2002年 3月

 
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2002年 3月の幻想断片です。

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  3月31日− 


「目を閉じて耳をすませば、あなたがたなら、きっと聞こえるはずですよ。ふたりの、可愛らしいお客様!」
 そう言って、テッテは優雅に笑いました。
 ジーナとリュアは、手をつなぎ、まぶたを下ろします。
 森の中は程良く静かで、風の音、鳥の歌、水のせせらぎがかすかに聞こえます。そして自分の心臓の鼓動。
(どんなものにも意味があり、そして――)
 テッテのメッセージが心の中に響いてきます。
(――があるんですよ。きっと、きっとね)
 肝心な部分は聞き取れません。
 けれど、ジーナとリュア、二人には分かったのです。

 目を開けると、テッテの姿はありませんでした。
 足元で、忘れな草の小さな青空が春風に揺れていました。
 


  3月30日◎ 


 こうして一年が過ぎました。
「春は別れの季節だと言うけれど……」
 優しい風が流れ、彼女はさまざまな追憶に浸ります。
 窓の向こうにには、散りゆく桜と、新芽です。
 そしてポプラの木は変わらずに立っていました。
 


  3月29日○ 


 雨粒は見ていました。
 ほんの一瞬だけれど。

 その雨粒はすぐに忘れてしまうけれど。
 水たまりは少し憶えています。
 河はもっと憶えています。
 湖は、海は、そして空の雨雲は――。

 雨粒は。
 どこかしら、人間に似ているようです。
 


  3月28日− 


 ルデリア世界の人間族と妖精族に広く信じられているラニモス教は多神教である。創造神ラニモス・聖守護神ユニラーダ・邪神ロイドの三神を頂点とし、春の女神アルミス・夏の神スカウェル・秋の女神ラーファ・冬の神シオネスの四季神、それ以外にも海の神や時の神などが信じられている。
 一方、獣人族は〈すべての自然には神が宿る〉と考える素朴な多神教を独自の文化として継承してきたが、獣人族代表のトズポ氏がラニモス教の〈大地の神者〉を与えられるに至り、南側の部族ではラニモス教の浸透もみられる。
 


  3月27日− 


 その森では時間が止まっていた。
 時計の針が勝手に歩きだし、どこかへ行ってしまった。
 数字も、金の概念もない。まぶしすぎる太陽も消えた。
 あるのは永遠の夜と、細い月の光と――。
 そして動物たちの繰り広げるパーティーだ。
「ここにいると、出たくなくなる」
 皺の刻まれた右手をゆっくり閉じ、胸に当てたのは隆さんだ。その間、北国の背の高い原生林は風にざわめいた。
 


  3月26日△ 


「いらっしゃいませ、こちらになります」
 旅人のミラーは宿屋に入る時が好きである。
「なかなか良い雰囲気だね」
 ただよう木の香り――冷えた床も心地よい。
 手すり伝いに階段を上がって、部屋に案内されて。
 ドア(それは当たりか外れかの宝箱だ)を開くと……。

 良い宿に巡り会うには、良い酒場を見つけることだ。
 町の人の噂が、案外、最も真実に近かったりする。

 他にも宿にまつわる楽しみは色々ある。例えば、料理。
 山には山の幸、海には海の幸があり、料理法も様々だ。
 例えば、同宿者との一夜の語らい。
 商人や吟遊詩人や、同じような旅人や……。

 こうして新鮮な思い出が増えてゆくのである。
 気に入った宿があるのは、つまり気に入った町だ。
 その町に少し留まり、ミラーは小銭を稼いだりする。
 


  3月25日○ 


 通り雨が沈みかかる五日月を紫色に変えた。
 月の光によって、微細の虹が架かったのだ。
 儚くて、優しくて。
 それはまさに春の夜が見せた〈幻〉だった。
 


  3月24日− 


 なんてゆっくりとした――
 そのうえ、なんて確実な変化なのでしょう。

 賢者のオーヴェルは春風を感じました。
 雪深いサミス村にも新しい季節は確実に近づいています。オーヴェルの、村での暮らしも残りわずか。雪が溶けて落ち着けば、若き賢者は魔法の研究のために山奥へ籠もります。
「オーヴェルさん、こんにちは!」
「ファルナですよん!」
 このところ、毎日のように遊びに来てくれる酒場の娘たちは妹のような存在で、彼女たちと離れることを思うと、残念で仕方がないオーヴェルなのでした。彼女たちは、孤高の存在であるオーヴェルの心をも和ませ、世界と繋いでくれる――そういう力を持っているのです。
 それはまさに――天然の、天性の魔法です。
 


  3月23日○ 


 冬の間はあまりに色が少なすぎて、白い雪と灰の空、緑の針葉樹以外の全ての色を忘れてしまいそうでした。
 それが北の果て、タルロ村の厳しい冬です。
 そして冬はあと一ヶ月、続いてゆくのです。
 


  3月22日− 


 さくらゆき、ふります
 さくらの花びらが、舞います
 あのさくらは……
 咲けなかった雪の子の、その魂の名残です
 


  3月21日− 


 春は強い風ともにやってくる。
 重い冬を乗せて駆け抜けた春風はいつか南半球へ。
 そこでは木枯らしと名を変え、風はさらに吹き抜ける。
 


  3月20日△ 


 風が吹き、桜の花びらは粉雪のように舞い上がった。
「どこまで行くの? ついていってもいい?」
 こうして麻里と桜花たちの散歩が始まったのである。
 地に足がついていた麻里だが、心は空を飛んでいた。
 


  3月19日− 


 市庁舎から垂れ下がる横断幕には〈秋祭り恒例・美人コンテスト〉と書かれている。
「ぜーったい優勝するんだからっ!」
 シェリアの鼻息は荒い。無理もなかろう。優勝者には望みの服が与えられるのだ。
「へいへい……」
 ケレンスが生返事をした。タックとルーグは顔全体をひきつらせ、遠目に明らかなほど苦笑している。
「がんばってね、お姉ちゃん!」
 リンローナだけがひとり、姉の応援をしていた。
 再び、騒動の種が蒔かれたのだ――。
 


  3月18日△ 


 オニスニはメラロール王国とマホジール帝国の国境の町である。町自体はメラロール側に属し、街の南にある大きな門に関所がある。そこを通過した者のみがオニスニ川を渡航することができ、河を渡ればマホジール帝国のリース公国だ。旅人も商人も荷物もオニスニで一時的に留まる。国境でありつづける限り、この町は安定した宿場としてこれからも賑わってゆくであろう。
 


  3月17日− 


 早咲きのさくらの花びらがこっそり教えてくれました。

 ――あなたが食べているのは肉や魚だけではありません。
 風や雨や光や闇も大切なエネルギー源なのですよ――と。
 


  3月16日◎ 


 小さい頃は時間がいっぱいあった気がした。毎日が楽しく、こんな繰り返しが永遠に続くんだろうと思っていた。
 しかし今、毎日は疲労と無力感と、ささやかな幸せとで行き過ぎる。いつから、こんな風になったのだろう。やりたいこと、成すべきことは多すぎるのに、時間は足りず、それも減っていく一方である。
 でも。
 時間は待ってはくれないから。
 ひとつひとつ、自分の生きた証を刻んでいけるように。
 自分自身に負けないように。
 きょうも精一杯、生きよう――と、クロフ公子は思うのだった。
 


  3月15日△ 


 冬が終わろうとしているのに、その村には春が来なかった。湖は凍りつき、雨の代わりに雪が降った。村から離れると、まぶしい黄緑の草原には色とりどりの花が咲き乱れる。村の周辺だけが新しい季節に見放され、永遠の冬に呪われたかのようである。
 人はその集落を〈春を忘れた村〉と呼んだ。

「なんか、やけに寒いわねぇ……はくしゅん!」
「シェリアさん、薄着だからですよ」
「お姉ちゃん、風邪ひかないでね」
 その村に五人の冒険者が近づいていた。
 


  3月14日− 


 サミス村には美味しくて豊かな水が溢れています。冬は純白の雪が降り、夏はラーヌ川の最上流にあたるサミス川が清流となって魚たちをはぐくみます。森はいちばん大きな水がめで、地下水が青緑の涌き水となっていたり、井戸水のもとになったりします。
「うまいねぇ」
 旅人が〈すずらん亭〉の夕食を食べると必ず言います。
「うちにはすばらしい料理人さんがいるんですよん」
 と看板娘のファルナはいくぶん照れくさそうに、
「水、って名前のね」
 そしてシルキアは自信たっぷりに応えました。
 


  3月13日△ 


「もうすぐですわ〜」
 サンゴーンは自分だけの秘密の丘をいくつも決めていて、それぞれ名前をつけている。その中でも特に惚れこんでいるのが〈お花の丘〉であった。その名の通り、緩やかな傾斜部は春になると赤や黄色や白のじゅうたんに塗り変わる。そこに寝転んで、暖かい日差しを浴び、青空に包まれて昼寝をするのがサンゴーンの何よりも勝る楽しみであった。
 


  3月12日− 


 湖は島。海は大陸。水流は風。空は海。
 水の妖精・ネルファ族はそう捉えています。
 


  3月11日− 


 カーダ氏の天空畑で新しい野菜が生まれた。
 名づけて「空ねぎ」である。
 見た目は玉ねぎに酷似しているが、色は水色だ。
 そして雲の上でこれを刻むと、雲が涙を流す……すなわち雨が降るという。
 これが実用化されれば、日照りの心配は無くなる。
 カーダ氏の自信作であった。

 しかし実験結果は思わしくなかった。
 雲の流した涙は純粋な雨ではなく、人間と同じように、少ししょっぱかった。
 その雨では作物は育たなかったのである。

「わしは諦めんぞ! 次の研究じゃ!」
「は、はい」
 カーダ博士とテッテ助手の挑戦は続く。
 


  3月10日× 


「全てを得る時は即ち全てを失う時である」
「神を目指す過ちを犯した者は神の雷に死すべし」
「失敗を恐れず、外道をこそ恐れるべし」
 メラロール市の魔術師ギルドの入口には、このような文章が彫られた縦長の楕円形の黒い御影石がいくつも設置されており、魔術師たちが悪の道に染まらぬよう、無言の圧力をかけている。
 


  3月 9日− 


 夜更けに果樹園の横を通りかかると、見知らぬおばさん――動きやすくて汚れても構わない〈農業のいでたち〉をしている――が果樹のもとでせっせと上の方に手を伸ばし、何か銀色っぽい丸い物を摘んで籠の中に入れていた。
 興味にかられて立ち止まり、訊ねる。
「何を摘んでいるんです?」
「今しか詰めないもの。星ですよ」
「ああ……干し柿ですか?」
「干し柿じゃなくて、星です」
「ホシ、ですか。ふーん。や、どうも失礼しました」
 そう言って私は歩き始め、そして再び立ち止まる。
 ホシ? ホシなんて果物はあったろうか?
 まさか、夜空の星なんてことは……。

 振り向くと、おばさんは消え、からっぽの籠だけが風に吹かれてかすかに揺れていた。
 


  3月 8日− 


 つめたき ほむら もゆるとき
  みくにの ほろぶ きざしなり

 港町リューベルで吟遊詩人が歌っていました。
 


  3月 7日○ 


 時計を見ると夜の九時十五分です。
 住宅街は人通りがなく、動いているのは猫だけです。
 そのとき、突然、かよの脳裏に一つの言葉が浮かびます。
「真実の春は春の闇夜だけが知っています」
 小さな頃、かよはそんな言葉を聞きました。
 ……はてさて、誰から聞いたのでしょう。
 考えてみても、どうしても思い出せません。
 言葉だけは意識に深く根付いているのに。

 もしや。
 かよは後ろを振り向きました……。
 


  3月 6日△ 


「もうすぐ春か……」
 学院からの帰り道、赤毛のサホがふとつぶやいた。彼女は家に帰れば自宅の骨董店の手伝いをする。学院への行き帰りは心が休まるひとときだった。
 ふと家々の窓辺を見つめる。そこにはまだパンジーしか咲いていないが、あと一月もすれば色とりどりの花たちが美しさを競う、再生の祭りを開くだろう。
 サホの隣をゆくリュナンはこう答えた。
「寒くなくなるのは嬉しいな」
 彼女は病弱で、夏と冬は苦手である。色白で金の髪の美しい十六歳だ。
 こうして歩く二人のもとに、どこからともなくプリムラの花が散る。花びらの一枚一枚が春までの日めくりカレンダーだ。
 


  3月 5日△ 


 春のサミス村は水の季節です。
 雪の渡り鳥は水を遺して天野が原に還ります。
 その水は河へ注ぎ、土に染み込んで地下水となります。
「つめたくって、おいしいね!」
 まだ冷たい河の水を震えながら両手ですくい、口にあてがったシルキアは思わず叫びました。
「ほんとなのだっ!」
 妹のまねをした姉のファルナも瞳を輝かせて歓びます。晩冬の風には初春の匂いがしました。
 


  3月 4日− 


「ねえ、お母さん」
「なあに、麻里ちゃん?」
「いまごろ、お花の芽、伸びてるのかな」
「ええ、そうよ。芽だけじゃなくて、根っこもね」
「それで、春が来たら、芽を出すの?」
「そうね。春が来るまで、少しずつ、少しずつ」
「地面の中で背伸びしてるんだ」
「ええ。だから麻里ちゃん、応援してあげてね」
「あたし、じょうろ持ってくる!」
 立花麻里は庭を駆け抜け、倉庫に向かいます。その小さな後姿を母は目を細めて見守っていました。二人の上に太陽の光が降り注ぎ、こぼれます。
 


  3月 3日△ 


「冬の冷えきった空気を溜めておいて夏の冷房に使ったり、その反対は出来ないのかな?」
 リンがふとつぶやいた。俺たちは顔を見合わせる。みんな答えに戸惑い、沈黙の鐘が鳴り響いた。俺は短く聞き返す。
「魔法ってことか?」
「うん、魔法でも、なんでも」
「仮に、そんな魔法があったとしても、使った人の体が持たないわよ。どーせ、すごい魔力が要るはずなんだから」
 シェリアが半ば呆れた様子で言った。まだ雪残るメラロール市に俺たち五人の足跡が刻まれては消えてゆく。
「そうだよね……あたし、変なこと言ったかな」
 リンはちょっとうつむき、はにかんだ。毛皮の上着を羽織っていると、何だかずいぶん大人っぽく見える。
「でも、そういう発想は大事にすべきだと思う」
 ルーグがフォローすると、リンはぱっと顔を上げて表情を和ませた。一方、姉は妹に嫉妬し、ふてくされてそっぽを向く。
「でも、昔はそんな魔法もあったのかも知れませんよ」
 俺と同じ雪国出身のタックが危なげのない足取りで歩きながら言った。俺たちは滅亡した古代魔法王国に想いを馳せた。
「何はともあれ、いい陽気だぜ」
 太陽が雪をきらきらと輝かせ、その優しさで水に変えてゆく。つららが雫を垂らして細くなる。人々の表情もどことなく明るい。
 春に――手が届きそうだ。
 


  3月 2日− 


 まだ知らない知人が、未来ほど昔に、こう言っていました。
「偉人は歴史をつくる。そして、庶民は時代をつくるのさ」
 分からないくらいに分かったような気がした貴方は私です。
 


  3月 1日− 


 森の中にある小さな池は透き通り、覗き込むと水底が見える。そこに三人の顔が映っている。
 テッテはおもむろに水色のビンを取り出し、池の水に振りかける。すると、どうだろう……。
 静かに揺れていた水はセロファン状の物質へと変わり、薄く剥がすことが出来るようになった。
 今まで目を見張っていた二人の少女から感歎の声があがる。
 




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