2007年10月

 
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2007年10月の幻想断片です。

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 10月31日− 


[空の絵合わせ(10-2)]

(前回)

「はぁー。事実とは思えないけど、事実なのよね」
 シェリアが溜め息混じりにつぶやいた後、妹のリンローナと訪問者サンゴーンは顔を見合わせて、ほぼ同時にうなずいた。
「はいですの」「うん」
 独特の論理を展開しながら、シェリアは所感を述べる。
「人間は嘘をつくけど、何より魔力は嘘つかないから。あんたが〈草木の神者〉だってことは、ほぼ間違いないなさそうだし、そうであればイラッサ町の出身であることは明白。であれば、ぶっ飛んできたってのも、あながち有り得ないとは言えないわね」
 彼女は腕を上げて両手を組み、大きく伸びをしながら言った。
「んー、魔力は隠そうと思えば隠せるけど、よほど上級者じゃないと隠し通せないし、それでもボロが出るものなのよね……というか、そもそも、あんたは隠し方を全然知らないみたいだし」
 しばらく黙っていたからか、若き女魔術師は饒舌だった。
「隠し方、ですの……?」
 シェリアのように魔法の専門家ではないサンゴーンは蒼い両目をしばたたき、それから困ったように首をかしげるのだった。
「んー」
「あたしは信じてるよ、サンゴーンさんのこと」
 理性と理詰めを展開した魔術師の姉とは異なり、どちらかというと感覚を重んじているらしい聖術師のリンローナが胸を張る。
「さて次は、この事態をどう解決するか、よね」
 シェリアが知的に、不敵に、そして妖艶に微笑む。彼女は背筋を伸ばして座り直し、再び足を組みかえた。しばしの休憩を終え、今後について真面目に考えるという明確な合図だった。
 当事者のサンゴーンは礼を言い、相変わらずの優雅な口調ではあったが、彼女なりの凛々しい笑顔になって元気に答えた。
「ありがとうですの。私も知恵を絞りますわ〜」


 10月30日− 


[空の絵合わせ(10)]

(前回)

「私は、それに手を伸ばしましたわ」
 恐怖があったのだろう、サンゴーンは頭を抑えた。それでも懸命に状況を思い出しながら、十六歳の南国の少女は語った。
「夜空に触れたと思ったら、世界が揺れて、ぐるっと回って……青空が下になって、最後は目の前が真っ暗になりましたの」
「サンゴーンさん」
 リンローナが心配そうにつぶやく。その時、姉のシェリアの両目は、サンゴーンの胸元にある〈神者の印〉に向かっていた。先端の薄緑色の宝石が、ほのかに輝きを秘めていたのだった。
「気がつくと、森の木の根本に、幹に寄り掛かっていましたの」
 話し手は暗い天井を仰ぎ見た。
「でもそこは、今まで一度も見たことのない木……背の高い尖った木ばかりが立ち並んでいる、涼しすぎる夜の森でしたわ」
「そうだったんだ」
 話の流れを邪魔しないという配慮だろう、リンローナが短く一言だけ反応を示した。サンゴーンは自分のペースで続ける。
「そのまま居ても仕方ありませんから、僅かな星明かりを頼りにして歩き出したんですの。そしたら近くに小径が見えましたわ」

 一番の山場となる箇所を語り終えたサンゴーンの口調は、少しずつ明るく、軽くなってきていた。シェリアが足を組みかえる。
「そのまま歩くと、すぐに森は尽きて、この建物の裏に出ましたの。調べたら裏口があいていて、こんな夜に勝手に入るのは良くないと思いましたけど、誰かに相談したくて……」
 見知らぬ場所を地図もなく一人さまよい、ようやく初めて人に会えた時の様子を、サンゴーンは感慨深げに語るのだった。
「そしてドアをノックしたら、リンさんが出ましたの」
 語り終えたサンゴーンは、こほっと軽く咳払いをし、ゆっくりと瞳を閉じた。聞き手だった姉妹も肩の力を抜いて弛緩する。
 時折、かすかに響いてくるのは水の音は、川のせせらぎだろうか。空気は乾燥しており、雨の降るような気配はなかった。


 10月29日− 


[空の絵合わせ(9)]

(前回)

 部屋のテーブルに置かれた淡いランプの明かりに、サンゴーンの横顔が照らし出されている。時折、蒼い瞳がちらちら瞬く。
「私は、いつものようにお散歩していましたの」
 頭の奥に続く記憶の道をたどりながら、彼女は語り始めた。
「森の途中で、宙に浮かんでいる、黒い四角のような……」
 他方、シェリアとリンローナには〈一言も聞き逃すまい〉というような集中した雰囲気があり、二人とも黙って聞いていた。魔法を習得する時に身についた深い集中力が発揮されたようだ。
 サンゴーンは迷いながら言葉を紡いでいった。
「上手く言えないんですけど、真っ黒な四角のようなものが浮かんでいましたの。見た目には平べったいような感じでしたわ」
 そこまで言うと、若き〈草木の神者)はシェリアの顔を伺った。
「そう、思った通りに言ってみて」
 シェリアが小声で助言すると、相手は素直にうなずいた。
「はいですの。それで私は下まで行って、何なのでしょうと背伸びをして覗き見たんですわ。そうしたら、その中には……」
「うん」
 相槌を打って、リンローナが軽く身を乗り出す。
 サンゴーンは少し息を飲み、それから一息に話した。
「お星様が、たくさん見えましたの!」

 果てしない森のごとくに、夜は少しずつ深まっていた。
「その黒い四角は、どこかの星空だったんですわ」
 そこまで喋ると、いったんサンゴーンは口を閉ざした。姉妹の集中力は行き場を無くし、二人はそれぞれの思いに沈んだ。
「……」
 微かに揺れ動くランプの灯は、部屋を満たしている空気を不思議に濃密なものに変えていた。風は鎮まり、獣の遠吠えもあまり聞こえなくなって、まるで世界の片隅に、時間の狭間に三人だけが取り残されたかのような、静かな秋の夜更けだった。


 10月28日− 


[空の絵合わせ(8)]

(前回)

「め、メラ……?」
 サンゴーンは目を見開き、絶句した。
 無理もない。彼女の出身地であるミザリア国のイラッサ町は、ルデリア大陸の南に浮かぶミザリア島の東部にある。他方、リンローナが言ったメラロール王国とは、大陸の北部を版図とする北の雄である。両者の距離はあまりにもかけ離れていた。
「あ、でもね、あたしたちの出身は南ルデリア共和国のモニモニ町なんだ。イラッサ町とは、ミザリア海峡を挟んだ対岸だよ」
 何とかして元気づけたいという意志を隠さず、リンローナがやや無理矢理に相手の話を膨らませて語りかけた。姉妹の出身地のモニモニ町は、事実、イラッサ町とは遠くなかったのだ。
 だがそれは現状を改善する役には立たない。サンゴーンは呆然とした様子のまま、リンローナの言葉を繰り返すのだった。
「モニモニ町……」
「だからあんた、そんなに寒そうな格好をしてたのね、南国じゃ普通だろうけど。懐かしく感じる方言も、やっと納得できたわ」
 シェリアが腕組みしてうなずき、呆れたように独りごちた。妹もサンゴーンも、自然と年上の魔術師にすがるように注目する。
「帰りたいんでしょ? なら諦めたら負けじゃないの」
 真剣な眼差しで語ったシェリアの発言には、重みがあった。
「ここに来た時の状況を、順序立てて教えて頂戴」
 訪問者に伝えると、相手の目には再び光が宿るのだった。
「分かりましたの」


 10月27日− 


[空の絵合わせ(7)]

(前回)

 サンゴーンはほっと肩の力を抜き、温かな吐息を漏らした。
 イラッサ町のサンゴーン・グラニア――。
 どうやらその答えを予期していたようで、シェリアとリンローナはもはや驚かず、顔を見合わせて軽く目配せするのだった。
「やっぱり、知っていますの?」
 サンゴーンが蒼い瞳をほのかに光らせながら、おずおずと、やや上目づかいに尋ねる。するとシェリアは約束通り、先ほどまでの態度も言い方も変えずに、あっさりと肯定するのだった。
「まあねぇ。そりゃあ、大多数は知ってるわよ」
「そうですわね……」
 サンゴーンが神妙にうなずく。感心した様子のリンローナも、急によそよそしくなるのではなく、目を丸くして親しげに語る。
「まさか、サンゴーンさんが〈あの〉サンゴーンさんだった、とはね〜。友達の噂とか、教授の話に聞いてただけだったから」
 世界に七人しかおらず、それぞれにルデリア世界の重大な元素を司っている〈虹の七神者(しんじゃ)〉のうち、サンゴーンは亡くなった祖母サンローンから〈草木の神者〉を継承していた。
「イラッサ町って、確かミザリア島の東の方にある町だよね」
 リンローナが遠い目をして、記憶を手繰り寄せながらつぶやいた。その視線の遙か向こうには故郷の海を見ているのだろう。

 その何気ない言葉に、サンゴーンが強く反応した。
「イラッサを知っていますの? ここから近いんですの〜?」
 独特の典雅でゆったりとした口調ではあったが、彼女なりに強い興味を示し、前のめりになって畳み掛けるように尋ねた。
「そもそも、ここはどこなんですの〜?」
「待った! 落ち着いてよ」
 シェリアが苦笑いしながらも鋭く言う。話を寸断されたサンゴーンは、遅れて唇を閉じていった。首をかしげつつ、しばらくは何か言いたげな様子だったが、眉を寄せて黙り込んでしまう。
 その時、リンローナが少し不安そうな声で逆に質問をした。
「サンゴーンさん、さっきまでイラッサ町にいたの?」
 相手がうなずくと、姉妹の表情はにわかに険しくなった。リンローナは戸惑いつつも声を振り絞り、真実を伝えるのだった。
「ここ、メラロール王国の内陸だよ」


 10月26日− 


[空の絵合わせ(6)]

(前回)

 その時、サンゴーンがゆっくりと頭をもたげていった。星のきらめきで編んだ糸のような銀の前髪が、部屋の隅まで照らしきれない細いランプの灯火にちらちらと瞬きながらこぼれ落ちた。
 サンゴーンは何やら首筋に手を当て、手繰り寄せる。その仕草を見つめている冒険者の姉妹の瞳が、大きく見開かれた。

 鎖の触れ合う音が、しじまの夜に際立って響いた。
 淡い光とともにサンゴーンが取り出したのは、一つのペンダントだった。その先には薄緑色にぼんやりと輝く宝石があった。
「それって……」
「まさか」
 リンローナが身を乗り出し、シェリアの顔は真剣そのものだ。
 椅子に座ったまま姉妹と向き合うサンゴーンは、左手でペンダントの鎖をつまみ、右手で優しくつつみ込むように宝石を握り締めた。ほっそりした指の間から、淡い明かりが洩れている。
「シェリアさんもリンさんもいい人だから……私、話しますわ」
 サンゴーンは姉妹の顔を交互に見ながら、思いを告げる。
「これを持っていることを知っても、気を使わないで下さいの」
 緊張感に充ちた間があった。闇に沈む外の森が夜風を受けて、木々が乾いた音を奏でた。ざわめきは再び静まってゆく。

 姉妹はすでに落ち着きを取り戻していた。二人には、サンゴーンが〈誰〉なのかを既に理解しているような冷静さがあった。
 リンローナはほとんど音を立てずに鼻で深呼吸し、胸がゆったりと上下した。彼女は相手の意を汲んで、丁寧にうなずいた。
「うん、わかった。あたしたち、サンゴーンさんの正体が誰だったとしても、急に態度を変えたりしないよ。ね、お姉ちゃん?」
「もちろんよ」
 シェリアが太鼓判を押し、そして微笑みとともに付け加えた。
「じゃあ、あんたの本名と、出身地、年齢を教えて頂戴。たぶん、そのくらい分かれば、あんたを特定するには充分だわ」
「ハイですの」
 はにかんだ笑顔で、サンゴーンはシェリアの質問に答える。
「私はサンゴーン・グラニア。イラッサ町出身の十六歳ですわ」


 10月25日− 


[空の絵合わせ(5)]

(前回)

「寒くない?」
 ベッドに腰掛け、リンローナが尋ねた。サンゴーンは概ねサイズの問題なかったシェリアの服を羽織り、人心地ついていた。
「はい、平気ですわ」
 突然の訪問者は一度うなずいてから補足する。ランプの灯火だけが頼りの静かな町外れの宿の部屋で、影がゆらめいた。
「でもこんなに涼しいの、生まれて初めてですわ」
 ベッドのそばに運んできた木の椅子に座っているサンゴーンが語った。言葉には素直な感嘆と当惑とが入り交じっていた。
「そっかー」
 色々な物事を深く追求することはせず、リンローナはまず軽く相槌を打つ。彼女はすっかりサンゴーンが気に入ったようだ。
「こんな時間だから、お飲みものは出せないけど……」
 すると相手は穏やかな様子で、ゆったりと答えるのだった。
「気にしないで下さいの〜、えーと……」
「あたしはリンローナ・ラサラ。こっちはシェリアお姉ちゃん」
「リンローナさん、シェリアさん」
 復唱するサンゴーンに、リンローナは嬉しそうに微笑んだ。
「もし良かったら〈リン〉って呼んでね」
「はい。リンさん」
 幾分、笑顔と元気を取り戻して、サンゴーンは受け入れた。

「ちょっと、いい?」
 しばらく黙って考え込んでいたシェリアがついに口を開いた。リンローナは姉の方に向き直り、サンゴーンはぴくりと震えた。
 シェリアは長い足を組み、妹と同じように自分用のベッドに腰掛けている。薄紫色の瞳を曇らせ、唸りながら難しい顔をした。
「うーん、魔力関知させてもらったけど……悪い魔力じゃなかったから、信用して部屋には通したけど」
 珍しく歯切れの悪いシェリアは、そのまま沈黙した。サンゴーンはやや伏し目がちになり、リンローナは二人の出方を伺う。
「お姉ちゃん、冒険者の魔術師だからね」
 そのリンローナが、場の空気を和ませるのを意図してか、サンゴーンへの補足として喋った――けれど、言葉は空虚に響く。

「あんた、なんか強烈な魔力を隠してるでしょ。何者?」
 シェリアは妹の発言に構わず、少しあごを上げてサンゴーンを見つめた。薄紫の艶やかな瞳の視線は思ったよりも柔らかで、相手を睨むというよりも畏怖と好奇心に彩られているようだ。
「えっ?」
 シェリアの発言に驚いて声をあげたのは、サンゴーンではなくリンローナだった。少女は困惑気味に謎の訪問者を見つめた。


 10月24日− 


[空の絵合わせ(4)]

(前回)

 シェリアは立ち止まり、鋭い視線で訪問者の顔を検分した。緊張して固くなる相手に対し、開口一番、シェリアは問うた。
「あんた、何?」
 少し間があり、それから相手がかすれた声で答えた。
「あの、サンゴーンですの」
 そばにいるリンローナは心配そうにやりとりを見守っている。
 対するシェリアは腕組みして、やや強い語調で問いつめる。
「名前というより、何で来たのか聞いてるのよ」
「あの……っしゅん」
 サンゴーンと名乗った謎の少女は鼻を押さえてくしゃみをし、身体をぶるっと震わせた。ルデリア大陸の北に位置するメラロール王国ではだいぶ秋が深まっているというのに、彼女の格好は薄手の白いブラウスにスカート、そしてサンダルという、どう見ても〈夏の格好〉であり、寒さを感じるのも無理はなかった。

「何だか分かんないけど、とりあえず部屋に入ってよ」
 不機嫌そうな顔でシェリアが伝えたのは、いらついた口調に似合わぬ誘いの言葉だった。彼女はドアを指さして説明する。
「開けっ放すと寒いでしょ」
「は、はいですの」
 サンゴーンは言われるがままに歩み、部屋の内側に入った。一方、シェリアは大股で部屋を横切り、最終的にはベッドの脇で立ち止まると、自分の荷物を紐解いて何やら探し始めた。
 リンローナはなるべく音を立てないようにドアを閉める。廊下から紛れ込む新鮮で冷たい空気の流れが止まった。聖術師の妹は素早くサンゴーンに近づき、軽く背伸びして耳打ちする。
「大丈夫だよっ」
 さも楽しげに、リンローナは小さな声で告げるのだった。
「お姉ちゃん、言い方は厳しい時があるけど、いい人だから」

 ――とその時、突然、シェリアが手を動かしながら尋ねた。
「あんた私のでいいわよね? リンローナのじゃキツそうだし」
 シェリアは厚手の長袖を出し、ベッドの上へ無造作に置く。
 リンローナは踵を下ろしてサンゴーンと向き合い、相手を安心させるように微笑みかけて、それから姉の言葉を補足した。
「ほら、羽織る物を貸してくれるみたいだよ。サンゴーンさん」
 当のサンゴーンはリンローナの顔をしばらく見つめて呆然としていたが、遅れて事態を理解すると、今度はシェリアの様子を遠目に確かめる。軽く息を吸い、やや声量を上げて返事した。
「はい、ありがとうですの〜」


 10月23日− 


[空の絵合わせ(3)]

(前回)

「えっ」
 リンローナは絶句する。年の近い二人の少女は、まばたきをしながらしばらく見つめあった。リンローナはあっけにとられ、相手は途方に暮れた様子で。外を夜風が吹き、枝葉が揺れた。
 心臓の辺りを服の上から軽く押さえて落ち着きを取り戻そうと努めながら、リンローナは訪問者を少し見上げる形で尋ねた。
「あの、どうしたんですか?」
「私にも、何が何だか……」
 相手は困惑し、今にも泣きそうな声で口ごもる。それから頭を抑えて、瞳の端にうっすらと涙を浮かべ、首を左右に振った。
 すると聖守護神ユニラーダを信じる聖術師のリンローナの顔つきが変わり、眼差しの力が強くなった。少女は迷いなく両手を差し出すと、相手の冷えた手をつつみ、しっかりと握りしめた。
「あたしでよかったら、相談に乗るよ」
「ありがとうですわ」
 部屋から洩れる僅かなランプの明かりで、薄着の少女の蒼い瞳を満たす涙が宝石のようにきらめく。彼女はほっそりした手で、差し出されたリンローナの手をぎゅっと握り返すのだった。

「何? ルーグたちじゃないの?」
 突然、部屋の中から聞こえたのは、リンローナの姉のシェリアの声だった。静かな夜だから声量こそ抑えているが、もともと良く通る甲高い声だ。謎めいた少女は驚き、一瞬だけ震えた。
「大丈夫。あたしのお姉ちゃんだよ」
 リンローナは相手の顔を覗き込み、温かい口調で語った。
「お姉さん、ですの?」
 訪問者が、ドアの内側を覗き込むように身体を前へ出した。
「あの、ええと……」
 振り向いたリンローナが上手く説明できずにいると、シェリアの苛々が募った。
「何をコソコソ話してんのよ。誰?」
 にわかに緊張感が高まったかと思うと、姉はすぐに動いた。
「開けっ放しにすると寒いでしょ。誰よ?」
 そう言うと、足早にドアの方に向かって歩いてゆくのだった。


 10月22日− 


[空の絵合わせ(2)]

(前回)

「誰?」
 リンローナはゆっくりとノブを回して小さく声をかけ、用心深く細めにドアを開いた。金具のきしむ音が静かな夜に響いた。
「ケレンス? タック? ルーグ?」
 仲間の名前を呼ぶが、反応がない。少女は首をかしげた。
 その時、聞いたことのない若い女性の声が聞こえた。
「あの〜」
「はいっ?」
 予想外の来訪者にリンローナは驚き、相手を確かめようとドアの隙間をもう少しだけ広げた。十五歳にしては背の低いリンローナよりもやや高いところに、相手の顔が現れる。年齢はさほど変わらないようで、十代後半くらいに見えた。廊下の奥に向かって深まる夜の闇の中に、蒼い瞳が瞬いている。髪は銀色のようで、肌はやや日焼けしていた。そしてリンローナが一番気になったのは、相手の格好がずいぶん薄手だったことだ。
「こんばんは」
 リンローナの素早い検分を受けて、やや恥ずかしそうにうつむきながら、相手の少女が挨拶した。その言葉の意味は問題なく通じるが、この辺りとはだいぶ違う方言だ。穏やかそうな瞳は心なしか潤んでいるようで、見たところ悪い人には見えない。
「こんばんは」
 笑顔を浮かべつつも、やや警戒感の残る声でリンローナは返事をした。それから頭を働かせて、急な訪問者に問いかけた。
「宿の方ですか?」
 だが、相手の次なる言葉は、予想を越えたものだった。
「ここは、どこですの……?」


 10月21日− 


[空の絵合わせ(1)]

 小さな峠越えを控えた街道沿いの町だった。河に近い宿屋では絶えず水音が響いている。日はとっぷりと暮れ、旅人の夕食は済んだ。部屋にはランプの明かりが灯り、ゆらめいていた。
「そろそろ寝るわよ」
 ベッドに寝転がり、身体を動かしていたシェリアが言った。彼女は口を抑えて大きなあくびをした。するとテーブルに置いたランプの明かりの下、温かな服を羽織って古びた厚い本のページを繰っていた妹のリンローナは、顔を上げて答えるのだった。
「うん。お姉ちゃん」

 その時だった。
 コン、コン、と間を空けてドアがノックされた。
 シェリアが上半身を起こし、姉妹は顔を見合わせて視線を交錯させる。リンローナが、やや抑え気味の声量で返事をした。
「はい」
 すると再び、ドアがコン、コンとゆっくり叩かれた。
「こんな時間に、何の用かしらねぇ」
 シェリアが再びベッドに寝転がり、面倒くさそうに呟いた。別の部屋に泊まっている仲間の男たちが連絡で来たのは明らかだったので、彼女の疑問は〈誰か〉ではなく〈何の用か〉だった。
「あたし見てくるね」
 リンローナはさっと立ち上がり、ドアの方に歩いていった。


 10月20日− 


[真夜中の奇跡(3)]

(前回)

 やがて少年は速度を緩めてゆき、立ち止まった。
 窓の前に立ったリックは、空気の冷たさが一段と進行したことに気付いた。少しくすんだ窓の硝子は、今や一面に結露していた。霧の深い朝のごとくに曇っていて、外の寒さを伝えている。
 リックは軽く身を震わせた。口と鼻から洩れる吐息は白く、窓から入ってくる僅かな明かりを受けて幻想的に輝いて見える。
 彼はごくりと唾を飲み込む――しじまの真夜中では、そんな小さな音すら顕わにされ、部屋の隅々にまで響いていった。
 リックは心を決めたようだった。好奇心と警戒心に彩られた真剣な顔で、目を輝かせ、窓に向かって右手を伸ばしていった。

 右手をひっくり返し、手の甲で用心深く硝子に触れた。想像した以上の冷たさが突き刺し、思わず顔をゆがめて手を引っ込めそうになったリックだったが、何とか耐える。すぐに手の甲を左右へ、移動しながら上下にも進めて、水滴を落とそうとした。合わさり、大きくなった雫が、幾筋も硝子に線を引いて流れた。
 窓の中に、水滴の取り払われた〈小さな窓〉が開いた――。

(続く?)
 


 10月19日− 


[真夜中の奇跡(2)]

(前回)

 手探りでベッドを確かめながら、リックは暖かな布団を素早く抜け出し、夜の水底に全身を浸していった。時間差で身体がじわじわと冷え始め、秋の夜更けを感じる。それから身体の向きを変えると、距離感の分からない床に右足を下ろしていった。
 無事に爪先が床に触れ、冷え冷えとした敷布に足をついた。かかとまで下ろし、まずは右足だけに体重をかける。闇の中に架けた床が軋みをあげ、現実に存在していることを確かめた。
 その時リックは、はっとした顔になって息を飲み、動きを止めた。すぐには左足を下ろさず、床を見つめて両目をしばたたく。
「見える……」
 真っ暗な闇にうずもれているはずの、床の敷布の色合いが、ほんの微かではあるが見分けられたのだ。何度目をこすっても間違いではなく、深い影の奥に、敷布と自分の足が見えた。

 改めて部屋を見渡してみても、明かりになるようなものは何一つ存在せず、目を開いているのか閉じているのかすら分からなくなってくるような真の闇が広がっている。ひそかな緊張を孕む空気の中で、少年の視線は窓の方へ吸い込まれていった。
 月明かりか、星明かりか。
 それとも長い夜の終わり――黎明の輝きか。

「あっ」
 リックは小さく叫ぶ。窓の方がぼんやり白く明るかったのだ。
 その淡い輝きに誘われるまま、少年は窓の方へ、時に床の木の響きを奏でながら一足ずつ慎重に歩みを進めていった。


 10月18日− 


[真夜中の奇跡(1)]

 静けさに満たされた夜の内側では、宿の木材のきしむ音や、獣の遠吠えがとても良く聞こえる。人も時も寝静まっている。
 そんな秋の夜更けに、リックはふと目を覚ました。
「ん……?」
 目を開いても、光のない世界が果てしなく広がっている。そこは黒ですらなく、あらゆる色の眠っている時空だった。安らぎの暗闇は、このまま夜空の一番奥まで繋がっているかのようだ。
 もしかしたらベッドの周りは何もかも無くなっているかも知れない――ふと、そんな思いがよぎるほどの深い闇だ。上も下も分からず、自分の手さえ判別できない。自分と闇の魂が近づき、身体は浮遊し、意識はしだいに曖昧模糊としてゆくのだった。
 その時、彼は小さな違和感を覚え、耳を研ぎ澄ませた。
「何だろう」
 夜風の中に、何か別の音が、微かに混じっていたのだった。
 意識が少しずつ闇から戻ってきて合わさり、リックは覚醒した。ゆっくり上半身を起こしていけば、布団の隙間から秋の夜長の冷え切った空気が流れ込んできて、彼は軽く身を縮めた。


 10月17日− 


[夕暮れの中で]

 ルォーンォォ、ルォーンォォ――。
 ラニモス神殿の〈時の鐘〉が夕方の数だけ鳴り響き、マツケ町の隅々にまで届いていった。その頃、町外れの海沿いの道では、十数人が規則的に――時に不規則に土煙を上げながら駆けていたが、その鐘の音はよく聞こえた。
「走るのは同じ時間でも、夕陽が早くなったっすね〜」
 闘術士のユイランは一緒に走っているメイザに話しかけた。額には汗をかいているが、息はあまり乱れておらず、まだ充分に余力がありそうだ。
 その十九歳の若く溌剌とした横顔を、間もなく今日のフィナーレを迎える北国の秋の夕陽が赤々と照らし出している。
「夕陽、駆け足になってるのかな?」
 先輩のメイザは前を向いたまま答えた。その言葉は短かったけれど、走りながらにしては丁寧な口調の返事だった。
「空気、冷えて来たから……ですか?」
 後輩のマイナがやや苦しそうな呼吸の合間に、途切れがちに言った。するとユイランが納得した様子で答えた。
「おー、そうかも。太陽もきっと寒いんだよね」

 その間にも、やや高さのある夕暮れ色の波が、誰もいない北国の浜辺に打ち寄せている。波音は単調なようでいて、まるで鼓動のように、同じ音は二度と響かなかった。
「遅れるなよー!」
 突如、闘術士たちの列の先頭から鋭い声が発せられた。二十代半ばの女性ながら、ユイランたちを指導・統括するセリュイーナ師匠の声だ。遅れずに弟子たちも鋭い声を返した。
「ハイっ」

 ユイランと先輩のメイザ、後輩のマイナは、師匠の言葉からしばらくの間は無言で走っていたが、やがてメイザが口を開く。
「冬になると……」
 そこで渇いた唾を飲み込んでから、彼女は続けた。
「お日様、寝坊するよね」
「おっ。そっか」
 意外な指摘に、ユイランは走りながら顔をほころばせる。
「確かに、冬は、そうっすよね」
「あんなに熱そうな太陽なのに」
 メイザが言い、額の汗を手で拭った。二人の会話を聞いていた後輩のマイナはかなり苦しそうで、喋らずにうなずいた。
 
 まもなく今日の陽が水平線に触れようとしていた。海はいよいよ一面の炎のように赤く燃え、冷たい北の波が打ち寄せた。
 


 10月16日− 


[香り野原に秋風の吹く]
 
 サミス村からラーヌ河の下流を目指して進んだ所にある、河の両岸に広がる野原には、秋の花の香りが漂っている。
「風に乗って、時々いい匂いがしてきます」
 さらさらした長い金の後ろ髪をなびかせ、オーヴェルが言う。
 すると横にいたシルキアが返事をした。
「あの香りが見えれば、きっと風の波が分かるのにね」
 草がなびき、一斉に頭を垂れる。薄曇りの空の下、草花は揺れ動き、軽やかで涼しげな音楽を奏でた。
「そうですね」
 オーヴェルが微笑む。
 その時、口を開いたのはシルキアの姉のファルナだ。
「風の波もいいけど……」
 彼女は、上流から中流にかけての若いラーヌ河沿いに広がる野原を見渡しながら、こう言った。
「海の波も見てみたいのだっ」
 山に住んでいるファルナの素直な思いだった。
 オーヴェルはしばらく考えてから、言葉を選びつつ応える。
「ずっと願っていれば、いつか必ず、見られると思います」
「でも、お姉ちゃんが村を離れるのなんて想像できないな〜」
 シルキアがつぶやいた。顔を見合わせて笑う三人の横を、再び軽やかな秋の風が駈け抜け、花の香りが流れていった。
 


 10月15日− 


[影の樹]

 白銀の月の光が、窓から射し込んできていた。
「影の樹?」
 僕が尋ねると、父様は金の口髭を撫でながら、こう答えた。
「ああ、そうだよ。影の樹、だ」
 父様は窓の方に目を向け、詳しく語ってくれた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 当たり前の落葉樹の葉は、だんだん赤や黄色、橙や茶色に変わっていくだろう。
 だけど〈影の樹〉はそうじゃない。秋が深まると、少しずつ赤黒く変わってゆくんだ。赤は赤でも、かなり暗い赤を目指して色づいてゆく。
 そして夜になると大きな変化が起こる。周りの樹が闇に沈んだ時間、その〈影の樹〉の葉っぱだけが、ぼんやりと浮かび上がって見えるのだ。それは最初は暗い緑色をしているが、しだいに黄色になり、明るい赤を目指してゆく。
 遠くの物音が良く聞こえる秋の長い晩に、まばゆいくらいの白い月明かりのもとで〈影の樹〉の葉が赤く輝くのは、このルデリア大陸の秋の出来事の中でも不思議さと神秘さでは他の追随を許さないほどだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「じゃあ、昼間の〈影の樹〉が真っ黒になって、夜の〈影の樹〉が真っ赤になると、どうなるの?」
 僕が尋ねると、父様はちょっと考えてから、まず一言答えた。
「消える」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 だんだん枯れる、などという過程は踏まない。
 最高潮に赤く染まった晩が過ぎ、朝が近づくと、樹はしだいに昼間の黒へ変わる。光と色を失ってゆくのだ。
 それは前後の日とさほど変わらない現象に見えるが、最高潮の赤を過ぎた樹は、もう赤くなることはない。夕方になっても色づかず、そのまま夜が来ると闇に溶けてしまうのだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 僕はその姿を想像した。
「きっと美しいんだろうね」
「ああ。想像以上だろう」
 父様がうなずいた。
 机の上に置いてあった紅の葉が、微かに動いた。
 


 10月14日− 


[秋雨の朝]

 雨が傘を打っている。叩きつけるような強い雨ではないが、触れるくらいの弱い雨でもない。水たまりを作るほど激しくはないが、湿らす程度の霧雨でもない。そんな雨が傘を打っている。
「また雨だ」
 普段は薄着のサホも、今朝はきちんと羽織っている。
「うん」
 うなずいたのはリュナンだ。こちらはだいぶ着込んでいるが、お陰で充分な温かさがあるのか、今朝の顔色は良いようだ。
 ズィートオーブ市の旧市街を色とりどりの傘たちが行き交い、並び、すれ違う。一雨ごとに深まる秋の、とある朝の風景だ。
 


 10月13日− 


(休載)

2007/10/13 浜駅の秋桜
 


 10月12日− 


[忘れられた峠]

 最後の集落を越えて峠に向かうと、深い森に入り、急激に道が悪くなってきた。坂は急だし、道はでこぼこしている。左右から雑草が伸びようと隙を伺っている。馬が通るのが困難なこの峠道は、主要な往来から外れ、あまり使われていないようだ。
 ここまでずっと寄り添ってきた川は、もう飛び越えられそうなほどに細く浅くなっている。場所によっては道と川とが交差していて、丸太が架かっている。澄んだ水が速い流れで駆けてゆく。

 人の動きも河の流れにどこか似ている。分水嶺を越える人は少なく、下流に向かって次第に増えてゆく。大きな町には、必ずと言って良いほど大きな河があるものだ。
 太陽を背後に隠した雲の銀色が、木々の合間からちらちらと覗ける。いよいよ道は険しくなり、額の汗を手の甲で拭き、息を切らして進んだ。蔦につかまりながら登るところがある。
 峠のてっぺんまでは、あと少しと思われた――。
 


 10月11日− 


[空のいたずら]

「すげぇな」
 緑色の草の波が、見渡す限りなだらかに、遥か遠くまで広がっている。
「海みてぇだ」
 故郷のミグリ町からそう遠くない場所に待っている本当の海を思い出しながら、ケレンスは弾む声で言った。
 仲間達も次々と追い付いてくる。
「うーん」
 タックは長く唸ると、そのまま口を閉じて、辺りをゆったりと見回した。あえて言葉を出さないようだった。
「広いな」
 ルーグの声は明るく、深い感嘆に彩られていた。
 白い雲がいくつか漂っている蒼い空からは、光が暖かく降り注いでくる。
「雲の影が、海の島みたいねえ」
 なだらかな緑の斜面に映る雲の影を見て、シェリアが言った。故郷モニモニ町からメラロール市に向かう時の船旅を思い出していたのだろうか。
「風の精霊さんの力、すごく感じる……」
 最後に追い付き、呼吸を整えてから微笑んだのはリンローナだ。肩の辺りで切り揃えた薄緑の後ろ髪が、風を受けて、まるで草のように揺れ動いている。
「あっ」
 そのリンローナがかぶっていた白い帽子が、少女の頭を離れてふわりと浮かび上がった。
 遅れて手を伸ばしたが、届かない。シェリアが爪先立ちになって腕を伸ばし、ケレンスとルーグは飛び上がったが、届かない。タックは何やらポケットをさぐって道具を取り出そうとしたが、それを見越したかのような新しい風の一吹きを受けて、すぐに諦めたようだ。帽子は既に空のものになっていた。
 重さがなくなったかのようにひゅうと高く舞い上がり、飛んでいった帽子の中には、確かに風の精霊の白っぽい後ろ髪が微かに見え隠れしたようだった。
「遊ぶのはいいけど、あとでちゃんと返してね!」
 リンローナが両手を口に当てて叫んだ声が、折からの風に乗り、切れ切れになりながらも遠くまで運ばれていった。
 


 10月10日− 


[坂の途中で]

「んっ?」
 五叉路の手前で、不思議に甘い香りが僕を捉えた。反射的に、人通りの邪魔にならないよう道の脇に寄って立ち止まる。
 迷わず、ゆっくりと目を閉じていった。太陽の光が透けて見えるような明るい昼間の夜が、僕の眼前に広がった。
 しばらく時間をかけて心と鼓動を落ち着ける。人々の足音が少しずつ遠ざかる柔らかな闇の中で、嗅覚が研ぎ澄まされ、いよいよ進むべき方向が〈見えて〉くる。
 僕はそよ風の風見鶏のように、慎重に身体の向きを変えてゆく。花の匂いに確信が持てたところで素早く目を開ける。
「こっちだ」
 想像以上に太陽がまぶしくて、額に手を当てる。人々が歩く軌跡に連なっている、混沌と秩序の入り混じった生命の息吹きの感覚が再び強まってくる。
 僕の鼻が決めたのは、その五叉路ではいちばん細い、古びた上り坂だった。
 大きな通りから大きな通りへ曲がる人々をやり過ごし、彼らの透き間を縫うようにして道を渡った僕は、甘い香りの誘う小路へ真っすぐに足を踏み入れた。
 北の王国の都・メラロール市の、青空の笑う、とある秋晴れの午後だった。
 


 10月 9日− 


[トレアニアの雨]

 曇天が町に重く覆いかぶさっている。大海峡に面したベリテンク町は、その日、かなり薄暗かった。
「やべっ。こりゃ、そのうち来るわな」
 俺は独りごちて舌打ちをし、歩くのを速めた。道の両脇に続く商店はまだのんびりしていて、年老いた客が出たり入ったりしている。
 俺の金色の前髪がふわりと持ちあがった。海の方から急に強い風が吹き出して、旧市街の通りを駆け抜けたんだ。たまに潮の香が妙に近づいたり、一気に遠ざかったりする。
 かつてのトレアン王国の王都であるベリテンク町は、曇りや雨の似合う所かも知れない。決して鬱屈してるわけじゃないが、あまり騒がしくなく、ちょっと沈んだ感じとか――。擦り減った、古びた石畳も、快晴より曇りの方が雅に見える。

 ぽつり。
 冷たい感覚が脳天に刺さった。
「ついにお出ましか!」
 俺は低く言い、直感的に駆け出した。
 降り始めの雨は一粒ごとに、大きな黒いしみを旧市街の擦り減った石畳に刻んでゆく。それはあっという間に勢いを増して俺の顔を濡らし、髪から雫を垂れさせ、ズボンの膝を肌に張りつかせた。雨の白いカーテンが町に掛けられた。
 人が一気にいなくなった通りの向こうに目的の家が見え、それが揺れながら、だんだん大きくなっていった――。

 ドアの取っ手を回すのと同時に、引っこ抜くかのようにした。開ききるのを待てず、身体を滑り込ませる。
 ドアに付けてある鐘の音が、カランカランと遅れて聞こえた。
「まあ、ずぶ濡れじゃないか」
 やや籠もった感じのする部屋の空気の中で、店主のオバさんの声が響いた。
「ハァハァ……参ったぜ」
 俺は壁に手をつき、荒い呼吸と激しい鼓動を感じながら下を向いていた。火照った身体の内側から湯気が立ちのぼった。
 


 10月 8日− 


[昼の空/夜の空]

 草原に立ち、レイベルはナルダ村の広い空を仰いだ。
「空が蒼いね……」
「うん。深い蒼だね☆」
 ナンナがにこやかに答える。その肩からは、使い魔である白いインコのピロが飛び立った。二人と一羽は、果てしない青空の宝石箱につつまれていたかのようだった。

 澄み渡る空は、昼間だけではなかった。冷え冷えとした空気に充たされた夜、あちらにもこちらにも、金や銀、赤や青、白や橙の、色とりどりの星たちの花が咲き乱れていた。
「きれい……」
 暖かい格好をしたレイベルは、今は一人、部屋から秋の夜空を仰ぐのだった。その窓から一枚、夜風に乗って紅に染まった葉が舞い降りてきた。秋の深まりつつあるナルダ村だった。
 


 10月 7日− 


[めぐりくる秋]

 時を経た写真が
 セピア色に退色しても
 思い出の中の青空は
 いつまでも鮮やかなのだ


2007/10/06 霞ヶ浦
 


 10月 6日− 


[メルファ族との邂逅]

「時は残酷なまでに、色々なものを傷つけ、破壊してゆきます」
 メルファ族は共通語を巧みに操り、淡々と続けた。
「貴方がたや、貴方がたが作り上げたものに限らず、私たちも時の呪縛から逃れることは決して出来ません」
 妖精族の森に微かな風がそよぎ、葉が動いて、影の描く模様が数え切れないほどに時々刻々と変化した。
 メルファ族はさらに喋った。
「時の本来の時間に合っていた頃、人々はより良い〈時への対処〉を知っていました」
「確かに、ずっと昔に作られた建物や橋がきれいに残っているのに、最近のものが壊れたりする」
 向き合う人間の少女が語った。メルファ族はすべてを見通すかのような澄んだ瞳で、森の梢を仰いだ。
「けれど時は、すべてを無に葬り去るものでは有りません。改めて、この世界を見てください」
 妖精族の青年に促され、しばし人間たちは木々の匂いを感じ、光に触れ、風を味わい、鳥の声を聞いた。

 風が凪ぎ、やがて再びメルファ族が語り出す。
「もちろん時には自然も破壊されますし、長い年月をかけて形を変えてゆきます」
 メルファ族は続けた。
「ですが、自然に対して、時の対処はごく緩やかなのです」
 


 10月 5日− 


[霧のいざない(5)]

(前回)

「大丈夫だと思います。念のために簡易式の感知魔法で確かめましたが、毒はありませんし、熱も冷たさも無いようです」
 根拠のない自信ではなく、賢者は証拠を示しながら語った。
「何かをおびき寄せる匂いがある訳でもなく、魔力が強いわけでもなく、精神を錯乱させるような効果もないようです。妙な魔法ですが、何かしようという意図を感じません。おそらく、ただ霧に明るさと色をつけたようなもので、無害だと判断しています」
「じゃあ、何のために……」
 姉妹の母が不思議そうに首をかしげると、専門家は答えた。
「そうですね、確かに目的がはっきりしません。その意図を明らかにするため、緑の霧を遡って、源を探ってみるつもりです」
 若き賢者オーヴェルの説明に、その場の一同がうなずいた。
 どこか遠くの森で鳥が鳴いた。濃い霧の粒子は山奥のサミス村を埋め尽くし、漂っている。霧は優しく充ちているけれど、あと二ヶ月も経たないうちに冷たく白い粉雪が舞い降りるだろう。

 ファルナが再び、のんびりとした独特の口調で問いかける。
「わかりましたよん。じゃあ、そのランプは何なのだっ?」
 長女が聞いたのは、さっきから気になっている様子の、オーヴェルが右手に掲げている青紫色の炎を秘めたランプだった。
「これですか?」
 オーヴェルは微笑み、ランプを軽く振る。炎が揺れ動くと光に照らし出される範囲が微妙に変わり、そのたびに湖の岸に寄せる波のごとく、霧が近づいたり遠ざかったりするように見えた。
「霧灯魔法というものです。霧を溶かし、視界を保てるのです」
「お父さん、お母さん、行ってもいい?」
 機会を待っていたのだろう、シルキアが唐突に訊ねた。オーヴェルは良いとも悪いとも言わず、両親の判断を待っている。
「二人は、責任持って俺が守るよ」
 少し前に出たケン坊がやや緊張の面持ちで決めた。シルキアは一瞬うろんそうな顔をしたが、すぐ相手の真剣さに感化されて真面目な表情になった。姉のファルナはきょとんとしている。
 乳白色の霧のキャンバスと、延々と横に引かれた明るい緑の細い線が、辺境の村にそよぐ涼しい秋の朝風に流れている。
 両親は視線を交錯させ、近づいて小声で二言三言交わした。その様子を見守りながら、姉妹と少年は静かに時を待った。

 やがて父と母が顔を上げた。父はシルキアを、母はファルナを見つめる。賢者オーヴェルは表情を変えず、立ちつくしている。
「それなら……ドルケン君に免じて」
 ケン坊の顔を立てつつ、父が娘の冒険を許した瞬間だった。

(続く?)
 


 10月 4日− 


[霧のいざない(4)]

(前回)

「今のところ、あの〈緑の霧〉の魔法に悪意や危険は感じないのですが、気になる現象なので詳しく調査しようと思っています」
 深い説明は避け、自然な表情を保ったまま、オーヴェルは落ち着いた口調で淡々と説明した。魔法に疎いサミス村の人々の間で騒ぎにならないよう、まずは安心させたいようだった。
「なるほど。オーヴェルさんに任せておけば、心配いらないな」
 その時の父の返事で、場の緊張感が幾らか和らいだ。ファルナと向き合った母は、ほっと胸を撫で下ろし、小声で語った。
「魔法のことは、専門家に任せておけば大丈夫ね」
「うん」
 ランプから目を離したファルナは、母の言葉にうなずいた。

 しばらく黙っていたシルキアが、ここぞとばかりに訊ねる。
「ところで、ケン坊は何しに来たの? 霧は向こうからだよね」
 皆の注目がドルケン少年に集まった。するとシルキアよりも一つ年下のドルケンは、帽子を目深にかぶり直しながら言った。
「きっと、シル子と姉(あね)さんも行きたがると思ってさ」
「えっ?」
 シルキアは素直に驚き、それから拍子抜けしたように呟く。
「まあ、それは当たってるけど……」
 だんだんと語尾を曖昧にし、小さくしていった宿屋の次女は、やがて一挙に相好を崩して友の気配りに感謝するのだった。
「ありがとう」
「ところで、オーヴェルさん。ほんとに危なくないのだっ?」
 妹に比べると怖がり屋の部分があるファルナが念を押した。


 10月 3日− 


[霧のいざない(3)]

(前回)

 深い霧の底から二つの影がはっきりと浮かび上がってきた。
「ケン坊!」
「オーヴェルさん」
 シルキアとファルナが来訪者の名を呼んだ。それは帽子をかぶったドルケン少年と、若き賢者オーヴェル嬢だった。ファルナとシルキアにとっては、二人とも特に縁の深い村人である。
 オーヴェルはランプを掲げていたが、その炎は透明感のある明るい青紫色だった。不思議なことに、その光の届く範囲だけ霧が溶けていた――夜の闇を照らす普通のランプのように。
「おはようございます」
「おっす」
 村では最高の魔法の使い手である賢者オーヴェルと、彼女に続いて〈ケン坊〉ことドルケン少年が、歩きながら挨拶をした。
「おはよう」
「おはようですよん」
 店主の父や看板娘のファルナたち〈すずらん亭〉の面々が挨拶を返す間には、来訪者たちは家の前にたどり着いていた。

「どうしたの、ケン坊?」
 シルキアは年の近い遊び友達のドルケンに尋ねた。その瞳は強い好奇心にきらめいている。他方、姉のファルナはオーヴェル嬢の掲げているランプが気になるようで、じっと見ていた。
「外を見ると変なのが出てたからさ、相談したんだ」
 ケン坊が少し胸を張り、鼻の頭を指先で撫でながら言った。彼の家から賢者宅は近いのだ。夏場は森の家で研究生活を送っていたオーヴェルは、この時期、すでに村に戻って来ていた。
 ファルナの家族はドルケンの話を邪魔せずに聞いている。
「で、オーヴェルさんがあの変な霧を調査することになったからさ、俺が用心棒に志願したって訳さ」
 そう言うと、少年は歯を見せてニッと笑った。ファルナもつられて微笑む。だが、遊び友達のシルキアの反応は辛辣だった。
「大丈夫なの、ケン坊。オーヴェルさんの邪魔にならないでよ」
「し……失礼だな、シル子」
 圧力を受けてしどろもどろになりながら、ドルケンが応えた。
「では、この緑の霧は、やはり魔法の……」
 合間を見計らって口を開いたのは父だった。訊ねた相手は、この村で最も信頼できる魔法の専門家、賢者オーヴェルだ。
「ええ、そうなんです。謎の魔法の力です」
 彼女が神妙にうなずくと、母も納得した様子で同調した。
「やっぱり、そうだったのね」


 10月 2日△ 


[霧のいざない(2)]

(前回)

 ドアを開けると、そこは何もかもが乳白色の世界だった。サミスの村は白い霧の湖に沈んでしまったようだ。足元は何とか分かるけれど、先はほとんど見えない。微かな風の吹く涼しくて穏やかな朝だったけれど、視界は猛吹雪の時と変わらなかった。
 ファルナとシルキア、父と母がドアを開けたまま外を見つめている。緑の霧は小川のように途切れず、細く長く流れていた。
「どうだろうね、この霧は……」
 父は気乗りしない様子で重々しく言った。
「あの霧は、何か魔法が絡んでいる気がする。直観だがね」
「二人で行かせるには心配だわ」
 母も顔を曇らせる。普段は割と自由を認めてくれる両親であっても、得体の知れない明るい緑の霧を前に、十七歳と十四歳の愛娘たちを好奇心のままに外へ行かせるのをためらっていた。
「これだけ霧が深いと、しょうがないのだっ」
 姉のファルナは諦めて呟いた。それから半ば安心したように、半ばがっかりしたかのように、温かで小さな溜め息をついた。
「ほぉっ」
「何なんだろうね、ほんと!」
 まるで謎めいた霧を問いつめるかのように、やや声高に――その中に残念そうな感情を精一杯込めてシルキアが言った。

 それからすぐ、一家の誰もが予想だにしない事態が起きた。
 突然、真っ白な世界から声が返ってきたのだ。
「お〜い、シル子か?」


 10月 1日− 


[ミラス町の秋]

「夏の精霊が……遠ざかっていくね」
 レイヴァがゆっくりと呟いた。兄のシャンも落ち着いて答える。
「そうだね」
 学院の帰り、兄妹は保養地ミラス町の広い道を歩いていた。時折、吹き渡る涼しい風に、二人の黄金の髪の毛がさらさらと揺れ動いた。橙色の西日を受けて、影が長く伸びている。
「もうすぐ暮れるね」
 レイヴァが呟いた。日を追うごとに夕焼けが早まり、夜が僅かずつ長くなる――それはしだいに近づいて来る一年の終わりを意味しているかのようだ。 季節の収斂してゆく感覚があった。
「家に着くまで持つかな」
 兄のシャンが言った。 雲の多い空の、海面に近いところだけ少しの隙間が空いていて、そこから太陽が姿を現していた。

 微かに聞こえるのは、小波(さざなみ)の奏でる音の調べだ。遠浅の海を経て、エメラリア海岸の白い砂浜にたどり着いた。
 保養に来ていた貴族たちは去り、浜辺の華やぎは失われた。温暖なミラス町とはいえ、この時期になると泳ぐ者もおらず、今はただ静けさが降り続いている。秋風にしばらく漬けておいた夏の光が、柔らかで豊かに変化した黄昏時の輝きとともに。
「背中が、あったかいね」
 レイヴァが言うと、兄のシャンは歩きながらうなずいた。
「光と風が押してくれる」
 赤い夕陽の照らす中、二つの影が長く伸びながら遠ざかる。
 季節が円やかに結実する、優しい秋の夕暮れであった。
 




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