雪の積もりし朝 〜
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秋月 涼 |
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(一)
後から考えれば――。 それはこの冬での最良の朝の一つに挙げられる日だった。 二人の若い女性が、まだ乾ききっていない髪や首のうなじの辺りから温かな湯気を上げながら、ゆうべの雪でうっすら白く化粧した湯治町の細い裏通りをやや足早に歩いていた。年月を経て黒ずんではいるが、立派なたたずまいの木造の家々の庇に沿っていけば、雪を踏むこともなく進んでゆける。軒先からは長い鼻を思わせる氷柱(つらら)が垂れ下がり、雫がこぼれる。 空気は、雪の朝独特の、しっとりした湿り気を帯びている。 「おはようございます!」 「ん? ……おぉ、おはようさん」 老婆と挨拶を交わし、すれ違ってから、リンローナは言う。 「朝から温泉に入れるなんて、ほんと極楽だよね〜!」 「ほんとよねぇ」 その前を歩いていた姉のシェリアは、首を左側に九十度ほど動かして妹に視線を送り、機嫌が良さそうに相づちを打った。 早起きの妹に肩を揺り動かされてもベッドからなかなか出ようとしなかったシェリアは、何とか這いだしてやたら眠そうな眼(まなこ)のまま準備をした。温泉に行く途中も、寒さと眠気でほとんど目が開いておらず、やや荒れた唇は不機嫌そうに結ばれていたが――それと今の軽い足取りで歩いてゆく十九歳の女性とは、とても同一人物とは思えないほどの変貌ぶりだった。 辺りには鼻をつく独特の硫黄の匂いが、時に弱まり時に強まりながらも常に流れている。夏は日よけ、今は雪よけとして役立っている民家や商店の庇の下を伝い、暖かい上着を羽織った姉妹は歩き続けている。トンネルをくぐり抜けるかのように。 (二)
メラロール市から北東に向かい、主な街道を外れた山の中の温泉街に、朝陽はまぶしく降り注いでいる。新しい雪は、その一粒一粒が宝石であるかのように光の加減で色とりどりにきらめく。農具や井戸に積もった分を眺めると、ゆうべ降ったのは大した量ではないようだが、そもそも根雪の深い山野辺の村だ。 入浴後は適当に髪留めで結んだだけなので、透き通るかのように美しく若い薄紫色の前髪は、時折落ちてくる。それをしきりに掻き上げながら、姉のシェリアは感心したように洩らした。 「筋肉痛には効くわね」 「うん!」 背が高く早足の姉に遅れないようについていくのがやっとの、小柄なリンローナは、白い吐息混じりの返事とともにうなずく。 姉妹は他の仲間とともに冒険者ギルド(組合)の仕事の斡旋を受け、王都メラロールを出て、冬場の短期の小遣い稼ぎに来ていた。山間部の温泉街の雪かきと雪運び、雪捨てである。 メラロール市からそれほど遠くないため、湯治客が多く訪れ、中には貴族もやってくるこの村では、雪かきの人員が不足している。あまり数の多くない村人たちは湯治客の料理などに追われて忙しいからだ。二人が作業に入ったのは昨日だが、それは姉妹の予想以上の重労働だった。指示された場所によってはかなりの積雪があり、根雪は硬く凍りついて重かったからだ。 かろうじて除雪されている狭い通りは曲がりくねって続いていたが、ついに家々が途切れ、左手には雪に埋もれた畑が現れる。そこまで来てシェリアは立ち止まった。妹がすぐ追いつく。 視界が、景色が広がってくる。なだらかな畑は遙か下の方まで続き、山肌を縫う街道が見える。畑は、途中からは牧草地になっているのかも知れないが、その境界線は分からなかった。 雪雲が色々なものを一緒に運んでいったので、空は信じられないほど青々と澄みきって、限りなく薄い雲のヴェールを気持ちよく流し、どこまでも続いている。雪をかぶった緑と白の交錯する針葉樹の森が見え、河がある。その向こうは雪原で、脇街道をたどれば王都に行き着く。寒いけれども心惹かれる景色だ。 (三)
「ほら、お姉ちゃん。聞こえるよ」 温泉から出たばかりで頬をほんのりと紅に染めたリンローナは、若草色の瞳を見開いて嬉しそうに声を弾ませ、耳に手を当てて斜め上の音を聴く仕草をして、四つ年上の姉を見上げた。 二人は肩や腰回りの楽な服を着ているが、湯冷めしないように上着をしっかりと着込んでいて、体を拭いた手ぬぐいや着替えを詰めた大き目の革袋をそれぞれ右手にぶら下げている。 「何が?」 首をかしげて訊ねた姉のシェリアは――その直後に叫ぶ。 「ひっ!」 庇の先端の下に立っていた彼女の脳天を、軒先からこぼれた雫が直撃したからだ。雪解け水は冷たく、肌に刺激を与えた。 シェリアは思わず退き、後ろを振り返って、妹を見下ろした。 「あんたも、雫には気をつけた方がいいわよ……」 「うん。お姉ちゃん、大丈夫?」 リンローナが不思議そうに訊ねると、シェリアは頭の頂を指先でさっと払い、一瞬うつむいてからすぐ顔を上げ、誤魔化した。 「で、何よ?」 シェリアは恥ずかしそうにそっぽを向いて、やや厳しく問う。 するとリンローナは軽く瞳を閉じて耳を澄まし、言うのだった。 「聞こえてくるよ……雫の唄が!」 (四)
木造の民家の庇を伝い、湯治客向けのひなびた宿の雨樋を駈け抜け、溶けた雪は透明な水の一粒となってこぼれる。一定の間隔で、まるで唄を口ずさむかのように落ちてくるものもあれば、忘れた頃を見計らって一気に続いて降ってくるものもある。 しばらくの間、姉妹は民家の屋根の下で、こぼれ落ちてくる雫の軌跡を眺めていた。見る方向によっては朝日がまぶしく、瞬きが終わらぬうちにごく速やかに空へ羽ばたく水の珠は、明るい光の七色にも――あるいはそれ以上にもきらめくのだった。 飛翔は短いが、それは一粒ごとに必ず異なった旅程であり、落ち方や光の具合、風の状況によって輝きは無限に異なる。 向こうの蒼空は冴え渡っていた。いくつもの方向に掛かっている透き通った薄雲は、あたかも南国原産の紅みがかったメフマ茶に羊の乳を注いだ時に描かれた不思議な模様を思わせる。 再び見晴るかす畑は、一面に白い花が咲いているかのように、ほぼ一色に染まっている。昨日、村を訪れた際には溶けかかっていた部分も、北風が新たに筆を下ろして塗り直され、一晩にして違う世界に来たかのようだ。こうして白に染まると、すべてが神秘的で不浄で、少女のように聖(きよ)らかであった。 雪の雫は、雨と違って少しずつ溶けながら落ちる分、その音楽は長続きする。きびきびと冷え込んだ男性的な朝の空気は、しっとりして柔らかい女性的な面も確かに持ち合わせている。 「きれい……」 妹のリンローナはその風景に見とれていた。どこかの民家の庇の下にいて、通りの反対側の一段下がったところにある畑や山裾の街道、遠い山並みを眺めていると、その間を軒先から落ちてきた雫がたまに通り過ぎる。遠近感や動静が見事だった。 短い氷柱(つらら)は子供の歯のようだ。想像力を逞しくすれば、ここは雪と氷の口の中――外の世界への憧れを強く抱けば、それは最後には春を待ち焦がれる気持ちへと昇華する。 「モニモニじゃあ、あんまり降らなかったわよね」 シェリアが答えた。髪はだいぶ乾き、身体の湯気もずいぶん収まってきていたが、耳たぶや頬は血色が良いままだった。 モニモニ町は姉妹の故郷で、ずっと離れた南西の国にある。その海に面した岬の町では、年中を通して温暖であり、雪は滅多に降らなかった。その地名を言葉として洩らす時、二人の横顔には別れてきた人々への熱い想いや、良く似た種類の温かな懐かしさが漂い――と同時に、深い郷愁が翳ろうのだった。 少し重みを帯びた雰囲気を転換させたのは、姉の機転だ。 「まあ、美容には良さそうよね。この湿った空気は」 (五)
「びよう、かぁ……」 まだ十五歳のリンローナは、いくらかの憧れを込めて呟き、斜め上の空を見上げて目を細める。姉のシェリアも十九歳と充分に若いのだが、彼女は顎を出し、少しつっけんどんに語った。 「あんたもそのうち分かるわよ」 「うん」 同年代の中では無垢で初(うぶ)な部類に属する――と言っても過言ではないリンローナは、神妙そうにうなずくのだった。 冷え切った朝の空気は心地よく、思いきり吸い込めば、森で湧き出す美味しい清水を飲んだ時と同じように、身体の奥底まで涼やかに爽やかに生まれ変わる。その感覚は、身体を育てる土壌である心や魂にまで、ずっと深く浸透してゆくのだった。 さて白い大地は綺麗ではあったが、朝食の後はきつい雪かきの仕事が待っている。少し現実に戻ったシェリアは薄紫の前髪を掻き上げて腕組みし、改めて辺りを検分するように眺める。 「それにしても、これじゃ大変ね……きりがないわ」 「でも、この前に比べたら、まだ少なそうな気がするなぁ」 リンローナはやんわりと意見を述べる。この前は大雪に見舞われたメラロール市の雪かきをしたのだった。 「……っしゅん。そろそろ行きましょ」 冷えてきたのか、姉のシェリアがくしゃみをした。ここを出て、しばらく畑に沿って進めば、すぐに大きな安宿が見えるはずだ。そこに仲間たちが待っており、ちょうど朝食の頃合いであろう。 雫の宝石と神殿を思わせる氷柱(つらら)、まぶしい太陽のきらめきや白く染められた畑の遠景に名残惜ししそうな眼差しを送り、明らかに後ろ髪を引かれている雰囲気だったリンローナだが――思いを振り切ったのか、にわかに顔を上げて同意し、温かさの残る腹部をコートの上からゆっくりと撫でるのだった。 「そうだね。おなか減ってきたよ……」 こぼれ落ちてくる水滴には、青空と遠い山並みが映っている。遙かな谷間を蛇行して流れるのは、青い空を映す河だろうか。 今日は良い天候に恵まれそうだ。しっとりと湿った雪解け水の音楽は、湯治の村のあちらこちらで重層的に響き渡るはずだ。 雫の合間を縫って、若い姉妹は庇の傘を抜け出した。それから仲間の待つ宿を目指し、新しい雪道を歩き始めるのだった。 | ||
(了) | ||
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