風薫る季節に 〜
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秋月 涼 |
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「あっつーい……」 ウピは右手を鳥の羽のように素早く動かして扇ぎ、歩きながら黄蘗(きはだ)色の薄手のジャケットを脱ぐと、小脇に抱えた。 彼女の横を控えめに歩いていた友達のレイナは、華奢な左手を額にかざし、眼鏡の奥の両眼をまぶしそうに細めて呟いた。 「海水浴日和でしょうか」 亜熱帯の島にあるミザリア市の春の光は、レイナに限らず、直接見られないほど強かった。いくぶん明るすぎる日差しが南の空から降り注ぎ、人々の肌を健康的な褐色に染め上げる。 それでも商店の庇に入り、日陰になると、吹き抜ける風は夏場とは違う爽やかさに充ち満ちている。その空気の流れには、皆の心を軽やかにさせる、かすかな甘い香りが混じっていた。 「天気さえ良ければ、一年のほとんどは海水浴日和だもんね」 暑いと言っている割には、弾ける笑顔を絶やさずにいるウピである。雨季と乾季しかないミザリア国でも、春らしいひとときは確実に訪れる。すれ違う人々の表情も、嬉しさを含んでいた。 「広場もきっと、混み合っていると思います」 レイナはごく真面目な口調で淡々と答える。それでも口の隅は僅かに緩み、彼女本来の穏やかさや優しさが感じられた。 仕事は休みの週末――夢曜日である。折からの好天で、気温はぐんぐん上昇していた。通りに面した多くの商店は閉まっているが、通りを行き交う市民は多く、食事処は人気だった。 「ゆっくり見られるといいけど。ザルカの花」 ウピは遠い目をして言う。彼女の言った通り、二人は泳ぐのではなく、今日は花を見に出かけていた。ウピは左手に革製のきんちゃく袋をぶら下げ、レイナはポシェットを肩から掛けている。 白いシャツの上に開襟の長袖ブラウス――白地に青と薄紫と桃色を組み合わせた斜めのチェック模様が入っている――を着ている、やや背の低い女性がウピだ。膝下くらいのベージュのスカートを履き、少し伸びてきた金の髪を素朴なバレッタ(髪留め)で留め、日除け用に麦わら帽子をかぶっている。カジュアルな格好が良く似合う、真っ直ぐな性格の十八歳の女の子だ。 他方、肩の辺りまで伸ばした銀色の髪を風にそよがせ、薄い黄土色の無地に縦方向のひだが入った長めのプリーツスカートを履いているのがレイナだ。薄桃色の地にザーン族の民俗衣装風の刺繍が入った長袖シャツは春らしく、レイナの雰囲気にも相応しかった。彼女は婦人向けの白い帽子をかぶっている。 二人は学院魔術科の、かつての同級生だ。卒業してからも交流が続いており、都合をつけて一緒に町へ繰り出すのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「いやー、すごいね」 人、人、人……。 花壇と樹木が一段高い場所に整備されている行き馴れた広場を見渡したウピは、目を丸くして言った。この島国の原産である白い石で作られた、古くからある町中の広場はそれほど広くはないものの、今日は周辺に数多くの人々がたむろしている。 子供の手を引く夢曜日の商家の親子連れや、石の長椅子に腰掛けて話し込む老翁や老婆の一団、鮮やかな色合いに塗り分けられた薄手の服を着ている学院の華やかな女の子たち、それを少し遠くから品定めする少年のグループ、仕事の合間にやってきた果樹園の農夫、いつもと違う髪型にしている配達屋の青年、本を片手に花を見上げる真面目そうな少女、勢い良く駆け回る子供たち――そして手を繋ぎ、はにかんだ微笑みを浮かべてうなずき合う恋人同士。ありとあらゆる年齢、性別、階級や職業を越えた市民たちが、この時、この場所に集っている。 「きれーい」 まぶしそうに額に右手を当てて、ウピは安らいだ口調で感想を洩らした。麦わら帽子をかぶっているから頭は暑くならない。 広場を取り囲むように背の高いザルカの木が生えている。普段からミザリア市民の憩いの地になっているが、ザルカの花が咲く春先が最も活気づく。枝先の花は全般的に盛りを過ぎ、葉ばかりの樹もあった。少数ながら、つぼみだけの樹もあった。もちろん満開を謳歌している樹もある。大金持ちや貴族でも、これだけ立派なザルカの木々を庭に育てている家はまれである。 「寄ってみましょう」 レイナは冷静に広場の様子を観察していた。その目の前を、紅と桃を混ぜ合わせたようなザルカの花びらが、蝶の翼のごとくに通り過ぎた。やや色褪せていたが、それでもなお鮮明で美しい。南国の新緑の季節にふさわしき、おしゃれな小妖精だ。 「あらっ?」 一日花であるザルカは、朝につぼみを開いて夜には散ってしまう。昼間に飛ぶ数はあまり多くないゆえ、地に落ちる前に捕まえたザルカの花びらは〈幸運をもたらす〉という伝説がある。 「よっ」 見逃したレイナに代わり、花びらを目で追っていたウピがすかさず適切な一歩を踏み出し、手を伸ばした。ザルカの花びらは二、三度揺れた後に、彼女の掌の中へ吸い込まれていった。 派手な外見に似合わぬ微かな薫りがする。ウピは指をこすり合わせて独特の手触りを確かめてから、レイナに差し出した。 「レイナが見つけたから、返すよ」 「えっ? でも、ウピが捕まえたのでしょう?」 広場の隅で二人が譲り合いになっていると、聞き覚えのない壮年の男のしゃがれた声が割り込んできた――足下からだ。 「お嬢ちゃんたち」 「はいっ?」 ウピとレイナは声を揃えて、一斉に下を見る。 するとそこには、白い開襟シャツと薄茶色のズボンを履き、つばなしの焦げ茶の帽子をかぶった優しい目の男性が、丈の低い特製の木の椅子に腰掛けていた。彼の前にあるキャンバスには、紅と桃色に染められて広場を飾る立派なザルカの木々と、行き交う人々の浮き浮きした様子が繊細に描かれていた。 彼はいったん筆を置いて、キャンバスのそばの小さな箱を開け、中からつまみ上げたものをレイナの方へ軽く突き出した。 「あげるよ。二枚あるんだ」 春のうららかな陽気は、人々の心の奥の花園で培われていた〈親切の花〉のつぼみを開かせる。見えない花粉が広がり、誰もが余裕を持って他人のことを考えられるようにしてくれる。 「ほんと、嬉しいよねー」 レイナとお揃いのザルカの花びらをブラウスの胸ポケットに入れ、ウピはご満悦である。人並みを避ける足取りは軽かった。 「花びらを頂けたこと自体が、既に幸運なことです」 しっかりと前を見据えて、レイナは噛みしめるように呟いた。 ささやかなザルカの香りと、海の方から流れてくる潮の匂い、食欲をそそる食べ物屋の煙が交錯する、昼下がりの広場だ。 「もっと近くで見たいです」 上品な歩き方のレイナは、腕を伸ばして人混みを指し示した。そこには満開となっているザルカの樹が、誇らしく立っている。 「行こう行こう♪」 ウピはすぐさま賛成し、上機嫌で旬の花へ近づいていった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ザルカはミザリア島の春の風景を代表する花である。人の両手を合わせ、ワイングラスのように広げた状態を思い起こさせる大きな花びらは、華やかで鮮やかな季節の到来を明瞭に告げる。春の空気に身を浸すザルカの花はどれも明るい色に染められているが、当然ながらそれぞれの木によって彩りは少しずつ異なり、微妙な違いが人々の目を楽しませてくれる。紅っぽかったり、朱に近かったり、桃色がより強調されていたり――。 「ねぇー、花びら、まだ落ちないのー?」 「ハラへった!」 「こらァ、食べ物を持って走り回らないの!」 「すいません、うちの子です。クゼ、ほら、謝るんだよ」 好天に恵まれて家族連れが多く、背の低い子供たちが予想できない動きを繰り返しているが、大多数の人々は微笑ましく眺めている。その代わり、あまりにも常識から逸脱している場合は、誰もが親代わりになって注意する――けじめのある、サッパリとした心の風土が、この国には古くから根付いている。 「今年は早く咲いたわねぇ」 「色の出方は、いつかの年に比べれば、あまり良くないようね」 話し込む近所のおばさんたちの横をすり抜けて、ウピとレイナは眩しい午後の広場を斜めに横切っていく。向こうには椰子の木が遠慮がちに見え隠れし、年に一度やってくるザルカの見せ場の引き立て役に徹している。白い破片が風に乗って飛んでいたので、最初は花びらかと思ったが、それは清楚な蝶だった。 「近くから眺めるのは、また格別ですね」 以前、ゆえあって最高級の水色のドレスを着させられた際、ララシャ王女と間違えられて追いかけられたことのあるレイナは、どこか優雅な雰囲気を醸し出している少女である。言葉遣いも落ち着いていて、眼鏡の中に輝く瞳は知的な光を帯びている。 自然の草花は華奢で繊細で、しかも生命力に溢れ、二人にとってはどんなに精密なフレイド族の金細工より価値があった。 「いいよねー、季節のまっただ中を感じられて」 ややくすんだ金色の前髪を掻き上げて、ウピは痛くなるほど首を曲げ、ザルカの花びらの造りや、内側の色、めしべやおしべ、緑のがく(うてな)の様子を興味津々そうに覗き込んでいた。おっちょこちょいで早とちりな面はあるが、彼女の朗らかな微笑みと裏のない素直な性格、聞き上手で出しゃばらず思いやりのある心は、多くの友人に受け容れられ、愛されている。 「かわいーい」 銀色の立派な口ひげをを蓄えた父親に肩車してもらっている幼い娘が、発展途上の小さな手をザルカの花の方へ伸ばす。 手をつないだり、はにかんだ笑みを浮かべて幸せそうに見つめ合う――春らしく、初々しい姿の恋人同士も目立っている。 「あー、あたしも早く素敵な恋人が欲しいなぁ」 ウピが言うと、花から視線を逸らしたレイナは静かに応えた。 「ちょっと遅かったかも知れません」 「ええっ?」 耳を疑い、ウピは仰天して聞き返した。力が抜けたようにガックリと上半身を落とし、それから徐々に持ち上げてゆく。就職したとはいえ、いまだに青春を謳歌しようと欲する彼女はレイナの言葉の一撃にかなりの衝撃を受けたようで、口調は重かった。 「遅いかなぁ……でもあたし、まだ十八だけど」 「いえ、お花の話ですけど」 レイナは顔の前で手を振り、あくまでも生真面目に否定した。 「なーんだ。びっくりしたよ」 ウピはほっと胸をなで下ろし、心からの安堵の溜め息をつく。 「ふぅ〜」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 花びらは散り、緑のがくが露わになって、不思議な色の取り合わせが実現していた。さきほど花びらをくれた親切な男性に限らず、ザルカの刻を絵に描く人たちが数多く見受けられた。 「満開は過ぎたけど、散り際もいいよね」 「そうですね」 広場を囲うように植えられて大きく育ったザルカの木々を一本ずつ丁寧に眺めながら、ウピとレイナはゆったりと歩いていた。人の性格が異なるように、ザルカの木もそれぞれ違っている。 「まぶしーい」 陽射しは相変わらず強いが、肩の力が抜けて呼吸が楽に出来る――自然と心が穏やかになる夢曜日の昼下がりである。 ほとんどまぶたの落ちている茶色の飼い猫は、ザルカの木の日陰に横たわって、さも眠たそうに大あくびを繰り返している。 「平和だねー」 つぶやいたウピの瞳も、とろんとして夢見心地になっている。 「そうですね」 返事をしたレイナは、靴の爪先を上げて思いきり伸びをする。 「んーっ」 二人が広場を出ようとした時、頬を撫でて速やかに、気持ちの良い風が通り過ぎた。帽子が飛ばされるほど強くはないが、前髪はさらさら揺れる。それは風の挨拶のように感じられた。 「あっ」 ウピが足元を指さす。 白い花びらの列が、小さな竜巻のように円を描いて舞っている。跳ね上がり、時には足踏みし、波や光のごとく踊っている。 花びらに染められて、透明な風の居場所が明らかになった。 「北国の〈雪〉って、こんな感じなのでしょうか」 本で読んだだけの雪について、レイナは遠く想いを馳せる。 人の集まる場所には必ずやってくる、魚や肉を焼く食べ物屋の香ばしい匂いも漂っている。魔法の氷を浮かべた高価な飲み物を、良い身なりをした貿易商の家族が誇らしげに買ってゆく。それを庶民の子供たちが遠巻きに、羨ましそうに眺めている。 かすかな甘い香りを残して、白い石で作られた細い道や並木道の土に、ザルカの花は散っていた。春の香水となった風は、ミザリア市の古くて新しい街並みや、港町、鳥の翼を思わせる船の帆――その向こうに拡がっている澄んだ碧の海、全てをつつみこんでいる空のかなたまで、優雅に軽やかに吹いてゆく。 風薫るこの季節は、まさに春の女神アルミスの香りなのだ。 | ||
(了) | ||
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