2002年 4月

 
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2002年 4月の幻想断片です。

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  4月30日− 


 霧の深い、しんとした登り道には、時おり甲高い鳥の声が響くだけで、あとは自分の歩く音くらいしか聞こえなかった。起伏に富んだ丘を、細い道は空へ空へとゆるやかに登ってゆく。
 左は尾根、右の崖下に森の谷……まさに異世界へ紛れ込んだかのような心持ちで、あたりの木々や、足元にひっそりと咲く小桜や苧環(おだまき)などを見つめ、僕は歩いていった。
 霧はますますミルクと化し、掬えば飲めそうである。静寂と戯れる贅沢な時はゆるゆると流れ、いつしか僕は噂に聞く林道の分岐点にたどり着いていた。胸の鼓動がわずかに速まる。
 少し立ち止まった後、左に折れ、森の小道に入った……。
 

(2001. 6. 1. 異世界にて)

 


  4月29日− 


 ナルダ村に小さな喫茶店ができた。
 この辺りでは珍しい、魔女の家系である。
「どいてどいてーっ!」
 ほうきではなく、なぜか鋭い槍に乗り、曲がりくねる村の小道を低空飛行しているのは、そこの喫茶店の孫娘、ナンナだ。
 当分の間、祖母のカサラに〈飛行〉を禁じられ、ほうきを隠されてしまったナンナは、とある場所で騎士の槍を見つけた。
 槍はほうきよりバランスが取りやすが、重量はかなりあり、高く飛べぬ。しかもナンナは刃先を前にし、柄に乗っている。
 彼女は〈空飛ぶ槍〉と化したのであった。
 そして、向こうの通りから友のレイベルが現れる。
 楽天家のナンナも、さすがに悲鳴をあげた。
「きゃあぁーっ!」
 思わず柄にしがみつき、重心が前にかかる――。

 ――次の瞬間、槍は深々と地面に突き刺さっていた。
 


  4月28日− 


「あそこに出来たパン屋、なかなかの味だよ」
「へー、ウピは相変わらず情報通ねえ」
「お薦めは何ですか?」
 ウピとルヴィル、レイナの三人はとりとめのない話をしながらミザリア市の大通りを歩いていた。ぽかぽか陽気の買い物日和で、通りには数多くの商店や露店が軒を並べている。
「へい、らっしゃい!」
「手にとって、見てっておくれよ」
「姉ちゃん、安くしとくぜぇ!」
 特に、スタイルの良さを強調するかのような薄着のルヴィルには多くの声がかかった。彼女は体よくそれをやり過ごす。ウピもレイナも、久々の買い物にお気に入りの服を選び、髪の結い方も丁寧だ。十七、八の娘が三人でよそ行きの格好をしているのは、明るい南国の風物にも合って、華やかな印象を与える。
「なんかさ、あっちの方、騒がしくない?」
 その時、ちょっとした異変に気付いたのはルヴィルだった。向こうの広場の辺りがざわめいている、ような気がする。
「言われてみれば、そうかも知れませんね」
「奇術師か、何かの見せ物じゃないの?」
 レイナとウピが返事すると――ルヴィルは悪戯っぽく笑う。
「ララシャ王女だったりして? あはは」
「まさかぁ」
 王女に会ったことのあるウピとレイナは顔を見合わせる。はた目に明らかなほど、その表情はぎこちなく引きつっている。
「とにかく、行ってみよー」
 ルヴィルが指さし、三人は騒ぎの渦に近づいていった。
 


  4月27日− 


 森の中は光と闇の織りなす永遠の物語です。
 季節、時間、天候――そして自分のこころ。
 陽の粉が形作る不思議な記号は変化します。

(天使の紋章は次の瞬間、悪魔の嘲笑となり、
 破滅を描く古代文字は聖なる詔へ転じます)

 それは繰り返される生と死を映す影絵です。
 


  4月26日− 


 小妖精とも違う、小人族。真相は謎のままである。

 小人の渓谷――それは峻険な崖と滝とに挟まれたガルア河の最上流付近にあるとされる、伝説の場所だ。
 言い伝えによると、そこは何かとてつもなく巨大な魔力に守られ、悪意のある人間は一歩たりとも立ち入ることができない。
 気温は春のようにうららかで、空気は秋のように爽やか。
 日差しは冬のように優しく、いつでも夏のような活気がある。
 四季の花が咲き乱れ、小さな虹の橋があちこちに架かる。
 そして黄色や白の蝶が舞い……。
 それは、そこに住む小人族の乗り物に他ならない。

 謎は謎のまま、きっと守られてゆくであろう。
 これからも、そしていつまでも。
 


  4月25日− 


 ゆれる珊瑚は木々の枝、
    泳ぐ魚は蒼穹の鳥。
  蟹のあぶくは白雪で、
     渦潮たちは台風だ。

 さかさの世界、海のなか。
 


  4月24日○ 


「よしっと」
 大慌てで井戸水をすくいあげたレフキルは、コップに移す手間さえ我慢できぬほどの勢いで、つるべに口を直づけした。
 しばらく喉がなる音だけが響く。
 喉が、胃が、体が、心が……うるおってゆく。
 このまま水といっしょに消えそうな、透明感が高まる。
「ふわーっ」
 溜め息とともに瞳を開き、右手で口をひと拭きする。
「ほんっと生き返る!」
 大人は酒、レフキルは水。
 中身の違いはあれど、仕事のあとの一杯は格別である。
 南国の春は、こうして乾きをも一緒に引き連れてくる。
 


  4月23日− 


「名づけて『美人姉妹おとり作戦』ってのはどう?」
 シェリアが誇らしげに言うと、一瞬、沈黙の時が訪れる。
 それから思い出したようにケレンスは吹き出した。
「ぷっ、なんだそりゃ。美人は余計だろ、美人は!」
「な、何よ相変わらず失礼ね! じゃあ分かったわよ。大負けに負けて、美人の姉と、お供の妹の、おとり作戦、でいいわよ」
 さすがに自分でも恥ずかしかったか、白い頬をうっすらと紅潮させ、しだいにフェードアウトしつつ反論するシェリアに対し、
「長すぎますよ」
 と、タックはいつもに増して鋭い舌鋒を繰り出し、
「む」
 ルーグはあっけにとられ、腕組みして顔を引きつらせる。
「び、びじんしまい……?」
 目を白黒させ、予想外の褒め言葉に動転したのはリンだ。
 そこに再び、おしゃべり好きのタックが、フォローともツッコミとも受け取れるような良く分からぬことを、ぽつりと呟く。
「シェリアさんはともかくとして、リンローナさんは美人系というよりは可愛い系だと思いますよ……ねえ、ケレンス?」
「はぁ?」
 タックから急に振られたケレンスは大げさに眉をひそめる。
「美人系とか、可愛い系って、どういうこと?」
 どぎまぎするリンローナの質問をかき消す大声で、
「ふんっ。じゃあ普通に、姉妹おとり作戦でいいわよ!」
 シェリアはすっかり、ふてくされてしまった。
 昔ならば、皆で軽い冗談として笑い飛ばしたはずなのに……その時の彼らには微妙な気まずい雰囲気が漂っていた。

 美人姉妹というのが、あながち嘘とも言えなくなってきた。
 ――そのことが一つの原因なのかも知れなかった。
 


  4月22日○ 


 草笛が遥か彼方から聞こえる。
 蜃気楼のまぼろしのような音。
 誰が吹いているのか分からぬ。
 もしかしたら遠い昔の戦友か?

 考えているうちに音は消えた。
 


  4月21日× 


「おやっ」
 もやもやで、ふわふわな、白くて小さい、よく分からないけれども不思議なものが、ベルヴィアの目の前を通り過ぎた。
「な、何?」
 立ち止まって振り返っても、正体は不明である。
「まあいいか」
 と言って、再び歩きだす。すると坂の下から……。
 緩やかな風に乗って【それ】は次々と流れてくる。
「あ!」
 小妖精たちが空の散歩を楽しんでいるのだろうか?
 しかし。
 その時、彼女は見てしまった。
 散ってゆく、白い花びら――。
 ――ほんの一瞬だけ、耳が聞こえなくなった。
 それでも気を取り直して、語りかける。
「わたしだけの、春の小妖精。誰が何と言おうと、ね」
 小さな喪失感をいだき、彼女は出かけてゆくのだった。
 


  4月20日− 


「ようやく根雪が溶けましたな」
 瞳を細めるようにして、ゆっくりと語った老人の口調には、言うなれば遠く離れた出来の悪い息子のことを思い出すような、優しさと懐かしさと、ほんの少しの諦めとが混じっていた。
 そう――この山奥の村にも遅い春が芽を吹いたのだ。
「雪かきは……本当に難儀でしたね」
 赤い屋根の〈すずらん亭〉のおかみ、スザーヌは微笑む。
「でも、お嬢ちゃんたちは、雪が溶けて残念がるかな」
 老人のその言葉を最後まで聞いてから、おかみは応える。
「雪が無くなれば無くなったで、新しい遊びを考えますよ」
「それもそうじゃの」
 老人は頬をゆるめる。待ちかねた鳥の歌が山々に染みる。
 こうしてしばらくの間、二人は〈春〉の中に立っていた。
 


  4月19日− 


「ブーメランとか円盤を毎晩、ぶん投げてるやつがいるぜ」
「ああ。いつからかは知らんが、物好きもいるもんだ」
「一晩かかって、やっとこさ落ちるもんな。だとしたら」
「すっげぇ遠くで、しかも、とてつもなくでけぇ円盤だぜ」
「あんなのが降ってきたら、この世の終わりってなもんだ」
「知るかよ。そんなん、何も、いまから考える必要はねえ」
「まあな」

 海と土とが話していました。今宵の月を見上げて。
 


  4月18日− 


 黄色の花びらは飛んでゆく。風に乗って、どこまでも……。
 ルデリア大陸の西南に位置し、割と温暖な気候のズィートオーブ市は、あちらこちらで花の祭典である。町全体が花の衣を着たかのようだ。特に香りの強い黄色のジリアはこの新興の商業都市に良く合っており、花壇や広場に咲き乱れていた。
 けれど、誰もがみな、その花を慕っていたわけではない。
「あたいさ、ジリアはあんまし好きじゃないな」
「サホっちには、こっちの方が合ってるかもね」
 友が指さしたのは、日当たりの悪い道端に咲く名も知らぬ赤い花だ。目立つ赤ではあるが、ジリアのように安っぽい原色ではなく、深みがある。それはサホの赤毛とそっくりで、そして、その花の最大の特徴は見る者に力強さを与えることだった。
「うん、これは好き。じゃあ、ねむは……これかな」
 垣根の下に咲いていた、ほんの小さな桃色の花を、サホはいとも簡単に探し当て、指さした。くきは細く、強い風が吹けば折れるどころか、根こそぎ吹き飛ばされそうに儚く、か弱い。
 しかし、その花の薄桃色は消えそうな希望をかたくなに信じているかのよう、底なしに穏やかで、眺めていると目頭が熱くなるほどだった。思わず身を捧げて護りたくなる花である。
「ねむちゃんのお花……」
 サホの親友、リュナン――居眠りばかりで、あだ名は〈ねむ〉ちゃん――はしゃがみ込み、感慨深げにつぶやく。
 その脇を馬車が駆け抜ける。二人の、短い春のように。
 


  4月17日△ 


「空というのは、もともと雲が住みつきやすい場所です。地面に雑草が生えるように、空はどんどん雲で覆われてゆきます。
 それを食べてくれるのが、白バクです。バクっていうのは、夢を食べてしまうバクと同じ仲間ですよ。ただし普通のバクは黒いですが、白バクは雲と同じ真っ白な毛並みをしています。ですから、下から見上げても、雲と白バクの区別はつきません。
 そして、ただフワフワと、お空を漂っているのです。おなかが減ると、雲をつかむ。そして、すごい勢いで食べ尽くします。
 空は晴れます。おなかがいっぱいになると白バクは何日か寝ます。すると空にはまた雲が増える、と、こういうわけです。
 そして今日も、ルデリア世界中の空に住まう白バクが、あちこちの天候を操っているわけですね。一つだけ、青い空に小さな雲が浮かんでいたら、それは白バクかも知れませんよ……。
 と、まあ、こんな話です」

 私は、旅の吟遊詩人から、この話を聞きました。
 吟遊詩人は、風から、この話を聞いたそうです。
 


  4月16日− 


 最高の食材を使い、最高の料理人が、最高の設備で作った最高の料理を前に、ぼやく十五の少女がひとり。
「あーほんと、うんざりするわね。最低だわ!」
 侍女たちに整えさせた美しい黄金の髪を後ろで一つに束ね、大広間で朝から不満タラタラなのは、彼女に決まっている……ミザリア王国に名高い、おてんば王女ララシャである。
「ほんと意味無いわ、何が最高の食事よ。毒味のせいで、こんなに冷めちゃって、飽き飽きするったらないわね! 町の焼きたてのお肉、獲れたてのお魚、もぎたてのお野菜が懐かしいわ」
 彼女のかんしゃくは兄のレゼル王子が大広間に姿を見せるまで続く。もはやミザリア王宮の朝の恒例行事と化している。
 


  4月15日△ 


「準備はどうで……?」
 言い終わる前にタックは思わず固まってしまった。お気に入りのレンズ無し眼鏡が間抜けな感じに半分ずり落ちる。
「これとこれとこれ、どれがいいかしらねぇ?」
 赤と橙と青の原色系ブラウス三着を両手に抱え、細い両脚にフィットした黒いパンタロンとそれぞれの服の色に合うピアスやペンダントをテーブル上に無造作に並べ、シェリアは機嫌良さそうに朝っぱらから言葉も軽くルーグに詰め寄っている。早起きは苦手なはずの彼女としては珍しいこともあるものだ。
 彼女のセンスで選んだ、割とお似合いの大人びた皮の帽子をかぶり、ルーグは弱り顔で腕組みし、シェリアの話を適当に聞き流している。シェリアはいまだに寝間着であり、ルーグはすぐの出発を諦めたのか、ついにサックを下ろしてしまった。
「こらー、駄目だってば! ケレンスぅ!」
 その横ではリンローナとケレンスが追いかけっこをしている。二人のそばに置いてある大きな四角いバスケットのふたは解放されており、その中には新鮮な薄切りハムやチーズ、トマトや卵をはさんだリンローナ特製のサンドイッチが満載である。
「みんなでお昼に食べようと思って作ったのに、つまみ食いするなんて……あたし、本気で怒ってるんだよっ!」
「うめぇうめぇ」
 ケレンスは部屋の中を身軽に飛び回り、出来たてのハムサンドをじっくりと味わつつ、ちょっと得意げに頬の傷を撫でた。
「てんやわんや、ですね」
 タックは冷静に分析して独りごち、馴れた動作でサンドイッチのバスケットを安全な部屋のすみに避難させた。リンローナは相手に翻弄されるのみで、そのうち膝をついてしまう。
「はあ、はあ、ケレンス、待ってよ……」
「ピクニックに行く前の準備運動か? リンさんよぉ」
 ケレンスは余裕しゃくしゃく。口の周りを舌なめずりした。
「さあ、お前たち、いい加減、行く準備をしよう」
 ルーグが手を叩くと、シェリアは不満そうに口をとがらせるが、しぶしぶ赤い服を選び、着替えに戻った。ケレンスは水袋や荷物を運び出し、リンローナもようやく手をはたいて立ち上がる。
 本格的な春を迎え、冒険に旅立つ前の、今日はピクニック。山歩きの勘を取り戻すためというのは建前で、実際のところは単なる遊びである。空は適度に雲のある晴れで、風はさわやか、気温は暖かい。絶好のピクニック日和となりそうだ。
「さすがはリーダー。ようやく出発できそうです」
 タックがつぶやく。こうして五人の特別な日が再始動した。
 


  4月14日− 


 なつかしい歌が聞こえて
  遠ざかる日々に手をのばす
   心では見えるのに
    目には見えぬ思い出の歌
     そして今夜も日めくりを一枚はがす
 


  4月13日○ 


「これ、何のお花?」
 丘のふもとの道ばたに、あざやかな紫色のお花がさいていました。四枚の花びらが、四つ葉のクローバーを思わせます。
「これは紫大根の花。しょかっさい、とも言うのよ」
 おばあちゃんが花を指さして、うれしそうに答えました。
「おばあちゃんは何でもくわしいのね……しょかっさいさん、こんにちは、ほんとにすてきなお花ね」
 女の子はしゃがみ込み、しばらく間、紫の花園をながめていました。それからまた二人は手をつないで歩きだします。
 のどかな春の日の、昼下がりのことでした。
 


  4月12日△ 


 彼女らは森の切り株を囲んで、踊っていました。
 丈は低く、背中には半透明の羽がゆれています。
 それは妖精たちの、森の、小さな音楽会でした。
 玲瓏たる月影が水底のように辺りを照らします。

 突如。平穏を切り裂いて。
 しげみがガサッと揺れました。

 妖精たちは慌てて草の茂みに身を潜めます。
 そして月も雲隠れし、緊迫した刹那が流れます。

 茂みから姿を現したのは人間の女の子でした。
「こんばんは。あたしも、なかまに入れてほしいの」
 そのほっぺは期待と不安とに紅潮しています。

 おずおずと、恐る恐る、妖精が顔を出します。
「わたしたちが見えるの?」
「うん」
 はにかんで、少女は応えました。
 妖精たちはちょっと安心し、わずかに歩み寄ります。
 その距離がしだいに縮まってゆき……。

 そして音楽会はふたたび始まったのです。
 高らかな草笛が鳴り、花のマラカスがリズムを刻みます。
 女の子は妖精たちに混じって歌い、おどりました。

 月は雲を抜け、美しく幸せな音楽会を見守っています。
 春の森には、草原から菜の花の香りが漂っていました。
 


  4月11日△ 


 この季節の持つ妖気のヴェールで、取るに足らない魂の雫たちが束の間の姿を得たように、私には見えたのでした。
 限りなく繊細で今にも切れそうなのに、意外と芯は強くて。
 冷たいけれど、ほんのちょっとだけ暖かみも混じって。
 にぶく輝いていて。そして――まっすぐに駆け抜ける。

 ぽつり、と空から堕ちてきたのは、私と同じ音色の春雨。
 


  4月10日− 


[テッテ、ジーナ、リュアにまつわる幾つかの幻想断片]

《断片(1)》
「おもしろーい!」
 ジーナは飛び回り、元気いっぱいに叫びました。
 氷水畑にも深い青のへんてこな草がいっぱいです。
 くねくねと曲がった草、先の尖った草……。
「なかなか不思議の尽きない場所ですよ、ここは」
 テッテにも分からないことだらけなのです。

《断片(2)》
「お魚は大丈夫なの?」
 リュアが心配そうに言いました。
 みるみるうちに池の水はゼリー状になりました。
 手に掬うと、ぶにょぶにょしています。
 水風船……まさに、これこそ本物の水風船です。

《断片(3)》
「その薬は駄目ですよ」
 テッテは云い終わってから、唖然としました。
「ああ、遅かったか……」
 大変なことが起きようとしていました。
 


  4月 9日− 


「ふわぁ……」
 重い身を起こす。窓からはオレンジ色の光が斜めに降り注ぎ、すがすがしい風が流れ、彼女の柔らかい頬をなでた。
「朝焼けですの」
 サンゴーンは寝ぼけ眼でそうつぶやくと、耐え切れなくなって瞳を閉じ、再び眠りに身をゆだねる。二度寝である。
 外からは子供たちの声が聞こえてくる。
「じゃーなー」
「また明日!」
 実際には夕方であった。

 春眠は暁どころか黄昏も覚えずじまいのサンゴーンかな
 


  4月 8日− 


 森大陸ルデリアで生産される果物は、世界の根源である「七力」の色にちなみ、別名で呼ばれることがあります。
 火炎実は秋になると真っ赤に熟れる果物です。
 月光実はすっぱくてフレッシュな黄色の果物です。
 夢幻実は、ひと房にたくさんの紫の珠がなります。

 そして。色は透明感のある青、夜でも昼でも薄ぼんやりと光を放っているのは、伝説とされる幸せの木の実……。
 


  4月 7日△ 


「いま、波音が聞こえたような……」
 右を見て、左を見て、それから振り返ります。
 やっぱり部屋の中には誰もいません。
 夜風がそっとカーテンを揺らしただけです。
「気のせいだよね」
 レイヴァはそう呟き、ぱたんと窓を閉めました。

 もしかしたら波音の練習をしていたのかも知れません。
 本物の海の波になるのが夢の、青いカーテンが、ね。
 


  4月 6日△ 


 ?+?+?+……+?=!

 算数の先生は黒板にこんな数式を書きました。
 とにかく、そこでの授業は変わっていました。
 最初、智佳にはちんぷんかんぷんだったのです。
 


  4月 5日○ 


「あたし、春って好きだなぁ」
 窓辺の鉢植えに咲いた薄紫のセフィアの花――清楚で上品な香りがする――に顔をうずめ、リンローナはつぶやいた。
「誕生日は二月だけどね……春が来て、風が暖かくなって、つくしが生えてくると、本当に誕生日が来た気がするの」
「どうせ秋が来れば〈秋って好きだなぁ〉って言うんでしょ」
 姉のシェリアの声は何となく弾んでいた。穏和なモニモニ町を出て、北国で迎えた始めての春はそれほど鮮烈である。
 次の瞬間、リンローナのほっそりした右肩に、どこからともなく飛んできた白い小鳥が留まり、甘え声を囁きだした。
「なあに? こんにちは!」
 その聖術師が語りかけると小鳥は嬉しそうに血の通った頬を寄せた。横で見ていたケレンスは少年の笑みを浮かべる。
「リン、鳥語もできるのかよ?」
「そのうち、小鳥さんとも話せるといいな」
 そして見上げた青空には、強い風に乗った春の綿雲……。
 


  4月 4日− 


[吟遊詩人のおはなし]
 メラロール王国の北部、針葉樹林地帯の果て。
 そこには世界最大の巨木があるのだと伝えられています。
 そう、まるで天を貫くほど、巨大で、優美な……。
 けれども、その近くに寄るまで分からないそうです。
 周りの森により、巧みにカムフラージュされています。

 その中は、まったく、世にも不思議な世界です。
 くりぬかれた幹が道であり、家であり、部屋なのです。
 つまりは樹の中が一つの町になっているわけですね。
 そこに住まう者どもも変わっています。
 見えない者が魔力によって姿形を得た……。
 森や水、大地や風や、夢、幻の精霊たちです。

 その、樹で出来た一つの世界はこう呼ばれています。
 神の庭――と。
 


  4月 3日△ 


 雪解けの水が河に注ぎ、ごうごうと流れる。
 遠い昔から続いてきたことだ。
 これからも続いてゆくだろう。
 その川の流れに比すれば……。
 人間たちが住んでいたのは、ほんの一瞬に過ぎない。

 へき地に静寂が戻り。
 学校も、家も、ゆっくりと朽ち果て。
 いつか自然に還る。
 


  4月 2日− 


 北国の秋は短く……。
 そしてまた、南国の春も短い。
「長い闘いの始まりですわ〜」
 と、内容とは裏腹にのんびりした口調でつぶやいたのはサンゴーンである。全 てに命を与える恵みの太陽も、ここではいささか強すぎる。春から夏にかけては特に ひどく、肌が焼ける。
 レースの襟のついた白いブラウスと、薄い水色のスカートという普段着のいで たちで、頭に麦藁帽子をかぶり、サンゴーンは歩き始める。足元の黒い影は短く、濃 くなっていった。
 


  4月 1日△ 


「さぁて、今日はどの本を読むかのう」
 無限大の大きさの図書館で、白ひげの高貴な老人が手にとったのは、一冊の手垢まみれの薄汚れた小さな本でした。
 実は、それが私の――私自身の物語だったのです。
 そして新たなページがめくられます……。
 




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