花冷え 〜
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秋月 涼 |
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(一)
通りの脇の花壇では、早咲きのつぼみが凍えているだろう。 せっかくの休日だというのに、ズィートオーブ市は朝から雨模様だった。どうしてもやる気の起きないリュナンはほっそりとした小さな身体をベッドに横たえ、窓ガラスを伝わる水滴を――その向こうに垣間見える目映い雨の線をぼんやりと眺めている。 布団に身体を埋めているため寒くはないが、顔は出しているので呼吸をすると冷たい空気が肺の中まで伝わるのが分かる。曇ったガラスで仕切られた別の世界を何も考えず見つめていれば、世界はしだいに内なる自分と外の雨とに集約される。 雨の流れは、流れ去る時間の一秒一秒を示していた。 それらはただ過ぎゆくだけであり、二度と戻らない。 少しでも役に立つとすれば、蒸発して天に還るくらいだ。 だがそれさえも、雨が上がって太陽が顔を出した後のこと。 次々と雨が行き交う〈今〉、瞬間は浪費されるのみだった。 もどかしい――自分の無力さが。 時代に逆らうなど、大それたことはできないけれど。 (せめて私なりの〈何か〉を成し遂げられればいいのに……) リュナンが寝返りを打つと、さらさらの黄金の髪も揺れ動く。今日は学院の講義がなくて幸いだった。この雨では風邪を引いてしまったやも知れぬ。親友のサホは取り越し苦労だと笑うだろうけれど、病気がちのリュナンは雨や風が本当に怖いのだった。 それはリュナンが作り上げた必要以上の恐怖であることを、彼女は充分に承知している。それでも、論理的思考ではなく意味づけの不明瞭な直観の段階で彼女は雨を避けていた。高熱と病臥の経験が、彼女の記憶に深い畏れを刻んでいたのだ。 しだいに雨足は弱まってゆき、風に吹き飛ばされるようになった。冬の名残を彷彿とさせるその雨は、近づく春を足止めするために最後の虚しい抵抗を試みているかのようにも思えた。 不意に、町の広場で見た噴水を思い出す。 灰色の石で丸く囲われ、偉大なる彫像の人物を後目に、勢い良く天に焦がれる水。無駄な努力であるにも関わらず美しい。 この雨は、どことなく噴水に重なるのだった。 上昇する方ではなく、停止し、むしろ墜ちてゆく水に――。 (雲の上には、大きな噴水があるのかな) ズィートオーブ市で一番のっぽの塔よりも遙かに高く、天に突き出す膿灰色の円柱は、実を言うと雲の大陸に生えている。 雲から水分を吸い取り、天を目指して幅広く放つのだ。 だがしかし、彼であっても天に触れることすら出来ない。 希望の証であり時間の秤でもある雨は、しだいに登りつめる速度を緩め、ついには地面に引きずられて止まってしまう。 そして一瞬の静けさののち、彼はどこまでも墜落するのだ。 大地にぶつかって弾けても気にせず、土の中の奥底まで。 地の涯ては大空に繋がっているとでも信じるかのように。 (雨はきっと、空の噴水の名残なんだよね) そんなことを考えながら、リュナンは眠りに誘われる。 身体は温まり、意識は混濁し、夢と現実の境を越える。 彼女の、十七歳の誕生日のことだった。 (二)
一陣の強い風に窓枠がガタガタと風に震える音で、リュナンの安らかな眠りは中断された。意識の中の夢の比率が減るとともに、朧気だった辺りの状況がしだいに輪郭を持ち始める。 ふと明るい光に気づき、彼女は頭と身体を横に倒した。 真っ先に見えたのは、立ち並ぶ橙色の屋根の上に広がる青空と白い雲だった。降り注ぐ光の眩しさに少女は目を細める。 その遙か手前で、家の庇(ひさし)から流れ落ちてくる水のしずくは不規則なリズムを刻んでいる。もはや時間を計る役目を終えた雨の名残は何の翳りもない金剛石のように透き通り、肩の荷が下りて余生を楽しむ老人に似た穏やかさを持っていた。 (雨……上がったんだ) 地上にわだかまる嫌なものを洗い流してくれた雨が去りゆき、風は湿り気を回復してみずみずしく生まれ変わり、それは天が撒いた光の粉に優しく溶けて、清らかな水蒸気は故郷に還る。 気持ちのいい体温が再び眠りの世界へいざなう。リュナンは特に抵抗することもなく境界線をまたぐ――その直前だった。 ピューウィ。 何の前触れもなく、鳥の唄を彷彿とさせる独特の高い音が暮れなずむ街に鳴り響いた。だが決して鳥の声でないことをリュナンは鋭い感性で察知している。最も原始的な楽器、口笛だ。 (サホっち?) リュナンは本能に任せて上半身を起こし、春にそぐわない重い布団を両手で押しのけた。それからゆっくりと右足を床に差し出し、左足を差し出し、地面を確かめるように踵へ力を込める。 「ひゃ」 その刹那、視界が急激に狭まり、真っ白になった。 立ちくらみを起こしかけて思わずリュナンは膝をつく。視力は徐々に戻るが、心臓は苦しげな速い鼓動を打ち続けている。 それでもめげずに彼女は立ち上がり、窓辺へ駆け寄った。 部屋は二階だった。リュナンの視線は音の源を追い求め、レンガ作りの街路を縦横無尽に、立体的に慌ただしく移動する。 その時、彼女の聴覚はもう一度、例の高い口笛を捉えた。 「間違いない……サホっちだ。どこにいるの?」 敢えて呟くことにより、期待が事実になってくれればいい。 ――願いが通じたのだろうか。 わずかののち、窓ガラスと二階分の距離を挟んで、見上げるサホと見下ろすリュナンの目が、的の中心を射るように合う。 赤い髪の目立つ親友は最初、リュナンに気づいてもらえたことを安心したように息をついたが、すぐに顔を上げて悪戯っぽく微笑むと、腕を伸ばして人差し指を突き出し、空の高みを示した。 「えっ?」 リュナンが戸惑って少し首を傾げると、黄金の髪が揺れる。 他方、サホは何かを叫びながら腕を激しく動かして、なおも東の空を見るように訴えている。相手の思いを理解したリュナンは教えられた方角に視線を送るが、この位置からは見えにくい。 大急ぎで鍵を外して窓を開け、身体を乗り出す。 「寒いよっ」 花冷えの夕暮れの風がパジャマ姿のリュナンに襲いかかる。震えながら思わず腕組みをし、背中を丸めて首を引っ込めた。 その視界の片隅を不思議に長い紫色が横切る。 「ねむ、あれ見てよ!」 窓を開けたため、サホの声も良く聞こえる。 リュナンは寒さも忘れて、瞳を見開いた。 暮れゆく西の空の残照をいっぱいに受けて――。 東の空に浮かび上がったのは大きな虹の架け橋だった。 片端しか見えぬが、サホの位置ならば全貌が分かるだろう。 赤、橙、黄色、緑、水色、青、紫。 七つの色が自分の持ち場を守って円弧を描いている。 「はっ……」 息を飲んだリュナンに、さらなる嬉しい知らせが下から届く。 「誕生日おめでとう! プレゼントあるから、取りに来て!」 言うまでもなくサホの言葉である。リュナンの心は喜びに沸き返り、街はにわかに明るさを増したかのように感じるのだった。 「うん! 今すぐ行くから、待っててね!」 パジャマであることも気にせず、部屋のえもん掛けからコートをひったくると、部屋のドアを開けるのももどかしいくらいの勢いで飛び出し、廊下を駆け、階段を一段抜かしで下りていった。 窓辺には二人の友情の証であるヒビだらけの焦げ茶の壺が置かれ、素敵な出来事の顛末を暗くなるまで見守っていた。 | ||
(了) | ||
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