朝との散歩

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 眠る街の、夜の扉をくぐり抜けて、妹のレイヴァと一緒に丘へ登った。東の空はうっすらと藍色に溶け始めていたが、西はまだ漆黒の世界で、星たちは輝きを失っていなかった。空気はひんやりとして、しっとりと冷たく、夜露をたっぷりと含んでいる。

 町はずれになると、道は馬車一台がやっと通れるくらいに細くなり、石畳は尽きて土と変わり、傾斜はやや急になる。この辺りには、昼間でもあまり貴族の方々はやって来ない。しかも時間が時間だから、早起きの農家の人たちとすれ違うくらいで、ほとんど誰とも会わなかった。ミラスの街は東西に長く伸びていて、南の海沿いが貴族の方々の保養地として栄えている。僕らが向かった北の方は、しだいに小さな峠に差しかかってゆく。
 その間も留まらずに進んでゆく刻は、光の粒を空に投げかける。森が深まって、視界は途切れ――木々の間から海が見え隠れする。妹のレイヴァの息が上がってきたので、路傍の石に腰掛けてひと休みする。見上げた空は生まれたての青色で、心が軽く震えた。身体も魂も朝につつまれていく。古い息を吐き出して新しい風を吸えば、胸の中のつまらないわだかまりは紅茶に注ぐ砂糖のように、海の泡のように、快く浄化されてゆく。
 しばらくして僕らは再び歩き出す。その場所はもう遠くない。

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 僕がふと自分の部屋で目を醒ますと、昨夜(ゆうべ)の雨はやんでいた。長袖の服を羽織って屋敷の廊下に出て、扉を閉めて歩き出すと、背中の方で別の扉が開く音が聞こえた。立ち止まって振り向くと、僕の隣の部屋からレイヴァが顔を出して――そして僕らの眼は冴えていた。朝との散歩は、こうして始まった。

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 雨は空の汚れを洗い流してくれる。空が澄んでいると、いつにも増して朝焼けがきれいなはずだ。今日は貴族の方が泊まっていないので、仕事らしい仕事もない。久しぶりのチャンスだ。

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 丘の上の見晴台で白み始めてきた空は、予想通りいつもよりも青色がはっきりしていた――真冬の頃のように。紅い夕日の時の海もすごく綺麗だけど、厳粛で神聖な儀式に立ち会っているかのような朝焼けは、どんな贅沢よりも贅沢な時間だ。保養に来る貴族の方々にも、せっかくだから見てもらいたいけれど、遅くまでの晩餐会で疲れて眠っているから決して見られない。

 緩やかな弧を描いてエメラリア海岸の白い砂浜が拡がり、海沿いの緑の草原を縫って、レンガ作りの街道が細く長く伸びている。そちらは街の西側に当たるが、日の出を目前に控えた頃なので、かなり遠くまで見渡すことが出来る。空は藍色で、遠浅の海は普段より深くたたずんでいる。
 隣に立っている十三歳のレイヴァの金色の前髪が、ささやかな風にたなびいている。軽く眼を細め、はるか遠くを見ている。

 正面は町の中心部だ。神殿の尖塔は目立ち、港には舟が停泊しているのも分かる。幅の広い道の左右には、大きくて立派な貴族の別荘や宿泊施設が整然と並んでおり、薄まってきた闇の中で背伸びしようとしているかのように見える。それぞれの家にある広い庭には木々が植えられており、街の歴史を感じさせる。郊外に行くと家が小さくなり、道が細くなって、やがて畑と草原になる。その向こう側には果てしない海が続いている。

 左側は東の空で、最も明るい。碧の海は淀みない艶やかな身体を横たえ、連なる空は橙色に染まっている。その上は黄色の帯が続き、最後は青い世界が覆いかぶさっている。今までに見たことがなく、これからも決して見ないだろう〈今日だけの雲〉が浮かび、漂っている。天をも焦がす橙色の期待は爆発寸前にまで高まって、顔を覗かせる瞬間を今や遅しと待つばかりだ。
 ところで僕は橙色と感じたが、妹のレイヴァは紅と言った。見る人や、気分によって、この風景は無限に姿を変えるはずだ。

 ともかく――。
 まもなく陽が昇る。邪神ロイドの統べる夜から、聖守護神ユニラーダ様のかわたれ時を経て、創造神ラニモス様のしろしめす朝がやって来る。光が満ち、凪いでいた風や波は方々へ駆け出し、人々は動き始める。僕らが主役の舞台の幕が開くんだ。

 宝石よりも強い輝きが、ついに海の向こうから現れて、僕とレイヴァは小さく鋭く叫んだ。この移り変わりは、どんなに優れた画家だって描けないだろう。描いたとしても、別物に過ぎない。
 空の懐に比べて、キャンバスはあまりにも小さすぎるから。

 二度と訪れない、真新しい一日が、今ここに産声をあげた。

(了)



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