峠の向こう側 〜
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秋月 涼 |
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いにしえの森を縫って、木々の梢を揺らしながら流れ込んでくる風は驚くほどに涼しく、早くも秋を感じさせた。 深い森がしばし息をついたかのような、ささやかな盆地の町であった。見知らぬ旅先の宿の二階の窓辺に日焼けした両腕を預けて、若い女性は外の景色を見ていた。薄紫の長い髪を軽く後ろで留めた、十九歳の女魔術帥――名をシェリアという。 つい先程までは温かな朱みの残っていた空は、速やかに夜へと移ろいゆく。早い流れの雲は、しだいに暗くなっていった。 (昼の陽射しは強いけれど……) 見下ろす細い通りの、反対側の家の窓にはランプの明かりがともって、煙突は一筋の煙を吐いている。 (夏は、峠を越えたのね) シェリアは思った。 子供たちが手を振って別れると、時はいよいよ夜の坂に向かって滑り降りてゆく。 頬を撫で、髪を揺らす風を受けて、シェリアは微かに口元を緩めた。ゆっくりと瞳を閉じる。 (少しずつ日が短くなって、夕焼けが早まって……。夏の名残の昼の暑さを、夜ごと、少しずつ溶かして) 「お姉ちゃ……!」 ふいに足音がし、妹の声が飛び込んでくる。いつの間にか、だいぶ薄暗くなっていた部屋の片隅で、静かにたたずむ姉の様子を察知してか、妹は一段階声のトーンを落として続けた。 「お夕飯、準備、できたよ」 「いま、行くわ」 シェリアは少し首を傾けて答えた。重なる蝉の声が、高らかな鳥の歌がひときわ耳に残る、穏やかな夏の夕暮れの中で。 | ||
(了) | ||
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