空の湖 〜
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秋月 涼 |
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人口が極めて希薄な辺境のレルアス村の夜はしんと静まり返り、野の遠くから獣の吠え声が平原の細切れの風に乗って飛んでくるだけだ。凛と張りつめた空気は、冷ややかだった。 (ゆうべは……満月だったんだ) 十四歳の少女クルクは、レルアス女史――精霊界から幻獣を召喚するという非常に高度な魔法を用いる〈月光術師〉の権威――の弟子で、見習いである。同じ〈月光術師〉たちが共同生活を送っている屋敷の軒先に立ち、クルクは右側が微妙に欠けている今宵の十六夜(いざよい)の月を仰ぎ見て、自由な空想を膨らませていた。夜気は澄み、月の輪郭は際立っている。 (もし、ここに湖があれば――月影がゆらめく) クルクの心の中に現れた湖は、とても静謐であった。その中央から少し外れたところに、十六夜月の忠実な複写であるかのような白金の月が浮かんでいて、しばらくは微動だにしない。ただ、風が通りすぎれば次々と波紋が立ち、湖の月もゆらいで、結局は〈本物には追いつけない〉ことが露呈されるのだった。 (その場合の〈本物〉は、空にある月のほうね) そこでクルクの心の風景に、一つの新しい要素が加わる。 空の彼方にも、地面を逆さまにして闇の底に貼り付けたかのような一つの昏いぼんやりと平原が現れ、すぐに根を張った。 そして、その空の大地――あるいは大地の空――にももう一つの湖があり、不思議で魅惑的な十六夜の月を映している。 その空からは月が消えていた。 それでも上と下に広がっている二つの湖は、同じように十六夜の月を複写し、あたかも何も変化がなかったかのようにふるまっていた。風が吹くとやはり忠実にゆらめき、その月が〈本物ではないこと〉を告げている。この場合、月は本当に消えたのか、見えなくとも存在するのか、むしろ最初からなかったのか。それとも、湖の月こそが〈本物〉になってしまったのだろうか。 もしそうだとしたら、始まりはあるはずで、どちらの月が本物で、どちらが後続なのか。どちらがどちらを映しているのか。 (そもそもどちらが空の上で、下なのだろう――。二つの湖が、地面の湖のようにも見えるし、空の湖のようにも見えますね) 二つの湖と、二つの月。 空は大地で、大地は空。 くるりと回転させても、全く同じように見えてしまう。 少し目眩を感じたクルクが額を軽く抑えてふらつくと、誰かが優しく繊細に肩を支えてくれた。指から温もりが伝わってくる。 「レルアス様」 振り向きながらつぶやいたクルクには、振り向く前から相手が誰だか分かっていたようだった。確かな空には、十六夜の月が一つ、相変わらず秘やかに、安らぎに充ちた光を放っている。 「疲れているようですね。そろそろ休みましょう」 月光術師の権威である三十八歳のレルアスが素朴に笑い、クルクも微笑む。親子ほど年の離れた師匠と弟子は、消えそうで消えない薄い月の影を木の廊下に長く描きながら並んで歩き、やがて別れ、それぞれの寝室へと静かに帰るのだった。 | ||
(了) | ||
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