光の中に

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 窓は開け放たれていた。心地よい微風が小さくて簡素な建物の中に迷い入り、袋小路の出口を求めて彷徨っていた。窓の両側には、もとは純白だったはずの年代物の黄ばんだカーテンが左右に引かれていた。カーテンの下側は無造作に切り取られ、丘の上に建つ一軒家に合うべく縮小されてはいたが、本来はかなりの大きさであるらしかった。部屋の中は使い古した木目の美しい重厚なテーブルと、それに釣り合わぬ二脚の丸椅子が配置されており、どうやら食事場所らしかった。ドアの隙間からは、向こうの書斎にぎっしりと詰まった丈の高い本棚が覗く。

 壷も花瓶もなく殺風景で、少しほこりっぽい窓辺では、不思議な雰囲気を漂わせる透明な三角柱が優雅な時を紡いでいた。
 窓は南に面していた。というわけで、晴れた日ならば朝早くから山の端に入り日が沈むまで、三角柱は輝きを食べていた。

 手の平に収まってしまう程度の、ごくささやかなガラスの三角柱である。最低限の調度品――食器や鍋、その他良く分からない調味料や薬瓶など――しか見受けられぬ生活感の薄い部屋の中で、三角柱は幻の扉のごとく構え、異彩を放っていた。

 カーテンは微かに爽やかな音を立て、麗しき春の昼下がりを吹き抜ける若く新鮮な風に揺られ、裾が持ち上がっては緩やかに流れ、浮かんでは落ち、さながら寄せては返す白浜のさざ波であった。緑に萌ゆる広々とした野原を四角に区切り、この部屋もまた世界の一部であることを無言のうちに語っている窓。
 空の海はどこまでも青く澄み渡り、白い雲の大陸は形を変えながら自由に漂っている。陽の光は昨日に増して力強かった。虫たちは窓辺で羽を休め、あまたの種類の混じり合った草の匂いが絶えず部屋に注ぎ、隅々にまで散らばってゆくのだった。
 
 
(二)

 辛うじて元の白さを留めている食器棚には、おぼろげで幻想的な虹の模様が映し出されていた。時間を計るかのように、ほんの少しずつ、だが確実に位置も色合いも移り変わってゆく。
 赤、橙、黄、緑、水色、青、紫――光の軌跡の源泉をたどれば、個性的な色はしだいに手を携えて彩りを喪失し、例の窓辺に置かれている小さなガラスの三角柱に吸い込まれてゆく。それを自らで充たし、輝き続けているのは天のかぎろいだった。

 使い古され、角が取れて丸みを帯びた三角柱は、いわゆる〈分光器〉であった。透明な光を凝視し、内側に潜む幾つかの真実を見破って整理し、誰の目にも明らかなように放つのだ。

 最初から〈分光器〉として作られたのではなかった。名も知らぬフレイド族の職人が売りに出した単なる美しい置物は、海の向こうで〈彼〉と出逢ったことにより新たな意味を与えられた。

 木の床の軋みと足音が低く響いて近づいて来、中途半端に開いていた書斎のドアがゆっくりと動き、皺だらけの手よりも白髪頭よりも分厚い老眼鏡よりも先に右足の革靴が出て――。
 そして〈彼〉が現れた。

 書斎から出てきたのは、壮年も終わりにさしかかり老境に入りつつある五十過ぎの男であった。顎の周りに残っている無精髭は溶けかかる頃の雪を彷彿とさせるがごとく少し薄汚れており、額には切り立った山脈のように深い峡谷が刻まれている。
 身なりはあまり良いとは言えず、くすんだ黄土色のセーターに焦げ茶のコールテンのズボンを履いていた。眼鏡の奥の両眼は尽きぬ情熱と意志の強さを示し、辺りに厳しい視線を送る。

 それがふっと和らいで、優しい目つきになり――。

 彼は一歩ずつ、魅せられたように窓際へ近づいていった。
 細い腕を伸ばしたあと、一瞬ためらうが、すぐに心を決める。
 卵をつかむような細心の注意を払い、震える手つきでそっと分光器に触れると、堅い感触を確かめつつ愛おしそうに撫でた。

「そう、わしは……」
 彼は七色の光を見つめ、懐かしむ口調で一人ごちた。
「これを手に入れた時から、全てが始まったのじゃ」
 
 
(三)

 男爵の息子として生まれた〈彼〉は、実家の領土であるミレーユ町――デリシ町からシャムル町へ向かう途中にある――で育った。幼き頃より好奇心が人並み外れて旺盛だったという。

 男爵の父は旅の行商人から小さな三角柱の置物を購入し、息子の彼に贈った。海を隔てたラット連合に多く住む手先の器用なフレイド族によって作られたと推測される取るに足らない小さな道具だが――これがまさに少年の生涯を決めてしまった。

 最初は飾りとして何の気なしに窓辺に立てたのだが、うららかな春の午後、彼は衝撃的な事実に直面して全ての思考が止まり、目を見張った。無色のガラスの三角柱を、やはり透明な光が通過すると、驚くべきことに七色の筋が現れていたのだ。

 雨の後の空に架かって、自然現象の中でも最も美しく、不思議で、しかも適度に身近な部類に属する七色の橋が、いつも手元に見えるのだ。それはルデリア世界の元素として名高い七力の存在を雄弁に語っていた。以来、彼は七力の虜となった。

 研究は困難を極める。若い頃から失敗続きで、延べ数千人を超える助手たちは次々と彼の元を去った。信念で突き進む彼でさえ、これでいいのだろうかと自問自答する時、分光器はいつも無言のうちに励ましてくれた。目に見える研究の原石となり、鮮やかな彩りを放ち、行く先を指し示してくれた。結果として男爵家の潤沢な資金を食いつぶしたが、彼は後悔していない。

「一生、ひと仕事を貫かん」
 彼は万感の思いを込め、むしろ無機質な声色で呟いた。
「研究の成果、太陽の光は魔力を持っておらんことに気づいた。火炎、大地、月光、草木、天空、氷水、夢幻の七つ……七力のそれぞれは個性豊かで魅力的だが、全て合わさると、有能で無害だが、長所も欠点も面白みもない透明な光になり果てる」

 底のない沼地のような深い考え事に陥ろうとした矢先、彼の頭の中に聞き慣れた若者の声が響いた。それは短距離相互通信魔法〈クィザロアム〉によって届けられた弟子の報告だった。
『師匠、実験の準備が整いました』
「遅すぎるわい! 日が暮れるぞ」
 彼は声を張り上げ、勢い良く怒鳴った。相手がひるみ、ごくりと唾を飲み込む音までが、伝達魔法により耳元で直に鳴った。
「もうよい。さっさと始めるんじゃ」
 彼が少し調子を抑えると、若者はおっかなびっくり同意した。
『は、はい。開始します』

 魔法通信が切れたのを確認してから、白髪の彼は再び窓辺の分光器に視線を落とし、限りなく優しい口調で独りごちた。
「テッテ。お前、つまらん光になるのではないぞ……絶対にな」

 彼は七力研究所の所長、名をカーダという。

(了)



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