栞 〜
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秋月 涼 |
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「オーヴェル、ごはんよー!」 階段の方から母の声が飛んで来た。温かな食べ物だけが持つ食欲をそそる匂いは、既に下の方がら流れて来ていた。 けれど少女の返事はない。部屋は至って静かだ。 黄昏時を過ぎ、しだいに闇の染み込む薄暗い部屋の中には、本のページを繰る音と、微かな息遣いだけが響いていた。 机の片隅に置いた、ぼんやりとしたランプの明かりを頼りに、今から十年ほど前――のちに若くして〈賢者〉の称号を獲得するオーヴェル・ナルセンは、本の奥の世界の虜となっていた。 瞳をまばたきさせると、繊細な睫毛が動いた。長い髪は邪魔にならないように後ろで結んでいた。 間もなく母がゆっくりと木の階段を登ってくる足音が聞こえ始める。そこでオーヴェルは中断の時がきたことをどこか遠くの心で感じ取る。本の中の夢は夢のままで――あるいは現実のままで――もう一つの、オーヴェルが生活している世界の現実が還ってくる。それは夕方に夜が染み込んでくるのに似ていた。 もう一度、母に強く名前を呼ばれる前に、オーヴェルは手元の本から視線をあげ、自分から大きな声で返事をするのだった。 「はーい、いま行く」 開いていたページに、本の中の時間を止めてくれる魔法をかけて――少ししなびたシロツメクサの緑の葉を挟み込んで。 「またあとでね」 本を閉じて、オーヴェルは立ち上がった。いつしか部屋はすっかり暗くなっていて、ランプの明かりが温かく、優しかった。 | ||
(了) | ||
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