また逢える日まで

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「はぁ……」
 少女は立ち止まり、通りの磨り減った石畳を見ながら溜め息をつく。それからやや顔を上げて歩き出すが、表情は冴えなかった。視線は定まらず、もうここには存在しないものを見ているかのように茫然とし、誰から見ても明白に意識が飛んでいた。
 彼女の背景には、石造りの円柱で支えられた世界に冠たるモニモニ町の学院が誇らしげにそびえ立っている。十代半ばくらいの少女は白を基調とした聖術科の清楚な制服を着ていたが、胸元のリボンの結び方まで、どこかしら荒んでいるようだ。
「ほんとに、行っちゃったんだよね」
 晴れた青空の放課後、西に傾いた陽の光を浴びながら学院を後にして帰宅する生徒の姿は多いが、彼女はその光景を見たくないかのように目を逸らした。わずかに潮の薫りを含んだ風が洗練されたデザインのロングスカートの裾を揺らしたが、それさえも懐かしい想い出をほじくり返し、喪失感は深まる。栗色の髪は辛うじて整えられていたが、同じ彩りの瞳はうつろで、眼の周りにはうっすらと隈ができていた。緩やかな下り坂なのに足取りは重く、本来は元気に動いていたはずの腕も上がらない。
 ふと横を見ても懐かしい笑顔はなく、淋しさはつのるばかり。
(女に友情はないって言われるけどね、あたしたちは男と同じ、変な意味のないれっきとした友情を築いたと思えるのに……)

 そのような状態であったため、
「ナミリア、さん」
 と後ろから女性に呼ばれた時、当のナミリア・エレフィンが気づく可能性は皆無に近かった。しかも呼びかけた側の女性の声が小さく、聞き取りにくかったため、二重の意味で困難だった。

「きゃっ!」
 ナミリアはつまづいて、前のめりに派手に倒れる。あのように気が散っていては、残念ながら時間の問題だったといえよう。
「痛ーっ」
 左膝と右手を少しすりむき、本来の意識を少し取り戻す――手をついて立ち上がった彼女の前に、同じ制服を着た少女がいた。長い金髪をなびかせ、相手はほっそりした腕を差し出す。
「つかまって」
「あ、ありがとう……ございます、リナ先輩
 相手が目上であり、しかも顔見知りであることを思い出したナミリアは、ぎくしゃくしつつも出来るだけ丁寧な言葉遣いで応じた。すぐにリナの手を借りようとしたが、逆に相手がよろけて倒れそうになったため、慌てて自分の力で身を起こし起立する。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「……」
 二人の周りでは革靴の足音だけが響き、商店の威勢のいい掛け声や子供たちのざわめきからナミリアとリナだけが浮いているようだった。普段から極端に口数が少なく、話が不得手なリナは上手く切り出すことが出来ず、ナミリアも自分の世界に閉じこもってしまう。しばらく二人は黙ったまま通りを歩いていた。

 たった一言を囁き声で呟くだけでも多大なる勇気を振り絞り、十七歳のリナ・シグリアは、優しく後輩に語りかけるのだった。
「昨日の今日だから、仕方ない……かも知れないけれど」
 ナミリアは足元を見ながら、沈んだ表情のまま聞いている。
 他方、リナは少しためらってから、冷静に言い切るのだった。
「リンローナは、そんな貴女を望んでいないと思います」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「はい。分かるんですけど、頭では分かるんですけど……」
 ナミリアは悔しそうに言った。突然、親友の優等生のリンローナが学院を休学し、彼女の父親の船長が統べる昨日の貿易船で、姉とともに北国のメラロールに旅立ったこと。本人さえも〈ぜんぜん考えてなかったけど、今はそうしたいと思っている〉と語ったように、楽しい日々の終止符があまりにも急に終わってしまったこと。それはナミリアにとって哀しくはあったけれど、むしろ〈一番の友が不在である〉という淋しさや、一緒にいた時間をもっと大切すれば良かったという悔しさの方が断然大きかった。

「また逢える日は、来ます」
 だからこそリナが言った単純な言葉は、複雑に錯綜していたナミリアの胸を雷のように打ち、心の奥を震わせたのだった。
 彼女は思わず足を止めて、相手の顔を見る。栗色の瞳が見る見るうちに湿り、膨らみ、頬を伝った。昨日、友を明るく送り出した時にも流れなかった熱い涙が、健康的な肌を濡らしてゆく。
「そうですよね、先輩。先輩の言う通りだと、あたし思います」
 涙混じりの震える声で、精一杯、ナミリアは応えた。彼女という人格の深い場所で、今まさに、何かのつぼみが出来上がろうとしていた。長い間、大切にしてゆくことになる願いや目標――と言い換えられるかも知れない。涙の河は既に止まっている。
「そうだよ、あんなに元気に送り出したんだもん。これから大変なのはリンローナの方ですもんね、あたしがヘコんでちゃ……」

 リナも立ち止まっていた。寡黙な先輩の無表情だった瞳は強い光を放ち、言葉も湧き水のごとく、不思議なほど溢れてくる。
「時々懐かしむのは、いいと思う。私で良ければ……いつでも話をしに来て下さい。でも、決して後ろ向きにはならないでね」
「ありがとうございます、リナ先輩!」
 町行く人々の好奇の視線を気にせず、ナミリアは制服の袖で両眼を大雑把に拭き、励ましてくれた相手に礼を言って頭を下げる。そして彼女は小さな鞄を力いっぱい持ち上げると、反対の手をリナに振りながら、通りを思いきり駆け出すのだった。
「また話に行きます。私の家、こっちなんで。さよなら、先輩!」
「さよなら」
 リナが胸の前で軽く右手を振った時、ちょうどナミリアの白い制服が曲がり角の向こうに消えるところだった。嵐は去った。

 先輩は自分のペースで歩き出しながら、聞こえぬ声で呟く。
「わたしの家も、そっちだったのだけれど……」
 角を曲がると午後の西日がまぶしい。石畳の道を革靴の裏で鳴らし、明日の部活動のことを考えながら、リナはふと考える。
(リンローナという魔法は、いなくなっても、まだ私たちに効果が残っているみたい。きっと、この魔法は、まだまだ続いていく)
 家々の向こうに海が見えてきた。たくさんの帆船が浮かんでいる。あの海は隔てるものではない、北国とここを繋ぐものだ。

「また逢える日まで」
 リナは声に出して言った。彼女の中にも新しい何かが生まれようとしている。蒼い瞳はまぶしそうに、空と海とを映していた。

(了)



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