやけていると、リュナンは前を向いたまま小さなため息を洩らして、白けた声で言うのだった。 「はぁ。へんなサホっち」 「ねむが寒いなんて言うから、あたいの心に火がついちゃった」 冗談も絶好調のサホだったが、他方、相手は黙ってしまう。はしゃいでいたサホもしだいに頬がこわばり、会話は途絶えた。 サホは常々、喘息持ちで病弱のリュナンに早く元気になってもらいたいと考えていたが、そのことは二人の間で暗黙の禁忌になっており、あまり強くは言えなかった。だが、今日の着膨れした姿と、投げやりな健康管理、弱気な言葉には、サホを奮い立たせるものがあった。押しつけがましくならないように助言をするつもりだったが、意外と頑固なリュナンは反発していた。 珍しく気まずい距離感が漂っていた親友の二人だったが、少し機嫌を直してサホの遊びに付き合う素振りを見せたのはリュナンの方だった。せっかく相手が自分の身体を心配してくれているのに、あまり無下に扱うのは良くないと反省したのだろう。 「サホっち。風を送り込むってことは、息を吸えばいいの?」 朝もやはほとんど溶けて、冬の澄んだ空気がより蒼く見せる朝の空が、ズィートオーブ市に拡がっていた。それはまるで、都市自体が眠りから醒めて、瞳を開いていくようにも感じられた。 サホは隣を歩いている友の顔を覗き込んだ。さっきまでのしおれていた気持ちは一掃され、再び期待が溢れてくる。楽しげな様子があっという間に芽を伸ばし、くきを太らせ、幾重にも葉を付けて、つぼみを膨らまし――見えない花を周りに咲かせた。 いい音で指をパチンと鳴らし、サホは明るく合図する。ついに意を決して真面目な顔をした骨董店の働き者の長女は、相手の耳元に口を近づけていった。二人はどちらからということもなく立ち止まる。そしていよいよ、サホは〈作戦〉の開始を告げた。 「じゃあ、そろそろ風を吹き込もう。ちょっと無理矢理だけどさ」 「無理矢理……って?」 聞き終わるや否や、リュナンは強い力で手を握られ、引き寄せられた。痩せ気味で筋力の弱い彼女は、ひとたまりもない。 「えっ?」 「こうするの!」 サホはリュナンの手首をつかんだまま離さず、相手に辛すぎる負担にならないよう、やや遅めの駆け足を始めたのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「えっ、走るの?」 まさに寝耳に水のリュナンは仰天し、目を白黒させていた。 彼女は二、三歩進んだところで足を出すのを躊躇し、困惑気味に一瞬だけ〈止まりたい〉という仕草も見せたが――何故か、それ以上は頑なに抵抗することはなかった。本当に嫌ならば、親友とはいえ断固拒否することも出来たはずだが、病弱な少女はサホの引っ張る力に負けるような形でゆっくりと走り始める。 半信半疑と言うよりも、リュナンにとってはほとんど〈疑〉に近い無茶苦茶な健康法であったはずだが、食いしん坊のサホの貴重な朝食を分けて貰った手前もあるし、ちょっとだけなら試してもいいかな――という気分が芽生えていたのかも知れない。 なじみの店や、好ましい色と形をしている家、葉を落とした並木道、狭い路地裏の近道の景色がいつもよりも早く流れて、視力が追いつかず、リュナンは軽いめまいを覚えていた。歩みを進めるたびに、足の裏から振動と刺激が頭の方に登ってくる。 空気が動いていた。歩いていた時は、何度も行き交う冷たい北風が身に染み込んでくるだけで、流れは受動的にしか感じることができなかった。しかしながら今は明らかに異なっている。 「はぁ、はぁ……ひゃあ〜!」 細い通りに集約された鋭い風がぶつかり、殊にリュナンをふらつかせた。前屈みになり、速度は亀ほどに落ちてしまう。サホの赤毛は逆立ち、リュナンの上着の裾は激しく波立っている。 「ねむ、頑張って!」 サホが叫んだとたん、高らかな声で笑いながら吹いてくる風の勢いには翳りが見え始めた。つないだ親友の手から力をもらって、一緒に何とか突き進むことで、見えない道が開けてゆく。 そう、もはや空気は受動的に感じるものではなく、彼女たちこそが能動的に影響を与えていけるキャンバスに変化していた。 「はぁ、ひぁ、はっはっ……」 風がやみ、二人は改めて駆け出した。地面に舞い降り、蹴ることを繰り返せば、景色が上下に揺れ動く。旧市街はレンガの路が整備されており、走りやすかった。その隙間には、溶けだした氷のかけらが光の洪水に輝いている。裏道を通れば、庭のない家が窓から洗濯物を干している。急に立ち止まり、興味深そうな様子で道を空けてくれる子供らを避けて、二人は進む。 「ごめーん。ありがとー」 サホは軽快な言葉を残し、リュナンの手を引いて住宅地の中の緩い坂道を登る。二人が通っている学院まではあと少しだ。 「はぁっはあっ、んぐ、はあっ……」 仕方なさそうに走り始めたリュナンは、しだいに余裕のない表情になってきている。口は開きっぱなしになって感覚がおかしくなり、とっくに息は上がっていた。額や背中に汗が生まれ、唾が乾いて、喉は張りつくようになった。風邪を引いて寝込んでいる時以外で、これほど喉が渇いたのは本当に久しぶりだった。 サホはリュナンに合わせ、ほとんど早歩きと変わらないほどの速さで走ったため、余裕がある。が、もともと体力のない上に着ぶくれしている親友の疲労は想像以上に激しいようだった。 その時、振り向いて的確な言葉をかけたのは、もちろんサホである。何気ない調子で、友の暖炉の調子を確かめたのだ。 「マフラー預かるよ?」 「……」 渡りに船とばかり、蒸し風呂になっていたリュナンはその場に立ち止まってサホの手を放し、すぐさま襟元にからみついた厚いマフラーを取り外しにかかる。鼓動が焦って刻を奏で、息はそれこそ暖炉のふいごのように慌ただしい。頭はふらつき、足は鉛のように重く、姿勢は不安定、手先からは血の気が引いている。普通に立つのさえ難儀し、マフラーを外すのは重労働だ。 「はぁ、はぁ……」 「ほーら、燃えてきたっしょ? ねむの暖炉が!」 額のうっすらとした汗を手で拭き、サホは嬉しそうに言った。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ふぅ、ふぁ……」 何とかマフラーをサホに押しつけるように手渡し、リュナンは再び歩き出そうとした。ところが膝に力が入らず、酔っ払いがふらつくような足取りになる。鼓動は激しく叩きつけるように鳴り、こめかみは激しく上下している。頭が痛んで意識が朦朧とし、貧血の症状を覚えると、裏通りの景色が急激に遠ざかった。 「あっ」 「ねむ!」 少し心配そうに見ていたサホは、とっさに後ろから肩を抱き留めるようにして、倒れそうになる友達を支えた。厚手のコートに隠された華奢な腕に気づくと、サホは人知れず顔を曇らせる。 (あたいの考え、無理して押しつけちゃったかな) 「はあ、汗が、ふぁ……」 止まると、リュナンは汗が吹き出してきた。みるみるうちに額に膨らんでゆく生暖かい粒や、髪の毛の間から湧き出てくる流れは、幾筋か頬を伝って合わさった。目に染み込んだり、顎の辺りから地面にこぼれ落ちたりする。背中や腿も湿っている。 「はぁ、はぁ、もう、だめ!」 彼女は膝に手を付いて上体を前屈みにし、腰の支えをサホに任せて固くまぶたを閉じた。手元の荷物が落ちるが、拾い上げる余裕はなかった。首筋は叩きつけるように鼓動を刻み、心臓は壊れそうなくらいに全力で血液を送り出す。目をつぶると世界が揺れているように感じ、酔いそうなのでうっすらと瞳を開けるのだが――開けているのも目が染みて辛いという有様だった。 「ふぅ」 サホはリュナンの体力のなさに軽くため息をつきながらも、素直に挑戦してくれた友を心からいたわり、鞄から吸湿性の綿織物(タオル)を取り出していた。それを相手の額に押しつける。 「ほら、拭いて」 リュナンは精一杯に腕を持ち上げて受け取ると、前屈みに立った状態でサホに身体を預けつつ、不器用な動かし方で顔や頭を拭くのだった。せっかく整えた金の髪は乱れがちになる。 それから渇いて張りつくような喉でつばを飲み込み、しかめ面で苦しげにつぶやいて、さも邪魔そうに身をくねらすのだった。 「重いよ、暑いよ……」 冬の朝であっても、ささやかな日溜まりは、日陰とは比べものにならないほど温かい。サホは出来るだけ優しく呼びかける。 「ねむ、コート脱ぎなよ」 「うーん」 リュナンは頭を押さえ、返事をした。ようやく激しい呼吸は治まりつつあったが、コートのボタンを外すのは苦労しそうだった。 サホはしだいに責任を感じ始めて、ボタンを代わりに外そうかと考え、手を伸ばしかけた――が、やんわり相手に払われる。 「自分でやるよ」 少女のこめかみは、未だに普段の倍ほどの速度でリズムを刻んでいた。それでもリュナンはわずかな膝の筋肉に力を注いで、しだいに自分の力で立ち上がってゆく。サホにかかる体重はその分だけ減少し、最後はなくなった。引き続き、リュナンは上着の大きな茶色のボタンを、上から無造作に外していった。 通り過ぎる風は確かに冷たいのだが、今は清々しくもある。 「あぁ、きもちい」 服の内側で蒸れた汗はいい気がしないが、燃焼の峠を越えたリュナンはいつの間にやら、何となく機嫌が良くなっていた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「良かったよ、そう言ってくれてさぁ」 サホはほっと胸をなで下ろした。こう言う時まで無理に自信たっぷりな様子を装ったりしない。そして彼女は素早く膝を曲げ、リュナンが足元に落とした鞄を拾い上げて、既に預かっていたマフラーと一緒に抱える――サホなりの責任の取り方なのだ。 「はい。……でもサホっち、いきなり無茶だよ」 リュナンはというと、ボタンを外したばかりの分厚いコートからまずは細い右腕を抜き、次に左腕を抜いて適当に畳み、サホに手渡す。すっかりわがままなお姫様気分を味わい、サホをわざと侍女のように扱い、さっきの〈全力疾走〉の反撃をしている。 「ごめん。ちょっと強引に暖炉を焚き過ぎちゃった?」 サホは首を傾げ、舌をぺろりと出して、いたずらっぽく笑った。 「よいしょ」 間もなくリュナンは、ほとんど手ぶらで――右手に握っていたのは汗拭き用の綿織物だけだ――少しふらつき気味に最初の一歩を踏み出した。爽快な北風に撫でられて蒸れた空気が解放され、汗はほとんど止まる。急速に寒さが舞い戻ってくるが、不安定な鼓動は収まっておらず、身体の芯はまだ熱かった。 世話好きのサホは嫌がりもせずにリュナンのコートと鞄とマフラーを重ねて持ち、リュナンの横顔を覗いて嬉しそうに言った。 「ねむさぁ、いつもよりも元気そうだよ!」 病弱で食欲が乏しく、普段は顔色が白っぽいリュナンだったが、今は上気して血の気が通っている。頬が紅くなって不健康さは消え失せ、本来の可愛らしさが前面に出ていた。額や頬は汗っぽく、色褪せた黄金の髪は乱れてはいたが、はにかんだ微笑みはいつもよりも遙かに〈十六歳の少女らしい〉顔つきだ。 「そうかな? 確かに、身体は温かくなったけど……」 重装備から解き放たれたリュナンは明言を避けたが、言葉と裏腹に足取りは軽かった。家々の窓辺を飾る小さな鉢植えの、冬に咲く赤い花の彩りも、普段よりいくぶん濃いように思える。 「でもさ、ちょっとは楽しかったっしょ? 朝から体を動かして」 サホが問うと、リュナンは額に皺を寄せてうなり声をあげる。 「うーん」 するとサホはコート類を抱えたまま、リュナンに詰め寄った。 「ねぇ、ねむぅ?」 「……まあ、たまにだったら、いいかも」 リュナンは苦笑し、ついでに華奢な肩をぶるっと震わせた。汗が乾く時に、せっかく上がった体温を次々と奪っていったのだ。 「くしゅん」 ついに鼻を抑えてクシャミをしたリュナンは、親友に手を差し出した。預けていた上着を受け取り、前のボタンはかけずに羽織った。鞄も返してもらい、その中にマフラーを丸めて入れる。 持ち物を渡して身軽になったサホは心配そうに助言をする。 「学院に着いたらさぁ、速攻で更衣室で汗を拭いて、替えの下着に着替えちゃいなよ。走ったぶん、多少は早く着きそうだし」 「うん。……あぁ、まだ鼓動が変だよ〜」 すでに呼吸も落ち着き、いつもとほとんど変わらない速度で歩いていたリュナンは、胸のあたりに手を置いて明るくおどけた。 低い場所に留まっていた太陽は徐々に天空の坂道を登り、池の氷は音もなく溶けていった。地面に落ちていた複雑な長い影は動き、形と彩りを新たにしてゆく。冷たい空気に身も心も冴え渡り、道行く人々は優雅に挨拶を交わす――それがズィートオーブ市の旧市街に暮らす商人(あきんど)たちの誇りなのだ。 「おはようございます」 「どうも、おはよう」 「ねむ、今度はもうちょっと薄着で来なよ。そしたら、もっと楽に暖炉を燃やせるからさぁ。最初はキツイと思うけど、運動して、食べて、肉が付いてくれば寒さも和らぐし、病気も吹っ飛ぶよ」 サホはなかなか言い出せなかった心からの願いを、やや大げさに身振り手振りをつけながら、素直な言葉で親友に伝えた。 「うん。サホっち……ありがとう」 リュナンは、今度は胃のあたりを手で抑えた。こんな朝早くから不思議なことだが、この感覚に間違いはない。ほんの微かな欲求の波――彼女は確かに、空腹感を覚えていたのだった。 「サホー、ねむー、おはよー! 今日は早いじゃん」 近道の細い小路を出て書店や喫茶店の並ぶ〈学生通り〉に現れた二人は、馴染みの声を耳にして、すぐ後ろを振り返った。 「おーっす、ジェイカ」 「おはよー。ねむちゃんたち、今日は遅刻じゃないよ〜」 リュナンは汗拭きのために借りっぱなしだった綿織物を高く掲げて振った。同じ学科の友達と合流し、通学は賑やかになる。 「あれー? ねむ、なんでタオルなんか持ってんのー?」 彼女たちが通っている学院はもう、目と鼻の先である――。 | ||
(了) | ||
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