2007年 9月

 
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2007年 9月の幻想断片です。

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  9月30日− 


[まどろみの雨(下)]

(前回)

「ふふっ」
 僕が何も言えずにいると、少女はにわかに微笑った。それから視線を雨の方に向けて右腕を上げ、掌をゆっくりと広げた。
「あ、でもご心配なく。もうすぐ雨はやむと思うよ」
 僕は雨を見つめ、ちょっと考えてから、やや疑問形で応えた。
「そう?」
 雨音は続いていた。全体的な印象としては単調だけれども、その内側に一粒一粒のそれぞれの物語を秘めているのは、さっきも今も変わらない。こうして早朝に町を湿らせても、時間の経過とともに、午後になる前にはあらかた乾いてしまうだろう。
 灰色の世界の下、雨の唄う調べに乗せて、少女は語った。
「うん。まどろみの刻限は終わるのだから」
 僕は右を向き、距離の縮まった相手の方を見つめた。その表情に悲壮感はなく、全てをあるがままに受け入れるような、穏やかで優しく、それでいて力強さのある澄んだ眼をしていた。
 心なしか、僅かながら雨音が弱まったような感覚があった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「えーっと……」
 少女が長ズボンのポケットに手を突っこみ、何かを探った。すぐに目的の物に触れたのだろう、はにかんだ笑顔を見せる。
「あった」
 相手は〈それ〉を握り拳に収めて隠したまま、風のような素早さでこちらに駆け寄ると、僕の目の前に〈それ〉を突きつけた。
「はい。これ」
 予想はついたけど、やっぱり彼女がそうだったんだ――。
 一度まじまじと拳を見つめ、相手の目線を確かめてから、僕は緩やかに腕を伸ばしていった。向こうはしばらくじっとしていたが、やがて僕の掌が届く範囲になると丸めた拳を開いてゆく。
 ほんの少しだけ指先が触れた瞬間、心臓がちくりと痛んだ。
「よろしくね」
 少女はゆっくりと名残惜しそうに腕を下ろし、軽く胸を張った。
 僕はまばたきをしてから、まず掌を閉じてみた。僕が受け継いだ〈それ〉の堅い感触の奥底に、ぬくもりが微かに残っていた。
 次に手の力を抜いてゆく。指と指の淡い黄金(こがね)の輝きが垣間見える。それこそが月の番人の持つ〈月の石〉だった。
「ありがとう。確かに」
 僕が言うと、その子は安らいだ微笑みを浮かべるのだった。
「どういたしまして」
 相手の声が良く聞き取れた。気がつくと、いつしか雨は小降りになっていたようだった。東の空も僅かずつ明るくなっている。
「もういいの?」
 僕が訊ねると、目の前の少女は大きくうなずいた。
「朝はちゃんと迎えたから。今日は一日、楽しむことにするの」
「それもいいね」
 僕も口元を緩めて相づちを打った。九月の最後の日、ルデリア大陸の山あいの町は、だんだん目を醒ましてゆく所だった。
「雨はじきにやむから。その後は思いきり青空を楽しむつもり」
 少女はそう言うと、ふっと安堵のため息を洩らすのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 雨が霧雨になったので、またどこかでね、と言い合って僕たちはあっさりと別れた。少し離れた所で振り向くと、雨宿りの少女は遠い目をして、風に翻弄される霧雨をじっと見つめていた。
 鳥の声は少しずつ高らかになり、短いまどろみから醒めつつある人々の蠢動が感じられた。雲が薄くなって明るさが増し、灰色の町は彩りを取り戻して、いよいよ動き出そうとしていた。
〈まあ、わかんないけど。九月の空は気まぐれだからね〉
 別れ際のあの子の言葉と、達観したような笑顔が、印象深く心に刻まれている。少女は最後の朝を無事に迎えて次の月を僕に託し、僕は十月を見守る。僕の順番が回ってきたのだ。
 
 彼女は、今年の九月。
 僕は、今年の十月を司る――。

 霧雨は上がって、雲が離れ、早くも青空が見え始めてきた。明日からに備えて、僕も今日この日を楽しむことにしよう。青空の下、爽やかで気まぐれな九月をしめくくる、今日この日を。
 あの子に引き継がれた〈月の石〉を、僕は大切に握りしめた。

(おわり)
 


  9月29日− 


[月影の瞬き]

 部屋の窓からはデリシ町の通りが見下ろせるが、今は秋の夜のしんと静まり返った深い闇につつまれている。その向こうに広がっているはずの空と海の境界線も見分けられなかった。
 ベッドに座り込み、出窓に頬杖をついて夜空を一心に仰いでいたリュアは、部屋の方を振り向くと沈んだ声で返事をした。
「うん。まだ曇ってる……」
「なぁんだ、せっかくリュアの家に泊まりに来たのになぁ」
 机に置いたランプの炎が微かに動き、影が揺らめく部屋の中で、隣のベッドから同級生のジーナの緩慢な声がした。言葉には〈諦めるのは嫌だな〉という響きが含まれていたけれども、その感情すら、膨らんできた眠気に覆いつくされようとしていた。
「んー」
 既にジーナは横になっていて、暖かな布団の中に小さくて活発な身体を休めている。まぶたが何度も落ちては開き、睫毛がほんの僅な風を起こしていたが、やがてそれもゆっくりと止まっていった。その代わりに、安らかな寝息が聞こえ始めていた。
 リュアは再び振り向いて、ささやくように友の名前を呼んだ。
「ジーナちゃん」
 しばらく待ってみても返事はなかった。夢幻の世界へ続く坂道を下っていったジーナが、どんどん遠ざかってゆくようだった。
 
 リュアは長袖の寝間着に薄手の上着を羽織っていたが、肌寒かったのだろう――ベッドの掛け布団を引き寄せると、頭からすっぽりとかぶり、顔だけを出した。そして飽かず空を見ていた。
 曇った夜空は一見すると果てしない闇に覆いつくされ、視界には何も映らないように思える。けれど、しばらく闇に目を慣らしていたリュアは、ささやかな夜の変化に気づくことができた。
(闇のヴェールが、ちょっとずつ薄くなってきているみたい)
 それは少女の気のせいではなかった。鱗がこぼれ落ちて生まれ変わるかのように、煙が吹き飛んでゆくかのように。あるいは顔を出した朝日が海を照らし始める瞬間のように、音もなく雪が降り積もってゆくように――雲の層は確実に薄まってゆく。
(あっ)
 この部屋から遙かな距離を隔てた天のかなた、南の空の高い場所がぼんやりとした明るさを帯び、少女は心を奪われた。
 
 そして次の変化は予想だにしなかったほど早く訪れた。
 ふいに雲が途切れ、天の窓が開いたような感覚があった。暗闇に慣らしたリュアにとっては、まぶしいくらいの輝きだった。
 淡い乳白色の光が夜の水紋となり、波となって、銀河の見えない風に乗り、星座を凌駕して天の隅々にまで拡がってゆく。
 光は瞬く間に地上へも届けられた。ルデリア大陸の東に浮かぶ〈魅惑の島〉シャムル、その西側に位置して大陸への玄関口の港として栄えるデリシの町――そこにあるリュアの家へも。
(お月さま、出てきた)
 願いが叶ったからだろう、リュアはうっすらと涙を浮かべた。
 今宵の空の冴えた望月が、こうして全貌を現したのだった。

2007/09/28 撮影
 


  9月28日− 


[霧のいざない(1)]

 涼しい朝だった。食事のあと、シルキアは窓辺に立ち、茶色の瞳を何度もまばたきさせて窓の外を満たす霧の群れに心を奪われていた。牛や山羊の乳を思わせる霧は、濃くなったり薄くなったりを繰り返しながら、風に乗って流れてゆくのだった。
 この山奥の村に一軒だけある宿屋と酒場が〈すずらん亭〉だ。ゆうべの宿泊客はなく、久しぶりに静かな朝を迎えていた。
 その宿の娘――次女のシルキアはしばらく霧を見つめてじっとしていたが、やがて不意に目を凝らし、手の甲でこすった。
「うーん」
 腕組みをして小さく唸った少女は、窓に顔を近づけて呟いた。
「何なのだっ、あれ……」

 輝く緑の帯――。
 目の錯覚ではなかった。白い霧に混じって、細長い煙のように淡い緑色の霧が漂っていたのだ。それは森が発した吐息のようにも、また木々の葉で染めた糸の束のようにも見えた。
 酒場と食堂を兼ねる大部屋の、やや離れた場所でテーブルを拭いていた妹のシルキアは姉の様子に気付き、困惑ぎみだ。
「お姉ちゃん、どうしたの? そろそろ手伝ってよ〜」
 普段なら〈いま行くのだっ〉と言って動くはずのファルナだが、今日に限っては効果がなかった。霧で覆われた世界を映している窓辺から離れず、顔だけを妹の方に向けて、外を指さした。
「シルキア」
「ん、何?」
 名前を呼ばれた妹は拭き途中の布をテーブルに置き、少し不機嫌そうに応じた。それでも姉の口調や仕草にいつもと違うものを感じたのだろう、軽く溜め息をついてから足早に歩き出す。
「ふぅ。しょうがないなあ、どうしたの?」
 窓辺に近づきながらシルキアが尋ねてみても、ファルナは詳しい説明をせずに〈すずらん亭〉の外を指さすばかりだった。

 乳白色な霧に満たされて視界の利かない村を流れる、奇妙な淡い緑色の霧は、途切れることなく確実に流れてきている。
「あれっ」
 姉の横に立って外を眺めたシルキアは、すぐに気がついて驚きの声を発した。窓の景色に吸い寄せられた少女は、一度大きくまばたきしてから、改めて冷静にじっくり観察するのだった。
「何? 緑の霧みたいな、煙みたいな。お姉ちゃん知ってる?」
「うーん……」
 ファルナは首を傾げて唸った。彼女なりに考えを巡らして色々な可能性を想像していたようだが、結論は出ないらしかった。
「何だろうな」
 厨房から出て来ていた父が呟いた。シルキアは振り返って父の表情を確かめてから、横で呆然としている姉に向き直った。
「お姉ちゃん、ねえ、行ってみようよ」
 すると少し遅れてファルナは妹を見つめ返し、だんだんとその視線がしっかりしてきた。姉のいらえはどこか重厚に響いた。
「うん」


  9月27日− 


[まどろみの雨(上)]

 早朝の通り雨が、山あいの町をしっとりと濡らしていた。
 空を映した冷ややかな灰色の雨は、人々のまどろみ――夜明け後の浅い眠りそのものであるかのように、緩やかに強まっては弱まる事を繰り返しつつ、しばらくの間、降り続いていた。
 日はすでに昇ったはずだが、新しい一条の光は雨雲に遮られている。薄暗さの消えない町は彩りが失われて、あらゆる境界線が曖昧になっていた。鳥の声は遠く、雨音は優しかった。
 雨は一見、単調に思えたが、実際は一粒ごとに全く異なっていた。落ちる場所も、粒の大きさも、形も。だから耳を澄ませていると、雨の調べは二度と演奏できない複雑な楽曲だった。
 僕は町役場の下で雨宿りをしていた。人のいない中央広場の石畳が雨を受けて、一段階深い色に塗り変えられていった。

 ふと気配を感じて、横を見ると、少し離れた場所に見知らぬ少女が立っていて、やはり僕と同じように雨宿りをしていた。彼女はやや顎を上げて視線を天に向け、何度かまばたきしていた。
 少女は長袖の服を着て茶系統の薄手の上着を羽織り、やや厚手の長ズボンをはき、豊かな髪を後ろで一つに束ねていた。
 じっと見ていると少女も僕に気づき、互いの視線が重なった。
「おはよう」
 先に挨拶したのは相手のほうだった。
 周りに誰も居ないのを軽く確かめてから、僕は答えた。
「おはよう」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「秋らしい朝ね」
 澄んだ声で、相手は明るく喋った。声は大きくないのに不思議と余韻は残った。確かに、通り雨なんて〈秋らしい朝〉だ。
「そうだね」
 言葉が途切れるごとに、降り続く雨音が合間の時間の橋渡しをしてくれた。僕はそっと右足を出して一歩だけ少女に近づき、今度はそちらの方は向かずに正面の雨を眺めたまま訊ねた。
「雨上がりを待ってるの?」
 相手はしばらく考えてから、やや視線を上げて返事をした。
「そう、待ってるの。君も?」
「うん。そうなんだ」
 僕はまず肯定してから、ちょっと首をかしげて付け加える。
「うーん。確かに雨のやむのを待っていることは待っているんだけど、待っていること自体を楽しんでるような感じかな……」
 薄暗い空が、ほんの少しだけ明るくなった。
 すると相手は微笑み、僕の方に向き直って一足歩み寄った。
「私も」
 はっきり同意した後、少女は初めて迷いをみせるのだった。
「でも、この時間が、ずっと終わって欲しくないような気もする」


  9月26日△ 


[草花の魔法(9)]

(前回)

「お花の種、すっごく喜んでたね」
 サンゴーンの家を出て帰る途中、あたしはメイおばさんに言った。預けたアルアザンを元気にしてくれたお礼に、おばさんは余ってる花の種を何種類かサンゴーンにプレゼントしてくれた。
「いやー、あの子にとっては、花はほんとに友達なんだねぇ」
 メイおばさんは心底、感嘆した様子で呟くのだった。
「あれは確かに、魔法なんかじゃない。レフキルちゃんの言い分、改めてサンゴーンさん本人の話を聞いてみて分かったよ」
「ほらねっ」
 あたしは歩きながら軽く胸を張り、安堵の息をつくのだった。
「ふぅ。おばさんが話の分かる人でよかった」
 南国の太陽の光はまだまだ強く、午後の町を照り付けている。多くの人が帽子をかぶって、まぶしそうに目を細めて歩いている。風だけはやや涼しくなって、街中を通り抜けていった。

「うーん。こうなると、あの子自身が魔法みたいなもんだわ」
 よほどサンゴーンの純真さが新鮮だったみたいで、おばさんは唸りの後に深い声で語った。あたしは軽く笑い飛ばした。
「ははっ。言い過ぎじゃない?」
「いやいや。タイプは違うけど……やっぱりあの子は、サンローンさんの孫だねえ。今回の一件でだいぶ印象が変わったよ」
 あたしは少し間を置いてから、ゆっくりと重厚にうなずいた。
「うん。もちろん!」
 サンゴーンのおばあさん、サンローンさんは町の誰もが認める立派な〈草木の神者〉だった。だけどサンゴーンも、おばあさんとは違った形の〈草木の神者〉として活躍できると信じてる。
「あたしも、小さなことから少しずつ、手助けするつもりだよ」

「それにしても近頃は珍しい〈夢見る乙女〉だったわ」
 おばさんが本来の大らかさを取り戻してきて、豪快に笑った。
「はっはは。まるで、あたしの若い頃みたいだよ!」
 冗談には冗談で返事をする。後半の話を軽く聞き流し、サンゴーンを〈夢見る乙女〉だと評した言葉にわざと突っかかった。
「ふーん。じゃあ、あたしは〈現実的な乙女〉ってことぉ?」
 そうは言っても、すねたふりをしたのは言葉だけ。瞳で抜目なく笑ってみせると、対するメイおばさんも口元を緩めて応じた。
「そりゃあ、そうだよ。ちょっと〈乙女〉は余計だけどね!」
 風が凪ぎ、一瞬の間があった。
「ぷっ」
 それからあたしたちはほとんど同時に吹き出した。おなかを抱え、身をよじって、しばらく道の真ん中で大笑いするのだった。

 いつもの広場が見えてくる。店の前に姿を現し、待っていてくれたおやっさんが、あたしたちの姿を認めて高く手を挙げた。南国の太陽の下で、あたしたちは大きく手を振り返すのだった。

(おわり)
 


  9月25日△ 


[草花の魔法(8)]

(前回)

「色々迷惑かけたねえ、サンゴーンさん」
 メイさんが、大きな声で申し訳なさそうに言いました。突然の言葉に、私の方こそ驚いてしまって、手を横に振るのでした。
「いえいえ、迷惑だなんて、そんなこと無いですの〜」
 そして私は、メイさんと一緒に来たレフキルに訊ねました。
「どういうことですの?」
「メイおばさんが、色々と話したいみたいよ」
 レフキルが答えました。私はメイさんの方に向き直りました。
「私、アルアザンのお花とお友達になれて、とっても楽しかったですわ。おうちに帰ってからも、あのお花、お元気ですの?」
 心配だったので訊ねると、メイさんはすぐにうなずきました。
「あぁー、もう元気も元気さ。ついに売れて行ったよ」
「……そうなんですの。寂しくなりますわね」
 私がそういうと、メイさんは私の顔をまじまじと見つめてから、レフキルを見ました。レフキルはメイさんに目配せしました。
「ほらね。サンゴーンは、ほんとにこういう子なんだよ」
 レフキルが小声で言うと、メイおばさんは低く唸るのでした。
「うーん」
 二人が何の話をしているのか良く分からず困惑しましたが、家の入口でこのまま立ち話をするのは失礼かなと思いました。
「良かったら、中にいらしてくださいの。お茶の用意をしますわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「というわけ」
 レフキルちゃんの話が終わり、少し間があいた。
 サンゴーン嬢ちゃんの家の風通しのいい立派な客間で、あたしとレフキルちゃんと三人、メフマ茶を楽しんでいた時だった。
「あのー、よかったら教えて欲しいんだけども」
 話が弾んできたところで、あたしゃ率直に切り出した。この子たちに策は通じない。素直にぶつかるのが一番ってもんさ。
「一体、どうやってアルアザンを元気にしたのかね?」
 あたしとレフキルちゃんの注目が集まると、若き〈草木の神者〉のサンゴーン嬢ちゃんは恥ずかしそうに軽く目を伏せた。
「えーと、あの……」

 部屋の中を、心地よい秋の風が通り抜けていった。
「サンゴーン」
 そう名前を呼んでレフキルちゃんが口元を緩め、やや大きな耳を少し動かしたのは、友達の気持ちを落ち着かせる合図だ。
 するとサンゴーンちゃんは顔を上げて、碧色の澄んだ瞳を輝かせ、あたしの方を真剣に見ながら静かに語り出すのだった。
「試行錯誤ばかりで良く分からないんですけど、お庭に植え替えたりとか、肥料を取り替えたり、近くに草を植えたり……」
「うん、うん」
 あたしは邪魔しない程度に相槌を打った。相手は続けた。
「あの、近くに草を植えたのは、話し相手を作るためですわ」
「話し相手?」
 その発想にはさすがに驚いて、あたしゃ大きな声をあげた。うちにとって花は売り物であり、生活の糧だ。その直後、レフキルちゃんが掌を耳に当てて〈まずは聞こう〉と伝言を送ってくる。
「やっぱり、おかしいですの?」
 サンゴーンちゃんが心配そうに言うので、あたしは否定する。
「そんなことないさ、参考になるよ。あとは?」
「あとは……」
 そこで一度口ごもったが、彼女は勇気を出して語ってくれた。
「元気になってもらいたくて、お唄を聞かせましたの!」


  9月24日− 


[秋の気配 〜シャムル島より〜]
 
「ずいぶん、影の波が満ちてきましたね……」
 ゆったりと歩きながら、テッテは独りごちた。朝の同じような時間に同じような場所を歩いていると、幹の影が夏よりも伸び、木陰の面積は確実に広がっていることに気づく。それは日を追うごとに少しずつ伸びてくる緩やかな影の満ち潮のようだった。
 シャムル島の明るい森には、柔らかな光が射し込んでいる。通り過ぎる風は爽やかで涼しく、身軽なステップを踏んで駈け抜けてゆけば、まだ緑色の木の葉が揺れてカサカサと鳴った。
 テッテは空を仰いで、思いきり伸びをした。
「うーんっ」
 木々の間から覗く空は澄んで蒼く、白いちぎれ雲は優雅に漂っている。陽の光はまぶしいけれども、以前ほどの力強さは影を潜めていた。鳥たちの歌声の高らかに響く、秋の朝だった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「夕焼けが早くなったな」
 シャムル町の城内にある長い廊下を大股で歩いていたクロフ公子が、西から降り注ぐ橙色の光に目を細めた。以前はまだまだ明るかった時間でも、今日は日没を迎えようとしている。太陽が沈んでしまうと、急激に薄暗くなってゆくのが想像できた。
 公子の少し後ろを、やはり早足に歩いている騎士が答えた。
「左様であります」
 しばらくの間、クロフ公子と付き人の騎士のブーツの靴音だけが辺りに響いた。シャムール公爵家の紋章入りの、簡易的な白銀の胸当てが、夕日を受けて黄金に誇らしげにきらめいた。
「塔から見る星や月の美しさ、夜風の涼しさは、もう秋だ」
 がっしりと鍛えられた肩と腕を動かしながら歩いていた背の高いクロフ公子は、彫りの深い顔の唇を和らげた。夜の虫の声が届かない城内でも、空や風の季節による変化は感じられる。
「雅やかな感想ですね」
 突然、斜め後ろから若い女性の声が聞こえた。だがクロフ公子は全く動じた様子がなく、表情を変えずに親しげに問うた。
「そうか?」
 早歩きするクロフ公子の斜め後ろに、いつの間にか妹のクリス公女が寄り添っていた。豊かな金の巻き毛をアップにしているクリス公女は、公子の八つ年下の妹で、二十一歳になる。女性としては大柄で、足早に歩く兄にピッタリとついてきていた。
 公女は悪戯っぽく微笑みながら、こう語りかけるのだった。
「気配を消して近付いてみたの。気がついた? 兄上」
「ああ、もちろんだとも」
 クロフ公子は満足げに答えた。その時、ちょうど長い廊下が尽きて、両側に立っていた警備の槍の兵が機敏に敬礼をした。
「はっ」
 槍の刃が一瞬だけ輝き、すぐに失われた。陽が沈んだのだ。
「お疲れ様」
 通り過ぎる際、兵に声をかけてから、クリス公女は兄のクロフ公子に向かってちょっと拍子抜けした様子で告げるのだった。
「あら、残念。さすが兄上」
「ふふっ。まあな」
 クロフ公子は嬉しそうに笑った。城内の別棟に入った公爵家の兄妹と守護の騎士は、角を曲がると広間に入っていった。
 薄暗くなりつつある城の中には、微かな夜風が吹いていた。
 


  9月23日− 


[草花の魔法(7)]

(前回)

 それから数日が経ち、アルアザンの花はすっかり元気になった。一度見に行った時、半透明の花びらは艶やかで、穂のような形をきれいに完成させていた。太陽の光が射し込むと、まるでランプの明かりみたいに、ぼんやりと麗しい輝きを秘めた。
 翌日、メイおばさんが取りに来て、大喜びして帰っていったとサンゴーンから聞いた。その後、店のおやっさんが言ってたけど、アルアザンの花って、かなり貴重で高価なんだって――。
 貴重な花が元気になったこと自体は良かったと思う。でも、あたしは何だか腑に落ちなかっし、後味が悪かった。高い商品を生き返らせるためにサンゴーンが利用されたみたいで。結果的にそれに加担した形になってしまった自分自身も嫌だった。

 そしてあたしは、お店でメイおばさんと対峙していたんだ。
「〈草木の神者〉の魔法で、ちょいちょい、なんだろう?」
「おばさん」
 相手の目を見て、あたしはもう一回、強い口調で言った。
「おばさん」
 おばさんは唾を飲み込み、少したじろいだように見えたけど、結局は何事もなかったかのように平静な口調で返事をした。
「何だい?」
 あたしはカチンと来た。でも深呼吸を一つして、自分自身の気持ちを落ち着けながら、一言ずつ大切に語りかけるのだった。
「ふぅー。サンゴーン自身は〈魔法〉なんて使ってないよ」

 店のおやっさんが見守っていてくれる視線を背中に感じる。騒がしい広場だけど、辺りの雑音が遠くになったように思えた。
 おばさんは気にせず、太い声で自信たっぷりに反論をした。
「だけど、あの子は〈草木の神者〉なんだろう? 先代は数々の魔法で、色んな奇跡を起こしてくれたみたいだけどねえ……」
 先代――。
 亡くなったサンローンおばあさんの厳しくも優しい顔が脳裏をよぎった。あたしも随分良くしてもらった。サンゴーンの実の祖母で、先代の〈草木の神者〉だったサンローンさんは、イラッサ町の町長を長く務めて敬愛を集めたんだよね。でも亡くなる間際の、サンゴーンへの〈草木の神者〉の世襲は批判を集めた。
 両親が遠い国にいて独り身のサンゴーンは、今は〈草木の神者〉を継いだことで名目的な町長という扱いになってる。大したことはしてないのに町からのお金で暮らしてて、あんまり良く思われてないみたい。先代みたいに魔法を使える訳じゃないし。
「でもサンゴーンは魔法を使わずに、奇跡を起こしたんだよ?」
 あたしは言った。あんな立派なサンローンおばあさんが、単に世襲でサンゴーンに〈草木の神者〉を任せた訳じゃないと思う。優しくて穏やかで、草や花を心から愛しているサンゴーンが、身近な人の中で一番ふさわしいと思ったから選んだと信じてる。
「もし、魔法を使ったとすれば、それはサンゴーンじゃない」
 いつの間にか熱っぽく、あたしは語っていた。メイおばさんと、おやっさんは黙って聞いている。広場の秋の風は凪いでいた。
 あたしは続けてこう言った。
「アルアザンの花がもともと内に秘めていた、生命力の〈草花の魔法〉を……サンゴーンがちょこっと引き出しただけなんだよ」


  9月22日− 


[草花の魔法(6)]

(前回)
 
 あたしの質問に、サンゴーンは何故か驚いて聞き返した。
「えっ?」
「ん?」
 これには、あたしも困惑した。もしかして噛み合ってない?
 それでもサンゴーンは懸命に答えようとして、考え込んだ。
「えーと、ア……」
「あ?」
「アルアザンですの」
 その名前を聞いた時、何か心に引っかかったような気がした。思い出せそうで思い出せないから、口に出して言ってみる。
「なんか聞いたことあるなぁ。これがアルアザンなんだ」
「レフキル、本当に知らないんですの?」
 サンゴーンが怪訝そうに言った。いよいよ、これはおかしい。
 あたしはついに究極の質問を投げかけるのだった。
「このお花、どうしたの?」

「あらあ?」
 サンゴーンは素っ頓狂な声を上げて、少し目を逸らした。
「レフキルの紹介じゃなかったんですの?」
「あたしの……紹介?」
 慎重に言葉を選びながら返事をした。大事なことを思い出せそうで思い出せず、次第にもどかしい気持ちが高まってくる。
「うーん」
 微かな風が止まり、暑さが追い打ちをかける。あたしが唸り声をあげて悩んでいると、サンゴーンが助け船を出してくれた。
「メイさんから頼まれましたの。レフキルの紹介って」
「んー」
 アルアザンの花、メイおばさん。あたしは腕を組んで考え込んでいたが、ようやく先日の話を思い出して両手をポンと打った。
「あーっ、分かった! あの時の話か」
 そういえば、アルアザンの花が元気ないって言ってたっけ。
「紹介ってほどでもなかったんだけど……お花に詳しい知り合いがいないか聞かれたから、サンゴーンの名前をちらっと出したんだ。そっか、あれからサンゴーンの所に持ってったんだ」
 思い出しながら喋って一息つくと、友達が相槌を打った。
「そうだったんですのね」
 あれからメイおばさんはうちのお店に来てないし、サンゴーンとも会ってなかったから知らなかった。あたしはすぐに謝った。
「面倒なことになっちゃって、ごめんねー」
「ううん。楽しかったですわ」
 サンゴーンは軽く首を左右に振り、優しく微笑むのだった。


  9月21日− 


[草花の魔法(5)]

(前回)

「レフキル!」
 声の主がどこにいるのか見回して、低い塀の向こうに馴染みの顔を見つけた時、私は嬉しくて相手の名前を呼びました。長いスカートの裾をはためかせて、私なりの早足で近づきます。
「よっ。来たよ〜」
 手を挙げて微笑んだレフキルは、すぐに白い石の壁に両手をつきました。それから軽く飛び上がり、身体を両腕で押し上げると、あっという間に壁の上へ登り終えてしゃがんでいました。
「よっと」
 手を広げてバランスを取りながら、親友はひらりと庭の片隅に舞い降りてきました。猫さんみたいに、しなやかな身体です。
「いらっしゃいですの」
 私は心から歓迎しました。お花の育て方についての悩みはあったけれど、レフキルが来てくれて、とても心強く感じました。

「あのお花を、お庭へ植え替えてみようと思ったんですの」
 何をしてたの、という問いに答えた私は、さきほど地面に置いた鉢植えを指差しました。レフキルのお店の常連だというお花屋のメイさんから預った、白っぽい気難し屋さんのお花です。
 レフキルは静かに聴いていてくれます。私は続けました。
「やっぱり大陸から来た種類だから、このミザリア島では育てるのが難しいみたいなんですわ。肥料を代えたり、お水を多めにあげたりしたんですけど、なかなか上手くいきませんの……」
「ふーん、難しいんだ」
 レフキルはしゃがみ、お花を近くで熱心に見つめていました。メイさんはレフキルに実物を見せなかったのかも知れません。
「初めてですの?」
「うん。この花、見るの初めて。変わった花だね」
 レフキルが言いました。私もお花に近づき、両手を膝に置いて、少し腰を落としました。降り注ぐ強い陽射しが私たちに遮られて、その穂のような不思議なお花は影の中に入りました。
「色々と工夫してみますわ。唄を歌ってみたり、とか……」
「唄?」
 レフキルが顔を上げて聞いたので、考えながら説明します。
「えーっと、気持ちが伝わるかと思って、唄ってみる時がありますの。うーん、例えば〈独りぼっちじゃないんですわ〜♪〉って」
 私はちょっと恥ずかしくなって、頬が熱くなるのを感じました。
 レフキルは穏やかに微笑み、真面目な口調で語りました。
「そっか……その気持ち、きっと、お花にも伝わると思うよ」
「ありがとうですわ」
 とてもほっとした気持ちで、私は素直にお礼を言いました。

 さて、レフキルは視線を再びお花の方に向けました。
「ところで、この花、なんて名前?」
「えっ?」
 その時、初めて違和感を覚えて、思わず聞き返しました。レフキルは全部知っていると思っていたんですけど、違うのかな?


  9月20日− 


[草花の魔法(4)]

(前回)

 メイおばさんとアルアザンの花の話をした数日後だと思う。
 あの日、あたしは休みだったからサンゴーンの家に寄った。白い石を積んだ低い塀の向こうに広い庭が見え、ちょうどサンゴーンが家の方から鉢植えをかかえて移動してくるのが見えた。
「サ……」
 声をかけようとして、あたしはすぐに口を抑えた。気づかれてないみたいだから、どうせなら驚かせちゃおうって思ったんだ。
 あたしは足音を立てずに壁に近づき、徐々に腰を落としてゆくと、最後は顔だけを壁の上に出した。そして、いつ、どうやって驚かせようってことを考えつつ、親友の様子を見ていた。どういう反応をしてくれるんだろうっていう期待と楽しさと、しばらくの間、黙って見てることに対するちょっとの罪悪感を覚えながら。

 サンゴーンが近づいてきた。あたしは鉢植えを見定める。
(何の草だろう?)
 いや、それ以前に草なのか花なのか、よく分からないものだった。小さな鉢植えには、なじみのない植物が生えていた。
 くきや葉っぱは普通っぽいけど、先の部分に特徴があるみたい。目を凝らしてみると、穂を作ろうとしたのを途中で諦めつつあるような、整えていない髪みたいな未完成の印象を受けた。
(そもそもサンゴーンって、あんな草、持ってたかな?)
 ほっそりした友は、やや緩慢な動きで庭を見回してから、持っていた鉢植えをひとまずその場に置き、手で額の汗を拭った。
「う〜ん」
 唸り声をあげたサンゴーンは、何か困っている様子だった。立ちつくしたまま、握りしめた右手を顎に当てて考え込んでいる。

 元からのんびり穏やかな性格のサンゴーンは、一つのことに集中してる時、特に周りの出来事には気付かないんだろうな。
 そろそろ頃合いかな。あたしは塀越しに低く声をかけた。
「サンゴーン」
「ん?」
 親友はすぐに周りを見回し始めた。サンゴーンの素早い反応に、むしろ驚いたのはあたしの方だった。もしかしたら、あたしの声を良く把握してくれているのかな。もう一度、呼びかける。
「ここだよ」
 そう言ったあたしの言葉を、サンゴーンの両耳が捉えたのが分かった。蒼い瞳の眼差しが、だんだんと塀の方に向けられ、横へ移動してゆく。あたしはじっと相手を見つめ、待っていた。
 波と波がぶつかり、合わさるみたいに――。
 あたしたちの視線がついに重なったのだった。
「レフキル!」
 サンゴーンの目があたしの姿を認めた瞬間、ぱっと輝いた。


  9月18日− 


[草花の魔法(3)] ※9/19と入れ替え

(前回)

 その時、私はお庭の日陰でお洗濯をしていました。井戸水を汲んだタライで、服とか顔拭きの布とかを洗っていたのです。
「んん〜」
 いつものように鼻歌を適当に唄いながら、熱中してやっていたみたいなので、最初は〈その声〉に全然気付きませんでした。
「もしもし」
「ん〜んん〜。お洗濯は気持ちいいですの」
「もしもし。もしもし」
 繰り返されるうち、どこかで女の人の声がするな、とは思いましたけど、まさか私に話しかけているとは思いませんでした。
「グラニアさん、サンゴーンさんや」
 名前を呼ばれて急に我に返り、私は緊張して答えました。
「は、ハイですの!」
 その時、驚いたはずみでタライを倒してしまいました。洗濯物は地面に落ちて、たくさんの水が庭に吸い込まれていきます。
「あららぁ」
 私はすっとんきょうな声をあげて、目を白黒させました。
「ありゃ、悪かったね」
 家を囲む低い塀の上に、ふくよかな体格をした中年の女の方の顔が見えました。どこかで見たことのある方だと思います。
「大丈夫ですわ、あとでやり直しますの」
 私は顔を上げて答えました。時間はたっぷりあるので、焦る必要はありませんでした。もう一度、同じことをやり直せばいいだけです。何から片付けたらいいのかと迷いましたが、ひとまず空になったタライを起こし、そこに泥のついた洗濯物を重ねて入れてから、ゆっくりと立ち上がって声のする方を向きました。
「あんた、レフキルちゃんの友達だろ?」
 その、どこか見覚えのある女の方が急に言いました。真意は分かりませんでしたが、その通りでしたので、うなずきます。
「ハイ、そうですわ」
 低い塀ごしに、私たちは話を続けます。相手が言いました。
「あたしゃ、レフキルちゃんの店の常連のメイさあ。あの子の話を聞いて、今日はあんたに頼みがあってやって来たんだよ」
 ちょっと不安になった私は、まばたきをしながら軽く身を乗り出すと、さっきよりも小さな声でメイさんに聞き返したのでした。
「頼み……ですの?」
 聞いてみないと分からないけれど、私に出来ることかな?


  9月19日△ 


[草花の魔法(2)] ※9/18と入れ替え

(前回)
 
 その日、あたしゃレフキルちゃんのいる広場の露店で、売り物の雑貨を適当に眺めながらいつものように世間話をしていた。
「うちの花がね〜、調子が悪いのがあって気になるんだよね」
 そう言ったあたしの頭の中には、アルアザンの花があった。
「蔓(つる)っぽい、白くて半透明な細長い花びらがいっぱい伸びてさ、複雑に絡まって草の穂みたいな形を作る。草じゃない証拠に、うっすらと甘い香りがする。異国の感じのする花だよ」
「へーえ」
 てきぱきと商品を整頓しつつ聞いていたレフキルちゃんは、軽く相槌を打つ。妖精族の血が混じってるリィメル族の子で、やや大きな耳をぴくっと動かした。あたしはまた立て続けに言った。
「ミニマレス侯国からの輸入品で、もともと育てるのが難しいんだけどさ、今年のは特に元気がないようで、困ってるんだよ」
 アルアザンの花は高い値がつく。あの花が売れなくなると、うちの店としては結構な損害になる。それはなるべく避けたい。
「誰か、花の育て方に詳しい知り合い、いないかねぇ?」
 あたしはざっくばらんに聞いた。本気半分で、残り半分は冗談っていうか――話の種みたいなもんだけどな。困ってるのは事実だから、買物のついでに信頼できる人に愚痴ったり、話を振ってみたりしていたんだ。誰彼構わず聞いてるわけじゃない。
「花屋って言ったって、分からないものは分からないからねえ」
「うーん」
 レフキルちゃんは手を休めず、うなずきながら聞いている。
「結局はうちの問題だから、最終的にはうちの店で何とかしなきゃいけないことは十分に分かってるんだけどさぁ……もし誰か、知り合いに詳しい人がいれば、と思って聞いてみただけだよ」
 ま、ほんとのところ、そんな強く期待しているわけじゃないけど――伝手があるかどうか、聞いてみなきゃ分かんないからね。
「どんな花?」
 相手が言う。あたしゃ、高価な花ってのは触れずに答えた。
「ま、ちょっと気難しい花なんだよ」
「なんて名前?」
 その質問には少し迷ったが、真面目に答えた。
「アルアザン、っていう花さ」
 賢いこの子には、嘘やハッタリは通用しないからさ。
「アルアザン? 聞いたことないな」
 そこでレフキルちゃんはしばらく手を休めて、視線を遙かな遠くへ投げかけた。色んなことに思いをめぐらしているんだろう。
 やがて少女は顔を上げた。
「う〜ん、メイおばさん、ごめんっ。たぶん、あたしの知り合いの中でいっちばん花に詳しいのは、メイおばさんちだと思うんだ」
 あの子は心を決めたようで、あたしの目を見てはっきりと語りかけた。深碧色の瞳の強い視線に吸い込まれちまいそうだ。
 レフキルちゃんは友達が多いはずだけど、さすがにあたしに別の花屋を紹介するわけにはいかないから、そんな答えになったんだろう。あたしの顔を立てつつ、やんわりと断ってくれた。
「そうかい、まあ、それならしょうがないけどねぇ。ありがとう」
 あたしは残念に思い、礼を言った。次の人を当たってみよう。
 諦めかけた、その時――レフキルちゃんは、こう呟いたんだ。
「もしかしたら、サンゴーンなら詳しいかも知れないけど……」


  9月17日△ 


[草花の魔法(1)]

 南国の陽射しは今日も強く、濃い影を落としている。でもあたしは厚い布で張った露店のテントの下にいるから大丈夫だ。
 おっ、花屋のメイおばさんだ。待ちに待っていたんだ。
 あたしは声をかけた。
「いらっしゃい!」
「おっ、レフキルちゃん。こんちは。景気はどうだい?」
「まあまあかなー」
 笑顔で答える。すると横にいた店のおやっさんが言った。
「こいつがバリバリ売ってくれるからなあ。怖ぇくらいに、な」
「ちょっと、おやっさん。そういう言い方だと、何だかあたしが悪いことしてるみたいじゃない?」
 そして笑いながら、上目遣いに睨んだふりをしてみせる。
「ほらほら、怖ぇんだよ」
 おやっさんも馴れたもので、鍛えられた上半身を反ってから、大げさに肩をすくめた。だけど口元はおかしそうに緩んでいる。
「あっははは」
 やや豪快な体つきをしているメイおばさんは、人目をはばからず、その体格にふさわしい声量で思いきり笑うのだった。あたしたち南国人、楽天的な〈ザーン族〉の代表みたいな夫人だ。

「そうそう、レフキルちゃん」
 お客のメイおばさんは、あたしに話があるみたいだった。あたしも、おばさんがいつ話をしてくれるのか、じっと待ってたんだ。
「いやぁ、若くても、さすが〈草木の神者〉さんだねえ! サンゴーンさんに預けたアルアザン、すっかり元気になったんだよ」
 おばさんは身振り手振りをつけて感嘆し、嬉しそうに語った。
 調子いいなぁ――あたしは溜め息混じりに返事をした。
「まさか、おばさんがサンゴーンに頼んでるとはねぇ……」
 風に乗って、どこかの店から肉を焼く焼く匂いが漂ってきた。
 
 メイおばさんはそこで声の調子を落として、こう言った。
「〈草木の神者〉の魔法で、ちょいちょい、なんだろう?」
「おばさん」
 あたしは、はっきりとした口調で、真っ直ぐに呼びかけた。


  9月16日− 


[夜風とともに(10)]

(前回)

「さあ、帰りましょう」
 メイザが優雅に呼びかけると、ユイランは〈《お嬢》さんには勝てないな〉とでも言いたげに軽く胸を張って鼻から息を出し、気を取り直したようだった。彼女は坂道の先を指さして叫んだ。
「さあ、宿まで競走!」
 暗い足元も何のその、ユイランが勢い良く走り始める。迷いのない足音が、あっという間に暗闇の向こうへ遠ざかっていった。
「ちょ、ちょっとユイちゃん、危ないよ〜!」
 メイザが驚いて声をかけたが、後輩は意に介さなかった。
「これも修行の一環っすよ!」
 という叫びが、初秋の夜風に乗って運ばれてきたのだった。

「待ってくださいよ〜」
 ユイランに置いて行かれてはと、遅ればせながらマイナが後を追おうとした時――その横を黒い影が無言で駆けていった。
 一瞬、猫のように目を光らせて通り過ぎた影はキナだった。
「……」
「キナさん、速いっ」
 マイナは目を丸くして戸惑ったが、闘術の師匠から指導された成果か、落ち着いて状況を判断し直すと手を挙げて告げた。
「あたしも参加しま〜す」
 年下の後輩はそう宣言すると、両手を左右に伸ばしてバランスを取りながら、望月の銀色の月明かりを頼りにして走り出した。足元を不安そうに踏みしめつつ、次の一歩を探りながら。
「あー、これ、結構怖い」

「もう、しょうがないなぁ」
 取り残されたメイザは腰に手を当てて、軽く溜め息をついた。それから優しい目をして穏やかに微笑むと、こうつぶやいた。
「私も急がなきゃ。負けられないものね」
 温まった身体から発する湯気は消えかかっていた。メイザのやや慎重な足音が遠ざかり、辺りは再び静寂につつまれた。
 北国の若い闘術士たちを見守る満月は、まだまだ天の坂道を昇ってゆく。それは彼女たちの持つ夢や可能性のようだった。
 強い夜風が流れる間、道端の草の穂が首を垂れ、少しずつ起こしていった。月の光が揺らぎ、潮の音が微かに聞こえた。

(おわり)
 


  9月14日△ 


[森の宝石箱(前編)]

「う〜ん」
 シルキアは立ち止まり、両手を組んで空に伸ばし、つま先立ちをして思いきり伸びをした。十四歳の若く艶やかな茶色の髪が、森の奥の方から吹いてくる清々しい朝の風になびいた。
 近くの森の入口は、今はシルキアの貸し切りだったけれど、誰もいないからと言って辺りはひっそりしているわけではない。鳥たちの高らかにさえずる声が、あちらの枝からも、こちらの枝からも聞こえていたし、虫や蝶が飛んでいたり、何か小動物が茂みの向こうで動いたり、リスが幹を登っている姿が見えた。
 蜘蛛の巣はだいたい破れていて、水の雫が光っていた。夜半過ぎに短い通り雨が降ったのだ。地面は湿っていて、場所によっては多少ぬかるんでいたが、気を付ければ問題なかった。
「森の匂い、大好き」
 木々の梢と、その向こうに覗く青空を仰ぎ見ながら、後ろ手に組み、シルキアはつぶやいた。雨の後でしっとりと湿った森は、幹や枝、葉っぱや根っこ、草や花、大地の匂いに充ちていた。

 涼しい風に吹かれ、幾つかの霧のかたまりが木々に見え隠れしながら地面の近くを流れてゆく。色の濃さや形や大きさには個性があり、森から生まれた不思議な生き物のようだった。
 まばゆい太陽の光が東の空から投げかけられて、白樺の林の奥の方まで届いていた。木々の影は長く、複雑な模様を描いている。時々、速やかに流れる白い雲が気まぐれに太陽を隠すと、森は薄いカーテンを閉じたかのように一斉に薄暗くなった。 「おっ」
 シルキアは顔を下ろし、周囲を見回して、こうつぶやいた。
「灰色の翼」
 光と影が消えて、彩りが弱まり、森が全体的に控えめな灰色のヴェールをまとったような印象を受けたのだろう。その状態は長くは続かず、やがて少女がぱっと笑うかのごとくに太陽が再び顔を出すと、隅々まで朝の明るさが広がってゆくのだった。
「ふーっ」
 村娘のシルキアは幸せそうに深呼吸をした。それから朝寝坊の姉について口を尖らせ、少しだけ寂しそうに顔を曇らせた。
「お姉ちゃんも起きて、一緒に来ればいいのになぁ……ふぅ」
 小さい溜め息をつき、肩の力を抜いて穏やかな表情を取り戻したシルキアは、森につつまれたままうっすらと眼を閉じた。
 少女はしばらくの間、その場に立ちつくしていた。重なり合う鳥のさえずりが、秋の花の淡い香りが、白樺の林を充たした。

  9月15日− 


[森の宝石箱(後編)]

 やがて一瞬、鳥たちの歌声が鳴りやんだかと思うと――。
 ひゅう、と強い風が吹いて、木の枝が大きく揺れ動いた。鳥たちが羽ばたき、森は騒がしく慌ただしい雰囲気につつまれた。
「ひゃっ」
 無意識のうちにシルキアは右手を挙げ、頭を守るようにした。
 次の刹那、木の枝や葉っぱが溜めていた夜の雨粒が、あちらこちらでこぼれ落ち始めた。地面に降りる前にひと休みしていた大粒の透き通った雨の群れが、ついに木々を巣立ったのだ。
「うわ〜っ」
 もう一度、空を仰ぎ見た少女は、それきり言葉にならない。

 葉っぱにぶつかり、パラパラと音を立てながら、たくさんの雫がシルキアの方に向かって降り注いでくる。それが森に射し込んだ光の帯をくぐり抜ける時、次から次へときらめくのだった。
 水と光を掛け合わせ、朝の輝きで作られた星座が、刻々と変化しながら流れ星になって舞い降りてくる――確かにその風景は、夜空にひしめく星とどこか似通っていたのかも知れない。
 細かく砕いた虹であるかのように、雫は光を受けるたびに色を塗り替えながら飛んできて、そのうちの幾つかがシルキアのもとへたどり着いた。髪の毛や、頭を守るために伸ばした右手の甲にぶつかると、その冷たさに少女は悲鳴をあげるのだった。
「ひゃあ」
 思わず、ぎゅっと目を閉じる。森の小道を雨粒がノックする音がごく近くで雑然と響いたかと思うと、すぐに収まっていった。
 次に瞳を開いた頃には、雨音はほとんど途絶え、一瞬だけの芸術――太陽と雨との共演――は幕を閉じようとしていた。
 シルキアは我に返り、うっとりした口調でつぶやくのだった。
「光の雨だ……」

 辺境の村に住むシルキアが決して目にすることのない、貴族の深窓の令嬢が持っている最高級の宝石箱は、赤や青、紫や黄色の美しく透き通った宝石たちで充たされていることだろう。
 あの時の森は、僅かな間ではあるけれども、確かにそれよりも優雅に輝いた。森のすべてが、宝石箱になったのだった。
「よし、帰ろっ。お姉ちゃんに報告しなきゃ!」
 森の奥に背を向けて元気に言うと、シルキアは村の家を目指して、大地を踏みしめながら元来た道を下ってゆくのだった。

(了)
 


  9月13日△ 


[ただいま改装中]

「最近、青空が見えないね」
 学院に続く並木道を歩きながらリュナンがつぶやいた。朝の風は涼しく、温かな長袖の服に薄手の上着を羽織っている。
「改装中だよ。あれ」
 大した事はない――というような口調で言ったのは、リュナンの同級生でオッグレイム骨董店の娘、赤茶色の髪のサホだ。

「改装中?」
 リュナンは不思議そうに首を傾げた。サホが説明を加える。
「うん。雲を敷き詰めて、見えなくしてるからサぁ」
 薄曇の空の下、二人は並んで旧市街の石畳を歩いてゆく。
「あの裏側で、ドンドン改装作業をやってるわけ。季節によって店内の飾りつけとか、売る物をガラッと変える服屋みたいに」
 するとリュナンは納得して、穏やかに楽しげに微笑んだ。
「あっ、そっかぁ。真夏の太陽の強い照明を、柔らかな光に取り替えたり……空の壁紙を、澄みきった蒼い色に塗り替えたり」
「ま、そういうこと。入道雲を片付けたりね」
 同意したサホは、空を覆いつくす雲のカーテンを指差した。
「どっか探せば、あの曇り空に貼ってあるよ。ちっちゃい紙が」
「そうだね、きっと〈ただいま改装中〉って書いてあるんだね〜」
 歩いてきて身体が温まったのだろう、さっきよりも血色の良くなってきたリュナンが嬉しそうに天を仰いだ。ほっそりした彼女に比べると、だいぶ薄着のサホは、元気良く右腕を挙げた。
「きっと、そうサぁ!」
 


  9月12日△ 


[夜風とともに(9)]

(前回)

 その時、四人の耳は風の音を捉えた。再び空の高みを闇の流れが吹きぬけたのだ。鋭い切れ切れの歌は、波打ち際に身を寄せる海鳥の啼き声に似て、物悲しい響きを帯びていた。
 風に煽られたのか、低く垂れ込んでいた雲が素早く横に動いていた。それは明らかに雲だった。暗闇の色をして、夜の中にひそんでいたから、ユイランは今まで認識できなかったのだ。
 細く開いたカーテンから朝日があふれ出すかのように、洞窟をふさいだ岩が開いて光が満ちてゆくかのように、あるいは今にもまどろみから醒めようとする少女の麗しい瞳のように――。
 雲間から白銀色の光がこぼれだし、優雅に広がり出した明るさは、わけ隔てなく空全体に投げ掛けられた。黒雲のヴェールの外される時が来たのだ。まばゆい金の切れ端が姿を現し、大きく膨らんだかと思うと、ついに満月が全貌を現したのだった。

 ユイランはあっけに取られていた。
「なぁんだ、隠れてただけ?」
 雲の隠し方が上手だったので、すっかり騙されてしまった実力派の闘術士は、まだ背中で笑っているメイザに駆け寄った。
「お嬢さ〜ん、びっくりしたじゃないっすか!」
 ユイランの声は、不満や怒りというよりも、むしろ深い安堵に彩られていた。月があって良かった――とでも言いたげに。
 他方、メイザはえくぼを浮かべ、悪戯っぽく微笑むのだった。
「だって、ちょうど良く曇ったんだもの」
「ふっ、ふっ、ふっ」
 マイナは口を押さえ、腰を曲げて耐えようとしていたが、あとからあとから湧き上がってくる笑いは止まらないようだった。


  9月11日− 


[夜風とともに(8)]

(前回)

 耳を疑い、色を失ったユイランは慌てて振り返った。
「いっ?」
 大きく見開いた両目で、暗い夜空を凝視し、敵の姿を探した。戦った本人も簡単に月が倒せるとは思っていなかったようだ。
 しかし、空には宝石のかけらのような星たちしか見当たらなかった。秋の終わりの霧雨のような繊細な光を、さっきまで絶えることなく振りまいていた丸い月は、忽然とその姿を消していた。
「うっそ……」
 ユイランは絶句して立ち止まった。北国の公都マツケ町は、闇という名の黒い湖の果てに、息をひそめて暗く沈んでいる。

「ほら〜、悪戯しすぎたからだよ。あんな綺麗なお月様に」
 追い討ちをかけたメイザの喋り方にはどこか余裕が感じられた。月が輝いていた方角を見上げ、背中を向けたまま語った〈お嬢〉さんの表情は、後輩たちには窺い知る事が出来ない。
 その肩が小刻みに震え出し、抑えた笑い声が聞こえてくる。
「ふっ、ふっ……くっ」
 すると焦り気味のユイランは、語気を強めて早口に訊ねた。
「〈お嬢〉さん、何がおかしいんすか?」

 さて、ユイランを見たりメイザを見たりしながら事の推移を見守っていたマイナは、さすがにメイザの様子がおかしいと思って色々と考えを巡らしていたが、急にほっとしたように呟いた。
「あっ、分かった。分かりました」
 するとユイランは、近くのマイナにものすごい剣幕で迫った。
「何なの、月はどこ行った? どこまで吹っ飛んだの?」
「出てくる」
 突如として口を開いたのは、長いこと沈黙を続けていたキナだった。その声量は小さかったが、言葉には重みがあり、ユイランもメイザもマイナも一瞬にして動きを止めた。まるでキナの沈黙が他の三人に移って、時間を止めてしまったかのようだった。
「……」
 それ以上は何も語らず、キナは目を動かして示した。眼差しの行き着く先――遙かな天で、何かが変わろうとしていた。
 ユイランはキナに倣って、星の空をゆっくりと仰いでいった。


  9月10日△ 


[夜風とともに(7)]

(前回)

「ハァーっ……」
 夜への挑戦者――地上の黒い狼になったユイランは、気合いの咆哮をあげた。無謀な戦いを静かに待ち受ける満月は、力の差を見せつけるかのように、相手をさらに煌々と照らし出した。
 先輩のメイザと後輩のマイナは固唾を飲んで見守っている。仲間の風変わりで罰当たりな行動を心配している様子だが、唇の隅が僅かに笑っているのは、少しだけ期待しているようだ。
 キナは特に様子を変えていないけれども、ユイランのほうをじっと見つめている。穏やかな空気がしだいに張りつめてきた。

 ついにユイランが動いた。
 鍛えられた影の身体が、弓のようにしなった。
 次の瞬間――。
 雌の獣は、空高い獲物に襲い掛かった。
「ヤヤヤヤッ!」
 短い声とともに目にも留まらぬ速さで、連続して繰り出された数発の拳が夜を叩いた。高らかに鋭く風を切る音が響いた。
 メイザはまばたきをし、マイナは手抜きをせず全力で戦ったユイランの姿を見て肩をぴくっと震わせた。涼しい風は、軽くいなすかのように吹き渡った。夜風が徐々に強くなってきている。

「やっぱ、だめか……どのくらい遠いんだろ?」
 ユイランは腕組みをすると、あっさりと敗北を認めた。さっきまでの鷹や狼のごとき殺気は、驚くほど簡単に消えてしまった。
 駄々っ子に語りかけるかのような優しい口調で、その中に不安と戸惑いをいっぱいに込めた声で、メイザは後輩を諭した。
「ユイちゃん、何か悪いことが起きても知らないよ」
 一方、マイナは唖然とした感じでこう呟くのがやっとだった。
「さすがユイさん、切り替えがすごいです……」

「じゃあ、帰ろう」
 ユイランが言いながら歩き出すと、マイナとキナも続いた。
「ん?」
 歩きながら首をかしげたユイランは、何となく違和感を覚えていたようだった。気のせいか、辺りが一段階、暗くなったような印象があったのだ。それは実際には大きな違いではなかったのかも知れない。しかし、もともと暗い夜の奥底では、部屋のランプが消えたり、日が陰るような強い印象を受けるのだった。
「大変っ!」
 動かず月を眺めていたメイザが、突然、強い警告を発した。
「ユイちゃんの攻撃で、お月様がなくなったわ!」


  9月 9日− 


[消えた町]

 風はほとんど無く、湖面は澄んで穏やかだった。早朝の空は青く深く、様々な形や大きさの白い雲が幾つも浮かんでいた。
 七人を乗せた屋根のない小舟は、湖をゆったりと渡ってゆく。前と後ろに陣取った二人の壮年の舟人が櫓を漕ぐと、木の舟は体をきしませながら進み、静寂の湖に波紋を広げていった。

「本当に不思議ね」
 乗客の少女は改めて感嘆した様子だった。
 それほど遠くない対岸は、緑の濃い山であった。その山の麓(ふもと)に、ぽつんと一軒家が立っている。その風景自体は、ずいぶん淋しい所に住んでいるな――という感想を抱くことがあったとしても、彼女が言うような〈不思議〉という感覚は少ない。

 では、何か。
 不思議なのは湖面であった。対岸の景色を映している鏡のような水には、集落という表現ではそぐわない、村か町と呼べるくらいの規模の家々が立ち並んでいたのだ。水上の現実の世界には一軒の家しかないのに、水面に写った夢まぼろしの世界には、その家を含めて賑やかな港町が形成されていたのだ。

「偽りの町、か……」
 乗客の一人、少年がつぶやいた。
 ゆっくりではあったが、対岸は確実に近づきつつあった。


2007/09/08 中綱湖
 


  9月 8日○ 


[夜風とともに(6)]

(前回)

 ユイランは、そう言うと腰を低くし、実際に鋭く拳を構えた。
「ちょっとユイちゃん……突然、何を言い出すかと思ったら」
 メイザは苦笑し、困惑気味だった。マイナも驚いて聞き返す。
「えっ?」
 仲間の心配をよそに、ユイラン本人は望月を睨み据えた。まるで、その明るく丸い光源が、敵の瞳ででもあるかのように。
「意外と遠くないかも知れないじゃないっすか」
 その時、夜の彼方から風が吹き、四人の髪を強くあおった。

 ユイランの決断は早かった。決断を早くし、反射的に体を動かすことについては、闘術の訓練で日常的に叩き込まれている。
「やってみようっと」
 言うが早いか、ユイランはやや身体を引いて気合を入れた。
「フーッ……」
 彼女を斜め上から見下ろしている月に対峙して、肩を動かしながら呼吸を整え、筋肉に力を入れて、的確に狙いを定めた。


  9月 7日− 


[夜風とともに(5)]

(前回)

 涼やかな淡い月の明かりは、秋の終わりの霧雨のように、細かく儚げに舞い降りていた。地上の海、そして空の海につながっている町外れの坂道には、時折、夜風が通り過ぎてゆく。
 マイナが腕を組み、ぶるっと震えた。修行で疲れた身体を休めるために町の温泉へ浸かったが、もうすっかり冷えていた。
 それに気づいた最年長のメイザが、仲間たちに語りかける。
「さあ、あんまり遅くなると師匠に叱られるわ」
「帰ろ!」
 ユイランが腕を挙げて同調し、マイナも瞳を輝かせた。
「ハイっ」
「はい」
 表情こそ変わらなかったが、沈黙のキナが低い声を発した。

 四人で歩き始めたとたん、ユイランが急に立ち止まった。
「どうしたんですか?」
 マイナが不思議そうに訊ねると、お調子者の先輩は真剣な顔で、冗談とも本気とも受け取れる真面目な口調でこう言った。
「あの月、あたしの拳の波動で割れないかな?」


  9月 6日− 


[夜風とともに(4)]

(前回)
 
 清らかな深更の闇から絞った染料を用いたかのような、東方民族〈黒髪族〉の彼女たちの艶やかな前髪が、軽やかに流れ去る涼しい夜風にそよいでいた。少しずつではあるが、しだいに天高く昇ってゆく満ちた月は、ますます明るく冴え渡っていた。
「光にも、色んな種類や温度があるのね」
 メイザがつぶやいた。他の三人は黙って続きを聞いている。
「春の日の、うららかな黄色の光。夏の日の、焼けるような暑くて白い光。秋の夕暮れの紅の光、朝焼けの橙。冬の午後の、部屋の奥の方まで差し込んでくる、優しくて温かな金色の光」
 一つ一つを想像するかのように、メイザはゆっくりとした口調でその都度考えながら例を挙げてゆき――最後に付け加えた。
「それから、銀の月光」

 それを聞いた刹那、ユイランの筋肉質の腕がぴくりと動いた。
 彼女たちを見下ろす星たちは変わらぬことなく、まばたきを繰り返している。それは音ではなく光を使った唄のように見えた。
「ふぅ〜」
 やがて短いため息をついたユイランは、両腕を腰に当てて胸を張ったまま、尊敬するような、半ば呆れたような声を発した。
「〈お嬢〉さん、さすが詩人っすねえ」
「ふふ。ちょっと、そんなことを思ってみただけ!」
 振り向きざま、メイザは少し早口で喋った。そして顔を火照らせながら、うつむきがちに、はにかんだ微笑みを浮かべた。今宵のお月様が、あまりに綺麗だったから、とでも言いたげに。

 その瞬間――。
 神秘的な時空を形作っていた魔法が解けて、場の雰囲気が一気に和んだ。それはまるで夜そのものが、緊張と安らぎという相反する二面性を孕んでいる証ででもあるかのようだった。
 マイナはほっと肩の力を抜くと、東の空の月を眺めだした。
「うん。ほ〜んと、綺麗な満月ですねっ」
 さっきまではメイザとユイランの世界に飲まれていた十五歳の少女は、ようやくいつもの調子の良さを取り戻し始めていた。


  9月 5日− 


[夜風とともに(3)]

(前回)
 
 時折、耳の奥で夢のように聞こえる波の音は、どこからか風に乗って夜を渡り、切れ切れに運ばれてくる。それは浜辺に打ち寄せる海の波か、それとも夜空に伸びた天の河の漣(さざなみ)か――ユイランはほとんど無意識のうちに、秋の月の光とメイザの言葉に引き寄せられるかのように坂を下り始めていた。
「あっ、ユイさん」
 しばらくユイランの話し相手だったマイナも素早く後を追う。
 
 再び四人が集まったところで、年上のメイザは左右にいる後輩たちを一人ずつ見回し、微笑んだ。それから月の光が柔らかに降り注いでくる正面に視線を戻し、やや上を向いて語った。
「とっても明るい、お月様ね」
 ユイランがごく近くで見た、その時の先輩の横顔は、さっきまでの神秘的な雰囲気はかなり薄らいでいた。闘術のセリュイーナ師匠や仲間たちから〈お嬢〉さんと呼ばれて慕われている、いつもの上品で優しく穏やかなメイザそのものに近づいていた。
 それでも、普段はあまり表に出てこない二十二歳の大人の女性の色香や艶っぽさのようなものを残していたのは、澄みきった月の輝きの持つ秘められた魔力のしわざだったのだろうか。
 そんな事を思いながらも、ユイランは軽い口調で返事をした。
「そうっすねー」
「……」
 他方、目つきの鋭いキナは、じっと望月を見つめたまま黙っている。沼のごとくに奥深い〈静〉の果てに、雷のような〈動〉を隠し持つ彼女の雰囲気は、獲物を探している途中に足を止めた野良猫を彷彿とさせた。あるいは名だたる彫刻家が作り上げた、闇の色の瞳が生き生きと輝いている小柄な彫像を思わせた。

「ハイ」
 周りの雰囲気に飲まれつつ、少し遅れて神妙そうにうなずいたのはマイナだった。最年少の彼女は、やや戸惑いながらも、興味深そうに眺めている――その眼差しの行き着く先は、空の彼方の手が届かない世界ではなく、ごく身近な場所だった。
 お調子者であるけれど、いつも元気で力強く、修行場の先輩の中では最上級の実力を持つユイラン。セリュイーナ師匠や仲間から〈お嬢〉さんと呼ばれている通り、おっとりした雰囲気を漂わせつつも、基本に忠実で知的な戦略に定評のあるメイザ。
 面倒見の良い二人の先輩たちの、普段はなかなか見ることの出来ない大人びた面に、まだ幼さを残すマイナは心が惹かれている様子だった。今宵の満月の美しさより、むしろそちらに関心があることを、少女の視線の行く先が明瞭に示していた。
 この中では最も年齢の近い先輩であるキナは、取っつきにくさに変化がなく、今はマイナの興味から洩れているようだった。


  9月 4日○ 


[夜風とともに(2)]

(前回)
 
 はっきりと白く明るい満月が東の空の中ほどにいて、辺境の公都マツケ町を見下ろし、初秋の闇を淡く照らし出していた。
 それは上から見たランプのように、誰かの澄んだ瞳のように、あるいは夜の向こう側に開いた丸い窓のごとく、爽やかでささやかな乳白色の明かりを静かに投げかけているのだった。
「今夜はきれいね」
 可愛らしいえくぼを浮かべて、メイザは優しげに微笑んだ。闘技の鍛錬や試合の時に見せる真剣な表情とは異なっている。
 キナは口を動かさず、少しだけ首を動かして、うなずいた。
 
 先頭を歩いていたユイランが、後ろの二人が遅れていることに気づき、ふと振り返った。彼女は少し声を張り上げて訊ねた。
「何してるんすか〜?」
 メイザはこの四人の中では一番の年長者である。ユイランの呼びかけの響きの中には、メイザが先輩だから――というだけに止まらず、尊敬し、慕っている感情が自然と篭もっていた。
 
「お月様よ」
 何の迷いもなく、メイザが暖かな声色で、それでいて颯爽と答えた。その声は決して大きくはなかったが、高らかに響いた。
「お月……様?」
 ユイランの表情が和らいだ。それが魔法の呪文ででもあるかのように、大切な合言葉であるかのように、その言葉を初めて聞いた子供のように、ひそやかに不思議そうに呟くのだった。
「んっ?」
 ユイランの横にいたマイナが顔をもたげる。この中では一番幼い、十五歳になったばかりの黒髪のお下げ髪の少女である。
 
 冴えた月が抱く白金の輝きは、高貴な姫君の薄いヴェールのように空全体にかかっていた。少し高いところから見たメイザとキナの人影は、安らぎの闇に溶けて沈む海と空とを背景に、満ちた月の淡い逆光を浴びて、微かにおぼろげにゆらいでいた。それは厳かで、雅やかで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。


  9月 3日− 


[夜風とともに(1)]

 通り過ぎる涼しい夜風とともに、黒髪をなびかせて、四つの人影が坂を登ってゆく。その中から、若い女性の声が聞こえた。
「ここの晩ご飯、ちょっと少なかったっすよねぇ」
「あたしもそう思いますっ!」
「そうかな? 私はちょうど良かったけど」
「……」
 町の温泉に浸かって昼間の汗を流し、身体をじっくり温めた後、ひとときの夜の散歩を楽しみながら戻ってきたのは、対岸のメロウ島から試合のために渡ってきた闘術士たちだった。
 その中で、宿へ向かう坂を一番最後に登ってきた一団は、二十歳前後の若い女性たちばかり四人だった。道の左右に続く家々は深い闇に沈んでいるが、彼女たちの声は明るかった。
「さあ、もうすぐ着くっすよ」
 先頭に立って進んでいるのは十九歳のユイランだ。

「ん?」
 ユイランの一歩後ろを歩いていたメイザは、ふと足を止めた。彼女はちょっとだけ首をかしげ、とある一軒の家の窓をじっと見つめた。その窓は朧気にぼんやりと白く輝いていたのだった。
 一方、メイザと並んで歩いていた闘術士の後輩のキナは、メイザが止まってからしばらくして立ち止まり、首を後ろの方へ動かして先輩に関心を示した。二人に気づかず進んでいくユイランたちの方もちらりと確かめたキナは、特に迷ったそぶりも見せず、まだ動き始めないメイザの方へ何も言わずに降りていった。

 メイザは坂に背を向け、東の海の方を向いて立っていた。一度、ゆっくりと大事にまばたきをしてから、両目を細めている。
 背中で気配を感じたのだろう、彼女は振り向かずに言った。
「キナ。見て」
「……」
 キナは黙ったまま、表情を変えずに遠くを見つめていた。
 空と海の遙か彼方に、今宵の望月が浮かび上がっていた。


  9月 2日○ 


[忘れ得ぬ伝言(1)]

「度重なる失敗、誠に申し訳ございません。すべては私の不徳の致すところでございます」
 そう言って深々と頭を下げたのは、速記の優秀さと字の綺麗さを兼ね備え、メラロール王国の書記官主任では随一の実力を誇っていたリューネであった。小柄な三十歳の女性で、その落ち着き払った態度には、卑屈でも傲慢でもなく、ただ何もかもを有るがままに受け入れるような透き通った潔さがあった。
「テール大臣」
 その時、茶色の髪の少女がさっと挙手した。控えめな声だったが、意志の強さを反映してか、部屋の隅々まで良く響いた。
 メラロール王国の並み居る重臣たちの視線が一斉に集まる中、知的な瞳を輝かせた彼女は静かに堂々と立ち上がった。
「この者の処分につきまして、何卒、わたくしに預からせて頂けませんでしょうか?」
 北方民族〈ノーン族〉を特徴づける、色白で鼻が高く、彫りの深い美しい横顔である。茶色のお下げ髪は丁寧に整えられ、艶やかな最高級のシルクのブラウスの胸元には、メラロール王国の紋章入りのペンダントが誇らしげにきらめいていた。
 少女は重臣たちの顔を一通り見回した後、十八の乙女とは思えないほどの冷徹な眼差しをテール大臣に向けるのだった。
 五十歳を過ぎ、白髪の目立つメラロール王国のテール筆頭国務大臣は、地方貴族の出の貫禄のある男である。やや太っているという体型だけの問題ではなく、幾多の課題をこなし、国王の信任も厚い、影響力のある有能な男であった。彼は鋭い眼光を幾分緩めて、発言者の少女を見つめた。その態度から、彼が少女の発言を極めて重んじていることは明らかであった。
 王国を実際に動かす行政会議の志気の高さを反映し、緊張感に充ちた静かな議場に、テール大臣の低い声が響いた。
「シルリナ王女殿下」
 そう言うと、テール大臣は素早く起立した。
「御発言、承知致しました。わたくし個人としましては、反対する理由は御座いません」
 少し離れて対峙するシルリナ王女は、立ったまま黙ってうなずいた。今回の処罰の対象である書記官主任のリューネ女史も、直立不動の姿勢で事態の成り行きを見守っていた。
 テール大臣はいったん賛意を示した後、王女と言えども単純に特例を認めるわけではなく、釘を刺すことを忘れなかった。
「ただし、他の者の処罰との差が出ては、将来、不公平との指摘が出る恐れがあります。理由をお聞かせ頂きたく存じます」
「それは至極ごもっともです」
 シルリナ王女は顔色一つ変えず、相手に理解を示した。

(続く?)
 


  9月 1日− 


 町に降りてきたのは
 涼しさのすだれ

 水の流れのごとくに
 涼しさの素が染み込んでゆく

 演奏者が代わったのは
 次の曲が始まったから

 蝉の声から虫の声へ
 秋の調べに移ろってゆく
 




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