風の河原で 〜
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秋月 涼 |
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(どこから吹いてくるのかしら……) 両脚を地面に根付かせ、樹のようにどっしりと構えて、シェリアはひとり、セラーヌ町の外れに茫々と広がっている草原に立っていた。空は薄曇りで、辺りはやや蒸し暑い。時折、虫が目の前を横切ったり、顔にぶつかったりする。匂い立つのは草の香だ。その間を縫うようにして、見えない空気のそよぎがある。 黄緑の草の波ををかすかに、時に大胆に揺らし、風はゆく。 撫でるように、飛ばすように。回すように、弾けるように。 そして時には深く清らに祈るように――。 風はとめどなく、誰かの思いを運んでいるかのごとく、速やかに草原を翔る。そのたび、草は斜めになり、触れ合って爽やかな音色を響かせ合う。 (心の境目……) シェリアのわずかな物思いも吹き抜ける風に溶けてゆく。自分と世界とを隔てていた境界が、ひどく曖昧なものになってゆく。 彼女の心持ちは茫然としたような――それでいて妙に色鮮やかな鋭い感覚も併せて芽生えていて、空気の流れの変化に敏捷に気付くことができる。まるで飾らぬ言葉や素朴な唄を、安らかな気持ちで聴いているかのように。 (この風の流れ……〈風の河〉の源は?) 耳を傾けて、その始まりに耳を澄ましてみる。 だが、流れの始まりを糸のように辿るのは難しい。途切れぬ柔らかで爽やかな空気の動きは吐息のようで、すぐに次の流れが訪れてしまい、曖昧として紛れ、わからなくなってしまう。 シェリアは立ったまま全身の力が静かに、また自然に抜けてゆくのを、どこか遠い所で感じていた。それはまさに眠りに墜ちる寸前であるかのように、全く抗いようがない。どこか深海に似た懐の深い優しさでもあった。 シェリアは黄緑の野を駆け抜ける風に支えられたかのように、両方のほっそりとした腕を水平に掲げた。空が答えるかのように空気がざわめき、袖の布地ががひときわ揺れて、はためく。 彼女の澄んだ薄紫の瞳は眠たそうに半分になっていたが、さらに細められて三日月になり、ついには完全に閉じられる。 そしていつしか世界は、向こうに見下ろせる侯都セラーヌの町並みも消えて――天を埋め尽くす一面の薄灰色の曇り空と、地には草原、その間を流れながら強まり弱まりしつつも継続的にそよぎ続ける風と、たくさんの自然の中の根源的な孤独に浸っているシェリア、というごく単純な図式が出来上がっていた。 それはもちろん本物の世界ではなく、省略化した世界に違いはなかったが、それも一つの表現の方法には違いなかった。 シェリアの首筋を、肌の産毛を微細に撫でて、空気の舞は留まることなく過ぎ去ってゆく。動き続けること、流れ続けることだけが、彼らの存在を、その居場所を証明する。視力を休めることによって、シェリアの聴覚や嗅覚、触覚が冴え渡ってきたのだ。 (目を閉じたほうが、見えない風が見えるみたい) 風が次にどう流れるか。風の河の呼吸が、だんだん分かってくる。それでいてあっさり予想を裏切られるのも、また楽しい。 (いや。〈見える〉んじゃなくて〈感じる〉んだわ……) シェリアは両腕を水平に広げた姿勢で草原に立ち、深呼吸をした。それが新しい風の源になって、ひそやかに流れ始める。 (どこまで吹いてゆくのかしら……) 彼女は安堵に充ちた心で、自らが発した生まれたての風について、旅の過程について、その行く末について考えていた。 | ||
(了) | ||
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